「釣りに行くぞ」
初夏の刺さるような日差しが肌に痛い6月の終わり。
奉の思いつきのまんまの一言で、俺は昨日のうちに物置に放りっぱなしだった釣り竿やら餌やらクーラーボックスやらを掻き集め、朝早くから車を出すことになった。
海はさして遠くはない。徒歩には遠いが車では大げさな、中途半端な距離だ。車なら15分も走らせれば、近所の埠頭に着く。平日の埠頭は静かで、俺たちと同じように釣り糸を垂らすじいさんが2~3人居る程度だ。
「……今日じゃなきゃ駄目だったのか」
――眠い。急に云われて慌てて準備をしたので、あまり寝れていない。奉はしょっちゅう昼間っから居眠りをこいているせいか、妙にすっきりした顔をしている。今日のような真夏日にも、相変わらず古い羽織を羽織り、背を丸めて文庫本を繰っている。酔わないのか。
「…ああ。明日が『船出』らしいから。今日のうちにやっておかないとねぇ」
「なんだよ船出って…」
何で俺がつき合わされるのか。俺は釣りなど小学校以来やっていない。釣りならもっと適任の人が居たはずだ。
「玉群のおじさん、どうなんだよ。釣りやるし、いい竿借りられただろうに」
「いい竿は駄目だ」
奉は注意深く、浮きの動きを凝視する。煙色をした眼鏡の奥の表情は、反射で見えない。
「いい竿を台無しにすると、怒られるからねぇ」
「台無しにする気か!?」
それは俺の竿だぞ!?
「何だ、惜しいか」
「惜しいってほどじゃないが…」
現に10年近く使っていないものだし、安物だし…ただ貸したものを台無しにすると宣言するというのは…ともにょもにょ云っていると、ふいに奉の目が険しくなった。
「…来た」
「え」
浮きが緩慢な動きで沈んだ。あの、魚が引いた時の『ぷん』と軽快に沈む感じの動きではない。のろり、と緩慢に引きずり込まれるような…とにかく、厭な動きだった。
「おい、奉。これは」
「じゅごん…だねぇ」
そう呟くと、奉は沈んだ浮きと同じように、竿を緩慢に引き上げた。固唾を呑んで糸の先を眺めていると、やがて『それ』は姿を現した。
底の知れない双眸が、俺をじっと見つめていた。
それは魚の眼ではない。間違いなく、人間のそれだ。そして糸を捕らえているのは魚のそれではなく
人間の、手。指。
やつは人間の顔を持ち、人間の手指を絡ませて釣り糸を緩慢に引き込もうとしていた。
「………人魚」
と云ってしまうと、伝説の美しい人魚に対する冒涜のような気がしてしまうが…人魚、としか言いようがない。乱れたざんばら髪を肩や背中に張りつけ、ぬらりと水面から姿を現したそれは、肩から下は魚のそれだ。魚のえらから腕が生え、人の顔がついている奇妙な異形。…人魚じゃないのならこれは。
「いや、じゅごんだ」
「海生哺乳類のジュゴンか!?いや、俺の記憶通りならジュゴンはもっとこう…」
いや、記憶がどうこうという問題ではない。俺はこんな禍々しい生き物を見たことがない。
「クーラーボックスを開けろ」
釣り上げられた『じゅごん』が釣り糸の先でぶらんぶらん揺れながら俺の方に近付いてきた。
「ちょっ、やめっ」
それを俺の方に近付けるな!!俺はクーラーボックスに夢中で飛びついて金具を外した。『じゅごん』は力尽きたようにクーラーボックスの中に落ちていった。…落ちていく瞬間、俺と目が合った気がした。
「……うぇ」
もうこの中に凍らせたゼリーとか炭酸とか入れる気がしない。
「どう思った」
「きもい、以外の感想が必要か」
「あの目を見て、どう思った」
やっぱりきもいしか浮かばないが…強いて云うなら。
「―――恨んでいるのか、と」
咄嗟にそんな言葉が浮かんだ。…俺自身も何云っているのか分からないが。奉は竿を小さく振って、再び釣り糸を海に沈めた。もう既に釣り糸の先など見ていない。竿を片手に、文庫本を繰っている。
「海のものには本当、関わり合いたくないんだがねぇ…」
再び浮きが不吉な動きで海面に呑み込まれるまでに、いくらも時間は要らなかった。
「……うわまた来た」
心底厭そうに、奉が呟いた。…なんだこの野郎。そんなに厭なら何でわざわざ早朝から釣りに来たのだ。
「恨んでいるのか…その感想、割と正しい」
クーラーボックスに『あれ』を落とし込みながら奉が云う。
「海で死んだ者達は、どういうわけか、とても人を妬む」
妬むというかそうだな…とか何とか呟きながら、再び釣り糸を沈める。
「船幽霊、七人ミサキ、海座頭……海で非業の死を遂げた者は何故か皆、生きている者を自分と同じ海に引き込もうとする」
「……山で死んだ者が山に引き込もうとするって話は…ないとは云わないが海程は多くないな」
「引き込むというか迷わせるだねぇ、山の場合は」
しかも何らかの要件を満たせば解放されることが多いねぇ…と、奉は喉で笑った。
「だから釣り糸にしがみついてくる奴らは、餌に釣られているのでも、救われたいわけでもない」
それでも奉は律儀に餌をつけ、竿を強めに振る。さっきより少し遠くに、浮きが沈んだ。
「俺を竿ごと、引きずり込もうとしているのだよ」
―――また、浮きが沈んだ。
「こいつらは、何なんだ」
肌が粟立つのを抑え、当たり障りのなさそうな所から聞いてみる。…何故捕まえる、捕まえてどうする。聞きたい事は山ほどあるが、少なくとも奉は、面白半分で厭なものに関わることはない。
「―――猪追いの祭り、あるだろ」
「知らん」
「知らんか」
奉が途切れ途切れに語った『猪追いの祭り』は、こうだ。
飢饉で人々が飢えに苦しむ時代があった。僅かな蓄えはあっという間に底を尽き、犬猫も牛馬も食べ尽し、あとは干からびて死ぬのを待つばかりになった頃…人々は『猪』を狩った。
「―――当然、それは文字通りの『猪』ではない」
生きた人間に猪の皮を着せ、あれは猪だ、人間ではない。と皆に、自分に言い聞かせ『獲物』を腑分けし、貪り食う。凄惨な、生き延びる為の秘儀。それは形を変えて現在にも『行事』として残る。
「その大昔の人肉食とこいつら、何の関係がある」
クーラーボックスを顎で指す。ボックスは妙に静かに、禍々しい気配だけを放つ。
「ここからもう少し…いや、ずっと南に行った辺りになるが」
遥か昔、ジュゴンの寄りつく浜があったという。
そういう浜では、稀にジュゴンを食う風習もあった。
「その、人によく似た風体からか、ジュゴンを食すには色々と手順…というか決まり事が厳格にあってな。まず、浜で調理しなければならない。そして食えるのは男だけだ。女は絶対に、食ってはいけない。それと…家に持ち帰ってはいけない。持ち帰ると、その家の主婦が死ぬ」
「主婦!?」
「妙に、限定的だよねぇ」
奉がにやりと笑った。
「さっきの猪の話と合わせて考えると、なんだか話の輪郭が見えてきただろう?」
漁村とて、飢饉とは無縁ではいられなかったのだろうねぇ…と呟いて、奉はクーラーボックスの中を昏い目で眺めた。妙に静かだ。水の跳ねる音すらしない。
「見ろ。こいつら大半が、女だ」
「見ない」
あの虚ろな目が俺を一斉に見つめるのか。そんな厭なクーラーボックス、絶対に覗き見るものか。
「ジュゴンに見立てられた女にジュゴンの皮を被せ、沖で船から落として銛で突く。それを浜で焼き、秘密裏に食らう…そんな事があったのやら、なかったのやら。ま、本当のところは分からんがね」
再び釣り竿を振る。昏い海に針が落ちる。
「本人たちに聞くすべは、もう無いからねぇ」
読み終えた本を傍らに置き、奉は羽織の袂から、本をもう一冊取り出した。
「じゅごんは飢饉の度に増え、生者を引きずり込もうとする。話が通じる相手じゃないからねぇ、こいつらがどうして生まれたのか、何故恨むのか、さっぱり分からん」
また、ぬらりと浮きが沈む。…何だ、入れ食いだな。
「ただ、こいつらは『海難事故』の匂いを嗅ぎつけて集まってくる」
「……ここで事故が起きるのか」
「確定ではないけど、起きるかもねぇ。…これだけ居るんだから」
釣り糸には、新たなじゅごんが下がっていた。
「……お前、何でじゅごんを釣るんだ」
だいぶ、日が高くなってきた。クーラーボックスは既に、それ自体が呪物のように禍々しい気配が凝り始めていた。
「多いだろ、これ」
「あん?」
奉は再び本を置いた。そして竿もゆっくりと傍らに置くと、袂から小さなキャラメルの箱を取り出した。半透明のパラフィン紙に包まれた四角いキャラメルが、ころりと手のひらに転がる。
「いくら飢饉とはいえ、やはり『それ』は禁忌だろ。最終手段だろ」
二つ出したキャラメルを一つ、俺の手のひらに落とし、奉は自分のキャラメルを剥いた。
「じゅごんの絶対数は、そんなに多くはない筈なんだがねぇ」
増えているんだよねぇ、じゅごんが。そう呟いて、奉はキャラメルを口に含んだ。
「何が起こっているのかねぇ…」
じゅごんに引き込まれた人もまた、じゅごんになるのか。
それとも何処かでまだ、同じような惨禍が繰り返されているのか。
いや、もしかして…じゅごんはそもそも、飢饉とは何の関係もない、只の海で死んだ者達なのか。
奉は俺に竿を手渡し、クーラーボックスを持ち上げた。
「こっちはもう少し借りるぞ」
「もういい。それにアイスやジュースを仕舞う気になれない」
「そうか。…それとその竿で魚を釣ると、じゅごんを呼ぶ」
「えっ?」
「じゅごんを寄せるのに、散々使ったからねぇ。だから一箇所で長いこと使うな。…ただ、鬼のように釣れるぞ。要るか?」
ふざけんな呪物じゃないかそんなもの。こいつ最初からクーラーボックスも釣り竿もせしめる気だったんじゃないか。俺は結局、竿も突き返した。
翌日、この埠頭から10キロ程沖で大型客船が転覆する事故が起きた。