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火影の夜窓(ほかげのやそう)

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第一章 色褪せぬ恋

本線から単線に乗り換えると、乗客はまばらになった。
始発の駅ビルをあとにしてすぐ、車窓からの眺めは
のどかな田園風景一色に変わった。
途中駅には高校や大学があるから、早朝は学生で混みそうだが、
ラッシュを過ぎたこの時間は、陽光が長椅子を占領するばかりだ。
ドアが開いても降車する客しかおらず、
乗ってくる者は一人もいない。
終点の手前で、とうとう車内は祐未ひとりだけとなった。
(こんな寂しい土地にあなたは眠っているのね。)
ガランとした車内の侘しさに、鼻の奥がじゅんと湿った。

列車は始発駅から20分ほどで、終着駅のホームに滑り込んだ。
ぽつんとホームに下り立った祐未は、
キャリーバッグを引きずりながら歩き出した。
連絡通路へ上がる階段の前で一旦立ち止まり、
最上段を見上げて祐未はため息をついた。
なにせここは田舎の駅、エスカレーターなど
付いているはずもなく。
奥にエレベーター設置工事中の真新しい看板が見えるが、
完成予定は来春とある。
仕方ない、伸ばした取っ手を根元に押し込み、
バッグを胸の高さに持ち上げて、階段を斜めに上っていく。

長い廊下を渡り切り、出口の看板を横目に階段を下る。
改札を抜け、待合室を抜け、ようやく駅舎の外に出られた。
すぐ左手に町営バスの丸い看板が立っている。
バッグの取っ手を引き出し歩き出すと、カートがガタガタ跳ねる。
その振動で、地面のでこぼこ具合が手に取るようにわかった。
暑い。上からは容赦ない日差しが照りつけ、
靴底がアスファルトに溶け付きそうだ。
10歩もいらずにバス停までは来られたが、
スカスカの時刻表に不安がよぎる。
だが幸運にも、あと5分待てばバスが来るらしい。
祐未は安堵してベンチに腰掛けた。
「熱いっ。」
座面のあまりの熱さに一瞬、腰が浮いた。
急いで折りたたみの日傘を取り出し、パチっと開く。
やっと小さな日陰に上半身が収まると、ハンカチで汗を拭う。
梅雨が明けた途端に気温がぐんぐん上昇。
予報ではこのまま猛暑日になるらしい。
耳の奥で蝉噪(せいそう)が不快なほどに増幅するが、
5分程度ならなんとか凌げそうだ。

程なく、商店街の看板アーチを潜り、
マイクロバスが駅前の狭いロータリーに入ってきた。
先頭を大きく右へ振ると、
バックしながら縁石すれすれに見事に停車。
前の扉から乗客たちが次々に吐き出される。
「霊園経由、ときがわ町行きです。」
アナウンスと同時に後ろの乗車扉が開いた。
日傘をたたみ、バッグを持ってステップを上る。
最初に目に入った一段高い2人がけの席に膝を押し込むと
窓際に陣取り、バッグは隣席の足元へ落ち着かせた。
扉は開きっぱなし、エンジンも止まってはいたが、
わずかにこもった冷気で、外よりはずっと涼しかった。

3分ほどの間に数人が乗り込んできて、
エンジンがぶるるんと勢いよく始動。
冷房がかかり、車内がいよいよ冷えてきた。
扉が締まると、バスは定刻通りに発車。
商店街を途中で右折し、橋を渡って県道に出た。
そこから川沿いに10分ほど走ると、
前方に霊園の大きな看板が見えてきた。
祐未は降車ボタンを押し、小銭を用意する。
「ご乗車ありがとうございました。」
車外に放り出されると、たちまち熱風に包まれ
祐未は慌てて日傘を差す。
大きくカーブした見通しの悪い道路を用心して渡り、
霊園の正門をくぐる。
駐車場までの長い歩道は木立の陰でいくぶん風がそよぐが、
蝉の声が絶え間なく炒りつけてくるので、
油断すると気が遠のきそうになる。

売店で桶に入った切り花と線香を買い、
巡回バスに乗って丘を登る。
頂上付近で降ろしてもらい、日傘を広げ細い道を少し下ると
美しいバラの遊歩道がある。
そこを抜ければ彼の眠る墓所だ。
まだ新しい区画には、墓石が数えるほどしかない。
お陰で、祐未は迷わずに彼のもとへたどり着けた。
(命日でもないし、さすがに今日参拝する人はいないだろう。)
祐未は柄杓の水で墓石を涼めてやった。
壺のしなびた花を抜き取って、
代わりに赤やピンクのケイトウを手向けた。
(ケイトウかぁ…、たしかに鶏の鶏冠(とさか)みたいな花よね。
 風変わりな花だけど、花言葉はあるのかな。) 
和紙の上に好物だった缶ビールと手作りの海苔巻きを供え、
写真が入った小さな白い額をその奥に立てかけた。
碧い海を背に、白い歯を見せて笑う彼を目にした途端、
涙がつーっと祐未の頬を伝う。
線香の束に火をつけ香炉に寝かせると、太い煙が風下にたなびく。
「陽介、会いに来たよ。今日は暑いね。
 関東は昨日梅雨が明けたって。
 …もうすぐ一周忌ね。早いなぁ…」
言うとまた涙が溢れ、ハンカチで目頭を押さえる。
「30歳のお誕生日、おめでと…。」
7月19日、今日は陽介の誕生日だ。
そして、二人が初めてデートした記念日でもあった。
祐未はキャリーバッグに入った
折りたたみの小さな椅子を取り出して座ると、
線香が燃え尽きるまで、その場を離れようとはしなかった。



二人が出会ったのは三年前。
祐未が学生になって初めての夏休み。
自分専用の軽自動車を買うためディーラーを訪れたとき、
父が祐未の担当にと指名したのが陽介だった。
車の説明を聞きながら、彼の誠実さとさわやかな笑顔に
祐未はすっかりほだされてしまった。
試乗の際も、免許取りたてで運転に自信がないと言うと、
陽介がすすんで隣に同乗してくれた。
危なっかしい手つきでハンドルを握る祐未を
冷や汗をかきながら見守るうち、
いつしか陽介も祐未の真剣で愛らしい姿に心を奪われていた。

そして納車の日、祐未との交際を
陽介が父に堂々と申し込んできたのだ。
父は以前から彼の人柄をとても気に入っていたから、
もちろんその申し出に大喜びだった。
ひょっとすると、父が裏で画策して
彼の背中をせっついたのかもしれない、と疑いもしたが、
祐未は素直に手の内に巻かれることにした。

翌週には早くも初デート。
彼は日本男性には珍しく、レディーファーストが身に付いていた。
車に乗るとき、助手席に素早く回ってドアを開け、
頭が枠に当たらないように手でガードしてくれた。
また、エレベーターに乗るときも
扉を手で押さえながら祐未を先に乗せ、
降りるときもまた、扉が閉じないように気をつけてくれた。
夕食の高級レストランでもリードは完璧だった。
椅子を引いて祐未を先に座らせ、
注文の際はしっかりと主導権を持って対応。
テーブルマナーも実にエレガントだった。
「今日は僕の誕生日なんです。」
「えっ、そうだったんですか? 
ごめんなさい、私、何もプレゼント用意してなくて…。」
「いいんですよ。今日こうして祐未さんが一緒に
食事してくれることが、
 僕にとっては何よりのプレゼントです。
 一生の思い出、宝物にします。ありがとう、祐未さん。」
そして退店の際、会計がいつの間にか
済まされていたのを知った時には、さすがに驚いた。
祐未が化粧室へ席を外している間に、
陽介がカードで済ませていたらしい。

駐車場の車の中で「さあ、これからどうしよう」となった。
「この辺に夜景の綺麗な場所ってありますかねぇ。」
祐未が言うと、陽介はしばらく考えて、
「うん、わかりました。じゃあ、高速に乗りましょうか。」
そう言って車を出した。
そこからは、祐未が思いもしなかった
『ときめき夜景ツアー』となった。
ライトアップされたスカイツリーや東京タワーが
車窓をゆっくり流れていくのを
「うわー!」と、うっとりしながら見つめる祐未。
「綺麗でしょ。時々、夜の高速をこうやってドライブするんです。
 今日は祐未さんを乗せてるから僕は運転に専念しますね。
 でも、祐未さんは夜景を存分に楽しんでくださいよ。」

車は都心の摩天楼を抜け、海沿いに出た。
晴海、レインボーブリッジ、若洲、東京ゲートブリッジと
夜景の名所を次々に通過し、城南島海浜公園に到着した。
浜へ下りると、空港の飛行機発着が間近に見えた。
公園の北にまわれば、先ほどのスカイツリーと東京タワーが
贅沢にも肩を並べている。
お台場、レインボーブリッジも、もれなく視界に入ってくる。
空には飛行機、海には客船…。
どこを見渡しても、幻想的な光に満ち溢れていた。
突然の振りにも、機転を利かせてここまで応えてくれるなんて、
どこまでもスマートな人…。
祐未はそのさり気ない『ナイト』振りに感服しながら、
彼の肩にそっと寄り添った。

その後も、二人の交際は順調に深まってゆき、
やがて、式場の話しがちらほら出た始めた1年前の初夏のこと。
突如、陽介が検査入院することになった。
会社の健診で肺に影が見つかったのだ。
だいぶ前から軽い胸の痛みや咳は自覚していたようだが、
精査すると、病状は思いのほか深刻であった。
進行した肺癌だったのだ。
脳や肝臓にも転移が見られ、彼は余命宣告を受ける。
そのショックは測り知れなかった。
手術は困難なため、放射線と抗癌剤治療が始まった。
だが願いも虚しく癌の進行は速かった。

病室で誕生日を迎えた翌月には、
呼吸ができないほど咳こむようになった。
そうなると、四六時中、酸素チューブが外せなくなった。
その頃から彼の様子がおかしくなる。
祐未は毎日のように病室へ顔を出していたが、
ある日、彼の母親に呼び止められ、
当分の間、見舞いは控えてほしいと言われた。
彼がそう希望しているのだという。
電話やメールで接触を試みたが、やはりだめだった。
きっと、治療に疲れて、今は誰にも会いたくないんだわ。
祐未は、陽介の気持ちが上向きになるのをひたすら待っていたが、
数日後に彼から届いた直筆の手紙を読んで、落胆した。
僕はもう長くない。祐未との結婚を夢見てきたが、諦めるしかない。
こんなことになってしまい、本当に申し訳ない。
僕のことは早く忘れて、どうか新しい人生を歩んでほしい。
そんな内容であった。
当然、祐未は受け入れられず、その後何度も病院に足を運んだが、
陽介は頑として会ってくれなかった。
自分も辛いが、今一番辛いのは陽介だ。
そう思い直し、祐未は神社仏閣をめぐっては
お守りやお札をかき集め、懸命に回復を祈った。

だがそれから間もなく、
彼の母親から連絡を受け病室に駆けつけた時には、
既に彼の意識はなくなっていた。
荒い息に酸素マスクが白く曇る。
意識が戻らないまま、1時間程どうにか命を繋いではいたが、
やがて脈が弱くなり、二度大きく胸を膨らませると、
彼は静かに息を引き取った。去年の9月18日のことだった。



「今日は車で来ようかとも思ったんだけど、
 やっぱり長距離運転は自信がなくて…。
 あなたも知ってるでしょ、私の運転レベル…、うふふ。
 だから電車とバスを乗り継いで、はるばる来ました。
 それに今日は、秩父まで足を伸ばそうと思うの。
 あなたも連れてってあげるわね。
 今日泊まる旅館は温泉じゃないんだけど
 貸切風呂があるんだって。あなた、お風呂好きだったもんね。
 久しぶりに汗を流すといいわ。
 夜はお誕生日のお祝いもしないとね。」
祐未は陽介の写真を手に取り、そっと口づけして袱紗(ふくさ)に包んだ。
それを紫の手提げ袋に入れ、大事そうにバッグへしまった。
供えた海苔巻きは祐未が食べ、ビールは旅館に持ち込むことにした。
携帯の時計を見ると、ちょうど正午になるところだ。
今丘を下れば、十二時半のバスに間に合う。
「じゃ、これから秩父へ出発よ! ちゃんと着いてきてね。」
そう言うと、祐未は日傘の柄を握り直し、
空の桶とバッグを重ねて持つと、バラの遊歩道へ向け勇んで歩き出した。
 
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