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カーテンコール

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第一章

                 カーテンコール
 長い長い現役生活だった。
 バス=バリトン歌手フィッシャー=ブライテンは七十になりようやくマネージャーに対してこう言ったのだった。
「今入っている仕事で最後にしよう」
「引退ですか」
「流石にもう声が出ない」
 だからだというのだ。
「これでだ」
「そうですか」
「長くやってきたと思う」
 ブライテンは上を遠いものを見る目で見つつ言った。面長で白髪をオールバックにしている、青い目には知的な光があり鼻は高く頬は痩せている。唇は薄く一九〇ある長身は痩躯である。
「これまでな」
「五十年ですからね」
 マネージャーのハインリヒ=ミッターマイヤーも応える、彼より一つ年下で背は彼よりも五センチ程低く恰幅がいい。髪の毛はもう一本もなく丸い鼻と緑の目がトレードマークになっている。
「私もマエストロがデビューしてからの付き合いですが」
「そうだ、五十年だ」
「そしてその五十年の間にです」
「色々な歌を歌ってきた」
「舞台もでしたね」
「多くの歌劇の作品で歌ってきた」
 ブライデンはミッターマイターに顔を戻してまた言った。
「世界中の劇場で」
「でしたね」
「ドイツでもオーストリアでも歌った」
 彼の出身地はドイツでありドイツ語圏全体でというのだ。
「イタリア、フランス、イギリス、スペイン」
「ロシアでも」
「メトでも歌った」
 ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場だ、世界屈指の歌劇場として知られている。
「演じてきた役も多かった」
「モーツァルト、リヒャルト=シュトラウスにでしたね」
「ロッシーニやベルニーニ、ヴェルディも歌った」
「フランスオペラもでしたし」
「ワーグナーもだ」
 ドイツオペラの最高峰とも言っていいこの作曲家の作品もというのだ。
「歌った」
「そうでしたね」
「歌える役は全て歌った」
「五十年の間に」
「百はあった」 
 歌い演じてきた役の数はというのだ。
「実に多かった、そのことでも満足している」
「では」
「悔いはない、リートも歌った」
 ドイツリートだ、ドイツ系のオペラ歌手では必須と言っていい歌のジャンルだ。
「録音も全て行った」
「リートの全ての曲を」
「まさに全て歌ったからだ」
「そちらでも悔いなくですね」
「引退出来る、最高の歌手生活だった」
 こうまで言うブライテンだった。
「もう今の仕事が終われば」
「最後に歌われて」
「終わりにしたいのだが」
「では引退の発表ですね」
 ミッターマイヤーはマネージャーとしてブライテンに問うた。
「それをしてですね」
「今現在入っている仕事を全てやってだ」
「引退コンサートですか」
「そうしたいがいいか」
「ではその様に手配していきます」
 やはりマネージャーとしてだった、ミッターマイヤーはブライテンに応えた。
「これから」
「頼む、君にもずっとよくしてもらったな」
「いえいえ、私こそですよ」
 ミッターマイヤーはブライテンの感謝の言葉に笑って返した。 
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