殺人鬼inIS学園
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第二話:戦乙女と殺人鬼
IS学園用務員、編田羅赦の朝は早い。彼はいつも日没前に起床して身支度を整えた後、身体が鈍らないように「肉体」と「精神」のトレーニングを交互に行う。この日は肉体のトレーニングであった。
ウォームアップ6分、ストレッチ2分。そして腕立て伏せ、腹筋、背筋等を始めとしたエクササイズを45分。残りの時間は8キロのランニングとウォームダウンだ。これらを日の出前に行う。その後、シャワーを浴びた後に朝食を摂る。彼は人が多くいる部屋へ行く場合には、可能な限り事前にシャワーを浴びる事を強く心がけている。
日の出あたりには食堂は開いており、ほとんど人が居ないことも相まって、ラシャにとってはお気に入りのひと時となっている。自らが男性であることもこの空間を好む一因となっている。用務員とはいえ、男性が学園を歩くさまを良しとしない教職員や生徒も少なからず存在する。
そう言ったささやかな悪意に関しては、ラシャは無関心を貫いてきたが、或る女性教員から。
「用務員と言ったら、学園の奴隷でしょ?だから、私の靴磨いといて」
と、言われた際には危うく「処して」しまうところであったが、この会話を偶然聞いていた織斑千冬によって、その教員は職員会議の議題に挙げられ、懲戒免職にまで追い込められてしまった。
ラシャは千冬に感謝はしていたが、獲物を横取りされたような気分もしたので素直に喜べなかったとか。
そして、朝食後は学園新聞を手に取る。この学園新聞は一介の学生の同好会の領域を軽く超えており、部長を編集長として様々なゴシップや事件を事あるごとに嗅ぎつけて掲載しているのだ。故に部の存在について賛否両論が存在し、この度新編集長となった黛薫子女史の采配如何に依るであろうと思われる。この新聞こそラシャの日課の最大の楽しみであり、仕事でもあった。
一ページを慎重にめくり上げていく。行事予定、学園長の訓示、先生や代表候補生の特集。様々な情報を読み飛ばしていくと、目当てのページを発見した。『今回の』ページは、今年入学するであろう国家代表候補生についての予想を書いているページだった。日付を擦る。すると徐々にインクが滲み、ある模様に変わっていく。
結果は『○』であった。ハズレである。暗殺の類の依頼は見込めない。ラシャは目に見えて落胆の表情を見せると目当ての箇所を破ると、ポケットに収めて程々に騒がしくなってきた食堂からゆるりと退室した。
織斑千冬にとって編田羅赦とはかけがえのない存在である。初めて出会ったのは親友の両親が経営する剣道場であった。そこで彼は、真剣を始めとした、無手を含む殺傷武器を扱った術を師より習っていたのだ。千冬本人も太刀を主体とした剣術を修めており、型稽古や演舞において手合わせをする機会はあったものの、当時は大して意識を向けることはなかった。
彼を本格的に意識したのは両親に捨てられた時だった。幼い一夏を抱えて街中を裸足で駆けまわり、精魂尽き果て心中の一単語が脳内をよぎりかけた際、彼は手を差し伸べてくれたのだ。
「大丈夫か?」
「……そう見えるか?」
「いいや、だから訊いている」
「……父さんと母さんが消えた。親戚は信用出来ない……どうしたら……」
「『君も』か……そうかそうか」
「君も?」
「織斑さん、俺も棄てられ者だ。何年も前からな」
「……そうだったのか……」
「アテ、無いんだろ?良かったら俺の家に来い。メシくらい奢るぜ」
「……」
「弟君も心配している。泣き疲れてるが、君のおかげで正気を保っているようなものだ。君には辛いが、ここで踏ん張らないと弟君共々共倒れだ。さあ、来るんだ」
この時ラシャの手を取ったことを千冬は一生忘れないだろう。彼女は生まれて初めて他者に頼ることを知ったのだから。
ラシャは何でも出来る人間だった。家事全般は勿論の事、学業の傍らに様々なアルバイトに精を出していた。食堂の皿洗いを始めとして、中学受験生の家庭教師。ケーキ屋の販売員から土方の日雇い。路上で絵描きをしていた日もあれば、当時千冬が掃除のバイトをしていたバーのピアノでバッハを弾いていた事もあった。
それだけではない、暇さえあれば一夏に家事や勉学を教えることもあった。お陰で最愛の弟である一夏の家事の腕前はラシャ以上のモノになり、学校のテストも好成績を叩き出せるようになった。
そして何より千冬を喜ばせたのは、捨てられて荒んでいた心を解きほぐし、笑顔を見せてくれたことだった。ラシャと同居を始めた頃は、まるで涙を流す人形のように無反応だった。時折発露する感情も、捨てられた事実に対するやり場のない悲しみから来る慟哭のみであった。
そんな彼をラシャは放っておけなかったのだろう。いつの間にか心を解きほぐし。彼の笑顔を、本来の感情を引き出すことに成功していた。いつの日か二人は三人になり、まるで最初からそこにいたかのような生活となっていった。『白騎士事件』が起こるまでは。
最初は何かの間違いだと千冬は思った。帰宅してみると、血まみれで倒れている家族がそこに居た。一夏とラシャだ。声にならない悲鳴を上げて二人を抱き起こした。瞬間、ラシャの胸から鮮血が迸った。千冬の記憶はそこから大きく途切れることになる。
どうやって病院に運んだのかは解らない。気が付くと血まみれの自分と、泣きじゃくる一夏がそこにいて、手術室のランプが涙で霞んだ視界の隅に朧気に見えた。医師から聞かされた状態もよく覚えていない。とにかく、彼はそれから一週間後、面会謝絶状態のICUから脱走し、行方をくらませてしまったのだ。
そして約十年の月日を経て、彼は千冬の前に姿を表した。何変わらぬ姿で。いつもの様に微笑みを浮かべながら。
彼女は喜んだ、彼の胸の傷に気付かず。彼女は安堵した、彼の内面に潜む狂気に気付かず。彼女は誓った、有るはずのない過去の彼を守ろうと。
怜悧な上辺に似合わぬ淡い恋心を抱きしめる乙女の背後で、狂気が冷たい牙を研ぐ。奇妙でおぞましく、どこか微笑ましい関係が幕を開けた瞬間であった。
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