銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百三十八話 再起へ
宇宙暦796年10月 7日 ハイネセン アレックス・キャゼルヌ
「もう、分かったでしょう。私はヴァレンシュタイン元帥に負けたんです。これ以上無いほど完璧に。この敗戦の責任は私にあるんです……」
そう言うとヤンは顔を隠すかのように俯いて両手で頭を抱えた。俺もラップもアッテンボローも声が出ない。あのイゼルローン要塞攻略戦にヴァレンシュタイン元帥失脚などという隠れた狙いがあったなど知らなかった。
ヤンの言う事が本当なら、いや本当なのだろうが、ヴァレンシュタインとヤンはイゼルローン要塞攻略戦からシャンタウ星域の会戦まで我々の見えないところで戦ってきた事になる。
シャンタウ星域の会戦は、いやそこに行くまでの経緯はヤンにとって地獄だっただろう。ヤンにはヴァレンシュタインの狙いが分かっていた。しかし何も出来ずに敗戦を迎えざるをえなかった。イゼルローンの勝利が勝利ではないという事を嫌というほど思い知らされたのだ。
「ヤン、お前はどうしたいんだ?」
俺の問いにヤンは顔を上げると不思議そうにこちらを見た。
「どうしたい、ですか?」
「そうだ。軍を辞めたいのか?」
ヤンは少しの間、じっと俺を見た。そして首を振って答えた、呟くような声で。
「無理です。辞める事は出来ません。私はそんなに強くない……」
強くない……。
「私の所為で一千万人死んだんです。軍を辞めて、それを忘れて生きていけるほど私は強くありません……」
搾り出すような声だった。苦しんで苦しんで苦しんだ末に出た言葉だ。忘れて生きていけるほど強くない。だが、それを背負って生きていけるほど強くも無い。そのことがヤンを酒に逃避させている。
ラップもアッテンボローも痛ましいものを見るかのようにヤンを見ている。おそらく俺も同じような眼でヤンを見ているのだろう。やりきれない想いが胸に満ちてきた。何故こんなことになったのか……。
「ヤン、忘れる事が出来ないなら逃げる事は出来ないぞ。それを乗り越えて行くしかない。分かるな」
「キャゼルヌ先輩……」
俺は酷い事を言っているのだろう。ヤンは苦痛に顔を歪めている。ラップもアッテンボローも俺を非難するような眼で見ているだろう。しかし、これを言うのは俺の役目だ。全く、年長者というのは損な役ばかりだ。
「シトレ本部長がお前に会いたがっている。そろそろ後任の本部長が決まるからな。辞める前にお前に会いたいそうだ。明日十時に本部長室に来てくれと言っている」
「本部長が……ですか」
「そうだ。本部長がだ。ヤン、今日はユリアンの作った食事を食べてゆっくり眠るんだ。本部長にそんな情けない顔を見せるな。辞めていく人に辛い思いをさせるんじゃない、いいな」
俺はまだ此処に残りたそうなラップ、アッテンボローを促し、居間を出た。ユリアンが奥から出て来る。
「ユリアン、奴にちゃんと食事をさせてくれ。それと明日は十時に本部長室へ出頭だからな、遅刻させるなよ」
「はい」
嬉しそうに答えるユリアンをみながら玄関に向かった。まったく、世話の焼ける奴だ。俺はお前の保護者じゃないぞ。大体なんで少将の俺が中将のお前の心配をしなければならんのだ。まったく冗談じゃない……。
宇宙暦796年10月 8日 ハイネセン 統合作戦本部 ヤン・ウェンリー
キャゼルヌ先輩から本部長室へ来るように言われた。辞める前に会いたいということだったが、正直気が重い。出兵前の作戦会議の後に本部長と話した言葉を嫌でも思い出す。
~ヤン、必ず生きて帰ってきてくれ。ヴァレンシュタイン司令長官に対抗できるのは君しかいない。少なくとも私には君以外思いつかない~。
~君には軍の最高地位に就いて貰いたいと思っている。そうなれば彼に対抗するだけの権限をもつことが出来る。今のままでは駄目だ。権限が無い~。
~私は君が望まない事を言う。出世してくれ、そして軍の最高地位についてこの国を守ってくれ。帝国から、そして軍内部の馬鹿者達から~。
本部長の言ったとおり、何とか帰ってきた。一千万人以上を見殺しにして帰ってきた。だがそれだけだ。
味方を見殺しにした私が出世する事は無いだろうし、最高地位に就くことも無いだろう。ヴァレンシュタインに対抗するなど夢のまた夢だ。
本部長室に入ると驚いたことに其処にはビュコック、ボロディン、ウランフ提督が居た。三人ともソファーに座っている。
「ヤン中将、よく来てくれた」
シトレ本部長が執務机から太く響く声で話しかけてきた。本部長は思ったより元気そうだ。表情も暗くない、いや、明るいといって良いだろう、笑みすら浮かべている。
「どうやら揃ったようだ。これから有る人に会うことになっている。貴官達も付き合ってくれ」
本部長はそう言うと席を立ちドアに向かって歩き始めた。ソファーの三人が席を立ち本部長の後を追う。三人とも訝しげな表情をしている。誰と会うのかわからないようだ。私も彼らの後を追った。
本部長が向かったのは応接室だった。通常この部屋は滅多に使われることは無い。大抵の来客、この場合は政治家や企業の有力者だが、彼らは応接室よりも本部長室を始めとする各部長室に通される事を好むからだ。
応接室には誰も居なかった。結構広い部屋で十人分の椅子が用意されている。見るからに高級そうな椅子だ。壁には絵も飾ってあるし置いてある花瓶も高そうだ。父なら喜んで磨き始めるだろう。
本部長は人が居ない事を気にした様子も無く椅子に座った。私達もそれぞれ適当に椅子に座る。
「本部長閣下、一体どなたが此処に来るのです」
ウランフ提督の言葉にシトレ本部長は愉快そうな口調で答えた。
「まあ、待ちたまえ。もう直ぐ分かる。きっと貴官らは驚くだろう。それだけは保証するよ」
本部長の言葉に私はビュコック提督達と顔を見合わせた。奇妙な沈黙が落ちた。不愉快ではないのだが落ち着かない。本部長を除いて私達は時折顔を見合わせて誰が来るのかと不審を募らせた。
五分ほども待っただろうか、ドアをノックする音がしてドアが開いた。現れたのはグリーンヒル中将だった。どういうことだ? グリーンヒル中将なら驚くようなことではない。そう思ったとき、さらにその後ろからスーツ姿の男性が部屋から入ってきた。
「やあ、待たせたかな、シトレ」
「少し待ったよ。政治家というのは人を待たせるのが仕事らしいな、レベロ」
「レベロ委員長!」
レベロ財政委員長だった。シトレ本部長とは幼馴染のはずだ。会わせたいのはレベロ委員長の事かと思ったとき、その後ろからさらに一人の男が現れた。
「やあ、待たせたようだね、君たち」
「!」
にこやかに笑いながら入ってきたのはトリューニヒト暫定評議会議長だった。
グリーンヒル中将、レベロ委員長、トリューニヒト議長がそれぞれ椅子に座る。本部長が会わせたいといっていたのはこの二人の事か。
シャンタウ星域の敗戦後、サンフォード評議会議長を首班とする最高評議会は辞任した。現在ではヨブ・トリューニヒトが暫定評議会議長として政権を担い、ジョアン・レベロは彼の下で財政委員長を務めている。
自分の表情が強張るのが分かった。何故此処にトリューニヒトが? 彼は主戦派でドーソン宇宙艦隊司令長官達の後ろ盾だったはずだ。言ってみれば私達とはもっとも縁遠い所に居る人物だ。その彼がどちらかと言えば和平派ともいえるレベロ委員長と何故此処に?
「どうやら揃ったようだ。そろそろ始めようと思うが?」
「そうだな、そうしよう」
シトレ本部長の言葉にレベロ委員長が答えた。
「知っての通り、私は今回の敗戦の責任を取って辞表を出した。後任者が決まるまでの間、統合作戦本部長として敗戦の残務整理を行っているが、ようやく後任者が決まった」
次期統合作戦本部長が決まった、私達が此処に居て話を聞いているということはこの中から選ばれるという事だろうか?
「次期統合作戦本部長はボロディン提督にお願いする事になった。宇宙艦隊司令長官にはビュコック提督が選出され、ウランフ提督は副司令長官としてビュコック提督を補佐する」
「!」
「ヤン中将、貴官は帝国軍の追撃から味方を守った功により大将に昇進しイゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊司令官になる。グリーンヒル中将も同様だ、大将に昇進し宇宙艦隊総参謀長の任に就く」
「待ってください、本部長。我々が軍の要職に就くということですが、そんなことが許されるのですか? 味方を置き去りにして逃げ帰ってきたと言われているのです、ご存知でしょう?」
「だからこそ貴官たちは軍の要職に就かねばならんのだよ、ウランフ提督。貴官達の取った行動は正しかったのだ、それを眼に見える形で証明しなければならん……」
「……」
「貴官達への批判が何故起きているか、考えてみた事があるかね? あれは意図的に行なわれたものだ、軍の主戦派達の手によってな」
「軍の主戦派? どういうことですかな、本部長?」
ビュコック提督が訝しげな声を出した。私も同じ思いだ、軍の主戦派? あれだけの大敗を喫しながら未だ何かしようというのだろうか? 思わずトリューニヒトに視線が動く。この男がまた何か動いているのか……。
「主戦派と言っても色々と有るのです、ビュコック提督。今回の遠征を起したのは主として宇宙艦隊司令部を中心とした連中だった。だが軍には他にも主戦派と呼ばれる連中が居る」
「……」
「宇宙艦隊司令部を中心とした主戦派は今回の敗戦によって著しくその勢力を減じた。しかしそれ以外の連中達が軍の要職を貴官達が占めることを恐れ誹謗している」
「……」
おぞましい話だった。あれだけの敗戦をして、それでも足りずに戦争をしようというのだろうか。それともただ権力が欲しいというのだろうか。
「なるほど、本部長のお話は判りました。ですがそれならばなおさら我々が軍のトップに就く、そのような事が許されるのですか? 小官には今一つ信じられんのですが」
そう言うとビュコック提督はトリューニヒトの方へ顔を向けた。自然と皆の視線がトリューニヒトに集中するが、トリューニヒトはごく平然と座っている。小面憎いほどだ。
ビュコック提督の心配はもっともだ。主戦派が動いているというなら、その黒幕であるトリューニヒトが関与していないはずは無い。つまり彼はこの人事に賛成していないという事だ。評議会議長が賛成しない人事など有り得ない。
私達の視線が集中する中、トリューニヒトが微かに苦笑を浮かべながら口を開いた。
「君達が何を心配しているか、私には分かる。だがその心配は無用だ、私がこの人事に反対する事は無い。私達はこれから協力し合って同盟を守っていく事になるだろう」
何を言っているのだ、この男は。協力し合って同盟を守る? 私に新しい番犬にでもなれと言っているのか? 冗談じゃない、そんな事はまっぴらだ。私はヨブ・トリューニヒトが宇宙で一番嫌いなんだ。私は思わず目の前のトリューニヒトを睨んだ。本部長は何故こんな男をここへ呼んだのだ? 私にはさっぱり分からなかった……。
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