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藤崎京之介怪異譚

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last case.「永遠の想い」
  Ⅴ 5.11.AM5:37



 その日、俺はドアを激しく叩く音によって起こされた。
「…一体誰だ…?」
 俺はベッドから起き上がり、その叩き続けられているドアを開いた。すると、そこにはメスターラー氏が険しい表情で立っていた。
「こんな朝早くに、一体どうしたんですか?」
「どうしたも何も…聖マタイ教会が崩落したんだ…!」
「…え?」
 俺は最初、メスターラー氏が何を言っているのか理解出来なかった。
 聖マタイ教会は確かに古い教会だが、そう容易く崩れるほど脆くはない。現在ある教会は1548年に建て直されたもので、一度は地震によって崩れてはいる。だが、再建された教会は頑強に作られ、その後に起きた幾つかの地震にもビクともしなかった。
 そんな教会が崩落した…そうメスターラー氏は言ったのだ。俺は直ぐにルートヴィヒ神父のことが頭に浮かび、直ぐにメスターラーへと問った。
「ルートヴィヒ神父は?」
「残念だが…。」
 メスターラー氏は俯いてそう返した。恐らく、彼は現場に行って…見たのだろう。崩落した…とは、全て崩れ去ったと言うこと。犠牲者はルートヴィヒ神父だけではなかったはずだ。
「このことを伯父様達は?」
「知っている。私が到着した時には、既に出る用意を済ましてたからな。お二方共、直ぐに向かうと言っていた。」
「では、私も行きます。」
 俺はそう言って直ぐに着替えを済ませ、メスターラー氏と一緒に車へと向かった。伯父達とはそこで待ち合わせているのだと言うのだ。俺が行くことは計算済みってわけだ。
 外へ出ると、直ぐに見慣れたメスターラー氏の車があったが、伯父達は既に乗り込んでいた。
 メスターラー氏が運転席、俺が助手席へ乗り込むや、直ぐに出発した。
 目的地へ到着するまで皆口を閉ざし、一様に険しい表情をしていた。聖マタイ教会崩落…これが何を意味しているのかを理解していたからだ。

- 開戦 -

 そう…これは悪霊共が俺達に対して戦う意思を示したものなのだ。
 今までの小さなものとは違うことを意味し、そして…命を落とすかも知れないことを暗示する。
 これまでも少なからず犠牲者はいた。だが、昨年から続くこの事件はその比じゃない。これからもっと犠牲が出るだろうことは分かっていた。
 もう…後戻りは出来ないのだ。
 車内の四人は無言のまま、崩落した聖マタイ教会へと着いたが、そこへは救急、消防、警察関係者などが溢れていた。見れば聖マタイ教会は完全に崩れ去っており、かなりの広範囲に渡って立入禁止の指示があった。
 手前で車を停めて歩いていると、中で指揮を執っているプフォルツ警部を見付けて声を掛けた。
「プフォルツ警部!」
 俺の声が届いた様で、プフォルツ警部は直ぐに俺達の元へと来てくれた。
「藤崎さん!ここはまだ危険です。地下へ落ち込んでいる部分もありますので、話はあちらで…。」
 プフォルツ警部は俺達が何をしに来たのか分かっている様で、一旦現場から離れた場所へと移動し、そこに張ってあるテントに入って俺達に椅子をすすめた。
 俺達が腰掛けたことを確認すると、警部は徐に口を開いた。
「皆様…あのことで来られたのですよね?」
「そうじゃ。これ以上、後手に回る訳には行かんからの。」
 プフォルツ警部の問いに、アウグスト伯父が答えた。そのため警部は表情を固くし、アウグスト伯父を見据えて言った。
「このままの状況では、最早事件は止まらない。これまでのことで、一体警察の何が役に立ったと言うんでしょう?人間の正義など、所詮はただのままごと…。あの巨大な力の前で、我々は成す術などありません。もう…貴殿方に頼る他に道は無いと思っています。」
「それは最初から分かっておったことじゃ。」
 力なく言ったプフォルツ警部に、アウグスト伯父は静かに言った。それに対し、こんどは宣仁叔父が口を開いた。
「しかし兄上。この状況、些かまずいのでは?」
「そうじゃのぅ…。ここが落ちたとなれば、他も時間の問題じゃ。このまま静観しておっては、直ぐに他にも犠牲が出よう。」
 アウグスト伯父は宣仁叔父にそう言うや、直ぐに「京之介。」と俺の名を呼んだため、俺は「はい。」と返答した。するとアウグスト伯父はこちらに向き直り、俺に指示を出した。
「お前は直ぐに聖ルカ修道院へ向かうのじゃ。」
「聖ルカ修道院…ですか?」
 俺は初めて聞く名前に困惑した。この名前は古文書にも無かったため、それがあったこと自体を知らなかったのだ。
「メスターラー君が場所を知っとるから、このまま二人で向かうのじゃ。もう…手遅れかも知れんがのぅ…。」
「手遅れ…?」
 アウグスト伯父はそれに答えることなくメスターラー氏を呼び、俺は彼と共にそこへ向かうことになったのだった。
 メスターラー氏によると、聖ルカ修道院はこの地方の端にある森の中へあり、ここから二時間以上掛かるという。聖マタイ教会から見れば反対側の外れにあるため、幾つかの町を通らなくてはならない。
 俺とメスターラー氏は車でそこへ向かったが、俺は何故か胸騒ぎがした。さっきアウグスト伯父が「手遅れかも知れん」と言っていたこともあるが、それが確信に変わった…とでも言えば良いのだろうか…?
「どうした?気分でも悪いか?」
「いえ、大丈夫です。」
 運転していたメスターラー氏が心配そうに聞いてきたため、俺は自分の思いを閉じ込めた。ここで何を言おうと、そこに着くまではどうしようもないのだ。
 俺達は休憩する間も惜しんでそこへ来た。とは言っても、そこは未だ森の入り口だ。メスターラー氏が言うには、この入り口からは徒歩でなくてはならないそうだ。
 そこからは十分程だそうだが、数分歩いた時には、既に異常であることに気が付いた。鳥の囀ずりや虫の声が全く聞こえてこないばかりか、風向きによっては異様な臭気が鼻を突いたためだ。
 俺はメスターラー氏と顔を見合せ、足早に先へと急いだ。
 そうして目的地へと辿り着く頃、臭気は気分が悪くなる程に強くなっていた。
「これは…!?」
 鬱蒼と生い茂った木々が切れたかと思った刹那、俺達はそこで異様な光景を目にした。
 そこで目にした光景とは…崩壊した修道院と、無惨に打ち捨てられた修道士…いや、修道士だったものたちの残骸とでも言おうか。その亡骸は引き裂かれ、あちこちに散らばっていたのだ。それをカラスが啄み、その遺体の大半は腐敗して虫がわいていた。異臭源はこれだったのだ。
 修道士達には悪いのだが、正直、不気味さや恐ろしさを通り越して気持ち悪さが先行してしまう。
 俺とメスターラー氏はその亡骸と瓦礫との間を歩き回り、事態を把握するための手掛かりを探した。
 しかし…そこはまるで地獄の様で、瓦礫と屍肉と、そしての屍肉を貪る鳥だけしか無い。それだけが支配している世界なのだ…。
 そこには以前、きっと小鳥の囀ずる閑な場所であったに違いない。だが今、目の前に広がるのは死の世界であり、そこに生の息吹きを感じることなど出来はしなかった。
「一体…どうしてこんなことに…。」
 俺が立ち止まってそう呟いた時、ふと目に止まった瓦礫が動いた気がした。俺は不思議に思い、その場所へと行った。
「藤崎君、何か見付けたのか?」
 俺が動いた時、メスターラー氏はそう言って俺のところへときた。俺はさっきのことをメスターラー氏に話、取り敢えずその瓦礫を退かしてみることになった。
 動いたであろう瓦礫の前に来ると、俺達は上から順に瓦礫を退かした。結構な量があったために時間が掛かったが、途中から人の声らしき音がしたため、俺もメスターラー氏も先を急いで瓦礫を退けると、その下には頭から血を流した修道士が倒れていた。その地面には、丁度人一人が入れる様な穴が空いていたため、この修道士は助かった様だった。
「大丈夫ですか!?」
 俺は彼を抱え起こして問ったが、彼の顔面は蒼白で虚ろな目をしており、何かを答えられる状態でないことは一目瞭然だった。
 一先ずはもう少し良い場所へ彼を移そうと、俺とメスターラー氏は二人で彼を草の上へと運んだ。瓦礫の中よりは多少マシという程度ではあったが…。
 そこで再度彼の怪我の状態などを確認してみたが、かなり重症であることが分かった。頭を打っているらしく、かなり出血があったようだ。傷口は小さく出血は止まっているものの、一刻も早く手当てしなくてはならないのは分かった。だが、メスターラー氏が呼んだ救急は後十分ほど掛かる様で、その間は脈を取ったり話し掛けたりするのが精一杯だった。
 その彼だが、何かを言っている風で、唇に耳を近付けて何とか聞き取れる程度の声だったが、どうやら聖書を暗唱している風だった。
「しかし…何故彼だけが生き残ったんだ?他は無惨な姿を曝されてるってのに…。」
 メスターラー氏は、そう不思議そうに呟いた。だが、今の段階でそれに答えられる者などいるはずもなく、俺達は生き残った彼へと視線を落とした。
 その時、ふと手に何かを握り締めているのが目に入り、俺は彼の手を開いてそれを見た。見れば、それはかなり古い羊皮紙の切れ端だった。
「これは…かなり古い聖書の切れ端ですね…。恐らくは詩編だと思いますが…。」
「旧約聖書のか?だが…これは羊皮紙だろ?」
「はい。中世以前のものかと思います。ですがこの詩編…神の御名が復元されてるんですよ…。」
「…?どういうことなんだ?」
 考古学を専門にしているはずだが、メスターラー氏は聖書そのものにはあまり興味ないようだ…。
 現在に伝えられている聖書の一部は、原文とはかなり違う部分がある。特に、神の御名は神聖なものとされ、本文から全て外されたのだ。人の目につき、神の御名を人々がみだりに口にすることを恐れてのことだったのだ。
 だが、それは一部のキリスト教徒の独断でされたことであり、神の御名を人の中へ留め続けた分派もある。
 今あるカトリックとプロテスタントは、やはり神の御名を口にしない。口にしないどころか、その文字すら別の主語に置き換えている。
 カトリックとプロテスタントが悪い訳ではないのだが、一体何を信仰しているのかが不透明と言わざるを得ない。まぁ、信仰と言うものは各々なのだから、一概には語れないのではあるが…。
 それらを掻い摘んでメスターラー氏へと説明すると、メスターラー氏は何か思い付いたように言った。
「三世紀頃のニケア公会議での決定だな?」
「何だ…知ってるじゃないですか…。」
「いや、単に知識としてあるだけだ。聖書自体、現在の形になるまでにかなり紆余曲折したようだし、原典が失われてる今、それを全て復元することは難しい筈。そこまでして、何故神の名を?」
 メスターラー氏は眉を潜め、如何にも胡散臭い宗教者の戯言に付き合っているという風に問った。
 それも仕方無いと思う。彼は客観的に物事を見て、決して心を左右されない人物だ。探偵と考古学を両立させるには精神が強くなければならないし、そのお陰で彼はこちらの味方についてるのだから。
 まぁ、アウグスト伯父は洗礼を受けさせたいようだが、他宗教の遺跡発掘にも携わる彼だけに、そう容易くはいかなかったようだ…。
「それは、新約と呼ばれてるギリシャ語聖書から来てます。キリスト自体、神の御名を口にするなとは語ってませんし、祈りには父の御名が神聖なものとされますようにと言ってます。そもそも、神の御名は原典では神聖四文字、いわゆるテトラグラマトンで書かれていたわけですが、結局のところ旧ヘブライ語で母音はなく、はっきりした発音は解らないのですが。」
「だからと言って、たかが文字だ。それが力を持つとは思えないが?」
 メスターラー氏は、今度はあからさまに不信感を示した。
 だが、文字とは人の心を映す鏡。それが清ければ清いほど、邪なものを近付けないと俺は思う。そう…音楽も同じなのだ。
 神の御名はたった四文字だ。旧約聖書の時代、神の御名を安易に口にすることは許されなかった。その理由はモーセの十戒の中の一つ"あなたの神の名を悪戯に取り上げてはならない。その名を悪戯に取り上げる者を神は罰せずにはおかない。"と言う一文から来ている。だが、メシアたるイエスがそれを破棄し、新しい律法を齎したことが書かれているのがいわゆる新約聖書なのだ。
 確かに、無闇矢鱈に神の御名を口にすることは許されないだろうが、祈りの際に口にすることさえ憚るのであれば、どの神に祈っているのかさえ解らない。この世には神と名乗る輩が掃いて捨てるほどいるのだから…。
「ですがメスターラーさん。神聖だからこそ、この方はここに生きています。」
「もう死にそうだがな。」
「いいえ。この方は…死にません。」
 俺がそう言った時、メスターラー氏が呼んでいた救急がやってきた。それを見て俺は、目の前の修道士へと静かに言った。
「もう安心です。貴方から恐ろしい者は去りました。貴方は生きて、そうして先に進むのです。」
 そう言うや、彼は目を閉じた。そこから恐怖の表情は消え去り、ただ静かに寝息をたてていた。



 
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