左胸
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第三章
「こんなに細やかなんて」
「細やかね」
「そんな感じですよね」
「繊細って言うのよ」
この演奏はとだ、夏子は沙織に微笑んで話した。
「この演奏は」
「そうなんですか」
「そう、繊細って言うの」
「それが池田さんの演奏なんですね」
「それが出来る様になるのは」
まさにというのだ。
「弾けばいいのよ」
「それじゃあ」
「弾いていくわね」
「池田さんみたいになりたいです」
沙織はその左胸に手を当てつつ答えた。
「ですから」
「それならね」
「練習します、そして池田さんみたいになります」
こうしたことを話したのだった、そして。
沙織はずっと池田を見てだ、顔を赤らめさせて。
左胸の鼓動を高まらさせていた、そうした日々を過ごしていて。
夏子にだ、レッスンの後でピアノに座ったままの状況で尋ねた。
「あの、池田さんはお付き合いしている人は」
「ええと、そうした人は」
「いないですか?」
「聞いたことがないわ」
「それなら」
そう聞いてだ、沙織はすぐに言った。
「バレンタインにです」
「チョコレートをなのね」
「はい、あげたいんですが」
「そう、それはいいわね」
「いいですか」
「池田君は十六歳、優木さんは十歳」
「歳、離れてますよね」
「あら、私主人より八歳下よ」
年齢差を気にした沙織に笑って返した。
「大人になれば気にならないものよ」
「そうなんですか」
「そうよ、チョコレートをあげたいのなら」
「お渡ししていいんですね」
「ええ、優木さんの好きにしたらいいわ」
そのことはというのだ。
「自由にね」
「わかりました、それじゃあ。ただ」
「ただ?」
「本当にあの人のことを思うと」
池田、彼のことをというのだ。
「熱くなったり苦しくなったり」
「そうなるのね」
「不思議ですよね」
「それも不思議じゃないのよ」
夏子は戸惑いも見せる沙織にこうも言った。
「そしてそのこともね」
「後で、ですか」
「優木さんもわかるわ」
「そうなんですね」
「そう、だからね」
それでというのだ。
「今はその不思議な感じを覚えておいてね」
「覚えておくんですか」
「そうすればいいから」
「それはどうしてですか?」
「とても素晴らしいことだからよ」
「素晴らしいんですか」
「優木さんにとってね」
沙織を見て言うのだった。
「だからね」
「この感じをですか」
「覚えていてね、いいわね」
「わかりました」
沙織は何がどういうことかわからないまま夏子の言葉に頷いた、そしてバレンタインの時にだった。コンクールで優勝しても謙虚にレッスンを続ける池田に。
バレンタインに自分がレッスンを終えて彼がレッスンに入るその時にだ、買ったチョコレートを。
彼に差し出してだ、必死の声で言った。
「あの、これ」
「チョコレート?」
「はい、貰って下さい」
「うん、わかったよ」
優しい声でだ、池田は沙織に応えた。
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