ココロのアリカ
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その1
窓から吹いてきた風が、彩られたスケッチブックを撫でる。
普段は億劫な四階という部室の配置も、暑さが残る九月半ばにおいては非常に過ごしやすかった。
快適な室内に機嫌を良くして色鉛筆を動かす。
やがてさらさらと絵を描き上げると、ほうと一つ息を吐く。
「終わったのか?」
顔をあげると、絵のモデルさんである文化研究部副部長、稲葉姫子がこちらを向いて問いかけていた。
「うん、この通りです。ご協力どうも」
「いつものことだ、気にするな。しかし相変わらずうまいな」
スケッチブックを稲葉さんに見せると、彼女は絵を眺めて感心するよう頷いた。そうはいっても所詮は趣味レベルの話であり、僕より上手な人は沢山いるんだけどね。
それでも褒められればうれしい物だ。
「ふふん、もっと褒めてもいいのよ?」
「調子に乗るな。……む、来たようだな」
廊下に響く足音を聞いた稲葉さんが呟く。
直後、からりと引き戸を開けて、同じ文研部の一人である八重樫太一が入ってきた。
「あれ? 稲葉と北野だけなのか」
「そーみたいです」
八重樫くんにおざなりな返事を返すと、次の絵を描くためにページをめくる。今度はどうしようかなぁ。
部室の真ん中に置かれた長い机に寄り添う六つの椅子の中でもっとも扉と遠い席から、『文研新聞』のネタについて話す二人を見て、ぼんやり考える。
色鉛筆を手持無沙汰にくるくる回していると、扉が大きな音を立てて開いた。
「チィース! 遅れましたぁ! ……って、まだ三人しかそろってないじゃん!」
せっかく階段ダッシュしてきてやったのにー、と不満を口にしたのは、文研部の部長を務める永瀬伊織だ。彼女は奥に設置された古い黒ソファーに休日のおじさんのごとく寝っころがる。
女子高生としてはかなりだらしない様子に、稲葉さんは顔をしかめた。
「伊織、スカートがめくれてスパッツが丸見えだぞ」
「別に良いじゃん」
「俺も北野もいるんだが……」
その言葉に永瀬さんはハッと起き上がり、太ももを隠す。
「そうだった! 太一はともかく、北野んに見られた涎を垂らしながらいやらしい絵を描かれちゃう!」
「せやな」
「いや、伊織は北野をなんだと思って……。え? お、お前、それでいいのか!? 変態のレッテルを張られてるんだぞ!」
僕の肩をがくがく揺さぶる八重樫くんに、僕は右手を天に伸ばし。
「我が生涯に一片の悔いなし……っ!」
「あってくれよ! 何を清々しく変態を肯定してるんだよ!」
もっと自分を大事にしてくれと訴えられた。
その気持ちはありがたいんだけど、こういうのって否定すればするほど悪化すると思うんだよね。女の子に口では勝てないし、さらっと流すくらいがちょうどいいのです。
永瀬さんはそんなやり取りを見て、いたずらが成功した子供のように笑う。
「くくく、それでね、そんなゲスーい北野んにお願いがあるんだけど」
永瀬さんはキリッと顔を引き締める。
「稲葉んのエロい絵描いてくんない?」
「おい伊織ちょっと待て」
思わず稲葉さんはつっこんだ。
「いやさ、聞いてよ稲葉ん。わたしこの前考えたんだよ。『文研新聞』に足りない物は何かってね」
「そこからどうしてアタシのエロ絵が足りないって結論になるんだ!」
「スキャンダラスな面は稲葉んが担当しているからね。後はエロティックでバイオレンスでデンジャラスな成分が必要だと感じたんだよ」
「写真週刊誌じゃないんだからそんな刺激いらないだろ。ってかスキャンダラスな面がある時点で本来の趣旨から外れてるし」
前号の『文研新聞 文化祭増刊号』にて、稲葉さんは教師二人の親密な関係をすっぱ抜いている。
そのせいでただの配布物であったはずの新聞は校内の話題の中心となり、お祭りムードに乗せられたこともあってか、最終的には後夜祭の公開告白にまで至った。
ほんと、どこからあんな情報仕入れたんだろうね。稲葉さんの情報網が怖すぎる。
「あれはお祭り限定の出血大サービスだよ。もう当分あんなネタ書くつもりないね。つーかお祭りであっても男子の性欲処理の材料なんて提供するつもりはない」
「ふふっ、稲葉んにその気はなくとも構わないのさ。なんせ生産元は北野んだからね。で、どう?」
どう? じゃなくて。そこで僕に話を振らないでくれますかね。ほら、稲葉さんがものすごい顔で俺を見てるじゃん。描く、なんて言った瞬間血の雨が降りそうなんですが。
「その……そういう事って、好きな人じゃないと妄想できないっていうか。二次元ならともかく、現実の女の子の裸を考えるのは拒絶感が半端ないっす」
「おおう、結構マジメに答えてくれたね。……というか北野ん好きな人いたの?」
…………。
「ちょっとお腹が痛くなってきたのでトイレ行ってくる」
「待とうか」
逃げようと腰を浮かした瞬間に永瀬さんにがしりと肩を掴まれた。さっきまでソファーに座っていたのに、なんという反応速度。
ああああニコニコしてるすっごいニコニコしてるよ! 完全に面白がってる!
稲葉さんもさりげなく入り口付近に陣取って逃げ場をふさいでいる。これは良くない流れですよ。
「いやー、まさか北野んに想い人がいるとはねぇ。さ、お姉さんにちょっと話してみよっか」
永野さんはそれはもう興味津々に尋ねてきた。稲葉さんもうずうず体が動いてるし、唯一味方になりそうだった八重樫くんは気づけば巻き込まれないよう遠くにいる。孤立無援……だと……?
「黙秘権を行使します」
「早く吐け。さもなければ次の『文研新聞』はまた人々の話題を掻っ攫うことになるだろう」
「待って、ねえ待って。スキャンダラスなネタはもう当分書かないんじゃなかったの」
「北野、臨機応変という言葉を知っているか?」
副部長が笑顔で部員を脅してくるんですが、おかしいよねこれ。
というか稲葉さんって情報を集めるのが好きなだけであって、情報を公開する事は嫌っていたはずだ。それを曲げてまで強請ってくるとは……なんか僕に恨みでもあるんですかね。
怖いお姉さんたちに問い詰められ、僕がついに白状しかけたとき。
割り込むように小さい扉の音を立てて、残りの文研部員である青木義文と桐山唯が、おぼつかない足取りで入ってきた。
助かった、と思うには二人の雰囲気は暗すぎて。自然と沈黙が周囲を支配した。
「……おっす。なんか元気ないね、どした?」
「いや、まあ、なんっつーかさ。とりあえず、座ろうぜ」
青木くんはたどたどしく話すと、重いため息を吐いて席に着く。桐山さんも続いて隣に座り、その対面に僕たち四人は座った。気分は面接官である。
青木くんと桐山さんは顔を真っ白にして、時折ちらちらとお互いの顔を確認し合っている。
何だろう、すごく重苦しい雰囲気です。
「おう、さっさと白状せえや。吐けば楽になるで?」
「何で似非ヤンキー風? ……でも、なんか悩んでるんだったら相談してくれよ。ある程度は力になれるはずだぞ」
僕と八重樫くんは二人を促す。
「おう、サンキュ。いや、オレ達も話そうとは思ってたんだけど、いざとなるとちょっと、な」
そう言うと青木くんは人差し指を立てて。
「最初に言っておくけど、これは別に冗談でも夢でも何でもない。さっき唯と散々確認したからな。ガチな話だ」
真剣な表情で僕たちを見た。
久しぶりに見る青木くんの真面目な顔に自然と背筋が伸びる。
青木くんは僕たちを見て小さく頷き、重々しく告げた。
「実はオレ達、昨日の夜―――魂が入れ替わってたんだ」
……マジで?
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