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俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか

作者:海戦型
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57.第七地獄・四聖諦界

 
 天を舞う二つの破滅を呆然と見上げるリージュ・ディアマンテの心を支配するのは、自分の体が砂になって崩れ落ちるかのような虚脱感と、後悔だった。

 なんとなく分かる。彼はもう集団で行動することに我慢していられなくなったのだ。それは煩わしいだとか一人の方が早いだとかそんな一般的な言葉では言い表せない、思考からの脱落だ。彼はそうまでして頭の中から欠片もそれを考えられない程に狂わないと、命というものを忘れることが出来ない。

 忘れさせてはいけなかったのだ――そのためにリージュはここに来たのだ。
 なのに、精霊の力まで借りたのに、今のリージュは生き残るだけで精一杯だった。多少は手伝いもしたが、結局無駄にしかならなかった。だって今、オーネストは死ぬまで止まらない戦いへと飛び込んでいる。

 空中で何度も激突する力と力に交じり、氷と岩と黒鱗と血肉が降り注ぎ、60階層を紅く染めていた。
 それだけの痛みを抱えてもまでして、オーネストは『――――』を。
 視界が段々と白んでいく。結局――わたしはおばさんとの約束を――。

「伸ばしても伸ばしても、どうして届かないの………」
「あのバカ……カンッペキに暴走してやがる!!もぉぉ~~~なんっでこういう肝心な時に人の話聞かないかねぇあのバカッ!!ドバカッ!!ミスター自己中ッ!!」
「へ?」

 突然の罵声に驚いて振り返ると、そこに気に入らなくて気に入らなくて只管(ひたすら)に気に入らないあの黒ノッポがいた。こんな状況で、もう引き戻せないほど深く戦いに沈んでしまったオーネストを見て、この男は絶望どころが盛大な苛立ちを剥き出しにして地団太を踏んでいる。地団太の直撃を受けた地面がミシリと軋んだ。

 アズライール・チェンバレット――死を告げる者。得体のしれない癖にオーネストの隣に並んでいたその男は、今の事態に唖然とすることもなく、絶望するでもなく、ただ純粋に苛立っていた。しかもそれは純粋に、オーネストが身勝手だからというそれだけの理由で。
 そして苛立っているかと思うと今度は急に肩をがっくりと落として項垂れる。

「ちくしょーああなる前に殺せないかなーって思ってたけど、やっぱそんなに甘い敵じゃねえか。有効打も見つかんねーとなると玉砕覚悟でガチンコするっきゃないかな………さてとっ」

 アズは懐を探り、数本の小瓶を取り出して立ち竦むリージュに突き出した。

「ほい」
「え?」
「これ、俺の残りのポーション。マズイことに回復はあと2本しかないから、使い道は大局を見る目のあるリージュちゃんに任すわ。俺はちょいとオーネストに喝を入れてくる」
「なっ……!!」

 絶句。この男は、あのオーネストを見てもまるでいつもと態度を変える素振りがない。
 アズライールの口元からは盛大に吐血した痕跡が残り、自慢の黒いコートにも赤い滝が描かれている。顔色も良くはない。明らかに消耗している。だのに自分の回復薬を他人に押し付けて、自分はあの音速を越えた化け物の戦いに乱入しますという。正気の沙汰ではありえない。

「アズライール・チェンバレット!!貴様は………貴様は本当に今のアキくんに声が届くと思っているのかッ!?アキくんは何もかも捨てようとしているんだぞ!!自分さえもッ!!」
「捨てる?無理無理。あいつ自分で『人間はしょせん人間にしかなれない』って言ってたし、口であーだこーだ言ってるくせに自分が一番過去に執着してる矛盾満載人間だよ?だいたいそれが出来ないから8年もこうしてアホみたいに冒険者続けてんでしょーが。アホなんだよあいつは」

 まるで友達の悪口をぼやくようにつらつらと、アズはリージュにそう告げた。
 つまりこの男は、この世がどれほど乱れようと自分が死に近づこうと、オーネストの前では友達なのだ。どんなに変貌しても、自分の手に届かなくなっても、どこまでもどこまでも友達の域から出しはしないのだ。

 それは――それはオーネストの近くにいた誰もがやろうとして、結局辿り着けずに諦めた領域なのに。リージュが一番取り戻したかった関係なのに。この男はまるで息をするかのように、自分の中にある自分を変えることをしないまま。表と裏が完全に一致した、不変の心。

 例え明日世界が滅ぶとしても、いつも通りのオーネストの隣ではいつも通りこの男がいるのだろう。
 なんとはなしに、そう思った。悔しいけれど、確かに思った。

「貴様は……例え自分が死ぬとしても、ずっと『そう』なのか?」
「そうさな。君の言葉の真意はイマイチわからんけど、俺はどこまでも俺だよ。このまま生き、このまま年を重ね、このまま死ぬる。むしろ俺が俺じゃないままくたばる方がよっぽど恐ろしい。だからこそ、あのアホが自分を見失ってるんならそれを修正して現実見せてやるのが友達の務めじゃない?」
「自分が自分であるのなら、明日に死すとも後悔なし………アキくんは、そういえばそんな男だったな」

 なら、自分は何だ。リージュ・ディアマンテという女は何を望み、どうあるべきか。
 そんなものは決まっている。『わたしはわたしの意志にだけ従っていればいい』。
 それが、やりたいことをやるという意味の本質なのだから。

「………リージュちゃん、ちょっと壁に突き刺さったあの氷柱増やしてくんない?オーネストが足場に使ってるもんだからどんどん崩れ去って……というかあの氷、黒竜の風浴びても砕けない強度なんだな」
「存在を停止させる性質を持った氷だ。強度の問題ではなくそのような性質がある。割っている黒竜とアキくんが異常なだけだ……わたしは空を飛べぬ。あとは任せた」
「任されました――よっとぉ!!」

 時折空中から降り注ぐ空気のギロチンをステップで躱したアズは、壁に鎖を突き刺してその身を空中に投げ出した。

(――わたしは、アズライールにはなれん。なれんから、わたしはリージュとして成せるを成す)

 氷を束ね、熱を奪い、壁に出鱈目に命中して足場の代わりとなる氷。
 今の自分ならば難しい話ではない。この階層に降りる際も氷の螺旋階段を伝って来た。
 二人の道化が踊る極上の舞台を思い浮かべ――そもそも自分の氷が外れたのが足場のきっかけだったことを思い出し、「何が幸いか分からないものだ」と苦笑した。

氷造(アイシスティム)舞踏する天使(アンジェルスショルム)ッ!!」

 人々を魅了するかのように暗雲を裂いて舞い降りる救世主――と呼ぶには余りにも異質な存在が暴れる盤上を作る為に、天に掲げたリージュの手に収束した獄氷が天使の環のように輪転した。



(――氷。つめ、たい。力――人ノ抱エルには早き、領域――?おレは、なにを……)

 3人の戦いからも黒竜からも感知されない瓦礫の中で。
 全身を引き裂かれたまま横たわる男の意識が、微かに、しかしはっきりと、その感覚を捉えた。
 しかし、男はまるで全身を縛られたかのように――まだ、動かない。



 = =



 意識を超克した破滅的な衝動が、引き千切れそうな体を暴れ狂わせる。
 こちらが加速して黒竜に向かえば向かうほど、奴の鱗と肉が剥げていく。しかし剥げた肉は魔物特有の再生能力で瞬時に復活し、こちらが空中で直進しか出来ないことを見抜いた黒竜は回避と同時に迎撃を開始した。

 接触の度、真空の刃や刺突、骨をも灰燼に帰す灼熱の焔がこの身を焼く。
 ぶつかる度、俺が俺であるという証が一つずつ欠けてゆく。
 それでも――この剣に込めた力が止まらない。

「お゛お゛ああああああああああああああッッッ!!!」
『グルルル………ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』

 ――ィィィィィィイイイイイッ!!!と、自分の背中の後ろから音が追いかけてくる。

 ヘファイストスの剣と黒竜の角が衝突し、衝撃波の爆弾が目の前で弾けた。

 目が見えない。衝撃で潰れたのだろう。しかし、もう両目を抉り取られても奴の居場所が分かる。
 耳が聞こえない。衝撃で頭がぐらぐらと揺れて耳から熱い液体が零れ落ち、頭の奥に刺すような痛みが走る。しかしもう音など聞こえなくともいい。痛みとは肉体の安全装置だ。無視する。まるでそれが自然なことであるかのように、気が付けば激突していた壁から這い出て、また加速するように壁を蹴り潰す。

 体が砕けるほどに、本能を越えた何かが際限なく肉体に力を注ぎ込む。
 黒竜の迎撃に押し返されたかと思えば、突撃に籠る破滅もまた俺の背を押す。
 限界が近づいている。どちらの、何の限界かはわからない。ただ、近づいてくる。

 ―――。

 ―――。

 何か、異物が入り込むような感覚。超音速で弾けた鼓膜が再生され、その濁った音が脳に伝わる。

 これは、小さな無数の金属が擦れ合う、聞き慣れた音。鎖――あいつの気配。

 しかし、もう関係のないことだ。

 何もかも、何もかも、関係のない――。


「――黒竜より先に先ずお前を叩き落したろかぁぁッ!?」
「ガボュッッッ!?!?」

 人間の喉から鳴ってはいけない奇妙な音と共に、体が殴られたように横っ飛びに吹き飛んだ。考える間もなく音速の慣性が強制的に捻じ曲げられ、胃や腸、腹筋背筋大腰筋などを含む胴体の筋肉と背骨を含む数本の骨がグジャリ、ブヂブヂと異様な音を立てて引き裂かれ、これまでで一番の量の血を吐き出した。
 少し遅れて、アズに無理やり押し付けられた鎖が自分の胴体を縛っていることに気付かされる。
 こんな鎖を展開出来て、俺の体を加速の反動で体が両断されないように引き戻せる人間など、俺には一人しか心当たりがない。下手をすれば黒竜の攻撃より甚大な傷を負った俺は、目で相手を殺す力を込めてほぼ下手人の男を睨み付けた。

「ぐ、ぶ、あ……て、てめ……!!」
「黙れクズ・オブ・クズ。お前に文句を言われる筋合いなんぞ砂粒一つ分もねぇ。俺の話を聞かずに暴れ続けてたのが全面的に悪いのは確定的に明らかなので。しかし俺は曲がりなりにも天使なので鎖で負った傷はこの手持ち最後のポーションで治してやろう。ほれ、感謝の言葉は?」
「……耳が、おかしくなったかな。大親友に殺してほしいと懇願された気がする。殺してやるのが人情だし、一度確認してその通りだったら慈悲深く殺してやろうか」
「オーケー、きっと空耳だから気にする必要ないと思うよー」

 頭に少量の液体が降り注ぎ、細網一つ一つの隙間を縫うように体内に吸収される。この体を縛る呪いとは別に、それは俺のズタズタにさ入れた内臓器官と筋肉を再生させていった。

「内臓破裂させないと止まらないとかお前何なの?いかれてんの?」
「俺の日常のどこをどう見てまともな人間だと思った。この変質黒コートが――本当に、何のつもりだ?」

 これまで、アズライールという男にこれほど苛立ったことはない。自分の握力で自分の拳を潰してしまいそうなほど握りしめた俺の質問に、今度はアズがこれまで見たことがないほど怒りを露にした表情で胸倉を掴んでくる。

 アズの背後からは『死望忌願』が源氷憑依(ポゼッシオ)の加護を得た夥しい量の鎖で結界を張っていた。その結界も、黒竜からの外の攻撃で抉れては継接ぎのようにその場しのぎの再生を繰り返す程度の代物だ。

 アズは、敵を背後に欠片も背後を気にせず、ただ真っ直ぐにオーネストを見ていた。

「俺は確か言った筈なんだよなぁ、真面目に戦えってさ。勝つ気で行けって。それが、なんだ。さっきの知性の欠片も感じられない『おみごと』な戦いっぷりは何だよ師匠サマよぉ?」

 どこかこの状況を俯瞰して眺める自分が、「ああ、今までにない程キレてるな」と他人事のように呟く。師匠サマ――確かに俺はアズに戦い方を教えたが、こんな風に、しかも嫌味をたっぷり塗りたくって告げられたのは初めての経験だった。
 思えば、今までこの方こいつと正面切って喧嘩したことなど碌にない。なかった訳ではないが、数少ないそれは俺の行動に対してアズが「止めようとする」ものだ。あくまでも現状からの逸脱を抑える程度で、俺の行動そのものを否定したことなどない。

 アズという男はいつもそうだ。自分から他人の生き方や方法を否定することはせず、多様性という名の曖昧な世界にふわふわと浮きながら自分の通る道を決めている。だからこそ、俺とアズは同じ屋敷に住んで行動できていたのだろう。誰に対しても寛容で、誰に対しても本質的な干渉はしようとしない、どこか享楽で無責任な傍観者。

 だが、今日のアズはオーネストの行動を、考えを「変えようとしている」。
 オーネスト・ライアーを否定しようとしている。
 その事実が、オーネストの精神を一気に目の前の事実へと引き戻した。

 鎖の結界が、また一つ大きく抉られる。アズの手が一瞬だけ震え、額から汗が垂れる。
 鎖は魂の一部。あれだけ膨大な量を常に展開し続け、破壊され続けているアズの魂は『徹魂弾』をひたすら出鱈目に放ち続けるほどの負担をかけているのだろう。
 それでも、アズはこんな無茶をしてまでこの空間を作り出してオーネストに激昂することを選んだ。
 これは――「死んでもやる」意志だ。

「俺は、お前のいい加減に人をあしらう所もだれに対しても傍若無人なところも自分勝手で時々餓鬼っぽい所も嫌がらせ大好きなところも意地っ張りが過ぎて人格捻じれ曲がったところもよぉ~く見てた。とてもじゃねえが褒められたもんじゃねえクソッタレな人間だ。だがな、それでも俺がお前と一緒にいて平気だったのはなんでだと思う?」
「……知るかよ」
「お前が、人に対して決して嘘や裏切りはしなかったからだ」

 オーネスト・ライアー。偽りに塗れた姿になり果てて尚、己の正道を選び続ける道。
 それが、俺の名前に込められた唯一の意味。

「そいつに出会い、そいつの考えを聞き、そして下した判断にお前は決して自分で言い訳もしなければ忘れることもない。判断を間違えたときは、間違えたことを口に出せる。尊敬したよ。昼行燈の俺とは違う。お前がそうありたいという意識が一番伝わってきた」

 鎖の結界が、また揺らぐ。
 魂を欠損しすぎたかのようにオーネストの体がゆらぎ、顔から生気が失せていく。
 それでも、アズは貫くように揺るぎない瞳で俺を射抜き続けた。

「なぁ、オーネスト。俺は正直黒竜に勝つ方法が見当たらねぇよ。見当たらねえけど、それでもお前と俺なら勝てると思って、お前も負けてやる気はないと言ったからいけると思ったんだ。それがお前、途中から俺の事は眼中にないみたいに神風よろしく突撃と攻撃を連打しやがってよぉ……そいつはな、もう俺の信じるオーネストじゃねえんだよ」
「………だが、あれが俺の本心だ。なんとなく知ってんだろう、お前も?」

 消えてなくなりたい――。
 すべてを忘れたい――。
 受け入れて受け入れて、受け入れ続けた末に望むに至った矛盾の向死欲動。

「甘えんなボケ」

 俺の友達は、それを分かったうえで踏みにじった。
 まさに、俺が今までやってきたように。
 アズの背後の『死望忌願』に黒竜の攻撃の一部が命中し、アズの脚が大きく抉れた。よろけた足を無理やり鎖で外骨格のように固定したアズが、今にも消え入りそうな腕に極限まで力を籠める。存在と消滅の狭間で生命の炎を燃やし尽くすように、込められた言葉は(こわ)い。

「てめぇなぁ、何でもかんでも過去の思い出と重さ比べて勝手に俺達を軽く見積もってんじゃねえよ。俺や『ゴースト・ファミリア』の連中にとっては今のお前が『重い』んだ。過去など知ったことか、くそくらえとほざいている今のお前に惹かれてんだ」
「だから来てほしくないんだよ。お前らは――お前らなんぞ、嫌いだ。どいつもこいつも好き勝手に俺の近くに寄ってきやがって」
「気に入らないんなら全員皆殺しにしてみろ。さあ、聞くぞ。お前にそれが出来るか?」

 出来るか、だと。
 簡単なことだ。
 俺はいつだって俺だけの意識に従って、俺だけの判断で決断できる。
 望めばやり、望まなければやらないだけ。自分に感情に従えば、待っているのは――。

「俺は――俺は、結局それは選ばないだろう。殺さない、だろうな」

 喉から漏れたのは、自信が欠如し、曖昧で、情けない声だった。
 心底考えて出した、抗いようのない結論だった。
 俺は、あいつらを――アズを、メリージアを、リージュを、ヘスティアを、ヘファイストスを、ココをヴェルトールをガウルを浄蓮をティオナをベートをリューをラッターをペイシェをキャロラインを――俺の周囲をうろつくとことん馬鹿で救いようのないお人よしどもを前に、躊躇うだろう。
 フレイヤは断じて殺すが、他は躊躇うだろう。今、俺が躊躇ったのだから。

 本当(オーネスト)が、(ライアー)を黙らせた。

「――だと思ったぜ」

 そこまで聞き届けて、やっとアズがにへら、と笑った。
 どこまでも――きっと死ぬ直前か、死んだ後でも変わらないいつもの笑みを、俺に向けた。
 どうだ、お前から言質を取ってやったぜ。
 そんな声が聞こえてもつられて笑うほど、透き通る笑みだった。

「難しい話でもないんだよ。お前が捻くれまくってるからややこしくなってるだけで、答えはガキでも分かる簡単なものなんだ。お前は、本当は踏み出すだけでいいのにな」
「ちっ………お前に知ってる知らないの話で負けたのは初めてだ。俺には……分からんよ」

 そういえば、ヘファイストスにも似たようなことを言われた気がする。
 踏み出すといったって、過去から途切れた俺の希望はどこへ向かう。
 あの時に置いて行かれた俺は、今更何を望んで歩き出せばいいというんだ。
 
「分からんなら、分かるまで、付き合ってやらんことも………ない、けど?」

 鎖の結界の再生が止まった。もうこれは引き裂かれるだけの障害物だ。黒竜の爪が結界内に突き刺され、外を蠢く黒い巨体の影が見えた。維持する力は、もう注がれない。

「あ、あらら………頭に血が上りすぎて、ちょっと、今すぐ付き合うのは無理、かも…………」

 そんな軽口をたたくアズの体は、次第に力を失ったように傾いて――オーネストの体に伸し掛かる形で止まった。死んではいない。ただ、魂を削りすぎてもう声も出ない程に消耗しきっている。

「まったく、『俺とお前なら倒せる』って話だったのに……先にくたばりやがった。信じられねぇ」
『לא מת――רק מתקרב――』
「………悪いが何を言ってるか分からん」

 オーネストの体が動かなくなっても尚存在する『死望忌願』の口から何か音が漏れたが、流石に意味は読み取れなかった。ただ、これがここにあるという事は、アズライールの魂は消滅してはいないということだ。

 鎖の結界が完全に破壊され、滅気を放つ天黒竜の邪顔が再び目に映った。
 まだ、アズが戦えないことには気づいていないらしい。もとより守る余裕もない。

「手間かけさせやがって、この…………まぁ、いい。お前の口から答えを聞くまでは俺がどうにかするさ」

 自分の人の好さに眩暈がしそうだと思うのは、俺の自惚れ過ぎだろうか。
 どうやら俺は、ここでアズの身を守りながら黒竜を迎撃するまったく別の方法を考えなければならないらしい。意識を、集中力を加速させ、黒竜がアクションに移る前に戦略の海に飛び込む。


 空を飛ぶ敵を殺すには通常ならば飛び道具が有効だ。しかし黒竜の機動力を相手にすると、どうしても飛び道具を発射してから到達するまでに致命的なタイムロスが生まれ、容易に回避されてしまう。ならば必然的に、取れる手段は通常ではないものに限られる。

 現状、発射から着弾までの時間を更に縮めて命中させるような武器も魔法も技も、オーネストは持ち合わせていない。そも、黒竜は音速以上の速度にさえ反応している事を加味すれば、あれに命中させられる飛び道具は雷か光の類でしかありえない。

 正確には不可能ではない。『万象変異(トランシア)』――忌々しい、来歴を考えると心底忌々しいこの魔法を使えば、雷に化けることなど訳はない。だが、『万象変異』は『雷になったら解除するまでなったっきり』だ。黒竜に致命傷を与えるだけのアンペアを出すのにどれだけの魔力を喰らうのか分かったものではないし、黒竜の鱗には通常ではありえない密度の組成、魔力、性質が内包されている。
 リージュのようにその情報量を上回る精霊の加護などの性質を携えた魔法ならいざ知らず、今のオーネストの力で黒竜の鱗を貫通する魔法など数度発動させるのが関の山。そして黒竜がたった数度の雷で撃破出来るほどなまっちょろい存在であるなど楽天家の考えだ。

 ならば取るべきは黒竜の三次元的機動と同質の力、すなわち飛行能力。
 『飛翔靴(タラリア)』のように道具を利用して飛ぶか、或いは風の類を操る魔法で疑似的に飛ぶか――まず『飛翔靴(タラリア)』はありえない。何故ならあの道具が生み出す推力では圧倒的に速度不足だし、そもそも持っていない。ならば魔法か。『万象変異(トランシア)』をより精密に操作するのならば、先ほどの雷の案に依らずして飛ぶだけの小細工は出来るだろう。

 ――実行したことは、ないが。

 こんな言い方をすればあの神はさらに鬱陶しくなるだろうが、『万象変異(トランシア)』はこれまでヘファイストスの為だけにしか使ったことがない。それに、戦闘で使い勝手のいい技とも言えなかった――こと対人戦では、特に。
 いや、それはある種の言い訳だろう。使おうと思えば使える場面はあった筈だ。なのにオーネストはごく自然にこの魔法を使うという選択肢を頭の中から追いやっていた。

 これを使えば、『――――』を頼ろうとしたようで……あの日の雨に打たれた『――――』の最期の行動を自分自身が肯定してしまったようで……それからずっと続けた破滅的なオーネスト・ライアーとしての生き方の全てを自分自身が裏切ってしまうようで……あの瞬間に取り残された一人の餓鬼が、厭だ厭だと叫んでいるかのようだった。

『お前、今回は『勝つ気』で行けよ?』

 不意に、一人の男の言葉が思い起こされる。
 馬鹿で不格好で頭が悪くて素人丸出しでしつこいようでしつこくなくて足だけ無駄に長くて時々役に立って時々迷惑をかけてきて、どこまでも図々しいくせに自分に対してだけ無駄に察しが良かったあの馬鹿の――今、力なくぐったりしている大間抜けの言葉だ。

 勝つ気――自分は勝つ気でなかったのだろうか、と自問する。帰ってきた答えは、肯定だった。目の前に現れる事実という残酷な事象の連続に対して、自分の意識だけを頼りに真正面から受け止め続けるのがオーネスト・ライアーだ。それは勝とうとしているのではない。ただ前へ進み、いつか果てようとしているだけだ。

『今日は、そうじゃないんだろうな?』

 そう――そうだった。
 約束は守る。気に入らないが、確かにそうしないと道理が通らない。
 俺は、俺自身に課した一つの『わがまま』を、折った。




『己が自由の為ならば、我が身を虚偽にて染め上げよう。汝は炎を掴めるか。風を抱擁できるのか。出来ると真に思うなら――袖を掴んで真の名前を告げてみよ――』




 その詠唱が耳に届くのとほぼ同時――黒竜が反射的に振るった首の角に、骨の髄まで響くほどの運動エネルギーが込められた鈍色の刃が激突した。

 瞬間、衝撃。

 空間が揺らぎ、黒竜の体が僅かに後方に弾かれる。空の支配者が、空で圧される。
 体を弾いた正体は、黒竜の前の前でわざとらしく舌打ちしながらその刃を構える。

「使う気はなかったんだがな………お前を相手に出し惜しみしてくたばるのも癪だから態々使ってやった。俺にこんな忌々しい魔法を使わせたんだ、お前は。分かるか?これまで3度も繰り返した無様な結末を、これでも繰り返すなどと――」


 ――全身に旋風を纏って空を駆ける風の化身。

 ――空の王たる黒竜の天下に弓引くは、神聖なりし風天。


「そんな半端な結果は誰が許そうが俺が絶対に許さんッ!!」


 オーネスト・ライアーの滅気が、天空の支配を砕くように爆ぜた。
  
 

 
後書き
主人公をガツンと説教したり主人公に守られたりする男、アズライール。
色々と女性キャラを頑張ってヒロインっぽくしたつもりでしたが、負けました(何にだ)。

そしてやっとやる気を出したオーネストがまっとうに戦いだしました。
こうまでしないと本気になれない、本当に世話の焼ける阿呆なんです。彼は。
 
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