イノセントデヴィル
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(一)歪んだ反抗
老女がふと目を覚ますと、ベッドの傍らに誰かが立っている。
窓の逆光で顔は見え辛いが、その背丈とおかっぱ頭でひ孫だとわかった。
「おや、カナちゃん。いつ来たんだい。」
女の子は無言のままじっとしていたが、いきなり病室を駆け出して行った。
「カナちゃん? あらぁ、行っちゃった…。あの子、まさか一人で来たのかしら…」
「松島さん、お薬の時間ですよ。」
入れ替わるように、浅い紙コップを持って看護師が入って来た。
「今ね、ひ孫が来てたのよ。」
「へ? 今?」
「ええ、たった今出てったのよ。見なかった?」
「ううん、気が付かなかった。おいくつなの? 」
「今年小学校に上がったの。声を掛けたら黙って出て行ってしまったのよ。
まさか一人でここまで来たのかしらねぇ…。
電車だと30分かかるのよ。駅からも少しあるし。」
「じゃあ、一人じゃないでしょ。きっと家族でいらしてるのよ。今日は日曜だし。」
「そうよねぇ。でも変ねぇ、今日来るとは聞いてないんだけど。」
「突然来て、喜ばせたかったのかもよ。」
「ふーん。」
老女は首を傾げながら体を起こし、手渡されたコップの薬を口に含むと、
湯呑の白湯でごくりと飲み込んだ。
すると、持っていた湯呑がぽとっと床に落ちた。
「ん、すべった?」
看護師が湯呑を拾おうと屈むと、その肩を老婆がガシッと掴んだ。
「痛っ!」思わず声を上げ体を起こすと、老女が喉を抑えて目を見開いたまま固まっている。
「あらやだ! 松島さん、どうしたの? 大丈夫?」
「見えない… 目が… 目が見えない…」
「ええ!?」
「の… 喉が… 焼ける… ああ、ああ、んがぁー!!」
よだれを垂らしながら、もがき苦しむ老女。
「松島さん、松島さん、しっかりして!!」
老女はやがて白目をむき、のけぞったまま意識を失った。
看護師が慌ててナースコールを連打。
『どうされました?』
「松島さんが急変です! すぐに先生を呼んでください!」
清掃婦が道具を乗せたワゴンを押しながら歩いていると、
医師や看護師達がパタパタと慌ただしく奥の病室に駆け込むのが見えた。
(ありゃ、誰か死にかけてる? ここは老人病院だからねぇ。
毎日誰かが亡くなるんだ。ああ、やだやだ…。)
清掃婦は両肩をブルルッと震わせた。
女子トイレの横にワゴンを停めると、『清掃中』のスタンドを立て掛けて入り口を塞いだ。
バケツのモップを絞って床を磨きはじめるとすぐに、洗面台に横たわる長細い何かを見つけた。
「あれ? なんだこれ…」
プラスチックボトルには液体がだいぶ残っていた。
ゴム手袋のままそれを掴み裏返しにすると、ラベルには「除草剤」とある。
「なんでこんなところにあるんだろ。まだいっぱい残ってるよ、もったいないわねぇ。」
深く考えもせず、ワゴンの隙間にボトルを押し込んだ。
「優香、どこ行ってたの? もう帰るわよ。ほらまた…。指舐めるのよしなさいってば。」
優香は人差し指を抜き出すと、口を尖らせた。
「じゃお父さん、また来るわね。」
そう言って千鶴子が席を立つと、優香はすかさず母親の背後に隠れた。
「ああ、ありがとな。おい優香、じいちゃんにもういっぺん顔を見せてくれや。」
優香は千鶴子のスカートを掴み、顔を半分だけ出して祖父の顔を見た。
「ほら、おじいちゃんにバイバイは。
ああん、また指しゃぶってぇ…、この子ったらもうっ。」
「優香、もう小学一年生なんだから、指しゃぶりはおかしいぞ。」
すると優香はいきなり談話室を駆け出して行った。
「優香! こら、待ちなさいってば。あの子ったらもお…」
「ははは、まあまあ、そう怒りなさんな。」
明るく励ます父に、千鶴子は大きく溜息をもらした。
36歳の晩婚で、早く子供が欲しかったがなかなかできず、
諦めかけていた7年目にようやくできた娘、それが優香だ。
赤ん坊はミルクを少し飲んではすぐに眠ってしまう。
そのまま4時間も5時間も起きないので、ミルクは足りているものと思っていた。
なんて手のかからない子だろうと千鶴子も最初は喜んでいた。
ところが、訪問した保健婦に
「体重がちっとも増えていないじゃない」と叱られ愕然とする。
その日から育児は闘いに変わった。
寝ている子を無理やり起こし、飲みが弱いと鼻をつまんで無理やり飲み込ませたり、
飲みながら寝てしまいそうな時はほっぺたをつねってなんとか飲ませた。
げっぷを出そうと抱いた途端、無情にも飲ませたミルクは
口から噴水になってあふれ出し、辺りはびしょびしょ、元の木阿弥…。
「もぉイヤ!」
描いていた子育てとのギャップに、千鶴子はほとほと疲れ果てた。
優香は一才を過ぎても言葉が遅く、健診に連れていくのが怖かった。
だが、特に憂慮されるような問題はないと言われた。
それでも、千鶴子は漠然とした不安をいつも抱えていた。
夫の茂夫に相談しても、仕事が忙しいのかいつもイライラしていて、
「育児はお前に任せる」の一点張り。
親戚の子は可愛がるくせに自分の子には冷たい、
そんな外面ばかりいい夫が不満でならなかった。
優香が風邪を引いて夜中に咳き込んでも、
茂夫は心配するどころか「うるせー!」と怒鳴る始末。
さすがに「わざとじゃないんだから…」と千鶴子がなだめても、
茂夫の怒鳴り声は一向に収まらなかった。
優香は幼稚園の年長になっても相変わらず無口な子だったが、
ある日、紙粘土で作った花瓶を見せながら珍しく自分から話しかけてきた。
「今日先生にほめられたよ。」
「へぇ、なんて?」
「花瓶、できたのが一番遅かったけど、あきらめずに最後までよく頑張ったねって。」
「ばーか。それって一番ビリだったってことでしょ?
あんたは手先が不器用なのよ。ほんと、何やらせてもノロマなんだから。」
「でも、ほめてくれたよ。」
「それはね、ほめたんじゃないの。
待ちくたびれて、仕方なくそう言ったのよ。恥ずかしい。」
すると優香が持っていた花瓶を力任せに壁に投げつけ、白い破片が床に飛び散った。
「なにするのよ! 物に当たるんじゃないよ。」
千鶴子の言葉を背中で撥ねつけながら階段を駆け上る優香に、
ちょっと言い過ぎたかなと反省はしたものの、
夕飯までには機嫌が直るだろうと、それほど深刻には捉えなかった。
だが、それからというもの、優香は一層押し黙るようになった。
こっちから訊ねても、幼稚園の話しは二度としなくなった。
買い物や遊園地に誘っても、優香は黙って首を横に振り、ひとり人形遊びに耽る。
そんなことの繰り返しに、千鶴子もいつしか、娘のご機嫌取りをやめてしまった。
ある時、ふらっと立ち寄った夏祭りでヒヨコを買った。
ほんの気まぐれで買ったヒヨコだったが、優香に与えると驚くほど健気に可愛がった。
ところが数日後、「部屋が汚い。片づけろ。」と注意すると途端に癇癪を起し、
ヒヨコを乱暴に掴んで襖目がけて叩き付けた。
畳にぽとっと落ちたヒヨコは首がぐにゃりと折れ曲がり、息を吹き返すことはなかった。
その光景を思い出すたびに、千鶴子は今でも胸がずきんとするのだ。
指しゃぶりの癖も、その頃から目立ちだした気がする。
千鶴子はそんな娘が無性に心配だった。
このまま、来年小学校に上がったらきっと、
何か問題を起こして、教師から家庭での教育を疑われてしまう。
その心配を払拭したくて、ことあるごとにこう言い聞かせた。
「優香、そんなんじゃ、お友達に好かれないよ。
みんなに嫌われたくなかったら、とにかくニコニコしなさい。
笑うのよ、いい? しゃべんなくってもいいから。」
翌年、その言い聞かせの成否が問われる家庭訪問の日がついに来た。
千鶴子は100グラム6000円もする新茶を入れ、
手作りのイチゴ寒天を添えて男性教師をもてなした。
「いつも優香がお世話になっております。」と軽く会釈し、
冷やしておいたおしぼりをすすめる。
品の良いできた母親を装いつつ、内心は何を言われるかとビクビクだった。
「優香ちゃん、お勉強よくできてますよ。
この間、算数でグラフ作りをやったんですが、
優香ちゃんは棒グラフのてっぺんと目盛りを点線でつないで、
見やすい工夫をしてたんです。
だからお手本としてクラスのみんなにも見せてあげました。
音楽の時間もいつもお手本に歌ってもらってるんですよ。
まだ一年生なのに聖歌隊のような裏声で歌うので驚きました。
本当に天使のような歌声で。あんな歌い方、どこで覚えたんでしょうね。」
「さあ…。」
「お母さんが聖歌隊の歌を聞かせてらっしゃるんじゃ?」
「いいえ、一度も。」
「そうですか。じゃあ、自然に覚えたんでしょうか。すごいですね。」
「はあ。」
「ところで…、優香ちゃん、学校でのお話し、おうちでしてますか?」
「いいえ…、なにしろ無口な子で…。」
「うん…、実は学校でもすごくおとなしいんですよね、優香ちゃん。
昼休みも一人教室に残って読書をしているんです。
仲のいいお友達もいないようなので、世話好きな子に頼んで
遊びに誘ってもらったりもするんですが…。
優香ちゃんが誰かとおしゃべりしてるところ、
私、一度も見たことがないような気がするんです。
あまりにおとなしすぎて、かえって目立ってしまうというか…。
お母さん、優香ちゃんのご家庭での様子はいかがですか。」
千鶴子は膝の上で組み合わせた指をしばらく見つめていた。
「同じです…。ひとりで部屋にこもって人形遊びや読書ばかりしています。
あんな風に育ったのはたぶん私のせいでしょう。
私の育て方が悪かったんだと思います。
もっとみんなと仲良くするよう、私からよく言ってきかせますので。
ほんとに、愛想のない子ですみません。」
「いえ、優香ちゃん、決して悪い子ではないんですよ。ただちょっと…」
「子供らしくないですよね、あの子。可愛げがないんです。」
「そんなことは…」
(先生もあの子の不愛想振りにはお手上げよね。
親の私ですら不気味なんだもの。
でもどうすりゃいいんだろう。
やっぱり、精神科で診てもらったほうがいいのかなぁ…。
ひょっとして、軽い自閉症なんじゃないかしら…。
いっそ、そう診断が下ればどんなにほっとすることか。
それなら私のせいじゃないんだから。)
「冷めないうちにどうぞ。」
「はあ。いただきます。」
気まずい空気をお茶で濁す。
「あの子、指しゃぶりの癖がちっとも治らなくて…」
「え? そうなんですか? 学校ではしてないですよ。」
「本当ですか?」
「ええ。見たことありませんけど。」
(どういうことだろう。
あんなにしつこく言っても治らない指しゃぶりを、
学校ではしてないなんて…。)
「学校では周りにお友達がいるので、恥ずかしいのかもしれませんね。
きっと自分でも治そうと思ってるんでしょう。
わかってるんですよ、ちゃんと。」
教師の言葉に千鶴子の目元が渋く笑った。
その日の夜、帰宅した夫に家庭訪問の様子を報告すると、
「ふーん、あいつ勉強はできるんだな。」
そう言いながらシャツと靴下を脱ぎ捨てる茂夫。
だが、友達がいないらしいと聞くと、
「そりゃそうだろ、あの仏頂面じゃ誰も寄り付きゃしないよ。」と鼻で笑った。
「ねえ、一回精神科で診てもらおうかなぁ。」
「大げさだなぁ。お前がちゃんと躾けてやればいいんだ。」
「あなたもたまには、あの子とゆっくり話してやってよ。」
「話すってなにを…。」
「だから…、学校生活のこととか、友達作りの大切さとか…」
「そういうことはお前がやってくれ。俺は毎日過酷な職場でクタクタなんだ。」
(この人には何を言っても無駄ね。これじゃ、父親不在も同然だわ。)
汗臭いワイシャツと靴下を持ったまま、千鶴子は洗濯槽に並ぶ穴を見つめた。
茂夫は大手電機メーカーの営業部に勤務、
先月部長補佐に昇進してからは益々帰りが遅くなった。
不況の割に給料は良く、生活していくのに
十分すぎる程の額を貰っているので文句は言えないが。
そうは言っても、優香があんな風になった責任の一端は夫にもあると思っている。
もう少し夫が話しを聞いてくれたら、私をフォローしてくれたら、
心に余裕ができて優香にもっと優しくなれるのにと。
次の日曜日、夫は朝から接待ゴルフで留守だった。
千鶴子は座布団に座って、優香の体操着に運動会のゼッケンをつけ始めた。
ミシンの方が早いが、手縫いでチクチク刺しているほうが、
なんとなく気持ちが落ち着く。
それに、昔、刺しゅうを習っていたから裁縫には自信がある。
縫い目のシワを丁寧に伸ばし、玉結びの淵をプチッと噛み切る。
久しぶりの針仕事だったが、満足のいく出来栄えに笑みがこぼれた。
「優香、ママ喉渇いちゃった。砂糖水作って持ってきてくれない?」
ちょうどキッチンにいた優香に声をかけた。
返事はなかったが、しばらく待っていると優香が水の入った花模様のグラスを持ってきた。
「ありがとう。」
受け取ったグラスを傾けた瞬間、千鶴子の口からビュッと水が吹き出した。
手の甲で口を拭いて慌てて立ち上がり、
「なにこれ! 塩水じゃないの! わざとやったんでしょ!」
烈火のごとく優香を怒鳴りつけた。
優香は指を銜えながら素早く二階へ上がっていった。
千鶴子はただただ悔しかった。
どうして我が子にこんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
初めての子で、子育ては確かに下手だったかも知れない。
でも、優香だって生まれた時から普通ではなかった。
聞いた話では、生まれる子の何割かは優香のように寝てばかりいる新生児もいるらしい。
きっと、他にも苦労して育てている親もいるのだろう。
だが、これほど孤軍奮闘しても報われない子育てがあるだろうか。
この思いをどこへ吐き出したらよいのだ。
千鶴子は畳に落ちたグラスを力なく拾い上げ、
湿った足跡をつけながらキッチンへと歩いた。
テーブルの上に黒いお椀が出ている。
そういえばさっき、優香がここに座っていた。
お椀に指を入れて何かしていたような…。
見るとお椀の水に何かが浮いている。
顔を近づけた千鶴子が「ぎゃっ!」と飛び跳ねた。
水面に浮いていたのは無数の生きたアリだった。
底には沈んで動かない大量のアリも見える。
千鶴子の顔にみるみる恐怖の色が浮かんだ。
「まさか…」
手に持ったグラスを恐る恐る見ると、底の方に黒いアリが数匹貼りついているのが見えた。
「いやだーーー!!」
グラスは千鶴子の手からすべり落ち、スローモーションのように床の上で砕け散る。
遠くでガシャンと、こもった音がした。だが、そこから後の記憶がない。
気が付くと、千鶴子は床に倒れていた。
ザラッとした感触がして、両手をゆっくり目の前に持ち上げると、
手の甲から腕にかけてガラスの破片がいくつも突き刺さり、
血がうっすらと滲んでいた。
千鶴子は再びだらんと腕を落とした。
チリチリとした痛みが断続的に攻めてくる。
天井のシミをじっと見ているとだんだんと形が変化していく。
やがてそれは見開いた二つの目玉となって、こちらを見下ろしてきた。
「悪魔…、あの子は悪魔だ…」
目尻から流れ出る涙。一瞬ぼやけた二つの目玉が、再び天井からするどい視線を落とす。
「消えろ、消えろ、お前なんか消えろ…」
天井に向けて吐き出す声は徐々に小さくなり、やがて唇の動きだけが残った。
彼女が呻き声と共に消し去りたかったのは天井のシミか、憎らしい娘か。
それとも、自分自身だったのだろうか…。
和室では塗れた体操着がくしゃっとへたれ、
ゼッケンの数字から滲み出たインクは、余白をじわじわと侵略していった。
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