艦隊これくしょん【幻の特務艦】
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第八話 南西諸島攻略作戦(前編)
第二章――。
紀伊半島沖で敵機動部隊を撃滅することに成功した呉鎮守府の次なる目標は、海上輸送路を脅かしている敵の前線艦隊の根拠地の撃滅であった。苦戦しながらの偵察の結果、敵の前線基地が南西諸島トガラに、そして敵の根拠地が南西諸島本島にあることが判明する。
ヤマト海軍軍令部は呉鎮守府と佐世保鎮守府に南西諸島攻略を指令。同島攻略が成功すれば、海上輸送の安全は確保され、ヤマトは次なる目標に向けて前進することができる。呉鎮守府秘書艦の鳳翔はこれに先立って攻略作戦会議をすべく各艦娘を招集した。
偵察作戦から2日後――。
再び主だった艦娘は会議室に集まってきていた。誰も何も言わず、何も聞かずにそれぞれの席に黙って座った。誰もがここに集められた意味を理解していたし、誰もがやるべきことは何かを理解していたからだ。
「南西諸島攻略作戦を発動します。」
鳳翔が一座を見まわした。放たれた言葉はしんと静まり返った艦娘たちの耳にしっかりと届いた。
「先の偵察により、敵深海棲艦に大きな打撃を与えることに成功しました。相手に立て直しの隙を与えず、一気に南西諸島を攻略します。」
相手に与えたダメージを最大限利用するため、佐世保鎮守府と呉鎮守府は高速修復剤を思い切って投入し、ダメージを受けた艦娘の治療を即急に行い整備を整えた。これには中央の軍令部も賛同し、わざわざ内地から補給分を臨時に送ってきたほどだ。
「今作戦も佐世保鎮守府と共同で行います。」
鳳翔は会議室の黒板に描かれている南西諸島周辺の地図を指示した。
「前回までの偵察によって、深海棲艦の根拠地は南西諸島東北のトガラ泊地と南西諸島本島にあることが判明しました。トガラが前線基地、本島に敵司令部があるものと思われます。」
鳳翔が指し棒でトガラと南西諸島本島とをそれぞれ示した。
「作戦の概要を説明します。」
鳳翔の言葉をどの艦娘も微動だにせず聞き入っている。
「まず、トガラ泊地に大規模な強襲を仕掛け、島の港湾施設及び敵艦隊を強襲、これを撃破します。その後、本島から敵本隊が救援のため海上に出現したところを別働隊と佐世保鎮守府戦闘艦隊とが挟撃し、これを撃破します。そのすきに佐世保鎮守府別働隊が本島を強襲し、これを制圧します。」
鳳翔が皆を見た。
「今回も佐世保鎮守府との連携がカギを握ります。各員適切に行動し、作戦の完遂を全力で図ってください。では、提督からのオーダー表を発表します。敬称は略させていただきます。」
鳳翔は紙片を取り上げた。
「まず、トガラ泊地強襲艦隊は臨時に登用するビスマルク、霧島、天津風、雪風、夕立、プリンツ・オイゲンの鎮守府護衛艦隊及びそして榛名、瑞鶴、紀伊、由良、不知火、綾波の第七艦隊です。そして別働隊が伊勢、日向、足柄、妙高、翔鶴、そして長良を臨時に加えた第三艦隊です。留守については私と赤城、加賀の一航戦を中心に利根、筑摩を補佐とします。」
そして、と鳳翔がさらに読み進めた。
「佐世保鎮守府の戦闘艦隊は前回同様扶桑、山城、最上、三隈、飛鷹、古鷹。南西諸島本島を攻略するのは川内、神通、長月、深雪、白雪、時雨、瑞鳳、祥鳳、加古、青葉、衣笠、それにある新鋭艦が加わります。」
「新鋭艦?」
それまでしんと鳳翔の言葉を聞いていた一座がざわついた。無理もなかった。各鎮守府に配属されている主だった艦娘は誰もが既に知っていることだ。だが、今回新たに作戦に加わる艦娘がいるという。それを鳳翔は新鋭艦としか言わない。一同が興味を覚えるのは当然のことだった。
「ええ。」
鳳翔は言葉少なにそういっただけだが、眼は紀伊の方に向けられていた。
会議が散開した後、各艦隊の旗艦だけが残った。鳳翔は最後の艦娘が出ていくのを見澄ますと、そっとドアを閉めた。
「これから話すことは極秘事項です。」
「なんですか?改まって。」
伊勢が質問した。
「その前に少し待っていてもらえますか?」
鳳翔が黒板脇の机の裏にかがみこみ、何かをいじると、音を立てて黒板が上下に分かれ、巨大なモニターが出現した。鳳翔が機器を操作すると、突然黒い画面が切り替わり、一人の艦娘の姿を映し出した。
「扶桑?!」
伊勢が叫んだ。
『はい。皆様お久しぶりです。ご無沙汰しています。』
扶桑は見る人をほんわかさせるあの笑顔を浮かべた。
「どういうこと?」
伊勢が鳳翔を見た。
「各鎮守府及び軍令部同士で、地下に高速通信ケーブルを張り巡らせ、電波によらない特殊な回線で通信ができるシステムを構築しました。どういうわけか、深海棲艦は通常通信電波の類を解析できてしまいますので。」
「へぇ・・・・。」
伊勢は驚きを隠さない様子でディスプレイを見つめていた。
「今作戦の詳細を討議するにあたっては、佐世保鎮守府の方にも参加していただいた方がよろしいかと思いました。」
『その前に、先日は私たちがご迷惑をおかけしてしまい、大きな損傷を艦隊に与えてしまったこと・・・・深くお詫びいたします。』
「そんなことはありませんよ。空母や戦艦も一部撃破できましたし、戦力漸減になりました。良かったと思います。ところで、皆様はそろっていますか?」
『はい。』
扶桑がわきにどくと、既に向こうの会議室にも各艦隊の艦娘たちがそろって座っていた。
それでははじめましょうかと鳳翔はいい、ここで扶桑らと最終的な作戦の打ち合わせを行った。
「・・・・以上になりますが、何か質問は?」
「あの、このような時にこんな質問をして申し訳ありませんが・・・そちらでも新鋭艦娘がいらっしゃるという話がありますけれど。」
榛名が恐る恐る切り出すと、扶桑は微笑を浮かべた。
『はい。とてもいい子です。でも、艦隊の旗艦ではありませんから、この会議には出席していません。実は私たちの方も気になっていました。』
私たちに所属している子も同じです、と鳳翔も微笑を浮かべながら答えた。
『姉妹ですものね。』
「姉妹艦?!」
伊勢や榛名たちは顔を見合わせた。
「じゃ、じゃあ向こうにも戦艦並の弩級主砲と正規空母みたいな飛行甲板を持っている子がいるってわけね!?」
『はい。』
「ねぇ、どんな子かな?紀伊みたいな子かな?」
伊勢がわくわくした様子で榛名に尋ねた。
「さぁ・・・・どうでしょうか?姉妹艦といっても榛名や霧島、比叡お姉様、金剛お姉様はだいぶ違いますし、伊勢さんや日向さんも性格は違います。」
「そうね~~・・・・。」
「はいはい、そこまでにして。」
鳳翔が注意を向けさせた。
「特に質問がなければ、これで会議を終了します。とにかく、お互い無事で作戦を完遂できるよう、頑張りましょうね、よろしくお願いします。」
『はい、こちらこそよろしくお願いしますね。』
扶桑は微笑んだ。
夕時――。
紀伊たちは間宮食堂に入っていた。珍しく利根が間宮食堂でご飯を食べようといいだしたのだ。でも、ただじゃないですし、と紀伊が言うと、利根は片目をつぶって、任せておけと言う。そうまで言われれば拒む理由もないので、紀伊はついていった。すると、一目で利根がそう言った理由がわかった。何故ならそこには大きな白いテーブルクロスがかけられたテーブルがあり、たくさんの艦娘たちが立食式で料理を食べていたからだ。もちろん小テーブルもあって、そこで食べながら話に花を咲かせている艦娘たちもいる。利根に聞くと、大作戦前はいつも提督が大盤振る舞いをし、士気を上げているのだという。5人は適当に料理を皿に取ると、隅っこのテーブルに座って食べ始めた。真っ先に話題に上がったのは、今度の作戦で共同参加するという佐世保鎮守府にいる紀伊の姉妹だという新鋭艦のことだった。
「私の姉妹、ですか?」
突然尋ねられて紀伊は困惑した表情を浮かべた。
「今度の作戦で登場するというもっぱらの噂ですのよ。」
「そうそう。だからみんな気になっちゃってさ~。」
紀伊は顔を曇らせ、少し首を振った。
「わからないんです。」
紀伊は暁たちに言ったことと同じ言葉を口にした。
「覚えていない?どういうこと?」
「私が就役した時は、ほとんど独りでした。覚えているのはどこかの施設で誰かと一緒にカプセルのようなものに入っていたことくらいで・・・・・。もしかしたらその人が、その人たちなのかも知れませんが・・・私の姉妹じゃないのかなって・・・。」
暗い施設の一画で青く光る液体のようなものに浮かんでいたことを紀伊は夢うつつにぼんやりと覚えている。
「一緒じゃなかったの?」
「ええ・・・。すみません。なんだか期待に添えなかったようで・・・。」
「そんなことないよ。まぁ、うちらも同じだったからね。」
「ええ。生まれてからここでこうして一緒になるまでほとんど姉妹の事なんて覚えていなかったのですわ。」
「そうだったんですか?」
「そうじゃ、おぬしもその姉妹とやらを見れば記憶が戻るのではないか?」
利根はそう言ったが、紀伊には自信がなかった。何故なら今までに話をしてきた艦娘は大なり小なり今までの記憶を覚えていたのだが、自分にはそういうものが全く欠落していたからだ。姉妹艦だというその人を見てもはたして取り戻せるのかどうか・・・・。
それにしても奇妙だ。周りは佐世保鎮守府にいるその新鋭艦娘が自分の姉妹艦だと噂しているのに、当の本人は姉妹がいるかどうかすらもわからないのだから。
紀伊は無性に寂しさを覚えていた。
と、その時第6駆逐隊の4人が近寄ってきた。
「おう、おぬしたちも座るか?」
「はい!いいですか?」
「どうぞ。歓迎しますわ。」
熊野と鈴谷が席を開け、4人は紀伊の周りに座った。
「ごめんなさい。あまりお話もできていなくて・・・いつかはお礼をと思っていたのに。」
紀伊が謝ると雷が手を振った。
「お礼なんていいのに。先日の試合とってもかっこよかったわ。私たちも見ていたんだから。」
「それに、一昨日の作戦もとってもかっこよかったのです!」
「ヲ級を日向先輩と一緒に撃破して、おまけに鳳翔さんと一緒に間一髪のところを艦載機で敵を攻撃したのよね!!」
「Хорошо。」
「それは・・・・。」
紀伊は緩やかに首を振った。
「私の力じゃありません。皆が私に教えてくださったこと、私に与えてくださったものがあったからこそ、できたんです。」
「謙遜よ。」
「いいえ。」
そんなことはありません、と紀伊は言おうとしたが、不意に誰かに肩を叩かれて上を向いた。
「何を話しているの?私もいいかしら?」
「足柄さん。」
「お主も来るか、珍しいの。普段は重巡寮にいてこっちにあまりこんというのに。」
「そんなことないわよ。・・・あぁ、いいからいいから、座っていなさいな。」
紀伊が立ち上がろうとするのを足柄が止めた。
「皆にお礼を言いたかったの。川内たちを助けてくれて・・・ありがとう。」
「ほう?どういう風の吹き回しじゃ?」
普段足柄たち重巡艦娘はどちらかといえば、航空巡洋艦娘を敬遠している。なぜならば彼女たちは重巡洋艦並の火力を維持しつつ索敵などに特化した改装を受けているからだ。一歩頭を抜かれたようで面白くなかったのだろう。そんな関係だから、足柄がやってきたとき利根もおやっと思ったのだ。
「あの子たちは私が直接指導した教え子だったの。以前私が佐世保鎮守府に在籍していたころの話よ。こっちに来ることになって離れ離れになってしまったけれど、あの子たちのことはずっと気にかけていたわ。」
「それでとても強かったんですね。」
暁が言った。
「そんなことないわよ。まだまだだわ。でもね、だからこそずっと構いたくなるの。その可能性をこれからも残してくれた皆にはとても感謝しているわ。」
「それは紀伊や鳳翔、ビスマルクたちに言うべきじゃの。吾輩たちが苦戦しているところを間一髪で駆けつけてきたのだからな。」
「ええ。紀伊さんたちがいなければ、私たちも轟沈していました。」
「そうなったら、わたくしたちも大切な仲間を失うところでしたわ。」
「だよね、ほんと感謝しているよ。」
「私たちもです。」
皆がいつの間にか紀伊をしみじみとみている。紀伊はなにやら面映ゆいような感じがしていたたまれなかった。
「あ、あの、その、別に私一人の力なんかじゃ・・・・ご、ごめんなさい。ちょっと中座します。」
逃げるようにして席を立っていった紀伊を皆が笑った。
「シャイなのよね、あの子。」
足柄が面白そうに言った。
「ええ、でもとてもまっすぐな方ですわよ。直向で――。」
「そしていつの間にか皆から構われるんだから、大したもんだよね。」
「なのです!」
皆は紀伊がいなくなっても、ワイワイと盛り上がり話に花が咲いた。
その様子を遠くの席から目を細めながら赤城は眺めていた。
「何を見ているの?」
加賀に話しかけられた赤城は微笑したまま顔を加賀に向けた。
「とても楽しそうだと思って。そう思わない?」
「ええ。」
加賀はうなずいた。
「不思議ですね。たった一人の艦娘が仲がいいとは言えなかった重巡や航空巡洋艦、そして駆逐艦娘までも同じ席に着かせてしまっています。」
「・・・・・・・。」
「普段ならあり得ないことです。艦種が異なる艦娘は艦隊編成の時や演習等以外は同じ仲間同士で集まるのが普通なのに。」
「それはあの人が特別だからということが言いたいの?」
加賀の声は相変わらず乾いていたが、どこか赤城をはっとさせる調子がにじみ出ていた。
「いいえ、そんなことはありません。」
ゆっくりと首を振りながら赤城は言った。
「あの人も私たちと同じ艦娘です。でも、あの人がいるところいつの間にか輪ができている。それはあの人がとても優れているからではなくて・・・・。」
一瞬加賀が体を動かした。赤城は加賀の反応を見ながら話をつづけた。
「皆あの人が好きだからです。私はそう思います。」
「でも、どこか私たちと違う・・・。」
加賀のつぶやきを赤城は黙って聞くだけだった。
紀伊が外に出るといつの間にか色とりどりの星屑が夜空にちりばめられ、大海原には無数の白く輝くきらめきが揺蕩っている。遠くからかすかにピアノの音が聞こえてくる。何の曲か途切れ途切れでわからないが、しっとりとした穏やかな音色が夜の空にとけ、いっそう星々の輝きを引き立てていく。
「きれい・・・・。」
紀伊はほっと息をはいた。考えてみればここにきて以来あわただしく時が過ぎ去り、空を見上げる余裕も海をじっくりと眺める余裕もないほどだった。初めての航海、そして戦闘。艦隊に配属され、経験した挫折、そこからの必死の努力。そして今南西諸島攻略作戦の一員として出撃しようとしている。
練度はここに来てから最初とは段違いに向上したし、友達もたくさん増えた。だが、今もわからないことがある。いったい自分は何者なんだろう、と。
ふっとひそやかな夜風がよぎってきて紀伊の長い髪をなびかせた。
「私は・・・・いったい何者なんだろう・・・・。」
ふと浮かんだ思いを引きずり、胸に手を当てながらいつの間にか紀伊は埠頭にまで足を延ばしていた。ざあっと心地よい夜の穏やかな波が音を立てて埠頭に押し寄せ、引いていく。紀伊以外には誰もいなかった。
「空母でもない・・・・戦艦でもない・・・・・どの艦種にも属さない・・・・私は、いったい何者なんだろう・・・・・。」
紀伊はそっとしゃがみこみ、ほっそりした指先を波に浸した。夜だというのに波は自分の指先よりも暖かかった。その暖かさを感じながら紀伊は自分に問いかけた。
(ここに来てから皆にはとても優しくしてもらったのに、それでも何が不足だというの?姉妹艦なんていなくたって・・・・私は・・・・・。)
だが、すぐに次の思いが強く浮かんできた。
(でも・・・・私は自信がない。それは私が何者なのか、いったいどこに行こうとしているのかがわからないから・・・。自分が何者かわからない・・・・とても寂しいわ・・・・・。皆が話している新鋭艦娘が私の姉妹だとしたら・・・何か知ってるのかしら?その人に会えば私は変われるのかな・・・・。)
「何をしているの?」
不意に頭上から声が降ってきた。紀伊が体を起こした。
「あっ・・・・!」
瑞鶴がいつもの弓道衣姿で紀伊のそばに近寄ってきていた。そばに翔鶴と榛名もいる。
「少し夜風に当たりたくて・・・・。皆さんこそ、こんなところで何をしていらしたんですか?」
「え?あ~~・・・・ええとね、翔鶴姉?」
瑞鶴が少し返答に困ったように翔鶴を見た。
「いいじゃない瑞鶴。別に秘密にすることじゃないわ。」
「でも、せっかく練習しているのに、知られたら面白くなくなっちゃうわ。」
「瑞鶴さん、紀伊さんなら大丈夫ですよ。」
「秘密の事ですか?なら聞かないでおきます。」
紀伊は少し笑いながら言った。3人は少し目顔でうなずき合っていたが、やがて瑞鶴が
「あ~まぁ、いっか。紀伊ならいいかな。あのね、私たち鎮守府さくら祭りでコンサートをやるつもりなの。」
「コンサートですか!」
「いつかもお話したように各艦娘から有志が集まって色々な出し物をやるんです。」
榛名が言った。
「はい・・・・。」
まだ榛名にその返事をしていなかったことに紀伊は胸が痛んだ。
「いつも学科で使用している棟の隅っこにピアノがあってね。そこで3人で代わりばんこに弾いていたってわけ。」
だからさっきピアノの音が聞こえていたのだ。
「ピアノですか、そういえばここにきて全然弾いてなかったな・・・・・。」
最後の独り言のつぶやきを瑞鶴と翔鶴は聞き逃さなかった。
「紀伊、もしかして・・・・?」
「弾けるんですか?」
「え?」
紀伊は目を瞬きさせたが、やがて恥ずかしそうに首を振った。
「横須賀鎮守府にいた時、ほんの少しだけ触ってました。名前はおしえてくれませんでしたけれど・・・・ある方が教えてくださったんです。」
当初は周りから隔離されるようにして過ごしていたため、紀伊は一人ぼっちだった。近づく者といえば軍令部の限られた人間だけだった。そんなある日、一人の女性が自分の部屋で所在無げに外を見つめている紀伊に話しかけ、ピアノの部屋に連れていき、弾き方を教えてくれたのだという。
「その方は誰だったんですか?」
榛名の問いに紀伊は当惑したように答えた。
「わかりません。その人が軍属だったのかも、あるいは艦娘だったのかもわからないんです。」
「どんな人だったの?」
「灰色の長い髪に私と同じ灰色の瞳をしたとても優しそうな人でした。服は・・・・海軍軍令部の人の服装みたいでしたけれど、でも、どこか違っていたような・・・・。」
「じゃあ、艦娘じゃないわね。そんな人は聞いたことがないもの。」
瑞鶴の横で榛名が何か言いかけたそうにしたが、すぐに口をつぐんだ。
「紀伊、その人から教わったんならあなたも私たちと一緒にピアノ弾かない?」
「・・・・・私は、その・・・でも・・・・。」
紀伊は口ごもった。
「練習を重ねれば自信はきっとついてくるわよ、練度向上と一緒よ。」
「でも、練度は上がっても私が誰なのかはわからないまま・・・・あっ!!」
慌てて口に手を当てたが、もう遅かった。3人は再び顔を見合わせた。
「それでこんなところに一人でいらしていたんですね。」
翔鶴が言った。
「はい・・・・。あの、皆さんがとても優しくしてくれて本当に嬉しいです。それは本当です。でも・・・・時折無性に寂しくなるんです。ここに来てからしばらくたちますが、私が誰なのか、自分自身にも答えが出せないままだから・・・・・。」
紀伊は視線を落とした。
「提督にさえもお答えをいただいていません。」
「確かに、私たちは前世の記憶をもって生まれてきました。つらいこともあったけれど、自分が誰なのか・・・・それはずっと見えていたような気がします。」
榛名が言った。
「前世の記憶なんて嫌なことばかりだったけれど・・・・。でも、そうか、そうよね。私には翔鶴姉がいる。五航戦としての矜持もあるわ。そして大切な仲間がいることも知っている。それもみんな前世の記憶のおかげなのね。でも紀伊・・・・。」
瑞鶴はすっと手を差し出した。
「あなたが何者か知らないし、あなたが何者なのかを調べるのに、私たちは役に立てそうにないけれど・・・でも、私たちはずっとあなたの親友のつもりだよ。それじゃ駄目かな。」
紀伊は口元に握ったこぶしを持っていき、ぎゅっと目をつぶった。
「わかっています・・・・。でも、けれど・・・・・!」
瑞鶴は差し出した手をぎこちなく引っ込めた。それを見ていた翔鶴がすっと進み出て紀伊の左手を取った。
「・・・・・!?」
「紀伊さん。」
翔鶴が話し出した。
「確かに私たちは前世の記憶をもって生まれてきました。でも、だからといって私たちは前世の記憶に縛られては駄目だと思うんです。少なくとも私は完全に縛られていたくはないんです。もちろん瑞鶴や榛名さんたちとの絆はとても大切です。そうではなくて・・・・私たちがこうして人の姿で生まれてきたわけ・・・・それは新たに新生した艦娘として、前世にとらわれず、縛られず、歩いていきなさいという誰かの意志を感じるのです。」
ひいやりとしたさわやかな夜風が4人のそばを駆け抜けていった。紀伊はこぶしを離し、翔鶴の言葉をじっと聞いていた。新しく新生する。その意味では自分と同じゼロから歩み始めるということだった。過去の記憶は過去の記憶に過ぎない。それは自分の生い立ちをある程度は縛るものなのかもしれないが、これから自分が歩いていく道を拘束するものではなかったのだ。
「思い出は・・・・ここでこれから作ればいいと思います。うまく言えませんけれど・・・その中で自分が誰なのか、その役割を形作れるのではないでしょうか。大丈夫です。私も瑞鶴も榛名さんも、そして紀伊さんも、きっと・・・・。」
紀伊は翔鶴に手を取られるままだったが、やがて強くうなずくと、笑顔を浮かべた。
「瑞鶴さん、榛名さん、翔鶴さん、本当に私、今幸せです!!」
3人の手をぎゅっと握りしめると、失礼します、と一礼し、紀伊は駆け去っていきかけ、不意に後ろを向いた。とても綺麗な笑顔と共に。
「私もコンサートに参加させていただいてよろしいですか?」
3人とも大きくうなずいて見せた。
紀伊は深々と一礼し、失礼します、と繰り返すと背中を見せて行ってしまった。それを見送っていた瑞鶴が振り返った。少しだけ寂しそうな顔をしていた。
「翔鶴姉には負けたわ。」
「榛名も感激しました。とても翔鶴さんのようには話せません。」
「いいえ、瑞鶴の気持ちも榛名さんの気持ちも、そしてほかの皆さんの励ましの思いは、紀伊さんにはしっかりと届いているはずです。」
翔鶴は紀伊の後姿を温かいまなざしで見守っていた。
「だから、私は信じています。紀伊さんがきっと前を向いて胸を張って歩いていける日が絶対にやってくるって。絶対に信じています。」
3人の頭上では呉鎮守府を見守るように星々が美しく力強く輝いていた。
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