俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか
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18.なきむしオーネスト
それは、ある女神の懐かしき過去の記憶。
恐怖とは、人が生きる限り逃れる事の出来ない魂の呪縛。
逆を言えば――恐怖から解放された存在とは、既に人ではない。
それほどに恐怖とは明瞭で、単純で、余りにも耐え難い。
「おぅい、ガキィ!てめぇ聞いてんのかよぉ!!」
オラリオの然程人通りも多くない路地で、その恐怖を振りかざす一人の男がいた。
常人より大きな図体は2M近くあり、背中に背負った大きな戦斧が彼の怪力を象徴するように揺れる。誰もがその男を見て「関わりたくない」、「声をかけられたくない」と思わせるだけの暴力と傲慢の気配を感じる、そんな男だった。
男は、薄汚れた服と貧相な皮の鎧を着た小さな子供に容赦なく詰問する。
「お前の背に持ってるその剣よぉ、俺の無くした品と全く同じモンなんだよなァ。知ってるか?『黒曜の剣』っていう、それはそれは貴重なレアドロップなんだぜぇ?」
「…………………」
「ああ、酒屋で一杯ひっかけながら自慢しようと思ってた品なんだよォ。ちょっとばかり目を離した隙にどっかに行っちまったがなぁ?そして探してたら、お前みてぇなクソガキがご丁寧に黒曜の剣を引っ提げて歩いてるじゃねえか。こりゃ『ありえない』くらいの偶然だよなぁ?テメェみたいなガキの腕前と小遣いで手に入る品じゃねぇもんなぁ?」
婉曲な物言いは、既に男が偶然や疑問でなく確信に到っているであろう事が分かる。
子供は、12,3歳ほどの男の子だった。体躯に不釣り合いなほど立派な剣を背負った彼は、大男の見下ろすような視線を避けるようにただ俯いている。その表情は伺えないが、数少ない通行人たちは内心でこう思っていた。
恐らく、少年は大男の威圧と恐怖に必死で耐えているんだろう、と。
子供にとって大人は上位の存在であり、抗っても抗いきれない力と知恵を有している。そして、子供の生きる社会を構成するのは大人のほうだ。何より、少年でなくともあれほどの大男を前にすれば普通の非冒険者や体格に劣る人は縮こまるしかない。
黒曜の剣は、ダンジョンでも特定のの強力な魔物しかドロップしない貴重な剣だ。武器としては勿論、素材も貴重なためにマテリアルとしても使い道が色々と存在する。その剣を、貧相極まりない防具しか付けていない少年が自力で手に入れられるとは考えにくいし、購入するお金を持っているとも思えない。
すなわち、最も確率が高い入手経路は――窃盗だ。
オラリオでは装備や魔石の持ち逃げや横流しはそれほど珍しい話ではない。冒険者が揉める理由の中ではそれなりに多数を占め、被害に遭った冒険者は怒り狂って相手を探して私刑にかける。例え相手が女子供だろうと、血気盛んで気性の荒い冒険者の多くはそれを気にしない。
どんな存在であれ、泥棒は悪。貧しいのは貧しい本人の所為。子供が犯罪に手を染めるのは、非力で金も稼げない子供が悪いからだ。だから大男を止めて少年を助けようなどという奇特な人間はいなかった。
ただ一人、その光景を路地の木陰でヒヤヒヤしながら眺めている小さな背丈の神様を除いて。
(ああもう、何で子供相手にあんなにムキになれるかなぁ!今にも手を上げそうじゃないか……やっぱり早めに割って入って仲裁した方がいいよね?)
ヘスティア――天界の三大処女とも呼ばれるロリい女神の姿が、そこにあった。
その頃、ヘスティアは丁度家主のヘファイストスとイザコザを起こして彼女のホームを飛び出し、漸く自力でファミリアを作ろうと動き出したばかりの頃だった。勿論他人を助けるような金銭的余裕もないし、貧乏の神なんて貧乏の冒険者と同程度の価値しかないのがこのオラリオだ。奇異や好奇の目線はあれど、本気で助けてやろうなどとは考えない。
ヘスティアは弱きに同情する善人だが、救済する聖人ではない。
子供であっても罪には罰が与えられることを良く知っている。
そして、話の流れからして少年は恐らく、本当に剣を盗んでいるのだろう。だからヘスティアにはあの少年を助ける理由など無い。彼も年季が入った装備をしているということはどこかのファミリアに所属しているだろうからスカウト名目で、というのも難しい。つまり、助けても得る物は自己満足だけだ。
それでも、ヘスティアは最悪でも彼が暴力を振るわれるより前に仲裁して、盗品を返すことだけで許してもらえるよう説得しようと思っていた。でなければ最悪あの少年は謂れのない罪まで押し付けられて有り金を全て奪われたり、サンドバックにように暴力を受けてもおかしくはない。
できればあの大男に理性ある対応を求めたいが、その大男はとうとう子供の肩を乱暴に揺さぶり始めた。少年は俯いたまま揺さぶられ、悲鳴さえ上げられない。
「おぅい、黙ってんじゃ会話ができねぇだろぉ?なぁクソガキ、お前……その剣をいつ、どこで、どいやって手に入れたなんだぁ?ガキが手に入れられる剣じゃねえよなぁ。拾い物か?拾い物はいけねぇ、落とし主に届けるのがマナーって奴だろぉ?」
子供相手にそこまで凄む男がマナーを語るか……と、ヘスティア頭に血の昇った男に侮蔑の視線を向ける。
さぁ、次の少年の発言と男の応対次第では本格的に危ない。男はそれなりに下手に放っているが、これ以上自ら下手に出る事はしないだろう。この流れを逃せば、男の苛立ちや怒りは上がる一方。たとえあれが本当に少年の物だったとしても、渡さなければ暴力で無理矢理奪われる。
ヘスティアには、どうしてもそんな未来がそこにあると知りつつ見て見ぬふりは出来ない理由がある。
(『あの子』が生きてれば、ちょうどあれくらいの年齢……か……最近どうも、ボクは子供に甘すぎるな)
自らの行いを自嘲しながらも、ヘスティアにはどうしても忘れられない少年の顔があった。
嘗て自分によく懐いていた一人の子供を助けることが出来なかった、忌まわしき悔恨。
全てを知った直後にヘファイストス・ファミリア総出で捜索を行ったにも拘らず見つかることのなかった、あの子の事を。
もし、ヘファイストスに甘えてばかりでなく『あちらのファミリア』にも顔を出していれば、歪みの前兆くらいは感じられたのかもしれない。それが叶わなくとも、親と引き剥がされたあの子を保護するくらいは間に合ったのかもしれない。そんな後悔が、子供を見る度に脳裏を過る。
(ここでボクがしゃしゃり出ても、たかが貧乏少年の身体に傷が減るだけ。自己満足でしかない……でも、自己満足も出来ないからボク達はあの時、後悔したんだ……)
きゅっと口元を引き締め、ヘスティアはとうとう物陰から身を乗り出す。だが、それとほぼ時間を同じくして――大男に肩を掴まれていた少年が沈黙を破って顔を上げた。
結果から言うと、ヘスティアは少年の事を見誤っていたのだろう。勝手な先入観で、彼が怯えて口を出さないのだと思い込んでいた。だからこそ少年が動いたことに少し驚き、そして次の瞬間に更なる驚愕が襲った。
「お前のことなど知ったことか。そこをどけ、木偶の坊」
一瞬、空気が凍りついた。
「こっ………のガキィッ!!」
やや遅れて、その言葉が自分に向けられていることに憤怒した男の剛腕が少年を殴り飛ばした。埃が吹き飛ぶように簡単に宙を舞った少年の身体が路地に積み立ててあった木箱に激突し、少年の身体は崩れた木箱に埋められる。
がらがらと音を立てた木箱は少年の上に降り注ぎ、彼の上半身が埋まって見えなくなる。
「フゥ、フゥ……どの口が木偶だとぉ!?俺様はレベル3の冒険者だ!!テメェみたいな薄汚ねぇゴミクズと俺様を一緒にしてんじゃねぇッ!!」
「――ッ!!し、少年!!」
ヘスティアは、その場を瞬時に飛び出して吹き飛ばされた少年へと駆け寄った。
相当な馬鹿力だった。下手をすれば骨が折れているかもしれない。少年の無謀で傍若無人な物言いに肝を冷やしながら、ヘスティアは非力な腕で少年の上に乗った箱を退けようとする。
「大人しく剣を返してりゃ良かったものを……へへ、もう許さなねェ!!おい、どけよ白い嬢ちゃん。大人を舐めた子供がどんな目に遭うか、もっと体でわからせねぇとならねぇ!!」
「ま、待つんだ!たかが子供の言ったことだし、もう充分彼は痛い目を見ただろ!?落ち着いて、剣だけ持ってこの場は下がってくれ!!」
「うるせぇッ!テメェも俺を馬鹿にすんのかぁッ!!」
「キャアっ!?」
剛腕がまた振るわれ、今度はヘスティアの華奢な体が宙を舞った。
地面に叩きつけられた衝撃で体が大きくのけぞり、痛みが背中を襲う。
「――ガハッ!?げほ、げほっ……!」
「子供には教育が要るんだよ。こういう大人を舐め腐ったクソガキはよぉぉぉく躾けておかねぇとまた同じことをやらかす!そうしてこの町の屑になって俺達に迷惑をかけ続けるんだよッ!!へへっ、そうさこれは町内清掃って奴だ!!クズをクズ籠にぶちこんで何が悪い!?」
「な……き、君も彼も人間だろう!ゴミなんかじゃあるもんか!」
大男が木箱の前まで歩いていく光景を、ヘスティアは必死で呼吸を整えながら止めようと足掻いた。しかし、地上に降り、力を封じたた神とは非力なものだ。殴られたわけではなく突き飛ばされただけなのに、ダメージで足が震えてしっかり立ち上がれない。
そんなヘスティアの姿を改めて見た大男は、にちゃあ、と、本当に醜悪で蛆虫の群れを顔にぶちまけられるような悪寒の奔る下卑た笑みを浮かべた。
「あァ……女はモノによっちゃあゴミでもねぇかもなぁ?脅して利用するなり隷属させるなり抱くなり使い道はあるよなぁ?嬢ちゃんは小せぇが、そのデケぇ乳房がありゃ男を悦ばすくらいの価値はある」
「ひ、人を愛玩道具みたいに……くっ、けほっ!女の子を……いや、人を何だと思って生きてるんだい君は……っ!」
「そりゃ、『利用できる限りは』可愛がる対象だろォ?イイもんだぜ、従順な女ってのはよぉ!まぁ俺も流石に嬢ちゃんみてぇなガキまで抱く趣味はねぇけどなぁ。惜しいなぁ、もうちょっと大きけりゃ面白い事も出来たのによォ。例えばこのガキを助ける代わりに俺様を慰めてもらうとかなァ?――これでも、神ともヤったことがあるんだぜ?『そっちのファミリアになってやろうか』ってちょっと唆しただけで本気になってよぉ?おかげでタダでヤれて傑作だったぜ!!」
「………君は、最低の人間だ。地上に降りてそれほど経ってないが、それだけはボクが保障しよう」
神の子である人に対して、ヘスティアは純粋に吐き気を催した。
神と不埒な行為を行うことも、神の側が望めば不可能ではない。そして女神の中には眷属を得るために身を売るような真似をするほど切羽詰まった者もいる。神の中にも最低と思える存在は皆無ではないが、興奮気味にまくしたてる大男の姿が改心するイメージが浮かばなかった。
しかして、この救いようのない屑はレベル3――このオラリオに於いても上位と言える一握りの強者に分類される存在。こんな存在が偉ぶって大手を振っているオラリオという街の歪さを、ヘスティアは初めて実感した。
「とまぁ、女ならブサイクでない限り価値はある。だが野郎のガキは最悪だ。捨て子ってのは生きるためなら泥棒も殺人も平気でやるし、言葉は嘘と虚勢で塗り固められてやがる。おまけに狂暴で臭くて汚ねぇ。どこの誰がこんな迷惑なクソガキを冒険者として『飼って』んのか知らねぇがよお……クソガキってのは生きてるだけで迷惑なんだよ」
「だから、人間扱いもせずに暴力を振るっていいとでも言うのか!?それがどれほどの傲慢か理解して言ってるのか……ッ!!」
「はん、俺にはこんな薄汚ねぇクソガキを庇う嬢ちゃんが気味悪くて仕方ねぇ――さぁ、おべんちゃらはここまでだ。まずは俺の剣を返してもらって、躾けはそれからだ!」
男の野太い腕がゆっくりと木箱に埋まる少年に伸びる。
粗暴で、粗野で、優しさなど欠片もない蛮人のような荒々しいその掌に――黒い刃が生えた。
「あ…………?」
突如自分の利き腕に奔った衝撃に、大男は顔を顰める。
その刃の正体を確かめる前に、大男の掌から夥しい量の血液が噴出した。
「ゴチャゴチャと……迷惑な屑は、手前なんだよクソがッ!!」
年端もいかない貧相な少年の内より溢れる、魂を焦がすほどの憤怒の双眸。
刃の正体は、少年の突き出した黒曜の剣の切先だった。
それを理解した頃には、既に男の掌は縦一閃に切り裂かれた後だった。
「――うぎゃあああああああああああああああああ!?いい、痛い!?痛いぃぃッ!!ぐああああ、ああああー!!あああああああああああああああああああああ!?」
想像を絶する激痛に大男はその場でのたうちまわって醜い悲鳴を上げた。少年は大男の返り血を浴びながら身の丈に合わない剣を携え、烈火のような怒りを湛えてその男に更に斬りかかった。男は自分の手があり得ない形状に裂ける光景に恐慌状態に陥り、まだ酒も飲めない年頃の少年の太刀を躱すことも受け流すことも出来ない。
「てめぇがッ!!どこの誰でッ!!何を無くそうがッ!!俺の知ったことじゃねぇんだよおおおおおおッ!!」
「げふぅッ!!ああ、ああ、やめ――ヒギャァァァァァッ!?」
体躯に合わない大きな剣を両手で力任せに振り回し、少年は微塵の躊躇もなく人間を斬る。それは、この街でも完全な非合法で、一種の禁忌とも言える行為だった。
暴力沙汰とて大半は見逃されるものの、時にはファミリア同士の抗争の火種になることもある。そんな中、魔物を斬るべき剣を人間に向けるのは度を越した行為だ。その行動をすれば周囲を一斉に敵に回し、度が過ぎれば指名手配。こんな真似を本気でするのは闇派閥か、確実にばれない場所でする闇討ちだけだ。
普段のレベル3としての戦士ならば避けられたはずの攻撃。だが、悪魔に憑りつかれたように怒り狂う少年の尋常ならざる殺意と、躊躇いもなく人間の掌を『縦に割る』常軌を逸した行動が、男の心の弱さを強引にこじ開けた。
力任せに棍棒を振りかざすような荒々しい斬撃は、大男の腕や足を真っ赤に染め上げる。深い傷ではなかったが、鎧を潜り抜けて皮膚を抉る生々しい切り傷が否応なしに男の命の温度を下げていく。
恐ろしい。この暴虐の権化のように常識を斬り裂く悪鬼が恐ろしい。
一体どのような経緯を経ればこんないかれた人間に出来上がるのか全く理解が出来ない。
「おグオッ……っ前ぇ!!こ、こんな真似して唯で済むと――!?」
「薄汚い大人の分際で俺の許可なく口を開いてんじゃ……ねぇよおッ!!」
「あぎゃあああああああッ!!あ、足がぁぁぁッ!!」
「ハァッ……ハァッ……俺の剣は!!俺が得た、俺の物だッ!!俺から奪う奴は絶対に許さねぇ……俺には力があるんだ!お前みたいな生きる価値もなく搾取するだけの屑を血染めにして奪い返す力がァッ!!」
太股を裂かれて情けない悲鳴を上げて地面に転がった男の鎖骨付近に、追撃の刃が突き刺さる。
「俺が塵なら、塵に負けたお前は何だ?……言ってみろよオイッ!!」
「ぁぎいいいいいいいいいいいッ!?やめてっ……ぐれぇッ!?ぎぎがああああああああッ!?」
修羅の形相で叫ぶ少年が万力のような力で剣をねじり、男の肩の肉がブチブチと音を立てて抉れる。まるで出来損ないのオルゴールを螺子で巻いたように、男から魂を削るような悲鳴が漏れた。夥しい血液を噴出しながら醜く泣き叫ぶ男は本能的に抵抗しようとに自分の斧を握ろうとするが、引き裂かれた掌が上手く斧を掴める筈もなく、ただ血で取っ手が滑るばかりだった。
オラリオの公衆の面前で繰り広げられる、耳を塞ぎたくなる悲鳴と猟奇的な光景。
誰も彼を止められない、誰も大男を助けようとしない。
何故なら、少年が振るう常軌を逸した暴力が恐ろしいから。
そう、それほどに――恐怖とは明瞭で、単純で、余りにも耐え難い。
「おい、何の悲鳴だ――ヒッ!?」
「だ、団長!?て、てめぇガキ!!団長になんてことを――!?」
「あああ、あああ!!た、助けてくれ!!このガキ正気じゃねぇ!!こ、ころ……殺されベブッッ!?」
「『大人』風情が『子供』の許可なく喋ってんじゃねぇ……!!」
少年のブーツの踵が大男の口を踏み潰し、バキバキと生々しい音が響いた。男の顔面に食い込んだ踵が、彼の永久歯を踏み折ったのだ。体のあちこちから血を噴出しながら顔面を血塗れに濡らす男は、踵と自分の歯、そして血によって窒息寸前になっていた。
少年は、その男がまるで踏みしめる石畳と同じであるかのように自然に、返り血を浴びた顔を後から来た男経都の方に向ける。
「――それで?お前らは俺に何の用だッ!?てめえらも俺に喧嘩を売りに来たってかァッ!?」
その咆哮にも似た鬼気迫る叫び声は――確かに、暴力の『恐怖』としてその場の大人たちの全身を雁字搦めに縛りつけた。
大男の拳は、少年に効いていなかったわけではない。現に少年の頭からは木箱にぶつかった時の裂傷がどろりとした血を流し続けていた。しかしその血さえも恐ろしいと思えるほどに、少年の気迫は路地の空間全てを埋め尽くしていた。
結局、その場で唯一冷静だった相手側の団員が「黒曜の剣は別の場所で見つかった。うちの団長が勘違いして悪かった」と地面に頭を擦りつけて謝罪。少年はその頭を無言で一度蹴りつけて謝った男の鼻を粉砕した。
くぐもった悲鳴をあげるその男をしばし見下した後、少年は「二度と俺に近寄るな」と一言呟いて大男を集団の方へ蹴り飛ばした。衝撃で大男の口から歯と鮮血がぶちまけられた。集団は少年に怯えながらも最低限の応急処置のを大男に済ませ、逃げるようにその場を立ち去った。
「くそ、くそ……イ、イカレてやがる。正気じゃねぇ……!」
「これ以上喋るのはよそう。俺達も殺されかねん……」
「う゛ぁ……あ゛………」
ポーションと包帯塗れになりながらふらふらと歩く男が最後に少年に注いだ目は、屈辱でも怒りでもなく、純粋な恐怖だった。
しかし、ヘスティアは少年を恐ろしいとは感じなかった。
(今、戦う瞬間に放った気配――あれは、『――――』の眷属のもの……!例え何億年の刻が流れようが、ボクが『――――』の気配を読み間違えるなんてありえない。でも――ああ、そういうことなのか……!)
少年が誰なのか、気付いてしまったから。
その少年と自分が、かつてよく遊んでいたという事実に気付いてしまったから。
生きていて嬉しい筈なのに。再会できて嬉しい筈なのに――ヘスティアが最初に感じたのは、悲哀だった。
(今の今まで気付かないほどに……君はどうして、何でだ………まるで、あの頃とは別人じゃあないか……ッ!!)
きっと彼女が神でなければ永遠に気付くことが出来なかったのではないかと思うほどに、かつての快活な少年は変貌してしまっていた。
暴力も血も好きではなく、人を脅したり怪我させたりはしない、誰から見ても可愛らしいと思えるような子供だった彼は――あの時に間に合わなかったばかりに、どこまでも歪な存在になってしまっていた。
何が彼をあそこまでの暴力と殺意に駆り立てているのか、ヘスティアには分からない。黒曜の剣を手に入れるまでにどれだけの死線を潜り抜けたのか見当もつかない。どれほど周囲を拒絶し、恨んでいたのか理解したくもない。
(違うだろ……君は、そんなにも濁った憤怒を宿すような少年じゃなかったじゃないか。母親の愛を受けて育った、これ以上善良な子はいないと思えるほどに可愛くて、戦いの才はあっても向いてはいないような、優しい………)
過ぎ去りし過去にどれほど手を伸ばしても、秒針は嘗てに戻ることはない。
あの頃、ヘスティアと共に笑っていた少年は、もう二度と戻ってくることはない。
全てが終わった少年は、先ほどまでの烈火の如き怒りなど無かったように、静かに身を翻す。
自らの行動の虚しさを悟ったように、その存在感は年相応の小柄な背中に収まっていた。
その少年の背に、ヘスティアは泣きそうな程に上ずった声をかける。
「どこに行くんだい、アキくん……ボクの顔も忘れてしまったのか?」
「……………あんた、は」
振り返った少年の眼がヘスティアを捉え――その濁った意志に、ほんの僅かな動揺が走った。
今の今まで、こっちには気付いていなかったとでもいうような表情に、ヘスティアは自分の爪が掌に食い込むほど握りしめて、涙を流した。
――ああ、天よ。どうしてこの子がこんな姿になるまで放っておいたのだ。どうして、自分は彼がこんな姿になるまで見つけ出すことが出来なかったんだ。ヘスティアは、他の誰でもない――たった一人の子供を助けられなかった自分が憎くなった。
「うちにおいで……その血を体に塗したまま大通りを歩かせたくない。お風呂、貸してあげるよ」
「俺は!……俺は、もうあんたの知ってる子供じゃない。俺は――」
「いいから、来るんだ」
ヘスティアの細い手が少年の手を掴んだ。手まめだらけでごつごつとした年齢不相応な掌の感触が、ヘスティアを更に悲しくさせた。かつて差し伸べれば笑顔で握り返してくれた無邪気な手も、今や血を啜り赤く滲んでいる。血生臭いその掌は、幾ら洗っても拭えぬ罪の重さを宿しているかのようだった。
その罪を背負うような生き方を、ヘスティア達はさせないことが出来た筈なのに。
「一度だけでいい、来てくれ……二度目を逃したら、ボクは今度こそ自分が嫌いになってしまう……」
一度目は見つける事さえできなかった。
だから、二度目は――例え手遅れだとしても、手を握り返して欲しかった。
少年は一瞬その手を振り払おうとして――止まった。
まるで腕が自分の意思を無視して動いたっかのように目を見開いてヘスティアと繋がれた手を見つめた少年は、小さな小さな嗚咽を漏らし、やがて力なく項垂れた。
「―――………わかっ、た」
静かに、とても静かに、自分でも理由の分からない涙を流しながら、手を引かれて少年は歩く。
その姿は先ほどまでの悪魔のような姿からは想像も出来ないほどに小さく、まるで迷子の子供が母親を求めて彷徨っているかのように痛々しかった。
その涙は誰かに縋る涙ではない。
オーネストは決して他人の為に涙を流しはしない。
彼が哭いているのならば……それは、オーネストがオーネストに対して流す涙だ。
だとしたら、最もオーネストを憐れんでいるのは、本当は――
後書き
5000文字で済むはずが、細かい所を詰めたら普通に過去話だけで終わってしまいました。
………カルピス文字書き(ボソッ)
ちなみにオーネストの人生的にはここがヘスティアルートに行くかどうかの瀬戸際でしたが、彼は自力で折りました。折ってなければ多分小説のタイトルが「ボクの眷属が狂犬すぎてファミリアに誰も近寄らない」になっていたと思われます。
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