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俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか

作者:海戦型
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63.彼岸ノ海

 
前書き
黒竜戦を書いてたらスペース余ったからなんか書いとけと思ったらトンでもないの出来ました。
まぁ、割といつもの事ですが……。

※ラウルの口調が違った件についてのお知らせ
感想で色々言いましたが、よく考えれば口調さえ把握できてないようなキャラを小説に出すからこんなことになるわけなので、もうラウルくんを別キャラに差し替えることにしました。違和感を覚えた方々、雑な小説で申し訳ございません。ラウルくんは恐らくこれ以降出番ありません。 

 
 
 黒竜の攻撃にて60層が溶岩の海に変えられた時刻と同刻――59層には能力的な問題から救援に行きそびれたココとキャロライン、ヴェルトール、そして黒竜討伐戦線の件を聞いて飛び出したアイズ他数名を追いかけてきた『ロキ・ファミリア』の面々が顔を合わせていた。

「それでは……ロイマンとフレイヤに唆されてアイズはこの下に降りた訳だね?」
「というか、全員行きたいと言ったらアイズ以外役立たず認定を受けたというか……」
「そしてドナ・ウォノ・『猛者(オッタル)』と一緒にあそこに降りたのか」

 気まずそうに明後日の方角を向きながら白状したティオナの言葉を聞きながら、フィン・ディムナは地獄の窯を覗き込む。顔が焼けそうな程の熱気と火の粉が舞い上がり、60層の様子は伺えない。ただ、常識的に考えるなら火山の火口に飛び込んで生きていられる人間はいない。

 背筋を伝う汗がやけに鮮明に感じられる。この汗がただ単に熱いから流れたものではない事を知りつつ、しかし確かめてもいない事を結論付けるのは早計だとかぶりを振る。状況は絶望的だが、絶望とは人間の感情が決定する価値観だ。
 冒険者とは奇跡のような確率を引きずり出してこそ真の強者になれる。
 アイズも強者である事を望むのなら容易に死にはしない。

「下にはオーネストやアズもいるし、オラリオ最強の氷の使い手たる『酷氷姫』もいる。上手く凌いでいることを信じて行動しよう」

 フィンの考える可能性が低い事は周囲も先刻承知だろう。
 ロキ・ファミリアの冒険者の一人が不安と恐れの入り混じった表情で溶岩の海を見つめる。

「信じるったって、これはちょっと……言っちゃあ悪いが向かえば死人を増や……」
「そういうこと言うな!!」
「死ぬわけあるかよ!オーネストもアイズも……!!」
「これから助けに行こうって言ってるのにもう!!本当に信じられません!!」
「わ、悪かったよ!!俺だってその、別に本気じゃないって……」

 若い衆の猛反発を受けて冒険者はおどおどしながら前言を撤回するが、周囲の声が大きいのはそれだけ不安が心を圧迫しているからだ。そもそも下の階層が大穴から見える光景も、その下が溶岩に埋め尽くされている光景も、これまでのダンジョン攻略の常識からすれば考えられないものだ。
 これまでの常識が通用しない、余りに勝率が低すぎる状況。
 そんな中で、不思議とその場の全員が縋るように信じている男たちがいた。

「オーネストは何だかんだでアイズには甘い所がある。それにあいつでカバーできずともアズがいるのだろう?」
「あやつはオーネストの友人とは思えぬほど人が良いからな。本当に危ない状況でもなんとかするじゃろ」

 リヴェリアとガレスの脳裏に浮かぶ、人知を越えた行動を取り続ける二人の若者。常にこちらの予想の斜め上を通過していく彼らならば、或いは本当に古の怪物を――。
 話がまとまったのを確認したキャロラインが槍を抱えてウインクする。

「じゃ、行こう?天井がブチ破れてから暫く経って、岩盤もファミリアひとつ通れる程度には再生してるし。ここの淵を通ったら穴から落ちずに正規ルートで60層まで一直線ってね!」
「一応未踏破階層の開拓になるが、目的はあくまで下で戦う冒険者たちの救出だ。全員、気を引き締めていこう!」

 連合の暫定リーダーとなったフィンのひと声の下、黒竜の攻撃の中でも彼らが生きていることを信じて、ファミリア達は前進を選ぶ。
 その真下(さなか)、特に意図せず碌に見えない60層を覗いたティオネはふと眉をひそめた。

「どうしたの、お姉ちゃん?」
「え?ううんと………今、溶岩の中に十字架みたいなものが見えた気が……駄目ね、やっぱり気のせいかしら?」
「老眼じゃねーの」
「黙れ犬」
「狼だクソアマゾネスッ!!」

 相変わらず噴煙と火の粉を噴き上げる60層は視界が悪い。
 ティオネがその合間に一瞬垣間見たそれを気に留める者は、本人を含めて存在しなかった。



 = =



「――本当に、それでいいの?」
「ああ、今は何もしなくていい」

 アイズの勝手な脳内イメージによると。
 オーネストは焦らすとか待つとか維持するとかそのような保守的で受け身な戦法を取らない男で、戦う以上は攻めて攻めてありとあらゆる手段を用いて攻め通す極まったインファイターだと思っていた。

「アイズ、その俺が突っ込むしか能のないイノシシだと思っていたと言わんばかりの顔をやめろ」
「…………顔に出てた?」
「カマかけだ。本当に思っていやがったな?」

 渋い顔をするオーネストに、アイズはものの数秒で本心がバレたことが恥ずかしくて俯いた。周囲からは考えていることが顔に出ないと言われているが、実は自分はものすごく分かりやすい性格の人間なのではないだろうか。ロキにだってこんなに早くバレはしない。リヴェリアには結構見通されるが。

「ウォノくん、静止結界に異常は?」
源氷憑依(ぽぜつしお)はまだ持つと思われる。重ね掛けはまだ必要ないと思いまするぞ、りーじゅ殿』

 相変わらず溶岩の上に取り残されたアイズたちは、現在はリージュの魔法ではなくウォノの魔法『奇魂(くしみたま)』の相殺結界にリージュの『源氷憑依(ポゼッシオ)』を重ね掛けした状態で熱を防いでいる。リージュが持続的に相殺するよりこちらのほうが消耗を抑えられるというオーネストの案だ。
 ウォノと手をつないで自らの魔石の力を分け与えているドナが退屈そうにぼやく。

『ホントにここでジッとしてていいのかなぁ……』
「それが現状の最適解だ。フレイヤさまも賛同している」
「あいつと意見が一致したか。反吐が出るほど不快だが、まぁ一般常識段階で共通の認識を持つことくらいあるだろうから今回だけ特例として見逃しておくか」

 フレイヤのことが嫌いすぎる人ことオーネスト。そのうち同じ世界に生きていることが気に入らないとかいちゃもんをつけ始めそうだ。ちなみに全員の会話はオッタルの通信装置を通じてフレイヤ本人の耳にも届いているが、当人は気にしていないご様子である。

 ただ、こうして会話している間にも魔力は消耗され、時間は経過し、そしてアズと向き合うオーネストも額に汗を浮かべ続けている。小休止どころか、戦いは今なお続行中なのだ。

 アイズは先ほどのオーネストの言葉を思い出しつつ、愛剣の柄を所在なさげに触る。


『俺たちは、黒竜に動きがあるまでここから動かない。いいな?』

 アズに向き合い何かをしながら、オーネストはそう断言した。

『でもこのままだとジリ貧だよ、アキくん。打って出ないの?』
『ジリ貧なのは黒竜も同じだ。アズも動けない現状、乗せられて先に動いたほうが負ける』
『つまり俺たちがここに閉じ込められているのは黒竜の苦し紛れの策だということか?』
『俺の読みではな』

 死の淵を何度も経験して数多の犯罪の当事者となったオーネストの読みは、恐ろしく精度が高い。それに、現状この場所で――いや、オラリオ内で最も多く黒竜と接していたオーネストの言はどちらにしろ無視できない。

『俺たちは苦しいが、『奴も苦しい』のだ。そうでなければ残る力で俺たちをじっくり炒ることなく一度で押し潰しに来る。溶岩で包む――それで仕舞いだ。一番効率よく確実に倒せる』

 一分の隙も存在しない溶岩で包むなり結界や氷を突き破る熱線を発射するなり、殺す方法はいくらでもある。アズが欠けた状態ならばこちらの最も取って欲しくない手段だ。確実に魔力が足りずに溶岩を浴びることになり、生存可能性があるのはリージュとアイズの二人くらいのものだろう。
 理由はリージュがアイズに『源氷憑依』をかけ、アイズの魔法(エアリアル)と重ね合わせて脱出する方法がとれるから。その場合、他の面子は溶岩の海に沈む。実際にはそのような非情な判断を下さねばならない状況にはなっていない。

『つまり、それを黒竜がしないのは……そうするだけの余力が残っていないから?』
『当然といえば当然の話だ。魔石の三分の二を焼失し、予期せぬ攻撃で切り札も失った』
『ついでに首も切断してある。本来なら戦える状態ではない』

 あの一瞬にオッタルが首を切断し切らなければ、おそらく現状は変わっていた。自らに危険が迫っている可能性が高い中で敢えて攻撃を優先し、黒竜の鱗ごと首を切断した当たり、やはりオッタルという男も埒の外に存在する怪物なのだろう。

『しかし、ならば何故黒竜は逃げぬのであるか?』

 ウォノが首を傾げるが、その理由はアイズにもなんとなく理解できた。
 さっきオーネストが言っていた推測と同じく、「しないのではなく出来ない」のではないだろうか。その理由を考えれば推測は簡単だった。

『引けば『猛者』と『酷氷姫』、そして場合によってはそれ以上の人の追撃が待っている。それに、首を切られたのなら単純に動けないのかもしれない。逃げられないなら迎撃するしかない………じゃ、ないかな』
『その考えで相違ないだろう。だから奴は待つしかない。俺たちが下手打って防御が疎かになったところを食うしかない。攻めの手を緩めたら自分が食われるから、この状況でギリギリまで待つしかない。ならば俺たちがするのは奴の一番嫌がる行為――すなわち、待つことだ』


 その後、黒竜の今後の行動に応じた作戦を簡単に伝え、それ以降メンバーは全員ずっと大人しく黒竜が痺れを切らすのを待っている。

 こうして何もせずに待っていると、段々とオーネストや自分たちの出した結論が実はとんでもない間違いだったのではないかと思えてくる。実はこちらが待つという選択をすることさえ見越して、自分が最低限の労力で相手を潰す作戦なのではないだろうか。
 アイズたちは永遠に来ることのないチャンスを待ってずっと馬鹿正直に待ち続け、やがて魔力が切れて、溶岩に――。いや、或いは黒竜はあの溶岩の繭のなかで更なる形態変化を起こしてこちらを蹂躙する気で、今の状況はブラフなのでは――。

 背筋から這い上がる「死」の恐怖を振り払うように頭を振ったアイズは一度深呼吸する。氷の加護を以てしても完全には防ぎきれない熱が喉を通るが、少しだけ気は落ち着いた。周囲を見るとオッタルは微動だにせず剣を抱えたまま瞑目し、リージュや人形たちも焦る様子はない。アイズは少しだけ焦っていた自分が恥ずかしい気分にさせられた。

(わたし、未熟だ……レベルが上がっても、まだ足りないものがあるのかな)

 救出だけが仕事であると予め告げられての同行だったが、内心では戦いもあるかもしれないと小さな期待を抱いてはいた。しかし、この様子では仮に戦いになっても自分は役に立たないかもしれない。自分にも与えられた役割はあるが、

 唯一オーネストは意識不明のままのアズを前に神聖文字を操り続けている。
 その姿に普段の超然的な雰囲気は感じられず、ただ懸命にアイズには理解できない何かを続けていた。

「オーネスト、今いい?」
「………何をやっているのか、と聞きたいのか?」
「うん」

 黒竜に動きがない今、アイズにはやる事がない。そうすると気がかりなのは意識を取り戻さないアズがどうなっていて、オーネストは何をしているのかが気になってくる。断られたら素直に諦めようと思っていたが、オーネストは作業しながら喋る余裕は辛うじてあるらしい。

「今、アズの体から『情報』が抜け落ちかけている」
「情報?」
「魂でもあり、肉体でもある。アズライール・チェンバレットという男を構成する情報――存在そのもの。恐らく魂が抜けた瞬間、この世界からアズライールという男は骨も残らず完全消滅するだろう」
「それは、死ぬってこと?」
「少し違う。こちらではそうだが、あちらでは――いや、これは憶測だな。正直、アズがどういう状況にあるのかは俺にも正確に把握しかねる」

 意味が分からないが、どうやらオーネストにも分からないことはあるようだ。ただ、話を統括するに、アズの現状は医者にどうこうできる類の問題を逸脱しているという事らしい。

「アズは『もともとここにはいなかった存在』だ。それが『死望忌願(あんなもの)』を引き連れてこちらに来たのはきっとアズが特別なのではなく、この世界が脆いのだろう。奴は隣の部屋とこちらの部屋に空いた風穴で、『混ぜてはいけないもの』が溢れ出ることを図らずしも止めている」
「………??」
「だが、きっと『弁そのものは向こう側に開く』から、アズが『いなくなる』のなら弁は自然と閉じる。そこから引き戻すには閉じきっていない今を於いて他にない………しかし、今の俺では『壁』を越えられないし、何より時間が足りない。弁の隙間から呼ぶしかない。後は、奴次第だ」
「………???」
「要するにだ。やることはやっている。後は寝坊助野郎が帰ってくるか、そのまま永遠の眠りにつくかの二つに一つって訳だ」
「なるほど、分かった。要するに峠を越えるかどうかってこと……合ってる?」
(………しまった、最初からそう説明すればよかったか。俺も少し焦っているのかもしれんな)

 ロキやリヴェリアならこの話の半分でも理解できたのだろうか――少なくともアイズにはそう解釈するのが精いっぱいだった。しかしそう分かってしまえば事実はシンプルだった。

 血の気のない顔で眠るように意識を落とすアズの顔を見る。

 アズとは特別親しいわけではないが、アイズは少しだけアズに憧れていた。
 アズはなんというか――そう、身近な大人像だった。

 アズは自分のようにファミリアの先輩や主神に口出しをされることもすることもなく、好きや気まぐれで他人に付いて行ったかと思えば一人でも行動し、誰を妄信することもなければ己に陶酔することもなく自由気ままにフラフラしている。
 それでいて、戦いでは圧倒的に強い。周囲にはあまり言っていないが、アズの『死神の如く』と謳われる異次元の強さ――無傷で周囲を圧倒し、他人をも助ける余裕がある強さには羨望を抱くことがある。レフィーヤなんかはよくアズのことを怖がっているが、アイズはむしろ物語の一幕のように場を支配するアズの威圧感を『かっこいい』と思った。

 縛られることなく、どこまでも思いのままに。
 家族同然のファミリアたちのお節介が嫌いな訳ではないが、だからこそ時々周囲を微温湯に感じる瞬間がある。自分の意志を他人に曲げられている感覚が、僅かだが確かにある。
 そんな子供の心にとってアズの存在は眩しく、そして柔らかかった。

 そんな彼が死のうとしていると聞いても、アイズには何故かそんな気がしない。
 いつもにへら、と笑う彼のことだから、また目を覚まして笑いかけてくれる。
 根拠もない一方的な願いでしかない。それでも、アズなら「しょうがないな」と笑って答えてくれる気がした。

「早く戻ってきてね、アズ」

 アイズは彼の温度がない額をそっと指で撫で、再び繭となった黒竜に向き合った。
 何時かは分からないが、その瞬間は確実に迫っている。
 それを乗り切れなければ、アズは眠るための体さえ失くしてしまう。

(アズもそれは困るよね。「居眠りしてる間に体がなくなっちゃったよ。どうしよう?」とか言うのかな?)

 ――それから、どれだけの時間が経っただろう。

 時折リージュの魔法の継ぎ足しの詠唱が聞こえるのと、溶岩が深紅の泡を弾けさせる事を除いて動きがない溶岩の中心はまるで時が止まったかのように静かな空間。
 その空間の中で、僅かな動きがあった。

「――あと一発で打ち止めだ。『剣姫』、こちらに」
「……うん」

 リージュの声に事情を察したアイズが前に出る。

『コクリュー、動くかな?』
「動くな。それも確実に」

 それまで目を瞑っていたオッタルが立ち上がり、大剣を持ち上げた。

「流石に焦れてきたらしい。それとも限界が近いからか、先ほどから苛立たし気な焦燥の吐息が空間を伝播している」
「――判るのか?」
「本能のようなものだがな。あちらがこうも追い詰められていなければ悟ることも難しかっただろう」

 矢張りレベル7に至った人間は、『どこか人間ではない』。獣の本能か、戦士の本能か、こういうところはオーネストと同じだ。彼の言葉が含む重みが、その言葉を信頼に足るものであると否応なしに実感させられる。

「作戦通りに行くぞ。準備はいいな」
「口を慎め猪が。誰に物を言っている?作戦を通すのは私の仕事よ」
「迷宮に足を踏み入れた時から、当の昔に覚悟など出来ているから……」
『あず殿とおーねすと殿を守り切れているうちに、お願い申す』
『みんなで帰ろう?大丈夫、オーネストの作戦だよ!』
(歯痒いが、今は奴らに期待するより他になし。だが――悲観するには少々贅沢な戦力かな)

 今にも沈む岩船の、船頭に立つは三人と二つ。
 何れも万夫を退け幾千の勝利を重ねる闘士なり。
 最大戦力は動くこと叶わず、黒き牙を穿つは無頼の刃。

 人が喰らうか、獣が喰らうか。それとも喰らったそれが真の獣なのか。

 魔王と神の代理戦争、力と力の生存競争、『あちら』と『こちら』の綱引合戦。

 今この瞬間こそが、正に一線を越える刻。



 = =



 何かが幾重にも重なり、擦れるような音が聞こえて、俺は眼を開けた。

 そこは溶岩に包まれた巨大な洞窟の中/コンクリートが罅割れた埃臭く陰気な部屋/光のようにまっさらな砂と海が広がる青天井の下/だった。

「あれ……これ、どこだ?」

 目を凝らすとそこはどこか見慣れた貧民街の家のようでもあり、人々が闊歩する町中のようでもあり、そっけなく飾りっ気もない自分の家のようでもある。あらゆるものがあり、あらゆるものがなく、ただ曖昧な幻が幾重にも重なって逆に見分けがつかなくなり、結局その光景は光のようにまっさらな砂と海が広がる青天井の下に収束された。

 立ち上がる。体が立ち上がった。
 立ち上がる。よろけて砂上に落ちた。
 立ち上がる。体は動かなかった。

 気が付くと俺は三人になっていた。

 いいや、俺は最初に立ち上がったのだから立っている筈だろう。
 そう考え直すと、俺が二人減って立っている俺だけになった。
 なんとはなしに、そういう意識が大事なのかと考える。

 周囲を見渡すと、底には誰もおらず、何もなかった。
 暗闇に落ちたときもオラリオに辿り着いた時にも俺には先達(せんだつ)がいたが、いないのだろうか。いるような気もするし、いないような気もする。

 ふと自分の体を見てみると、体が三重に見えた。
 まっさらな俺、体が欠損した俺、黒い外套を纏い黒竜の猛攻を防いだ俺。
 どれが俺なのだろう。

「いや――」

 そもそも、黒竜と戦った俺は本当に現実の俺だったのか?
 それとも死にたく思うほどの苦しみの中で女の子に介抱された俺が俺なのか?
 或いは、この何もない海の真ん中で呆けている俺が俺なのだろうか?

 分裂する俺をさっきのように一つに纏めようと思い、纏まらずにそのまま立ち竦む。

「それはそうだろうな。そも、人間に『本当の自分』などという都合の良い人格は存在しない。何故ならば、1秒前の自分は今の自分とは異なるのだから」

 後ろを見る。誰もいない。周囲を見回すが、人物らしき人物は俺以外に見当たらない。
 という事は――ああ、なんとなく理解できてきたかもしれない。

「『本当の自分がない』って、何だよ?今こうして喋っている俺が俺ではないってか?人間は意識を連続させて自分を形作るものだろう」
「そうでもあるが、そうではない。根幹の意識は一つのトリガーで如何様にも変貌しうるものだ。未来に今の自分の思考がそのままである保証はあるか?過去の自分と今の自分の精神構造が100%一致すると断言できるか?一つの質問に二つ以上の答えを導き出した時、お前は複数いるのだ」
「ぜってー屁理屈だろそれ」
「『だがそういうこともあるかもしれない』と一瞬納得しかけた」
「それを屁理屈だっつーんだよ。話が進まないから一応そういうことにしておくけど………ここの俺は随分おべんちゃらがお好きだ」

 この場に俺しかいないなら、喋ってるのはどうせ俺というパターンだ。
 少し形は違うが、『死望忌願』の時と同一なんだろう。

「で?この気味が悪い程の晴天が照らす白い海岸の中で、俺に何を伝えたいので?」
「――汝に問う。汝にとっての現実とは何ぞや?」
「現実…………………」

 現実。現実――舌の上で転がして、頭が停止する。
 いや、何を今更疑いを持つことがある。
 あの感覚、あの痛みが嘘っぱちや幻影である筈がない。

「俺は黒竜との闘いでぶっ倒れて/ドデカイ地震に巻き込まれて/このわけわからん砂場で問答してて/――………あ……れ……?」

 思考が同時に浮かび、そして沈んだ。

「そうれ、見たことか。本当の自分は何処に行った、■■■。いいや、アズライール。それともアズライールは幻想で、本当のお前は存在を見失った名無しの権兵衛か?」

 冷静に考えれば――俺がファンタジーの世界で謎の力に覚醒して、死神呼ばわりの大活躍などあり得るのだろうか。挙句二年もろくすっぽ苦労せずに「俺達に未来(あす)はいらない」などとクサい台詞を吐きながらヒャッハーして三大怪物の一角と戦った末に友達を助けて力尽きる?これでは痛々しい妄想小説の類ではないか。

 なら俺は大地震に巻き込まれて両足欠損、片目失明の死に体で知り合いに看病してもらっているというのか。首都直下地震は以前からニュースでそのリスクが報じられていたのだし、ありうる話だ――。
 いや、本当にそうか?被災地できちんとした治療も受けられない状態で、目ん玉と両足の捥げた人間が生きているなどと、そんな都合の良いことが起きるだろうか。やはり、漫画かドラマの類だ。

 では、今ここにいる俺が全てなのか――絶対にないとは言えない。手前二つのどちらもが現実ではないのなら、そもそも俺と言う存在が既に常世の存在ではなくなっているのかもしれない。俺は既に肉体と言うくびきから解放された意識だけの存在であり、ここは死後の世界なのだ。
 だが、そうなのか?あの生々しい現実感と、終着を迎えていない記憶が偽りか欠損のあるものなのか。俺は分裂しているが、すべての時間は同時に進行しているような感覚があるのに、それでもその現実は存在しないのか。

 混乱する中で、俺は必死に記憶を遡る。
 遡って、遡って、遡って。

「俺は――俺は、面子をやたら気にするだけで後は普通の父親と母親を持って、平成という時代に日本で生まれた。名前の由来は『歓迎すべき来訪者』……だったか?好き放題するガキだったが、小学校に上ってからは周囲に歩幅を合わせることを覚えて、中学には周囲に迎合することを覚えて……高校じゃあ、自分と言う存在を殺す事を覚えた」
「まるで周囲が何もかも嫌いになったような物言いをするのだな」
「嫌いだったさ。そう、周囲も俺も何もかも嫌いだった。嫌いな周囲を形作る世界も嫌いだった」
「破滅主義だな。或いは唯の駄々っ子か?」
「知るかよ、と言いたいけど……たぶん、俺はどこまで行っても駄々っ子なんだろうよ」

 オラリオでは、自分のやりたいことしかやってこなかった。あらゆるしがらみを無視した。無視することのできる、都合の良い世界と環境だった。まるで現実の嫌なこと全てから目を逸らすように、ああそうだ。俺はあの世界に没頭し、あそこに骨を埋める気でいたに違いない。

 現実にはそんなにも都合の良い場所は存在せず、目を覚ませばまた嫌味なまでに抗いがたい現実が待っていて、俺はその中に埋もれながら心の中に呪詛を、心の外に世辞と気遣いを吐き出して生きていくのだろうと知っていた。

 そうか、そうなのか。

 俺はあの世界が大嫌いで、もしかして逃げ出したかったのか。

「アズライールは、死にかけの馬鹿が死の寸前に垣間見た胡蝶の夢か。そして死にかけでもがいているのが現実の俺で、ここはその狭間だ。違うかよ」
「お前が決めることを俺に求めるな。お前がそれでよいのなら、それでよい」
「ハッ………ばっかじゃねえの」

 感情がごちゃ混ぜになって、何を考えて何をしたらいいのか訳が分からなくなって、俺はその場に倒れ込むように仰向けになった。そして、『死望忌願』を初めて見たときのことを思い出し、呻いた。両足が千切れて片目が抉られた痛々しい姿。あれは、俺の現実の姿であり、俺に忍び寄る『死』そのものだったのだ。

「ばっかじゃねえの」

 あいつは「楽になろう」と言ったではないか。
 苦しみやしがらみから解放されようとのたまったではないか。
 死んでいるのなら確認を取る必要はない。ならば、俺は死んでいなかったのだ。
 死と生の狭間で、俺は生きる事を選んだ。都合の良い未来を願った。
 それにあれは、いつまでも付き合うと言ったのだ。

「俺の妄想に延々と付き合いますってか?マジで冗談キツイぜ………」

 意識が一つに統合されていくのを感じた。

 視界の先、俺の直上に『贖罪十字(グラーエイツ)』が見え、俺は乾いた笑い声を漏らした。
 あの十字架め、こんなところまで俺を追いかけてきやがった。
 それももう、滑稽としか思えない。あんな紛い者の無敵など。

 そうだ、前に己の死を探ったときもそうだったし黒竜に殺されかけて意識が飛んだ時もそうだった。俺は何度か短い覚醒を繰り返し、その中で現実世界に意識を送っていたのだ。しかしそれも、あの様子では持つまい。さっきも言ったがあれで生きている方がおかしいのだ。もうじき死ぬ。

「甲斐のない人生って、こういうもんなんだなぁ……ッ」

 もう一度幻影の世界に溺れるも良し。現実と向き合い、現実に潰されるも良し。
 どちらにしろ、俺の前に広がるのは虚しさだけだ。選択など馬鹿げている。
 もう考えるのも苦しむのも億劫だ。選択しなければ、ずっとここにいられる。
 未練(ゆめ)苦痛(げんじつ)も放り出し、一生この狭間にいるのがいい。

 なんと素晴らしい。死ぬより更に楽な道じゃあないか。
 それともこれこそが『死』という事か。
 なるほど――安楽にして甘美なり。

(元より、おれはそういう存在。自分がいなくなってしまえばいいと思ってたんだ。丁度いい塩梅だろ……)

 誰かの声が聞こえた。何人かの声が耳に響いた。子供の声?男の声?混ざり合った音は雑音のようであり、俺は煩わしさからそれに耳を貸さず静かに脱力した。力が抜けていくこの一瞬一瞬から生きる意志が剥がれ落ち、今が『そう』なのだと強く感じる。

Komm, süsser Tod(甘き死よ、来たれ)――」

 足元に押し寄せるさざ波が心地よく、俺と言う存在を無へと溶かしていく。

 今この瞬間こそが、正に一線を越える刻。
  
 

 
後書き
告死の御使いよ、彼岸の波に溶けてゆけ。 
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