夢幻楽章
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夢幻楽章
僕は新篠台駅で彼女らと待ち合わせをしていたらしいのだった。この駅はいかにも現代チックで、黒崎線のホームは地下にあって、地上にはスーパーやら病院やら、とにかく色々とあるのだ。
僕が乗った電車が一番ホームに滑り込んだとき、イヤフォンで耳に繋いだ携帯音楽プレーヤーはハイドンのピアノソナタ六十二番の力強い第一楽章をまさに奏し終えようとしていた。腕時計の針は十二時を五分ほど回っていた。遅刻である、と思った。はたして僕は電車を降りるとすぐに、地上に上がる階段の前の女の子四人組を目にしたのだった。
四人とも同じ制服を着ていた。僕から見て左から二番目の、背は高くもなく低くもなく、肩ぐらいまでの黒髪を後ろで一つに纏めている子に、僕はまず「やあ」と声を掛けた。僕にこんな女友達がいただろうかと思いつつ、事実僕は彼女の名前がわからなかったが、一方で彼女とはずっと前からの知り合いであって確かに今日の約束の相手であるような気もしたから、挨拶したのだった。すると彼女もニッコリ笑って「やあ」と返してくれた。彼女の右隣にいた、背の高い、ちょっとボーイッシュな子が「ユカ、この人が?」と言って彼女を小突いた。「うん」と彼女は短く答えた。
四人の内で一番左にいる子は、二つに分けた三つ編みの、物静かな感じで、手には文庫本を持っていた。一番右の子は、小学生みたいに背が低かった。項《うなじ》の辺りで切り散らした茶髪を無造作に放ちながらぴょんぴょんと跳ね回っていて、中身も小学生のようだった。そうして時々隣のボーイッシュな子にあやされていた。名前はエリというらしかった。どうやらつまり、僕はユカという幼馴染みの女の子に、その友達を紹介してもらうことになっているようだった。
僕らは駅を出て、ユカが予約していた店に向かった。道すがらサキ—ボーイッシュな子—とエリはよく絡んできた。本を持っている子はやはり何もしゃべらずに一番後ろを歩いていた。一度だけユカが彼女を「ミオ」と呼んで何やら話しかけていたが、ミオは簡単に頷いただけで結局声は聞こえなかったと思う。そもそも僕はサキと二人でエリの両脇を固めて相手をするのに忙しかったのだ。エリは何度も僕を「お兄ちゃん」と呼びたがった。それはとんでもないことだった。「大体こんな妹がいたら手が掛かりすぎるよ」と僕は半分冗談めかして言った。すると彼女はふーっと頬を膨らませたかと思うと、突然飛び跳ねて僕の帽子を奪い取ったが、取り落としてしまった。そして急いでそれを拾い上げると、捕まえようとする僕の手をすり抜けて、先頭を歩いていたユカの所に走っていき、彼女に一方的に話しかけ始めた。僕とサキは二人だけで並び歩く恰好になった。サキがさり気なくエリがいた分の間隔を詰めてきて、僕に寄り添うようにして、「夫婦みたいだ」と言った。「君まで。よしてくれよ」と僕は天を仰いだが、すぐに冗談を思い付いて「第一、エリは僕の妹なんだろう。僕と君が夫婦ならあれはまさに僕たちの娘って感じだ。妹かつ娘とはおかしいじゃないか」と応えた。すると彼女は「娘か、それも良いものだな」とユカに畳み掛けるエリを眺めて目を細めた。それから「だが確かに、もしそんなことがあったら大変な禁忌に当たるな」と言ってふっと笑った。僕はなんだかやり込められた気がして素早く思考を泳がせたが、ちょうどそこにエリ戻ってきて、うーっと背伸びをして、僕の頭に帽子を再びちょこんと載っけてくれた。ユカは振り返って僕たちを見て笑っていた。サキは何食わぬ顔でぺしっとエリの頭を叩きながら、やはり笑ってみせた。もうサキに言い返すような場面ではなかった。やれやれ、と僕も苦笑するしかなかった。
店は小さかったが、内装は黒を基調とした和洋折衷の洒落た感じで、料理の方もまた然り、和洋取り合わせたちょっと手の込んだ家庭料理といったふうだった。ただ、高校生が連れだって来るには少し場違いな気もした。特に目を輝かせて「オムレツ!」などと言っている小学生もどきは、場に於いて重大な違和であると言わざるを得なかった。もっともそれはてっぺんに旗が立っているような陳腐なオムレツではなく、牡蠣と菜の花とマスカルポーネチーズのオムレツという、なかなか渋い一品ではあったが。ユカは鰤のグリルのアップル・ソース掛けを、サキは鶏とパクチーの唐揚げを、ミオは根菜と山菜のホワイト・シチューを注文していた。僕はというと、かなり悩んだ末に結局エリと同じオムレツにした。そして案の定「お兄ちゃんとお揃い!」とはしゃがれてしまったのだった。料理が来るまでの間は自己紹介の時間になった。しゃべらないミオのことはユカが代わりに紹介して、ミオはそれに対し時折頷いていた。しかし座の話題はすぐに僕の事に集中しだした。僕がサキやミオやエリの事を知りたかったように、彼女たちも僕の事が知りたかったのだろう、世には多数決の原理というものが働くし、それにユカが何故か僕について在る事無い事とうとうと話すものだから、自然とそういうことになってしまったのだ。
話が僕が先日ピアノのコンクールで入賞した事に及ぶと、サキとエリは口々に僕を讃めた。ミオも頻りに頷いていた。中でもエリはひときわ熱心だった。他の女の子たちはユカの男友達に対するサービスだったろう。しかしエリを見ていると「否、そんな大した事では」というお決まりの謙遜、否、小さなコンクールだったのだから実際に全然大した事ではないのだが、ともかくそんなことすら、なんだか言うのが躊躇われてしまった。これではまるでエリの「お兄ちゃん」ではないか。とはいえ、彼女が何を考えているのかはよくわからなかった。つまり僕はエリにとって半人前の兄なのかも知れない。そして半分の事実、半分の謙遜を言えないで、椅子の座面の半分ほどを占めて座っている。そんなことを考えながら、僕はようやくやって来たオムレツを半分に切り分けた。
食事の間も、エリは時折カトラリーを取り落としたり、食べ物をこぼしたりと、何というか相変わらずだった。その度にサキが「もう、しょうがないな」と言って彼女を小突き彼女がてへへと笑う一連は、僕にはもはや自然の事に感ぜられてしまっていた。そんなこんなで食事が終わると、デザートを食べようということになった。僕は別にデザートは要らなかったのだが、女の子たちが折角だからと言うので、僕の分は適当に選んでくれと言った。するとエリがすかさず手を挙げて「ティラミス!」と言った。彼女は既にティラミスを注文することに決めていたのだった。僕は「そうしよう」と言って微笑み、席を立ってトイレに向かった。
トイレから出てくるとそこには、聖書を手にして佇むシスターのような恰好で、ミオが例の文庫本を持って立っていた。トイレが空くのを待っていたのだろうか。しかしそれは僕の後にトイレを使うということだと思うと、恥ずかしいような、申し訳ないような、居心地の悪さがあった。それで僕は軽く会釈のようなものをしてそそくさと席に帰ろうとした。ミオの脇を通り抜けようとした時、彼女は小さく「否」と発した。僕は思わず立ち止まった。心の中を読まれたような気がして余計に気恥ずかしくなったあまり、足を止めてしまったのだ。或いは彼女の声を初めて聞いたことも理由かも知れなかった。「エリの事なんだ」と彼女は切り出した。「エリは小さい頃からずっとピアノをやっていて、上手だった」僕は少し意外に思った。一つはエリが見た目に似合わずピアノの名手だったことに、もう一つはミオがまともにしゃべれたことに。するとミオは「失礼ね」と頰笑んだ。僕はまた心を読まれた気になったが、それがどちらの感想に対してのものかはわからなかった。或いは両方だったのかも知れない。「でもエリは二年ほど前、事故に巻き込まれてしまったの。私も詳細は知らないんだけどね。それで、その後遺症でエリは指がうまく動かなくなってしまったんだ」とミオは続けた。瞬間、僕は今日これまでの事の全てに納得した。けれども何と言えば良いのか、言葉は見つからなかった。目の前の光景がゆっくりとぼやけていった。僕は、泣いていた。僕は静かに目を閉じた。
はっと目を開けると、僕は冷たい木の机の上に突っ伏していた。夢の名残は目に微かに溜まっている涙だけだった。耳許のイヤフォンが、ハイドンのピアノソナタ六十二番の第二楽章を慈しむように歌い出した。
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