俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか
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58.第八地獄・死途門界
前書き
ミスって書きかけを公開してしまって申し訳ございません。
今度こそ完成した58話です。
アズが倒れた時間とほぼ同刻――59階層通路。
「おや――おや、おや。おや」
自らの胸から生えた鋭く幅のある刃をじっくり10秒ほど観察した男は――後ろに立つ『人形師』に表情だけが愉快そうな顔を、180度回転した首で向けた。人体の構造を無視した動きに刺突の犯人――ヴェルトールは「うげっ」と露骨に眉をひそめた。
「おかしいですねぇ、僕の公算によるとこの子たちが空を飛べばレベル6級の集団にも被害を及ぼすことが可能だった筈ですが――どういう了見で?」
「教えるかバカ。ていうかこっちみんな気持ち悪い。喋らなくていいから死んでちょ。あとおまっ、近づくと本当に臭いなっ!」
仮にも猫人であるために人並み以上の嗅覚を持つヴェルトールに、男は無言で口から『万物溶解液』を吐き出した。ヴェルトールは顔面からその液体を浴びるが――まるでコーティングが施されたかのように液体はすべて弾かれ、地面に零れ落ちてダンジョンの床に穴を空けた。
……尋常じゃなく臭かったのか、ヴェルトールの眉間の皺がぎゅっと狭まった。
「悪いけどそれはもう効かないよん。液体はただ液体、俺にとってはもう臭いだけのものだ。物質を溶かすことは出来ても魔力やその構築式、精霊の加護みたいなものを破壊できるワケじゃないからな」
「なるほど、理屈は簡単……あのお人形さんの相殺結果『奇魂』ですね?しかしあれはお人形さんの周囲にしか展開できないと思っておりましたが――?」
「ま、今週のビックリドッキリ技ってなわけだ。こっから先は企業秘密でね」
「成程、理屈ではなく事実こそが重要ですね。とても参考になります」
「参考にせんでいいから死ねっての。何おたく、今巷で大流行のリアル殺しても死なないタイプ?」
男の体液もすべて『万物溶解液』であるという推測に基づき、既に対策は講じてある。そのためのヴェルトールであり、そのための槍――アズが戦利品に持っていたステイタス防御貫通槍だった。
『ゴースト・ファミリア』黒竜討伐非参加メンバーと襲撃者の戦闘はかなり難しい局面を乗り越えつつあった。
触れれば死する『万物溶解液』を内包した虫の波状攻撃に最初は苦戦を強いられた一行だったが、ウォノの展開する相殺結界によって液体の命中を弾き、更に魔法で攻撃が可能という事実が判明してからは一進一退の攻防に転換。
そして局面を打開するためにヴェルトールの隠し技能――人形のスキルをまるっきり真似できるというある意味反則的な裏技を用いて謎の男の背後に辿り着いたのだ。相手を生かすか殺すかという迷いもあったが、ブレインであるこの男を始末しなければ自分たちが死ぬと判断したヴェルトールの動きに迷いはなかった。
彼は元々技術力と速度だけならレベル5寸前のステイタスを所持している。攻撃力に関しては不安要素があったものの、この問題はキャロラインが抱えていた槍がすべてを解決してくれた。この槍の前にはどんなに防御力の高い冒険者も一般人程度の耐久しか保てない。
「ハァ……ハァ……もう、『三連三角』の展開も限界……」
「あたしだっていい加減ガス欠するってば。あぁ~もう、久々に使うと精神がしんどいのよねぇ……」
『そ~お?アタシまだゲンキ~!』
『拙者もまだやれまする』
普段は使用頻度が低い魔法をフルに使う羽目になったココとキャロラインは肩で息をしているが、それとは対照的に片翼の天使人形――ドナとウォノはたちは元気だ。
むしろ魔石のエネルギーがある限り半永久的に動き続けられる彼らがいたからこそ何とか戦いになったと言ってもいい。
もしこの人形を複数製造することが出来れば。
魔法によって性質を複製することが可能なら。
等身大の人間サイズで製造することが出来れば。
自ら人形を作り、自ら魔石を調達する知能を持っているのならば。
もしそうならば、それはファミリアどころか世界のパワーバランスを崩壊させる。
「………これは大きな誤算でしたね。ヴェルトール・ヴァン・ヴァルムンク、貴方は例の二人に負けず劣らずの危険だ。『取り込む』べきだった」
「へー、取り込むねぇ……それはアンタのバックにある組織の話か?それとも、その心臓も骨もねぇ軟体の体の中に飲み込むって話なのか?さっきからさぁ、槍の先から伝わる振動が均一過ぎるんだよなぁ……てめー、生物学的な意味での人間じゃねえだろ?滅茶苦茶硬いスライムみたいだ」
「あは、当たりです」
男はあっさりと白状し――同時に、ヴェルトールが横向きに槍を薙いだ。
胸の中心から横一線に刃が光り、薙がれた部分が綺麗に割れる。
血液は噴出せず、その中には骨も血液も筋肉も内臓も存在しない、悪臭を放つ虹色のどろりとした液体が入っているだけだった。それは、外側だけが人間の形をした、ただの粘性の液体の集合体だった。
斬ったヴェルトールも、それを目撃したココとキャロラインの背筋にも、戦慄が走る。
その液体は果てしなく冒涜的で、汚いとか穢れているという言葉では足りない程に異質で異様で呪われた何かだ。世界に存在してはいけない、気持ち悪いという言葉が物質になるまで幾重にも重なり続けて圧縮されたような、何かだった。
「なんなの、こいつ……。こんな魔物なんて先輩からも聞いたことない……」
「そうでしょうねぇ。魔物ではありませんからねぇ」
「アタシいろんな男を抱いてきたんだけど、全身液体で出来てる種族なんて聞いたことないわよ……!!」
「そうでしょうねぇ。人間ではありませんからねぇ」
『人の姿をしているのに人に非ざるとは、謎かけのような御仁であるな』
『じゃあなんなの?』
ただ二人、この悍ましい存在の悍ましさを感じ取れなかった人形が無邪気に男にその正体を問うた。
男は微かな感情を乗せた偽物の笑顔で、嗤った。
「きみたちの親戚だよ――!」
『マスターのカクシ子!』
『主よ、誠か!?』
「絶対にノウッ!!そういう意味じゃなくて『つくられた存在』ってことだよ!!」
相変わらず緊張感があるんだかないんだかわからない人形主従にココとキャロラインは頭が痛くなってくる。その様子さえも張り付いた笑みで観察していた男の外側が、少しずつ液体となって崩れ始めた。
べちゃべちゃと悪臭と異音を立てながら崩れる人型に、ココは思わず目を逸らす。キャロラインは警戒してか見ていたが、やがて臭いの酷さにむせてそっぽを向いてしまった。生身の中で唯一人、その光景を眉をひそめて見つめ続けるヴェルトールだけがそれに耐えていた。
「おや、それなりに出来のいい体にしたつもりだったのですがねぇ。その槍の持つ特異性質と少しばかり相性が悪かったかな?貫かれた細胞の組成そのものが壊れ、全身を不純物が駆けずり回っていきますねぇ」
「要するに死ぬってこったろ。自分がくたばる感想はなんかあるか?」
「生憎とこの人格も、この体も、設計図を基に引かれただけの存在です。私が得た情報は私に引き継がれ、私が私である必要はなくなる。そう、私とは――厳密には、存在しないので」
男は、最期まで作られた笑みのまま虹色の水たまりの中に沈んでいった。
水たまりは、煙を上げて収縮し、僅か数秒で消滅する。それと時を同じくして、潰してきた虫たちの体液や破片も煙を上げて消滅し、そこにはクレーターのような抉れた凹凸が残る地面だけが残された。
「作られた肉体と作られた人格、幾度のトライ&エラー。壊し、使い潰し、得られた成果だけは受け取ってまた新たな存在を創造する……個の概念が存在しない、結果だけを吸って成長する人形………ちっ、こいつの存在もこいつを作ったとかいう誰かも、胸糞悪ぃんだよ………」
それは『ゴースト・ファミリア』としてか、はたまた『人形師』の美学としてか、心底不愉快そうにヴェルトールは地面に唾を吐きつけた。今の名前も分からない男が言葉通りに人形の類だとしたら、その製造者とヴェルトールは100年の時をかけて語らっても相容れないだろう。
「………オーネストに探りを入れたヤツと、関係あるかしら?」
『アプサラスの酒場』の一件を耳にしていたキャロラインが呟く。通常のファミリアや魔物の概念とかけ離れた力と思想によるオーネストへの敵対行為という意味では、無関係とも思えない。先だっての鎧事件といい、今回のこれといい、これまでにオーネストに襲い掛かった理不尽な災厄とは明らかに性質が異なる。
敵の全容が見えてこない。
少なくとも、個人で起こすような『私怨』の節がなく、むしろ今まで興味がなかったものを偶然手に取るように現れているというか――そう、命令されてとりあえず行動する、という印象を受ける。一方的な悪意や恨みをぶつけられることが圧倒的に多かったオーネストに関連するトラブルにあって、このような『小ざっぱりとした』干渉は異質だ。
(オーネストに干渉してはいるけど、それが本質ではない……?オーネストに興味はあるけど、1番や2番に食い込むほどではないから片手間に調べているような………だとしたら、こいつの主の目的って――)
思考にふけるキャロラインの背中――崩落した59階層から、風が吹いた。
先ほどまでの濁った空間が押し出され、今度はどこか激しくも不快ではない不思議な感覚が押し寄せる。突然の変化に戸惑う中、ココだけは、この風が何なのかを感覚的に感じ取った。
これは、そう、いつかダンジョン内で無茶をして倒れたときに感じたそれ。
母親を思い出す程に柔らかく優しい、けれどただ優しいだけでない棘がある、そんな人の存在。
「オーネストだ、この風――オーネストの起こした風だ」
= =
『疾風』の二つ名を持つあのエルフがここにいれば、自嘲気味に呟くだろう。
――あれに比べれば私などそよ風だ、と。
「おォオオオオオオオオオオオオッ!!」
隼の羽ばたきすら霞んで見える変幻自在の刃が黒竜に襲い掛かる。それら一撃一撃の威力は先程までの捨て身の斬撃には及ばないが、膨大な風を纏うオーネストの刃と体の軌道は鳥でさえ絶対に不可能な超高速戦闘を行っていた。
斬り抜いた瞬間に方向転換して横っ面を切り付け、接近すると見せかけてターンして視界から外れ、その瞬間に死角から斬り付ける。重力を無視するかの如き異次元な戦闘方法は、捉えることは愚か抵抗する方法さえ存在しない。
空力、揚力、抗力、生物が空中を自在に動くために必要なありとあらゆるファクターを省略することを可能とした魔法という理外の力。
人間どころか馬車さえ空の彼方に容易に吹き飛ばせる風速がオーネストの背後で渦巻き、放出される。急加速によるGの影響も、『万象変異』の力によって大幅に軽減されている。いや――オーネストの肉体そのものから生成される神秘の風は、オーネストと風の境を曖昧にしている。
しかし、黒竜もまた異次元な存在。オーネストの高速戦闘を捉えることは出来ずとも、動きに反応して直撃を逸らしたりカウンターを狙って殺人的な威力の攻撃を放つ。オーネストの動きを学習して対応し、対応されていることを自覚したオーネストが新たな行動パターンを作成し、それにまた黒竜が合わせてを繰り返す。
千日手となった空中戦が突風と激突音を伴って地上に降り注ぐ。
途中からオーネストは態とリージュの作り出した氷を砕き、今度は風と氷を合わせた突風を発射し、黒竜が発射した獄炎の息吹と衝突。さしものオーネストの風も黒竜のブレスまでは完全に防ぎきれなかったのか、逸れたブレスはオーネストより下方の60層の壁に衝突し、ものの数秒で壁を真っ赤に融解させ、貫通させた。
オーネストの表情はいつもの無表情や世界を呪うような滅気に満ち溢れたものではなく、どこか苦し気だ。
「慣れない事をすると……神経が、擦り減るなッ!!」
今の一撃、逸らすにしても59層の方向に逸らすことは出来ない。上の階にいるであろう別の冒険者――ココ達――に命中する可能性があったからだ。別に死んでも俺には関係ないが、この喧嘩はアズライールの喧嘩だ。それを思い出してしまったオーネストは、もうアズライールの流儀に則った戦い方をせざるを得なくなった。
心底煩わしくて、合わせることがこの上なく鬱陶しい。
しかし、そんな苛立ちにオーネストは内心で苦笑していた。
これは、いわば自分で逃げてきた道であり、勝手に生き続けてきたツケだ。
(――だから嫌だったんだ。お前なんぞと……お前らなんかに……本当なら、気にせずにただ暴れているだけの方が楽でいいに決まってる。死んだ人間背負うより、今を生きる人間を背負う方が重いに決まってるんだよ)
死んだ人間はもうこの世界のどこにもいない。ただ記憶という名の残滓を残し、忘却の彼方に辿り着くまでそこに存在し続ける。それは消えない傷であり、何よりも残酷なことだ。
しかし、生きた人間は違う。死者は質量を持たないが、生者は物質的質量と記憶的質量の両方を持つ。そして物質的な部分でしか会話することのできない人間は、過去の記憶と違ってこれから如何様にも変幻しうる未知数で不安定な存在だ。
過去を守るのは容易い。過去に殺されるのも又、容易い。
本当に難しいのは、今という奇跡的なバランスで保たれた世界を維持することだ。
世界を構成するのは認識だ。認識は生きとし生ける者が刺激として感じることのできるすべてだ。隣人も美意識も価値観も五感も、それを刺激として認識しうるのならそれが人間の脳裏に構成された現身の世界なのだ。そして世界は狭ければ狭い程、選択という苦しみを少なくする。
これがアズライールの世界――その価値観のほんの一部。
オーネストはアズライールが目覚めるまでの間、その肩代わりを嫌々ながらしてやっている。
ただこの一欠片の価値観を借り受けただけで、オーネストは自分を維持し、他人を維持し、不測の事態に対応できる形をしながら自分の使いたくない魔法を使って、普段と全く違う戦法まで用いて黒竜と戦わなければいけない。自由をこよなく愛するオーネストにとって、この戦いは辟易する程に億劫だった。
黒竜の反撃が少しずつ激しくなり、オーネストもその激しい反撃が他の誰かに命中しないようにさらに死力を振り絞る。全身をバラバラに引き裂くほどの反動は感じないのに、心には重苦しい鎖が絡みついたように重圧を感じさせる。
『ギャオオオオオオオオオオオオオッ!!』
「ッづああああああああああッッ!!」
黒竜の爪と振り上げた剣が交差し、ギリギリで爪を弾く。だが先端から発せられた真空の刃を防ぎきれずに体に横一線の切り傷が入り、血液が噴出する。流れ出る血は熱いが、何も考えずに暴れ狂っていた時に流したそれと比べると、余りに冷めたものに思える。
ふと剣に違和感を感じて見やると、戦闘の反動でとうとう二本目の剣に罅が入っていた。予備の剣はあと一本――僅かに黙考した末、オーネストは左手に三本目の剣を取り出し、その腹に罅割れた剣で『神聖文字』を掘り込み、最後に切り裂かれた傷から漏れた血で文字をなぞった。
「ちっ………この俺が自分の血を利用してヘファイストスの真似事とは、本当に最悪の気分だ」
指でなぞった文字が幻想的な輝きを放ち、無銘の直剣を包み込んでいく。
ヘスティアが自らの眷属の為にヘファイストスに作成を依頼した、『神聖文字』の刻まれたナイフ――アズが起きてからの恐らく黒竜との戦いが続くのに、既に2本の剣を駄目にしてしまったオーネストが苦肉の策で施した『ヘファイストスの真似事』は、いっそ腹立たしくなるほど思い通りに剣の内包する法則を底上げしていく。
手段を選ばなければ死ぬぐらいなら、そのまま死んだ方がいい。そんな考えを抱いているというのに、さっきから先の為に節操なしに使いたくなかった力を使い続ける。この街で指折りの高慢ちきな自分がたった一人の間抜けの為に自らここまで自分の意志を曲げることが、信じられない。
――人は、人の為にこんな選択ばかりを続けているのか?
――あいつも、俺の知らないところではそうだったのか?
自問したオーネストは、血が付着したままの手のひらで鬱陶しそうに前髪を掻き揚げた。
「アズの奴……何が『未来はいらない』だ。こんなに重い荷物を放り出してくたばる腹積もりだったのか?この荷物、俺には重過ぎる。とっとと起きて――引き取りに来いッ!!」
それまで、俺は俺であることを我慢しておいてやる――言葉にせずそう呟いたオーネストは、再び竜巻のような風を纏って空の支配者に刃を向けた。
= =
じゃらり、と鎖が鳴る音を聞きながら、そこに足を踏み入れる。
足場一面が鎖で埋め尽くされたその真っ暗闇の中心に、スポットライトを当てられたように降り注ぐ明かりが、一人の人間を照らしあげた。眩しさに目を覆いながら、それを見る。
大きな十字架と、それに纏わりつく鎖。その鎖に全身を雁字搦めに縛り付けられたそれは、よく見れば人間だった。
動きを拘束されるように2本の槍のようなもので両足を貫かれており、足元には血だまりが広がっている。抉れた肉は既にすべての血を出しきったとでも言わんばかりに赤黒く変色し、見る者の神経をざわつかせる痛々しい断面を晒している。
と、鎖に絡め取られた人間が顔を上げた。
生きているのかも怪しいほどにやせ細り、生気を無くした虚ろな顔は、幽霊と見紛う。
抉り取られているのか、右目があるはずの空間がぽっかりと空き、守るべき眼球を失った瞼がくぼみを作っていた。それだけではない。同じ右頬の皮膚は酷いやけどで爛れ、身体も傷だらけ。その身体はまさに死に体だった。
助けようと声をかけようとし、ある事実に気付く。
「あれ、なんか………デジャヴュ」
この光景に、このシチュエーションに、強い既視感を感じる。
時間も空間も曖昧な世界の、しかし確かに起きた記憶。
俺がオラリオという世界に五体満足で現れる、そのほんの少し前。
「ということは……おい、これどゆことなん?なぁ、『死望忌願』?」
「よお、やっと気づいたか?相も変わらず呑気なようで何よりだ……」
じゃらり、と鎖を鳴らして声を絞り出したズタボロの『俺』は、口角を吊りあげてくぐもった笑い声をあげる。酷く擦れていて、電波状況の悪いラジオのように聞き取りづらかった。だが、何故か何を言っているのかは理解できた。
「随分な顔色だな。ひでぇ有様じゃねえか。アバラ何本かイってるだろ?罅の入った骨は幾つだ?千切れた筋も何本か鎖でも無理矢理繋ぎとめてるな」
どこか愉快そうにさえ見えるズタボロの俺の目の前で、今にも倒れ伏しそうなアズライールとしての俺がよろめく。持てるすべての体力を両足に注いでいなければ崩れ落ちてしまいそうだ。磔の俺の言う通り、もう体はガタの来た部分を強引に鎖で繋ぎ合わせて何とか外面を保っている。
鎖を使うにも魂を削る。維持するのにもまた、大なり小なり力を使う。
「そこまで苦しんで尚、まだ生きようと思ってるのか?」
消耗しきった体と心に囁くのは、「諦めて倒れてしまえ」という甘い誘惑。
諦めて、自暴自棄になって、何もかも投げ出す瞬間の解放間を想像する。
全てを諦めて、このスポットライトの外に広がる無明の中に融けてゆく。
それは――それは、確かに甘美な誘惑だ。考えないでよいという事は、それ自体が救いでもある。
「お前の友達も――オーネストもそうだろう?破滅を望んでいる。違うか?」
オーネスト――師匠、恩人、悪友、トラブルメーカーの悪態製造機、暴力の化身――誰よりも暴力が嫌いで、それ以上に自分自身が嫌いな男。黒竜との戦いの中に、あれは自分の死に場所を見出そうとしていた。あの男が世界を滅ぼすと言い出したら、本当に世界を滅ぼすために動き出すのだろう。
そして、この星からきれいさっぱり人間を抹消し、神を抹消し、魔物を抹消し終えた究極の静寂が包む爆心地で、いよいよを以って自分を滅ぼすのだろう。
「似たもの同士だよ、お前らは」
「似てないさ」
でも、俺は断言できるから。
俺がここで全部投げ出してくたばるのと、オーネストのそれが決定的に違うと思うから。
「オーネストは逃げようとはしない。心は捕らわれていても、体は常に前にある。例え未来に広がるのが希望の見えない永遠の空漠だったとして、それでもオーネストは前を向いて死のうとするんだ」
「たった二年、隣にいただけで随分知ったような口を利く」
「真実なんて知ったことかよ。俺がそう思ってるんだ。思うのは勝手だろ。それこそ神にだって俺の抱いた印象に口を出す権利はねぇ」
俺の知っているオーネストは、いや、オーネストの中にいるあの友達は、俺とは違う。
全身の骨が砕け散って、すべての人間が持つべき財産と尊厳を失って、絶対に抗えない運命の流れに押し流されたら。自力では何一つ理想を叶えることが叶わず、誰の手を借りることも出来ず、縋るべき希望を失った遭難者になったとしても、あいつは立つ。立って、前へ進んでから死ぬ。
俺なら、そこまで行ったらきっと無理だ。前へ進むとか後ろに下がるとかそんな問題ではない。自分の存在が存続していくという事実を受け入れるより前に壊れて、自分でも何を考えているのかわからなくなってしまうだろう。
でも、オーネストという男は全部背負って現実を見極めて、自分に希望が残されていない事を知ってから立ち上がる。すべて余さず背負って前に進めるのだ。
閉塞的で絶望的で、それでも、生きているから。
生きている以上は、進むしかない――それが生きるという事だと知っているから。
生きているからこそ、あいつはあんなにも愚直に死に向かえるのだ。
それは何より輝かしく、愚かしく、重苦しく、悲しく、どうしようもなく「人間」だということだ。
「俺、思ったんだけどさ……オラリオから俺の眼に映った世界だと、自殺ってのは異端的なんだ。人間が普通に抱く思想じゃない。俺のいた世界じゃ普通なのかって言ったらそれは違うけど、なんというか、根底にある意識がどこか決定的に違う」
いつだったか、俺が死を肯定したときにティオネは強い拒否反応を示した。
それは、恒常的に命の危険が存在する世界とそうでない世界――その間に生まれる認識のずれ。
これは俺の勝手な思い込みだが、命の危険が少ない俺の世界や認識の中で、死の在り様が変貌している。その変貌した形を垣間見たティオネは俺を侮蔑したのだ。こちらの世界の「死」と余りにも違いすぎるから。
「ティオネちゃんはそれが嫌だったんだろうな。この世界に則った死の在り方じゃない。俺は、オーネストなんかより遥かに人間的でない存在。いいや、いっそ人間の成り損ないなんだよ」
死ぬのが幸せなんてのは、生物種的本能から鑑みるに異質だ。
生物種として破綻していると言ってもいい。
神の出来損ないである人間の、更に成り損ない。
もしそれこそが「神に近しい」という事なのだとしたら、とんだ皮肉だ。
「オーネストを見てるとイライラする時がある。でもそんな時、俺はオーネスト以上に自分自身にイライラしている。俺はすぐに何でもいい加減に考えて投げ出そうとするのに、あいつの背中は俺も含めて全部乗っちまうんだ。乗せて、苦しくて潰れそうなほど伸し掛かられても進むんだ。すげえだろ?真似したいけど、ちょっとアイツの境地に達するのは無理だと思う」
「俺はお前だ。だがお前はオーネストではない。その結果は自明の理だ」
「そう、当たり前だよ。当たり前だけど……その当たり前が俺にはどうしようもなく重く見える。だから思った。俺がオーネストのこぼした分を拾って背負えるんなら、それをしてくれる男なんだとアイツが思ってくれれば、今ほど極端で狭い生き方をしなくて済むんじゃないかってさ」
そう言いながら、俺は歩き出して十字架に縛り付けられた鎖を掴んだ。
鎖は、最初から俺の支配下にあったようにあっさりと外れ、磔になっていた『死望忌願』が俺の胸に落ちてきた。俺はそれをたたらを踏んで受け止め、背負う。
ぞっとするほどに軽いそれはしかし、弱りきった俺の体をへし折ってしまうのではないかと思えるほどの重圧を体に与えた。ただそれをしているだけで息が切れ、眩暈がする。なのに、意識だけはどこまでも冴えていくのを感じる。
これがオーネストの生き方だ。自分がどんなに折れそうでも、決して背負うことを諦めない。
なんという苦行なのだろう。こんな奴、忘れて路端にでも放り投げれば楽だろうに。
そんな楽な道に逸れることが出来ない人間が、あいつなんだ。
「だから……悪ぃけど、俺は……まだまだ踏ん張らせてもらう、ぜ……!……なに、どうせ帰り道は一緒なんだ……死ぬまでの旅路――旅は道ずれ世は情け。まさか……今更付き合いきれんとは、言うまいな……?」
「それが、お前の探した夢か?」
「そんなん、知るか……ただ、やりてぇと思った……夢かも知れんが、違うかもしれん……それ、だけだ………!!」
歯を食いしばって、腰に渾身の力を籠めて前へ踏み出し、十字架にもたれかかる。
俺に抱えられた『死望忌願』はいつか俺に見せた苦笑と共に、俺と共に十字架に触れた。
「なぁ、アズライール。十字架ってのは神聖なる物なんて言われてるが……実際には、罪人を縛り付ける苦しみの重荷でしかない。イエス・キリストという変わり者の男のせいで事実と建前は逆転してしまったが、これは『俺』の罪だ」
「罪……命を粗末に考えてた罪か?それとも七つの大罪?或いは、原罪ってヤツか?」
「さぁな。そもそも、何が罪かなんてことを人間が決められるものかねぇ……」
『死望忌願』は目を細めながら、囁く。
「罪は死で贖われ、十字架は解放される。十字架は罪の重さであると共に、罪との距離……『こちら』と『あちら』を繋ぐ墓標でもある。傷も苦痛も、すべては距離………死の危機に瀕したお前は、限りなく仮面に近づいている」
「十字架が距離………?俺とお前が近づいてるって……?」
「……鈍いヤツだな。この十字架は救済であり、諦観であり、死苦であり、そして使い方によっちゃあお前さんの夢とやらを存続させる武器でもあるんだよ」
十字架が武器――いや、投擲武器や棍棒として強力であることは実は知っていたのだが、どうにもこの十字架は俺の想像とはまったく違う意味を内包したものらしい。
「背負え、この十字架を。俺がお前なら、お前は俺になれる。お前がオーネストの荷物を背負う気なら、これぐらい余分に背負って見せろ。『こちら』に生きるならば『あちら』に引っ張られるな。前を向いて、後悔さえ飲み込んで進め。俺はお前の仮面だ、お前の写し身だ。常に俺はお前の心と共にある」
そう告げて、俺の背負った『死望忌願』が光の粒子となって消え去った。
俺は息を切らしながら話を延々と反芻し、手から鎖を出して地面に突き刺さった十字架を引き抜いた。白銀のように美しく、赤黒く乾いた血を含んでも尚純粋な輝きを放つそれは、俺の心臓に不思議な鼓動を齎した。
暖かく、冷たく、近く、遠く――曖昧で矛盾した感覚が交錯する。
俺は、これが本当は何なのか、不思議と理解できる気がした。
いつかオーネストが告げたあの言葉を思い出し、俺は溜息を吐いた。
――その力の本質は『人間』だ。
――『人間を生み出した神』から解脱しようとする力と言ってもいい。
「何の情報もない所からそこまで核心に迫れるオーネストも大概だが……さてコイツ、どう扱ったものかね……」
苦笑しながら、俺はゆっくりと十字架に手を当て――眩い光ではなく、沈むような暗黒に包まれた。
後書き
今回はやたら長くなってしまいました。次回、真の死神が降臨します。
なお、十字架も5,6個くらいある意味の何個かが明かされます。……たぶん。
そしていい加減隠す気ないだろってなってきたオーネストの血の秘密にそろそろ誰かツッコんでもいいのよ。
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