| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

応援

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

1部分:第一章


第一章

                     応援
 本田勝久は晴れて立教大学に入った。わけではなかった。
「おいおい、本当に予想通りだな」
 キャンバスの中の皆を見てまずは一人不平不満を愚痴るのだった。その細い顔と眉を思いきり不機嫌にさせて薄い唇をへの字にさせている。痩せた身体に不機嫌のオーラをまとっている。
「長嶋長嶋ってよ。何が長嶋なんだ」
 立教大学は長嶋茂雄の出身校だ。しかも彼が入学したこの年は昭和三十四年、その長嶋が新人王に二冠王を達成した年だった。彼にとっては不機嫌極まりない年だった。
 実は彼は長嶋自体は嫌いではない。しかし巨人はこの世で最も嫌いだった。そのせいで彼は。今のこの大学の空気が極めて不愉快だったのだ。
「野球は長嶋だけじゃないぞ」
 こう言う。
「何が巨人だ。あんな球団潰れてしまえ」
 これが口癖だ。
「好き放題やっていて何が球界の盟主だ。喪主にでももずくにでもなりやがれってんだ」
 こんな有様だった。入学式が終わって桜の花びらが舞う中でいきなり巨人を罵倒しまくる。その巨人嫌いは最早病理の域に達していた。
 その病的な巨人嫌いをみなぎらせて校内を見回す。やはり長嶋しかない。たまに杉浦を見る程度だ。
「杉浦の方が凄いに決まってるだろ」
 完全に彼の主観である。
「見てろ。何時か巨人も長嶋も終わる。その時こそ」
「おおい本田君」
 一人で吼えまくる本田に対して後ろから声がかかった。振り向くとそこには丸眼鏡で丸顔の小太りの青年がいた。本田は彼の姿を見て余計に不機嫌になった。
「何だよ、小坂かよ」
「どうしたんだよ、そんなに不機嫌に吼えまくって」
 彼の高校からの友人である小坂雅人だった。高校一年の時に同じクラスになってそれからだ。親友同士と言ってもいい間柄だがそれでも今は違っていた。
「何かあったのか?」
「何で長嶋なんだよ」
 不機嫌さを小坂にも向ける。
「あんな奴の何処がいいんだよ」
「僕に言われても仕方ないよ」
 そうは言いながらも笑っていた。
「それにさ」
「そういうわりにはにこにこしているな」
「巨人ファンだからね」
「けっ」
 唾こそ吐かなかったがこれまで以上に不機嫌を露わにさせる。目が完全に犯罪者のそれになっていた。刃物を持たせたら何をするかわからない顔だった。
「長嶋好きだったな、御前」
「うん。駄目かな」
「俺にとっては最悪だ」
 彼も言葉を隠そうとしない。
「大体立教には大勢の野球選手がいるだろ」
「杉浦さんだったっけ」
「そうだよ、杉浦にしろ」
 彼は言う。
「大沢だっているだろ」
「南海の外野手のだよね」
「知ってんだな」
「やっぱり先輩になるからね」
 相変わらずにこにこと笑って本田に答える小坂だった。
「知ってはいるよ」
「あと西本幸雄さんな」
 何故かここでさん付けになる。
「大勢いるじゃないか。それで何で長嶋だけこんなに言われるんだよ」
「カリスマじゃないかな」
 やはりここでもにこにことして言う小坂だった。
「それがあるからだよ。やっぱりね」
「巨人の宣伝のせいだけだ」
 彼の主観はあながち間違ってはいないが完全に主観でしかなかった。その主観でのみ話しているから長嶋の持つカリスマに気付いていないのだった。
「あんなサタンの爪みたいな球団の何処がいいんだよ」
「月光仮面だね」
「そうだよ。悪いか」
 当時大人気の番組だ。特撮のはしりだ。
「別所といい。あの球団だけは許せるか」
「南海ファンなの?」
「いや、毎日ファンだ」
 また微妙な関係だ。大沢がいて杉浦もいるのに何故か毎日なのだ。
「西本さんがいるからな」
「そうなんだ」
「そうだよ。大体長嶋の巨人は負けただろ」
「負けた?」
「そうだよ、日本シリーズでな」
 昨年のことだった。三原脩率いる西鉄ライオンズに対して三連勝した後で四連敗したのだ。球史に残る名勝負とされておりその三原と当時巨人の監督だった水原茂との間で行われた遺恨対決でもある。三年越しの死闘として有名だが本田の中では西鉄が邪悪巨人を破った『聖戦』である。
「それでどうして盟主なんだ」
「僕は別に盟主だなんて言っていないよ」
「ああ、そうか」
 主観だけなのでわかっていないのだ。見えていないのである。
「それは済まない」
「それはそうとさ」 
 とりあえず本田が静かになったのを確認してまた彼に声をかける。
「これからコンパがあるらしいよ」
「コンパか。また随分と早いんだな」
 本田はそれを聞いてふと目を丸くさせる。
「何でだ、また」
「有志だけの集まりだけれどね」
 こう本田に説明する。
「どう?参加する?」
「ああ、酒は大好きなんだよ」
 本田の顔が急ににこにことしたものになる。さっきまでとは完全に別人だった。
「じゃあ行くか」
「大学入ったらもう誰でも飲めるのがいいね」
「だから大学なんだよ」
 小坂の横に来ての言葉だった。親友同士に戻って彼の肩を叩いて笑っている。
「高校と違ってな。おおっぴらに飲める」
「おおっぴらになんだね」
「そうだよ、おおっぴらだよ」
 つまりそれまでも飲んでいたのだ。それがわかる言葉だった。野球のことは忘れて飲みに行く。とにかくこれが二人の大学生活のはじまりだった。
 ペナント中は大人しかった。しかし十月になると。本田はまた随分と騒ぎだした。
「巨人を潰せ!」
 そう叫んでいた。大学の中で。
「行け杉浦!打倒巨人だ!」
「それはわかったけれどさ、本田君」
「何だ?」
 自分に声をかけてきた小坂に顔を向ける。
「試合はまだ先だよ」
「おっと、そうだったな」
 彼に言われて気付くのだった。
「今日大阪ではじまるんだったな」
「大阪には行かなかったんだね」
「金がない」
 理由はそれだった。当時は学生は普通に貧乏だった。ましてや立教大学のある東京から大阪までとなるとその距離はかなりのものだ。移動の金も当然かかるというわけだ。
「だからここで祈るんだよ。巨人の無様な負けをな」
「南海の勝利じゃなくて?」
「巨人の負けだ」
 いきなりキャンバスのど真ん中でイスラムのそれに似た祈りをはじめる。当然周囲は引きまくっているが彼は気にしてはいない。
「あの巨人が負けるんだよ。長嶋が杉浦に抑えられてな」
「あまりここで長嶋さんの悪口言わない方がいいよ」
「おっと、そうだ」
 言われてそれに気付く始末だ。それで立ち上がりはする。
「そうだよな」
「そうだよ」
「巨人が負けた時に楽しみは取っておかないとな」
「結局それなんだね」8
「当たり前だよ。後楽園にも行くぞ」
 高らかに断言する。最早そこには何の迷いもない。
「全部の試合見るからな」
「そうなの。じゃあ僕もまあ」
「御前も行くのか」
「一応。巨人ファンだし」
 確かに巨人ファンだが本田の異常性に比べれば遥かに大人しい。そもそも本田のアンチ巨人ぶりは最早狂気の域に達していた。
 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧