小才子アルフ~悪魔のようなあいつの一生~
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第七話 仮面舞踏会だよミューゼル退治 その③
前書き
グリルパルツァー幼年学校二年生。そして貴族一年生。順調に育ちかつミューゼル潰し計画を進めているようです。
マールバッハ家で認められ始めた彼が幼年学校で直面することになった展開とは?
それは次回ぐらいで明らかになる予定です。
「てええええーーー!!」
数分間に及ぶ対峙の後、裂帛の気合とともに撃ち込んだ訓練用の剣は相手の受けに見事に迎撃されて跳ね飛ばされ、くるくると回転しながら床に落下した。
「グリルパルツァー候補生!」
剣を突きつけられた俺に教官の叱咤の声が飛ぶ。
「はい!」
「対峙から攻撃に移る時はもっと素早く決断し、大胆に動くのだ。体が恐れているぞ。恐怖をねじ伏せろ」
半ばは反発を感じつつも、俺の理性の部分は教官の指導が正しいと理解していた。
人間は精神のみで成り立つものではなく、精神は肉体から多大な影響を受ける。当然だ。精神は肉体を駆動するプログラムの一部、いわば運用ソフトである。プログラムの根幹いわば、『肉体の意志』『遺伝子の意志』に支配される、影響されることは大いにある。
一年前ミューゼル家潰しの陰謀の第一歩を踏み出そうとしてこの恐るべき事実につまづかされた時から、俺の頭脳から『肉体の意志』『遺伝子の意志』を軽んじる考えは消えていた。
『だんだん原作のグリルパルツァーに近づいてきている』
もっと精神力を鍛えて、肉体をねじ伏せなければ。第二次ランテマリオ会戦においてミッターマイヤーの攻勢を引きこんで戦線を瓦解させるプランを実行する機会を逃した原因、小才子の小才子たる所以の臆病さが芽吹き始めているのを自覚し、俺は内心舌打ちした。このままでは、ラインハルトを潰すどころか、マールバッハ一門の一員としても芽が出ないまま終わってしまう。
『頼むぜ大帝陛下、俺があんたに近づけるように見守っててくれよ…』
教官に、そしてルドルフ大帝の肖像に心底の底から頭を下げて列に戻りながら、俺は自主訓練の瞑想の時間をどれだけ増やすべきかを、そして増やせるかを検討していた。
帝国暦四七五年。
俺は一介の幼年学校生徒としてまずい食事と厳しい訓練に耐えて学んでいる。
主観的には。
そう、主観的には。
ミューゼル潰し計画を『肉体の意志』この場合は若さと衝動に粉砕されてから二年生の春の休暇を終えて寮に戻るまでは、確かにそうだった。表向きの自分の計画のために騎士会館から借り出した数人の『大帝の騎士』の人物伝の写本と家宰様にいただいた紹介状、マールバッハ家とロイエンタール家の紋章の入ったレターセットを鞄に入れて寮に戻ったときも、扱いに変化はなかった。ホルスト・ハーネルという将来殺してしまいそうな名前の平民のルームメイトと同室で寝起きし、幼年学校のカリキュラム、軍事科目──座学はもちろん素手での格闘技、戦斧術や剣術、弩弓術をはじめとする白兵戦技や射撃術そしてフットボールなど普通科の体育には特に力を注いだ。もっとも、適度に手を抜くこと門閥貴族の子弟に勝ちを譲ることは忘れてはいない。幼年学校はいわば軍事教育も行う貴族学校であり、帝国騎士や平民の子弟は門閥貴族の子弟のおまけで入れてもらえているにすぎず、目立ち過ぎて目をつけられれば災いを招く。何よりうまく負けてやればコネ作りに役に立つ──普通科目も、原作のグリルパルツァーが修めていた地質学などの選択制の高等科目も、そして様々な『貴族のたしなみ』といった勉学と訓練に精励していた。
ブルーノやホルストと時にまずい食事と門閥貴族の生徒の横暴、教官の権高さの悪口を言い、時に喧嘩をしたりしながら何の特別待遇も受けることなく、野望以外は、いや野望込みでも汗と埃にまみれて学生生活を送っていたのだ。
が。
二年生の春の休暇を終えて幼年学校に戻ると、俺の世界は一変していた。
一般候補生用の二人部屋の半分を占めていた俺の荷物は門閥貴族の子弟用の豪華な家具調度とメイドつきの特別室に全て移されていた。
「…誰に話を通してもらったんだ、アルフ?俺もあやかりたいぜ」
「俺が知るかよ」
ホルストに羨望と嫉妬と敵意が三分の一ずつ混じった視線を投げつけられながら部屋を移ると、すぐにその理由は判明した。寮監と監督生の顔に答えははっきりと書かれていた。構築途中の人脈を断ち切られてはたまらないのでフォン・シェーンコップやフォン・ワイツからの手紙は鞄の奥にしまっていたのだが、長い時間列車に揺られて警戒心が薄れて間抜けをやらかしたか、それともあの悪魔の仕業か。どうやら待機時間の所持品検査か何かで見つかったらしい。皇帝陛下の第一の寵妃皇妃シュザンナ陛下の執事やリヒテンラーデ一門の総帥、官界の黒幕になりつつあるリヒテンラーデ侯爵の信頼する秘書官の名前が見つかれば、当然そうなるだろう。
マールバッハ伯爵の引き立てで出世した家の子、さらに皇妃陛下やリヒテンラーデ侯爵と繋がりがあると思われれば、たかだか中堅どころの男爵の校長やその下の教官たちには平の帝国騎士扱いなんて怖くてできはしない。
実際にはまだ数回手紙のやり取りをかわしただけ、これから本格的に文通し、うまくいけば実際に会って教えを受けようというところなのだが、門閥のマールバッハ家と実力者のロイエンタール伯爵という保証人がいる以上彼らにとっては実用レベルのコネが『すでにある』のと同じなのだろう。
保証人があり、なおかつ数年後には皇后に冊立されることを約束された皇妃シュザンナの執事にリヒテンラーデ侯爵の秘書官と音信のやりとりをしている。貴族社会の常識からいけば、これだけでも将来の地位は約束されたも同然だ。
うまく立ち回れば軍での地位だけでなく、男爵子爵ぐらいの爵位をいただくことすら可能かもしれない。
うまくいったといえばいった、労せずしてコネ作りミッション達成、なのだろうが、俺は何となく釈然としない気分だった。
数週間後にこの厚遇のもう一つの理由、溜息をつきたくなるような理由を知るまでは。
いきなり情けない話をするのもなんなので、ここでこの数年帝国で起こった大事件そして俺の周囲に起こった事件、おそらくこの厚遇の発端となったであろう事件について語ろう。
帝国暦四七〇年代中期最大の大事件は、なんといってもベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナの懐妊と男子出生であろう。
帝国暦四七四年初春、家宰様がミューゼル家に援助を申し出て断られたその同じ日に、皇帝陛下の寵妃ベーネミュンデ侯爵夫人が男子を出生した。
男子つまり皇子である。
皇子の誕生は当然のことながら、宮廷の勢力地図を激変させることとなる。アレクサンデルと名付けられた皇子が命名式を終えるやシュザンナは勅令をもって侯爵夫人から皇妃に進められ、カイザーリンと尊称され後宮において皇后陛下に次ぐ地位を認められることとなった。そして、権力の中枢は皇太子殿下と皇后陛下所生の皇女たちを妻とする門閥貴族の当主たちから皇妃陛下を取り巻く貴族たちへとゆっくりと移動し始めた。
この好機に動いたのがクロプシュトック侯爵ウィルヘルムである。
かつて皇帝陛下の弟であるクレメンツ大公を支持していた経緯から逼塞させられていたクロプシュトック侯は皇子の出生を復権の好機ととらえた。
秘蔵の名画を皇妃陛下を通じて皇帝陛下に献上し、皇妃陛下本人や側近たちに莫大な贈り物をして社交界への復帰を懇願した。かつて自分を嘲り罵った大貴族が地にすりつくほどに頭を低くして懇願する姿は皇帝陛下に大いに溜飲を下げさせたのであろう。寵愛する皇妃の口添えがあったとあればなおさらである。数週間を待たずして、クロプシュトック侯の館には皇帝陛下主催の舞踏会への招待状が届くこととなった。
数十年にわたる逼塞を解かれて社交界に復帰を果たした侯爵が皇妃陛下、ひいては皇帝陛下の忠臣となったことは解説を要さない。
これだけでも大事件なのだがさらに慶事は続き、宮廷は踊る。
皇妃陛下がその後数ヵ月を経ずして懐妊し、今年の初めに誕生と同時にベーネミュンデ侯爵マクシミリアンとなった息子を白磁の腕に抱いたとき、宮廷の勢力図は目に見えて変わった。
皇妃陛下との間の三人目の息子にラインハルトと名付けることを約束したその床で、皇帝陛下は能力はあるが何かと意に背くことの多い皇太子殿下を廃しアレクサンデル大公を新たな皇太子に立てることをも皇妃陛下に確約したのである。
専制国家において、漠然としていた君主の意志が明確になるということの意味は良くも悪くも極めて大きい。
翌日から皇妃陛下と幼い皇子殿下のもとには拝謁を求める者が引きもきらず、未だ次代の皇帝であるはずの皇太子殿下は急速に忘れられた存在となっていった。
忘れ去られる一方で皇帝陛下と側近たちを発生源とする有形無形の圧力を加えられた皇太子殿下が遠いか近いか、いずれにせよ未来である出来事を前倒しに起こそうと企てるに至るのに、時間はかからなかった。そして、遠い未来の出来事のはずだった己の最期を手元に引き寄せてしまうのにも。
皇太子が同志を募って最初の会合を開いた三日後、クロプシュトック侯が逼塞の間に貴族社会の影の部分のみならず帝国の日の当らない領域の多くの部分に張り巡らせた根から吸い上げた一滴の水滴が侯爵の手元に届いた時、勝敗は決した。
『皇太子殿下の手の者が鍛冶屋に短剣を注文した』
クロプシュトック家の下僕の一人が懇意にしている靴磨きの乞食の仲間から乞食、乞食から下僕、下僕から従者、従者から執事、執事から家令と段階を経て精度を増しつつ侯爵の下に届いた、常日頃であれば無視しうる情報は即座に皇帝陛下のもとにもたらされると、時を移すことなく勅書の姿を取った死神の鎌となって皇太子殿下の心臓に突き刺さった。
『勅命である。ルードヴィヒ殿下に死を賜る。格別のご慈愛により家族の礼をもって、その葬礼をなすであろう』
皇太子の地位も皇族の身分も否定されたルードヴィヒ元皇太子がクロプシュトック侯や義絶を宣言して連座を逃れた義弟二人、つまりブラウンシュバイク公とリッテンハイム侯、そして皇妃陛下の代理人フォン・シェーンコップらの立ち合い人が見守る中自裁を遂げ、支持者が死刑台や流刑地に送られ宮廷の内外に吹き荒れた嵐が収まると、すぐさま彼らの座っていた空席の補充が行われた。
このとき復活したのはクロプシュトック侯の引き立て──背後に二人の娘婿を牽制したい皇帝陛下の意志があったことはまず間違いないだろう──もあって旧クレメンツ派の貴族が多かった。
未だ復活途上であったマールバッハ家にもポストが回ってきた。お館様はまだ士官学校の学生なので、隠居していた──正確には、させられていた──先代様が学芸省の学術審議会の参事官になった。
幼年学校の春の休暇の初日のことである。
学術審議会参事官、つまるところ名誉職であり、実権を伴うポストではない。
『小遣いぐらい稼がせてやるばう、ということだばう』
『かっこつける見せ金ぐらいは持たせてやるがう、ということだがう』
『俺様も優しいねえ。貴族失格のどらぼっちゃんに雛壇に大人しく並んでりゃ小銭が入る仕事を紹介してやるんだから』
翌日休暇最初の日の屋敷でいつの間にか夕食の席に座ってフリカッセを貪り食らっていた悪魔とゆかいなしもべのハスキーたち──『偽名を名乗る作者分身 ヴィクトール・フォン・フランケンシュタイン』『ゆかいなしもべ バウ』『ゆかいなしもべ ガウ』とかたや明らかに偽名、かたや手抜き以外の何物でもない名前の字幕テロップ付きで出現しやがった──、夕食の雰囲気をぶち壊しにしてくれたお邪魔虫どもに解説してもらうまでもなく、先代様への隠居料代わりだということは俺にも分かった。
そしてマールバッハ家が政界への復活を約束されたということも。
放蕩の果てに一門の総意を突きつけられ隠居を強制された先代様にも残りの一生を保証するささやかな利権が回ってきたということは、マールバッハ家が不出来な一族にまで配慮するに足る存在、つまり権力に近い存在になったということを意味する。
『出世の手蔓の料金の請求は当分先にしといてやるぜぇ?出世してから取ったほうがガッポリもらえそうだからなあ?んははははは』
そしてこの先波乱が起こる、いやこの悪魔が起こすであろうことも、いつものように変身すればいいものをわざとらしくボストンフレームの眼鏡を外し、後ろを向いて蛍光色のカラーコンタクトを入れてから凄むと三流以下の大根役者のような演技をしている悪魔に説明してもらう必要もなく理解できた。
『へいへいおぼっふぇふれはあ!ははははははは』
『見苦しい真似するなばう』
『セリフも間違えてるがう』
早くもというか早速というか、嘲笑う時用の前歯が牙だらけになった入れ歯を装着しそこね、さらに外しそこねてもごもごと言っていた悪魔が直立したハスキーたちに蹴飛ばされながら退場した二時間後から事件が起これば、分からない方がおかしい。
『…アリア・ライチェの死は自身の優秀性を否定されることをひたすらに恐れ、部隊に発生した問題を報告、対処することを怠った指揮官としての資質に欠ける行動を遠因感情を抑制する理性の欠如を直接の原因とする。婦人を士官として登用する叛徒の軍事制度の誤りとルドルフ大帝陛下の定めた社会秩序の正しさを証明する出来事であり、今後婦人を後方、非戦闘分野の士官相当官でない正規の士官、ひいては戦闘指揮官として登用することは実際的でないのみならず祖法にもとる反逆行為といえよう…』
『アルフレット、忙しいところをすまない』
「なんだと、すぐに参上すると申し上げてくれ」
途中から急激にまずくなった食事を終え、私室で休暇中の課題とアリア・ライチェ名誉大尉の事故死と試験的に行われていた人事制度の中止、地上軍に配備される新型攻撃空母のコンペをめぐる汚職など現在進行中の様々な事件についての情報収集、見解の執筆に励んでいた俺の手は耳に父上の大声とマトリクス越しのブルーノの声が飛び込んできたことによって急停止した。
「なに、かまわないさ。君と俺の仲だ」
まず私室でブルーノから、続いて応接室で、地上車の車内で父上から飛び込んできた知らせは権力の横暴と出世のチャンスを同時に感じさせる内容だった。
「マールバッハ家の荘園産の蘭の花が皇妃陛下のサロンで話題になっている」
リヒテンラーデ侯の秘書官ワイツとも懇意である皇妃陛下付きの侍従長ブレンターノ男爵がお館様の名代として参内した家宰様に世間話を装って漏らしたという情報は俺の目から見ても分かる、マールバッハ一門を試す試験だった。言葉通り、蘭の鉢植え一つ献上して済ませられるなどと考えれば、訪れかけた春は再び冬に逆戻りするだろう。
皇妃陛下の本意は鉢植えを見たいというだけのことかもしれないが、貴族社会の常識に照らせば、『マールバッハ家の荘園の一つを皇妃陛下がご所望されている』と解釈する、遠回しにでも命じられる前に自発的に献上するのが正解だということを約十年の郎党教育で俺は教わっていた。
献上するのもただ献上するだけでは気が利かないと見なされる。
紫色の蘭の花を所望されれば、金色の蘭の花つまり献上金を添えて献上するのは当然であり、紫色の蘭を愛でる環境も手入れする道具一式も献上する側が整えてしかるべきなのだ。手入れをする道具一式とはつまり荘園に奉仕する農奴から庭師、園芸の専門家といった物を言う道具である。
前よりも美しくして献上し、献上した後も最高の状態が続くように手配する。ここまで遺漏なく整えて初めて合格点なのだ。最高の状態が続くように手配するというのが皇妃陛下の側近たちがマールバッハ家への嫉妬心から荘園を荒らしたりしないよう、側近たちにも十分な献金をするという意味であることは言うまでもない。
「荘園を献上することは問題ない。残った荘園だけでも、お家がたちゆかなくなるということはない。だが問題は人だ」
お屋敷へと向かう地上車の車内で心当たりを当たりながら、お屋敷の長い廊下を早足で歩きながら、父上はかなり真剣に悩んでいる様子だった。ヘスラーに出迎えられ家宰様の執務室でお茶を勧められても、表情が緩むことはなかった。
それも当然と言えば当然である。
父上は商売上、立場上必要な教養として園芸の知識も身につけていることはいる。だが専門の庭師ではないし園芸の専門家というわけでもない。身につけた知識も、家宰様が最近マールバッハ家の三女である奥方様のために庭園の造営に凝っているという情報を得てから学んだ老いの学問付け焼刃という水準。庭師や園芸の愛好家の知り合いもなんとか格好がつく水準の者とそれなりに付き合っているだけで、皇妃陛下に献上する荘園に仕えることができそうな技量、資格の持ち主と知己はなかった。
「伯父上の領地まで探させてはいるが、来年の開花時期までに人員を整えるのは難しそうだ」
園芸に疎いのはブルーノの父上『銀の拍車の騎士』──『銀の拍車の騎士』とは帝国騎士として一人前とされる格で、わずかながら荘園も与えられ旦那様ではなくご領主様、お館様と呼ばれる資格を持つ──フォン・クナップシュタインも同じだった。マールバッハ一門が繁栄を取り戻すまでは本家のご当主とともに軍人として宇宙軍に奉職していた根っからの軍官僚、言っては悪いが無粋で真面目なフォン・クナップシュタインには父上以上に、典雅な趣味ご令嬢御婦人の領域、そこで働く平民には縁がない。そんな父上たちの談合から出てくる案はことごとく、なんらかの危険性を孕んだものだった。
農奴として領地の辺境を開拓している叛徒の捕虜から技能を持った者を召し出す。
友好関係にあるファルストロング一門あるいはクロプシュトック侯に頭を下げて家臣を譲り受ける。
フェザーン商人を介して人を調達する。
どれもこれも、小才子が考えつきそうな策、敵対する家に嗅ぎつけられれば一門の滅亡に直結しかねない、あるいは弱みを握られ従属を強いられる、最も良くても将来の取引において不利な条件を呑まされるなど少なからぬ打撃を被る下策であることが俺にも分かった。
当然、家宰様は首を縦に振らない。
『これはもしかして、好機なのか?』
将来の郎党候補、給仕役としてブルーノと二人立ち働きながら、俺は好機が訪れたのを感じていた。
どうやら父上をはじめとする家宰様以外のマールバッハ家の主だった面々はお家が再興するまでは事をうまく運べても、宮廷でのし上がっていくには今一頭の回転や用心深さ、繊細さが不足しているようだ。
ここで俺が騎士会館の叙爵予定者リストや紳士録、マトリクスから手にした情報──単なる原作知識ではない、大半が生きた情報からなるキルヒアイス、ミッターマイヤーそしてメックリンガー家の調査書──を提供すれば、危険視されて潰される可能性も出てくるだろうが、うまくやれば単なる将来の郎党候補ではなく一門に列する可能性もある重臣候補にまで扱いが上昇するかもしれない。あるいは近衛兵や宮中勤めに推挙してもらえるかもしれない。
『さあ お前の出番だぜえ うまい芝居を 見せてくれよ』
『言われる までも ねえよ』
壁に掛けられた名画の人物に乗り移って現れた悪魔──俺が二重の意味で手出しできないのをいいことに、ゆかいなしもべたちと一緒に踊りながらハンドシグナルでメッセージを送ってくるのみならず、俺を笑わせようと道化役者のようなポーズをとったり表情をしたりと迷惑行為の数々をしでかしている──に表情筋の微妙な動きだけで答えると、俺は意を決して言葉を紡ぎだした。
「家宰様、身元の確かな園芸の愛好家なら僕に…いえ、私に少々心当たりがあります」
「…アルフレット君。君は事の重大性を分かっているのかね」
口をはさんだ俺に家宰様の厳しい視線が注がれる。子供が口を出すことではないと視線は雄弁に語っていた。
「騎士会館の叙爵予定者表の中にあった名前、フォン・ワイツからいただいたお手紙に出てきた名前です。お家からすれば取るに足らぬ平民とはいえ、下賤の輩の中では人がましいと言える…言えましょう」
嘘は言っていない。ワイツ秘書官の手紙にあった人名は俺が意図して引き出したものではあるが。それでも嘘ではない。騎士会館の叙爵予定者表は公の物、嘘偽りの具に使えようはずがない。だが、官僚として企業家、そして伯爵家の重臣として容赦のない現実と向き合ってきた大人の男の力ある視線に俺の十代前半の少年の部分はたじろいだ。それでも、ここで退くわけにはいかない。俺は肉体よりは多少年上である精神の力を総動員して踏みとどまり、言葉を続けた。
「騎士会館に収められる公報に載る者は無論、国政を委ねられた国務尚書閣下が信頼する秘書官殿が特筆するほどの者であれば、よもや間違いはありますま…ありえないでしょう」
「……ゴットリープ・メックリンガーと息子は花言葉には詳しいだろう。優れた詩人で音楽家だとは聞いている。だが、園芸に造詣が深いとは聞かないね」
「ですが、皇妃陛下の蘭の美しさを称えるには、この上ない人物かと」
「なるほど。だが枯れた蘭の悲しさを奏でることになっては、我々も彼らも悲しむべきことになる」
「ヴァルディ・ヴァーツェル・ミッターマイヤーとジークムント・キルヒアイスの技量が皇妃陛下の蘭に費やされるとしても、ですか?」
家宰様の黒い瞳から目を離さずにいるのも、重みのある言葉と鋭い警告に挫けず、言葉を返すのも十代の少年に過ぎない俺にとっては百億の敵と大会戦を戦うのと同じくらいの苦行だった。
俺がヴァルディ・ヴァーツェル・ミッターマイヤーとジークムント・キルヒアイスの名前を出し、個人資料を収めたデータカードを渡してからの数分間、次の間に姿を消したヘスラーがマールバッハ家の紋章入りのファイルを持って戻るまでの短い時間は疑いと出しゃばりへの叱責のこめられた父上やフォン・クナップシュタインの視線も加わり、氷河の惑星で叛徒と百年対峙するほうが楽かもしれないと思えたほどの辛い時間になった。
「…トラウゴット・シューマンより優れていると確信できたら、お館様に推挙して召抱えていただけるよう取り計らおう。君はいつも、私を驚かせてくれる」
「…ありがとうございます」
戻ってきたヘスラーが家宰様に耳打ちし、家宰様がお抱えの庭師の名前を出してうなずいたとき、消耗した俺はまたしても、そう言って頭を下げるしかなかった。下級貴族だ平民上がりと言っても、経験を積み勝利を重ねた大人の男の圧力は立ち向かうだけでも力がいる。十代の半ばや後半でそんな圧力をはねのけ続けたラインハルトの力量がいかに巨大なものだったか間接的に理解させられ、俺は無力感に苛まれていた。
そんな凄すぎる奴を潰して居場所を守り、なおかつ権謀術数や人間力ではそのラインハルトをも上回るであろう怪物たちの中で生きていく未来のためには限界を超えて力もつけなければ。
「アルフレットは強いな。真の騎士とは君のような者のことを言うのだろう」
動き出した計画に加わるには身分も経験も何もかも不足という理由で一足先に退出させられた別室で感じ入ったブルーノに曖昧な返事を返しながら、俺は決意を固めていた。
後書き
…今気付いたけど今回あんまり遊んでないやん。
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