父殺し
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第五章
「実のお父上かわからないからではないのか」
「わからないからか」
「実のお父上かどうか」
「それがわからないからか」
「殺されたのか」
「疑念は消したいものだ」
人は必ず、というのだ。
「特にこうしたことはな」
「実の親は誰か」
「確かに言われてみればそうだ」
「我等も親がわからないなら確かめたい」
「自然にそう思う」
「そして確かめる手段があればそうしたい」
「是非共な」
他の者達も言われれば頷くことだった。
「まさにな」
「しかしわからないことならな」
「どうしてもな」
「それならだな」
「消したくなるものだな」
「その疑念を」
「だからか」
「呂不韋殿をか」
「そうではないだろうか、あの方はな」
疑念、まさに生きてあるそれをというのだ。
「殺すことによってな」
「では何時かは、か」
「王は呂不韋殿をああされていたのか」
「あの反乱がなくとも」
「いずれは」
「あの方は普通の方とは違う」
秦王の資質のことも話された。
「誰も信じることはなく誰にも心を許さない」
「うむ、非常に冷たい心の持ち主じゃ」
「人の善意や良心を信じられることはない」
「そうした方であられるからな」
「疑うお心も非常に強い」
彼等はこのことはよくわかっていた、王の傍にいるからこそ。秦王に人の情というものは存在しないということを。
「ならばな」
「疑念を消したいならばな」
「親であろうとだ」
「消される方」
「だからこそああされたのだな」
「呂不韋殿を殺されたのだな」
彼等の中でこうした話をしたのだった、呂不韋の自害を受けて。
秦王、後の秦の始皇帝の出生については今も二つの説がある。史記の秦始皇本紀には荘襄王の子とあるが同じ史記の呂不韋列伝には呂不韋の子とある。司馬遷はあえて双方の説を書き両論を併記したのである。
両論併記は歴史学において極めて重要な、資料を客観視するという意味でも優れたことである。だがこのことからもわかる様に始皇帝の出生については当時から言われていた。そしてその真実は今も明かされてはいない。呂不韋が本当に始皇帝の父親だったのかはわからないとしか答え様がない話だ。だが始皇帝が呂不韋を死に追いやったことは事実だ。実の父親かも知れない彼を。このことは歴史にははっきりと書き残されている。
父殺し 完
2016・9・18
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