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彼女は、蜜柑と伊予柑の区別がつかない。

作者:喜多井
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彼女は、蜜柑と伊予柑の区別がつかない

彼女は、蜜柑と伊予柑の区別がつかない
喜多井

いったい、人はなんのために生きているのだろう。
この疑問を街行く人に聞いてみれば、自分のためとか、好きな人大切な人のためとか、社会や世界のためとか、いろいろな回答があると思う。
今、その問にぶつかっていない人だって、「わからない」と回答した人だって、突き詰めて考えれば、きっと何かのために生きているのだと思う。
私もそういう人なのだ、とずっと思っていた。十五年間、何の疑いもなくそう思っていた。
自分は身近の愛する人のために、生きているのだと。努力の先にある、明るい未来のために、生きているのだと。見知らぬ、まだ出会ってないけれど、これから愛し合う予定の人々のために、生きているのだと。
私は幸福な日常の延長に、この問題を置くことで、そういう答えを持っていた。
正しさや愛などの、そんな名言集に書いてありそうな、美辞麗句を答えることができればそれで満足だった。
でも、今はもう、そう思えない。満足とは程遠く、美辞麗句で酔うことも、今はできない。それは、日常が尽く変化してしまったからでもあり、井上未知花の存在を知ったから、でもあると私は思う。
「貴方はなんのために生きているのですか」
その答えを私は、未だに持っていない。



暖房の切られた四月の病室は、外より寒かった。
淡いクリーム色のカーテンで仕切られた、生活感の漂う空間の中で、彼女が蜜柑の袋を開く音が、やけに物々しく響く。
私はその光景を緩慢に観察しながら、ベッドの脇にある、数字と針が蛍光で塗られた置時計に意識を向ける。二つの針はちょうど五時半を指していた。この病室に着いたのが、二時を少し回ったあたり。そこから、自分が想像していたより、時間が進んでいる。その事実に、驚きとも諦めともつかない、複雑な感情が私の胸に広がった。
彼女といると、いつも、そうだ。気づけばいつも、私は世界から切り離されている。
がさりと音を立て、彼女はそのしなやかな細い指で、袋から蜜柑をつまむようにして取り出した。そして、こちらに微笑んで、親指と人差し指で右目を蜜柑で隠しながら、
「蜜柑はね、黄昏を噛み締めた味がするの。」
と、なぜか得意げに、でも少しだけ面映そうに小さい声で告げた。
私は、その蜜柑の眼帯ポーズが面白くて、照れる彼女が可愛らしくて、苦笑してしまう。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに……。でも、未知花さん、それ、随分と素敵な言葉だね。本とかなにかで見たの。」
私の視線はベッドの上に置かれた、『智恵子妙』というタイトルの本に向けられた。すると未知花は、なぜか赤面してしまって、「いえ、あの、」と呟いて顔を横に向け、「私が考えました、すみません。」と囁いた。……蜜柑の眼帯を作ったまま。
私は笑いながら、蜜柑を袋から取り出し、未知花の真似をして、右目の視界を橙色で埋めてみる。蜜柑を顔の近くに寄せると、爽やかな柑橘の香りが鼻をくすぐった。
「ねえ。この蜜柑を目に当てるのって、何の意味があってやってるの。」
「えっと、蜜柑に黄昏を集めるため。」
照れくさそうに未知花が言う。なるほど。
「じゃあさ、ここ折角、四階だし窓辺だしカーテン開けない? きっと、今なら西日がちょうどいい感じじゃないかな。」
「あ、うん。」
私は自分の蜜柑と彼女の蜜柑に《黄昏を集めるため》に、カーテンを勢い良くスライドさせた。
すると、屈託のない健康な光が、淡い世界を切り裂くように病室に降り注いだ。すぐに左の視界も橙色で染められる。予測していない刺激に目が痛くなった私は、慌てて彼女の方を振り向いた。
彼女‐井上未知花‐は、蜜柑を持ったまま静かに固まっていた。
蜜柑と同じ色の橙に全身を浸して、彼女はとろりとした陶然とした表情で、落日の煌きを見ていた。蜜柑で隠されていない方の、瞳のハイライトが素敵だった。
彼女の吹雪のような白い顔に、蜜柑の琥珀のような橙と、日光の紅葉のような橙が混ざり合っていた。その夢見る少女のような表情を見た時、彼女が私と同い年だったということを、改めて実感した。
私も蜜柑を今度は手のひら全体で持ち、また日の差す方へと体を向けた。
「うん…。もういいよ。もう十分。」
満足げに彼女はそう告げ、右手の蜜柑をぽーんと放り上げた。手から放たれた、浮遊した蜜柑は重力に従い、彼女の膝元のあたりに、ぼどっと苦しそうな音と共に落ちた。私も蜜柑を目から離し、鋭すぎる陽光を遮るために、カーテンを閉めた。
「これできっと、この蜜柑は黄昏の味になったと思われます。」
未知花の頬に笑窪が浮かんでいた。
「そうかな……。そうかもしれないね。」
私が、なんとも言えない微妙な返事をしたのを見て、未知花はまた恥ずかしそうな表情を浮かべていたけれど、そうじゃない。私は未知花に見とれていただけだ。いや、そっちのほうが恥ずかしいかも、と薄ぼんやりとした頭で思った。
「蜜柑……。食べよっか。」
どちらからともなく言うと、私たちは、小学生の女の子のように、顔を見合わせはにかみながら、皮を剥き始めた。未知花は確か、花びらのように正攻法で蜜柑の皮を広げる。普段はなかなか、芸術的な蜜柑の皮剥きを披露している私も、この雰囲気では流石に遠慮した。未知花の手元を見ると、花びらは大きめなタイプみたいだ。私もそれに習おうと、蜜柑のお尻に親指を刺した。先ほど袋から取り出した時、ひんやりと冷たかった蜜柑は、《黄昏集め》で少しだけ温くなっていた。
剥き終えた。花びらのようにはならなかったけど。なんかメタルスライムみたいな形状になったけど。気にしない。
未知花は、見事な花びらの中の、蜜柑の節を取っていた。相手が未知花さんでなければ丁寧すぎて引く。私は別に、メタルスライムの節を取らなくても食べれるくらいには、図太い。
「未知花さん、未知花さん。それあとどのくらいかかります。」
「んー。待ってなくていいよー。大体一時間くらいかかるし。」
長いよ。相手が未知花さんでも引くわ。
流石に待つわけにもいかないので、節だらけの蜜柑を一房ちぎり、口に入れる。
……うん。おいしい。普通だ。何も変わらない。
期待していたほどの、感動的な何かが、この蜜柑の味に込められていたわけではないようだった。あの《黄昏を集める》行為も、影響していないのかもしれなかった。
「どう? 美味しい?」
未知花さんが節を取りながら、でもこちらに目を向けながら聞く。
「うん。普通に美味しい」
えー、普通って褒めてるの、と未知花さんが不満げな声を上げる。
「じゃあ、こっち食べてみて。」
そう言って、未知花さんは自分の蜜柑を一房くれた。
「きっとこっちは、黄昏を噛み締めた味がすると思うよ。」
自信満々な彼女に頷き、蜜柑を受け取り口に入れた。
普通だった。何の違和感もない。
一瞬、彼女に申し訳ないような気がして、いつもより甘く感じるとかそんなことを言おうかと思った。
でも、と思う。
でも、そういうものなのかもしれない、こういうものは。黄昏を噛み締めるというのは、そんなに、特別なことではないのかもしれない。
口の中の甘酸っぱい果肉を嚥下し、節を取って手元に集中している彼女に、声を掛けた。
「おいしいね。黄昏。」
その言葉に彼女は、本当に心の底から浮かべたような笑顔で、可憐な笑い声を上げた。私も楽しくなって、いつもより、一オクターブぐらい高い声で、釣られるように笑い声を上げた。

私が未知花さんのお見舞いとして、五つ入りで買ってきた蜜柑は、なぜか私が四個食べた。晩御飯が近いし食欲があまりない、というのが理由だった。
蜜柑を食べ終えると、時計の針が夜を告げていた。
「ごちそうさま。それじゃ私そろそろ帰る。」
「あ、うん。いつも、わざわざお見舞い来てくれてありがとうね。」
「そんなに、寂しそうな顔しないでよ。また来週末に来るから。今度は……そうだ、なにか退屈しないような小説持ってくるよ。いつも『智恵子妙』だけじゃあ、飽きちゃった時、大変でしょ。」
「うーん。申し出はありがたいのだけれども……。フミちゃんが持ってくるお話って、どうも忙しいというか……。私の肌に合わないのよね。」
「辛辣だなあ……。」
彼女の言葉に戦慄するほど、心の中で同意する。それはそうだろう。本当にそうだろう。
「でも、ありがとう。そこまで気遣ってくれるなんて、本当にあなたと友達でよかったわ。」
「……うん。じゃあね未知花さん。また今度。」
未知花さんに手を振り、手を振り返してくれた彼女の姿を確認して、病室から出る。クリーム色のカーテンに向けて、小さくバイバイと呟くと、扉を閉めた。すると、失っていた現実感覚が急に、重たく胸に引っかかり始めたような、そんな気分になった。さっき自分がいたところが本当の居場所で、今自分がいるところは、全くの嘘なんじゃないかと思えた。
深呼吸を何度かしてみる。薬なのか、入院患者の匂いなのか、色々混ざった病院特有の香りが胸をつく。好きな匂いではないけれど、こうでもしないと、家路につくのが困難に思える程に、私は一瞬で疲弊していた。
落ち着いた、うん。そう呟き、足をエレベーターに向けた。
病院内はそろそろ夕食の時間だった。慌ただしい様子の廊下を、看護師さんに会釈しながら通り抜けていく。辿り着いたエレベーターの中で、階数表示を眺めながらもう一度深呼吸してみると、ようやく、自分が世界に溶け込めたように思えた。
病院を出て、駐車場あたりで携帯の電源を入れると、着信が二件入っていた。090‐××××‐××××。どちらも未登録の番号だったけど、母と叔母の二人だろうと推測できた。
私は母と思しき、十一桁をタップしコールボタンを押す。あくまでも折り返し目的で、普段ならコール音ばかり聞く羽目になるので、すぐ切ってしまう。今回もそうしようとしたが、時間帯的に余裕があるのか、最初のコールで母は電話に出た。
「もしもし。フミ? 今終わったの? おばあちゃんどうだった?」
「別に。いつもどおり元気だったよ。」
《いつもどおり》の確認作業を、私は出来るだけぶっきらぼうに答える。それを聞いた相手も、それほど追求してこないで、晩御飯の用意のことや、今日家にいないこと、叔母の洗濯物を選択して欲しい、などの連絡事項を一方的に告げ電話を切った。
一つため息を吐き、耳から携帯電話を離すと、暗い画面に暮れた空と目つきの悪い女の子が反射していた。私はそこから目を背けるように、四階のカーテンの掛かったあの部屋に思いを馳せた。
静謐な森の奥深くの、世界の果ての花園のような場所に、私の祖母‐井上未知花‐は入院している。
蜜柑を、黄昏を噛み締めた味だと、表現する感性の状態で、『智恵子妙』に心躍らせる、そんな感性の状態で、祖母はあの場所に存在している。
朗らかな顔のシワの寄りも、橙色に染められた九十九髪も、蜜柑を持ったその手の震えも、全く関係なしに、《未知花さん》はあそこにいる。
それはおとぎ話のような事実で、夢物語のような現実だった。
キラキラと光を反射する病院の窓から目を逸らし、こつりと、爪で音を立て携帯電話をポケットにしまった。


 
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