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5:ooam
朝五時。
緩やかな、しかし冷たすぎるその風が僕の体を大きく震わせた。
足下ばかりに向けられていた視線を少し上げてみると、コンビニの看板やラブホテルのネオン、電気の付いていないビルの窓、そして殺風景な朝五時の道ばたが見えた。今確認出来る僕の視界の中には、人は誰一人としていなかった。冷え切ったその空間で、僕はただ呆然と明日への入り口を待っている。
板橋駅。ホーム。
あと十分もすれば始発の電車が僕を迎えにくる事は、備え付けられた電光掲示板を見れば容易に分かった。僕が最初にこのホームに降り立った時には誰もいなかったこの空間に、一人、また一人と、ぽつりぽつり人の姿が見え始めた。足下のおぼつかない人がいたかと思うと、スーツをビシっと着こなしている人もいた。
視線は前に向けられているはずなのに、僕の脳に届く情報が随分と薄い。昨日、寝ていないせいかもしれない。その視線の中に入り込んできた自動販売機の前で立ち止まり、僕は温かい缶コーヒーのボタンを押した。脳をもう少しだけ働かせ、かじかんだ手を暖めるためだ。
ガコンと音をたてて落ちてきた缶コーヒーを掴むと、その温度が僕の右手からゆっくりと体中に伝わり、体温を少しだけ上げてくれたような気がする。僕は両手でその温かくなっている缶を握りしめ、冷え切ってしまっている手を静かに暖めた。吐く息は白く、一瞬でまだ日の昇らない真っ暗な夜空に消えてしまう。
携帯が鳴った。
その音に僕は反応するべきかどうか迷っていた。今この缶から手を離してしまえば、またすぐに僕の手は冷え切ってしまう。少し間を置いたけど、結局温かい缶からは手を離し、ジーンズのポケットの中から携帯を取り出した。
"ありがとう"
太陽がまだ昇らないせいか、そのメール画面の放つ携帯特有の明るさが随分と目に染みた。僕はそれに返信をしないまま携帯をポケットに戻し、また缶に手をあてた。手が元の位置に戻った喜びを感じているように、少しずつ温もりを持ち始める。
「......冷たいな」
そんなつもりなんてなかったけど、僕の口は勝手にそのように言って、白い息が一緒に洩れた。せっかく暖まってきていた手は、僕の心から出される冷たい血液によって、段々と冷やされてしまっているようだった。
心はいつだってそうだ。僕の暖まった体を、ゆっくりと冷やしていく。
それは自然に溢れてきた透明な涙。その涙は、僕の目のすぐ下で凍ってしまったかのように冷たく、そして儚いものだった。
迎えの電車。
大きな音をたてて現れた電車は風を纏っている。そして体全体を冷やすようにその風がまとわりつき、そのまま僕の心を凍らせた。これで......おしまい。
朝五時。
とても冷えた朝。まだ11月だというのに、昨日の予報では12月中旬の冷え込みとだとテレビに映った奇麗な身なりをした女性が言っていた。とても軽い口調は、その言葉に全く真実味を帯びていなかったけど、その人が噓を言っていなかったのだと、私は今身をもって感じている。
今季一番の寒さの到来と共に、人生で一番の冷たさが私を包み込んでいた。都心からほんの少しだけ離れたこの場所では、今日がたとえ金曜日明けの朝であっても、十分過ぎるくらいの静寂に包まれていた。それを、まだ陽の登らない真っ暗な空が後押ししているようで、煌々と光るコンビニの看板でさえ、その明るさが儚さを帯びているように感じられる。
さっき付けたばかりの手袋は、まだ私の手を暖めてはくれない。それどころか冷え切った手袋が私の熱を奪っていくようで苦しかった。だから私は手袋を付けたままの手をポケットの中に突っ込んで、少しでも外気に触れさせぬように努めていた。それでも冷え切った手が温もりを感じる事はなく、どうしようもないから、自分の吐息で少しでも暖めてあげようと思って、私がポケットから手を出した時に、同じポケットの中に入っていた携帯電話が落ちた。
鬱陶しさを感じながら、その携帯を拾い上げると”新規メール一件”と表示されている。マナーモードにしていたせいか、私はそのメールが受信した事を知らなかった。
"ごめんね"
そう表示された無機質な光を放つ携帯の画面が、私の顔を明るく照らしている。”すぐにメールを送ってくるくらいなら......"と私は思った。
たった一言だけのメールは、なぜだかとても重みを持っていて、心に強くのしかかる。嫌、でもなく、喜び、でもなかったのだけれど、私はそのメールを見た時に、少しだけ後悔の念を感じていた。そんな気持ちを抱えながら、私も一言だけメールを返信する。
あの人は勇気がない。
私は昨日の夜を思い出していた。その日を昨日と呼ぶ事に躊躇いを感じているのは、きっと昨日から今になったこの時までに睡眠をとっていないからかもしれない。それなのに、私は今一切の眠気を感じない。
電車のアナウンスが流れると同時に、電光掲示板が点滅を始めた。その音を聞くと、私の左手は急についさっきまで感じていた温もりを思い出した。あの温もりをもう感じる事はないんだ。私自身に言っているようで、私ではない誰かに言っているようでもあった。
冷たい。
外気の冷たい空気なんかよりも、もっともっと冷たい水の底に沈められてしまったみたいだ。真っ暗闇の水の底で、私と彼は向かい合ったまま距離を置いて、何も言わないまま。彼を迎えに来た電車が、大きな風を纏いながら私と彼を遮った。
これで…本当におしまい。
下り電車は彼を連れ去ってしまうのだから。
■古びた町の本屋さん
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