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銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
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第二百十五話 決戦、ガイエスブルク(その5)

帝国暦 488年  3月 3日  23:30  グライフス艦隊旗艦   ヴィスバーデン    セバスチャン・フォン・グライフス


「もう少しだ、もう少しでヴァレンシュタインの首を取れる!」
「ヘルダー子爵、ハイルマン子爵、追え! 追うのだ!」
私の背後でクラーマー大将とプフェンダー少将が興奮した口調で話をしている。“パチン”という音が聞こえた。どちらかが手を叩いたのだろう。かなり興奮しているようだ。

もっとも興奮しているのは彼らだけではない、艦橋に居る人間全てがスクリーンの映像に興奮を隠せずに居る。スクリーンにはヴァレンシュタイン司令長官を追うヘルダー子爵、ハイルマン子爵の艦隊の姿が映っている。戦術コンピュータのモニターも逃げる敵と追う味方を表示している。

戦況は有利に見える、しかし味方の左翼は統制が取れていない……。そして残りの右翼は敵の左翼を捕らえきれずにいる……。
「全軍に後退命令を出す。その前にブラウンシュバイク公、フェルナー准将との間に回線を繋げ」

私の言葉に艦橋が静まり返った。皆が信じられないといった表情で私を見ている。
「聞こえなかったか、早く回線を繋げ!」
「何故、何故です! 味方はあの通り勝っています。何故後退するのです!」

プフェンダー少将がスクリーンを指差した。眼には憤怒の色がある。
「……」
「もう少しで、もう少しでヴァレンシュタインの首を取れる! 何故今後退命令を出すのです!」

この男は何も分かっていない、その事がプフェンダー少将に対する怒りよりも疲れを感じさせた。
「プフェンダー少将、敵の右翼の予備は何処にいる?」
「予備?」

私の言葉にプフェンダー少将は訝しげに問い返してきた。愚かな……、参謀たらんとするならば戦況に一喜一憂して何とする。何故戦局全体を見ようとはしない。いや、それは私も同じか、こうなるまで気付かなかった。やはりあの男には及ばないのか……、未だだ、未だ諦めるな、勝負はついていない。

「敵の予備は徐々に陣を移しつつある。もう直ぐクライスト大将の側面に喰らいつくだろう。そうなればあっという間に左翼は崩れる。そうなる前に後退するのだ」
私の言葉に瞬時にして艦橋の興奮が消えた。皆不安そうにスクリーンを見ている。

「く、苦し紛れです、騙されてはいけません。例えあれがクライスト大将の側面を突こうとも先にヴァレンシュタインを倒せば此方の勝ちです」
「……」
「閣下!」

プフェンダー少将は血走った眼をしていた、現実と願望の区別もつかなくなっているのか……。
「未だ分からんか! 敵の右翼は徐々に陣形を整えつつある。これは罠なのだ、我々を引き摺りだそうとするな。そして我が軍の左翼はその罠に嵌りつつある。 今なら未だ間に合う、急げ!」



帝国暦 488年  3月 4日  00:00  ブラウンシュバイク艦隊旗艦 ベルリン   アルツール・フォン・シュトライト


「閣下、グライフス総司令官から通信が」
「グライフスが?」
私の言葉にブラウンシュバイク公が訝しげな声を出した。

スクリーンにグライフス総司令官が映った。そして少し遅れてフェルナー准将の顔も映る。二人とも表情は優れない。
『閣下、これより後退命令を出します。直ちに指示に従ってください』
「撤退命令?」

公の表情には不審の色が有る。優位に攻めているのに何故後退するのか、そんな思いなのだろう。

「後退するのか、グライフス総司令官」
『はっ、ガイエスハーケンを利用して敵を罠にかけたつもりでしたが罠にかけられたのは此方のようです。敵は此方の左翼を徐々に包囲する態勢を整えつつあります。早急に後退してください』

グライフス総司令官の言葉に改めて戦術コンピュータのモニターを見た。確かに敵は徐々に陣形を整えつつある。此方は目の前のスクリーンに映る敵の逃げる姿に気を取られていた。我々の優位は徐々に無くなりつつある。

ブラウンシュバイク公が私を見た。おそらく総司令官の意見を確認したいのだろう。私が頷くと公も大きく頷いた。
「分かった、直ぐ後退しよう。しかし敵の追撃を振り切れるか?」

公の言葉に沈黙が落ちた。確かに公の心配はもっともだ、そして不安は他にもある。
『難しい事では有ります。しかしやらなければなりません。このままでは全滅です』
「そうだな、全滅するよりはましか……」

『とにかく、ガイエスハーケンの射程内に退避してください。そこまでは敵も追っては来ないはずです』
確かにそうだろう、しかし敵がそれを許すだろうか? 私の疑問を口に出したのはアンスバッハ准将だった。

「しかし敵もそれは想定済みでしょう、混戦状態に持ち込み並行追撃作戦を狙うに違い有りません。その場合ガイエスハーケンは撃てません。なし崩しに敵が攻め寄せてきます」

『その場合は味方もろとも敵を吹き飛ばす』
「!」
「グライフス、本気か? 味方殺しをするというのか?」

『本気です、味方もろとも敵を吹き飛ばす事で敵の追い足を止めます。それしか手はありません』
『小官も総司令官の御考えに賛成します』

唖然とするブラウンシュバイク公に対してグライフス総司令官、フェルナー准将が味方殺しを勧めた。二人とも思い詰めた苦渋に満ちた表情をしている。確かにそれしか方法はないかもしれない。公も同じ思いだったのだろう、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。直ちに撤退に取り掛かろう」

通信が切れた後、ブラウンシュバイク公が厳しい表情のままスクリーンを睨んでいた。アンスバッハ准将が公に問いかけた。
「公、如何されました?」
「アンスバッハ、シュトライト、皆が素直に退くと思うか?」
公の問いかけに私もアンスバッハ准将も答える事が出来なかった。公の言う通りだ、一番の問題はそこだろう……。



帝国暦 488年  3月 4日  00:30  帝国軍総旗艦 ロキ エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


「閣下、メルカッツ提督から通信です。敵が後退を始めたと」
オペレータが声を上げて報告をしてきた。スクリーンには後退を始める敵艦隊の姿がある。どうやらグライフスも気付いたか……。

「閣下、正面の敵が攻撃してきます!」
ワルトハイムが驚愕した声を上げた。全軍が後退を始める中でヘルダー子爵、ハイルマン子爵だけが攻撃をかけてくる。功を焦ったか、予想した事ではあるが愚かな……。

「全軍に命令、反撃せよ!」
「はっ」
俺の命令にオペレータが反応した。もっともメルカッツは既に反撃に転じているだろう。当然左翼はメルカッツの指示で動いているはずだ。後は俺の担当する右翼だ。

「ワーレン、ルッツ提督に命令! 直ちにクライスト艦隊の側面を突き撃破せよ! ビッテンフェルト提督にはハイルマン子爵の艦隊を攻撃せよと伝えてください」
「はっ」
「参謀長、全艦に命令。ヘルダー子爵の艦隊を攻撃せよ!」

クライストは正面からミュラー、ファーレンハイト、側面からワーレン、ルッツの攻撃を受ける事になる。しかもハイルマン子爵は撤退行動に入っていない、つまり彼からの支援は無い。クライストは予想外に手強い相手だが四倍の敵を相手にしてはひとたまりもあるまい。

その後は彼らをハイルマン子爵、ヘルダー子爵の後方に回らせる。これで敵の左翼は貰った。後はアイゼナッハとケンプがブラウンシュバイク公、カルナップ男爵を何処まで叩けるかだ。二人が彼らの後退を引き止めてくれれば、そっちの後ろにも艦隊を回せるだろう。残念だったなグライフス、勝敗を決めるのはそっちの右翼じゃない、こっちの右翼だ。お前が指揮を半ば放棄した左翼がお前に敗北をもたらすだろう……。



帝国暦 488年  3月 4日  1:00  ブラウンシュバイク艦隊旗艦 ベルリン   オットー・フォン・ブラウンシュバイク



「閣下! ヘルダー子爵、ハイルマン子爵の艦隊が後退しません。ヴァレンシュタイン司令長官の艦隊に攻撃を続けています!」
オペレータの声に溜息が出た。こうなるのではないかと恐れていた、そして現実にこうなった。だが何の手の打ちようも無い。有るのは絶望感だけだ。

アンスバッハもシュトライトも無言でスクリーンを見ている。おそらくわしと同じ気持なのだろう。当たって欲しい予想は常にはずれ、当たって欲しくない予想だけは現実になる。大神オーディンは底意地の悪い神らしい、人間に希望よりも絶望を与えたがるようだ。

艦橋はざわめいている、無駄だろうとは思った、既にグライフスが説得をしているだろうとも思った。だがオペレータに命じて彼らとの間に通信を繋がせた。わしは盟主なのだ。最後までその責任を投げ出すべきではないだろう。

スクリーンにヘルダー子爵、ハイルマン子爵が映った。二人とも興奮しているのが分かる、目が異様なほどにぎらついている。ヴァレンシュタインの首に興奮しているのだろう。

「ヘルダー子爵、ハイルマン子爵、兵を退け。後退命令が出たはずだ」
『何故退くのです! 後少しであの小僧の首を取れるのです、退く事等出来ません』
『ハイルマン子爵の言うとおりです。公も総司令官も敵を恐れすぎです。それでは勝てる戦も勝てませんぞ!』

ハイルマン子爵は分からないでもない、これが初陣だ。だが既にキフォイザーで実戦を経験したヘルダー子爵まで目の前の獲物に目が眩むとは……。
「卿らはヒルデスハイム伯と同じ過ちをする気か、兵を退くのだ!」

『出来ません! 私はあの男の両親を殺していない、それなのにずっと疑われてきた。これまでずっとあの男に怯えてきたのです。あの男を殺す事がようやく出来る! 退く事など出来ません!』

『その通りです! あの男は我等を滅ぼそうとしている。今此処で奴を殺さなければ我等はお終いです。公が兵を退くなら我等だけでもあの男を追います』
そう言うと二人は通信を切った。

恐怖か、あの二人を動かしたのは欲ではなく恐怖……。
「アンスバッハ、シュトライト、わしは間違っていたのかな」
「……」
わしの問いかけに二人とも答えなかった。分からなかったのか、それともわしと同じ気持だったのか。

「わしは彼らが己の地位、特権を守ることしか考えていないと思っていた。だが本当はわし同様、滅びる事を怯えていただけなのかもしれん」
「……」

「わしは滅びる事を覚悟している。此処まで来た以上やむを得ぬ事だと思い切った。だが彼らはその覚悟が持てなかった、持たぬまま此処まで来た。その差が勝敗を分けたと言う事か……」

「ブラウンシュバイク公……」
シュトライトが何かを言おうとした。だがその言葉をオペレータの声が遮った。
「閣下、カルナップ男爵から通信です!」
「やれやれ、忙しい事だな。物を想う事も出来ぬか……。繋いでくれ」

『ブラウンシュバイク公、ヘルダー子爵、ハイルマン子爵が撤退しません。どうされます?』
カルナップ男爵はこれまで両脇から援護を受けて戦っていた。少なくともガイエスハーケンが放たれるまではそうだった。それがこの後退においてヘルダー子爵の援護が受けられない。不安なのだろう、表情が強張り目が泳いでいる。

「止むを得ぬ、彼らの事は放置しろ。グライフス総司令官の命令どおり後退するのだ」
『それではヘルダー子爵とハイルマン子爵は……』
「カルナップ男爵、我等はグライフス総司令官と連携し後退する。いいな」
『しかしそれではクライスト提督が孤立してしまいますぞ』

カルナップ男爵が悲鳴のような声を出した。その通りだ、クライストは孤立する。そして戦術コンピュータのモニターには敵に包囲されつつあるクライストの艦隊が映っている。

「カルナップ男爵、我等はグライフス総司令官と連携し後退する。遅れればクライストのように包囲される、生き残ることを優先しろ!」
『公……』

呆然とするカルナップ男爵を残し通信を切らせた。生き残る、だが何のために生き残る? 三個艦隊を失った。損害はさらに増えるだろう。おそらく再戦は無理だ、何のために生き残る?



帝国暦 488年  3月 4日  3:00  グライフス艦隊旗艦   ヴィスバーデン    セバスチャン・フォン・グライフス


ようやく、ようやく艦隊はガイエスハーケンの射程内に退避した。敵はもう追ってこない、ガイエスハーケンを恐れたのだろう。或いは追う必要も無い、そういうことかもしれない。

反撃に出たメルカッツ提督率いる敵の左翼に味方は叩きのめされた。高速移動を行なってヴァルテンベルクの側面から後背に出た敵の予備によってヴァルテンベルク、ランズベルク伯の艦隊は壊滅した。

残った艦隊はホージンガー男爵、コルビッツ子爵、私、ブラウンシュバイク公、そしてカルナップ男爵の五個艦隊。兵力は五万隻に満たない。統率の取れない味方を率いての撤退戦、疲労感だけが残った。

打ち沈んだ艦橋にオペレータの声が流れた。
「閣下、ブラウンシュバイク公から通信です」
「分かった」

スクリーンにブラウンシュバイク公の姿が映った。
『グライフス……』
「ブラウンシュバイク公……」
お互いに名を呼んだまま少しの間見詰めあった。公は憔悴している、しかし穏やかな表情だ。そこには怒りは見えなかった、公は敗北を受け入れようとしている。その事実が私を打ちのめした。

「申し訳ありません、力及びませんでした、敗北は私の責任です。総司令官に任命していただいた公の御信頼を裏切りました」
『そうではない、グライフス。卿がいたから此処まで戦えた。そうでなければもっと無様に敗北していただろう。卿には感謝している、よくやってくれた』

公の言葉が胸に刺さる。顔を上げられなかった。再戦の事を公は口にしなかった。もうこれ以上は戦えない、戦っても自暴自棄になるか、或いは裏切り者が出るだけだ。この上は公と共に死を迎える事が総司令官である私の役目だろう。

『グライフス、頼みがある』
「私に出来る事であれば」
『では、逃げてくれ』
「!」

逃げてくれ? 私に逃げよと……。
『もはやこれ以上は戦えまい。ガイエスブルク要塞に篭っても無駄死にするだけだ。末路は悲惨だろう……。総司令官である卿が逃げてくれれば他の者も逃げ易い。要塞に戻るのはわしだけで良い。あそこには娘が待っているからな……。グライフス、頼む』

「……分かりました。これより戦場を離脱します」
『すまぬな、グライフス。卿には辛い仕事をさせる』
「何を言われます、最後に大役を頂けた事を感謝します」
公が柔らかく微笑んでいる。思わず涙がこぼれた……。



公から全軍に対して戦場を離脱せよと通知があった。私の艦隊が戦場を離脱する。ややあって皆がわたしの艦隊の後に続いた。ガイエスブルク要塞には公の艦隊だけが戻っていく。

おそらく皆が総司令官でありながら逃げた私を誹謗するだろう。だがこれでエリザベート様を、サビーネ様を守る事が出来る。“あそこには娘が待っているからな……。グライフス、頼む” 公のその言葉を思い出す。公、私は誇りを持って最後の仕事を行います。自然と公の艦隊に対して敬礼をしていた……。



 
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