幸福の十分条件
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その瞳の遺したもの
『俺はだだっぴろいこの世じゃ、まるで海に落ちた片割れを探し回る水滴みたいなものだ』──シェイクスピア
「いいか、おまえは跡取りとして立派にならなくてはいけない」
幼い子供が、父親らしき男に説教を受けていた。綺麗に整った艶のある黒髪に、快活な顔つきをした男の子だった。厳格な父親を前にして、子供はかすかに恐怖心を抱きながらも、父親が言うことならと素直に頷いた。
机に向かい、与えられた課題を彼はこなした。父親がすぐそばで見ている。出来上がった課題を子供が見せると、父親は満足げに頷いて彼の頭を大きく撫でた。子供はそれが嬉しくてたまらず大きく笑った。
場面が変わる。子供は少し成長していた。快活な顔つきに翳りが見えた。父親に大きな変化はなかったが、顔つきが厳しいものとなっていた。
子供は同じように机に向かい、同じように課題をこなしていた。だが途中で、その手が止まった。父親の顔がさらに険しくなった。
「何故、そんな簡単なものができないんだ」
父親が怒りの声で問いかけたが、子供にも分からなかった。父親は簡単だというが、子供はそれを難しいと感じていた。だが、簡単でなくてはならない、ということは分かっていた。
「いいか、おまえは跡取りとして立派にならなくてはいけない。わたしたちの期待に応えられないのであれば、おまえに価値などないんだ」
父親にそう言われて、子供の心にはなにか暗く重いものがのしかかってきた。だがそれを気にしている余裕などなかった。
必死になって課題の続きを進める。手が止まるたびに、父親の視線が恐怖となって子供に襲いかかってきた。いつしか、終わらせるために課題をするのか、恐怖から逃れるためにするのか、分からなくなっていった。
すべてを終わらせて子供が課題を父親に見せると、父親は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんだこれは。やり直せ」
それだけ言って、とうとう父親はその場から立ち去ってしまった。子供の心に、刃物で抉られたような痛みが走った。目から涙がこぼれ始めるが、言われたとおりにやり直さなくてはいけなかった。
その後も、子供は何度も何度もやり直すはめになった。違う課題をやっても、食事のマナーを練習させられても、何度も何度もやり直すはめになった。
次第に子供は自分にはそもそもできないんじゃないか、と思い始めた。そして、そのとおりになっていった。
さらに場面が変わる。子供は大人びた風貌になっていた。快活な顔つきは姿を消していて、陰鬱な目と固く結ばれた口が代わりにあった。
机の前に彼は座り、課題をこなしていた。そばには父親が立っていた。なんの感情もない瞳で、子供を見ていた。
「……できません」
子供は暗く小さな声で一言だけ発した。父親は溜息をつくこともなく、課題を手に取ってゴミ箱に放り投げた。
そして冷たい目で子供を見た。
「……無能め。おまえはもう、この家の人間ではない。成人したら、出ていけ」
凍えるような声でそう言って、父親は部屋を出ていった。
子供の心にはなにも思い浮かばなかった。悲しみでさえ、彼は感じなかった。
彼の心にあったのは、納得だった。
「あぁ、そうか……俺は、無能なのか。だから、なにもできないのか」
父親と同じような冷たい独白が、彼の口からこぼれ落ちた。
冷たい床の上で俺は目が覚めた。ぼやける視界が少しずつ晴れていき、ここが牢屋の中だということを思い出す。
なにか夢を見ていたような気がする。昔の夢だったような気がしたが、俺はすぐにそれを忘れてしまった。
ぼんやりとした頭で最近のことを思い出す。確か、怜司を殺そうとして失敗して、ここに叩き込まれたんだったか。あれから三日は経っている。牢屋に時計はないので、正確な時間は分からないが。
腹時計に聞いてみると、昼過ぎだと答えてくれた、気がする。まぁ、何時でもいい。
すっかり頭が冴えてしまったが、牢屋の中が退屈なのは言うまでもない。なにかないかと、俺はあたりを確認してみる。
八畳ほどの広さの長方形に、寝所とトイレと洗面台がある。以上。
どこから見ても立派な牢屋の内装だった。牢屋度というものがあれば、多分一◯◯パーセントだろう。
ちなみに、俺は寝所ではなく床の上で起きた。もともとこの牢屋に寝所なんてものはなくて、後になって薄いシーツと毛布が運び込まれたのだが、使う気にならなかった。
理由は簡単で、その待遇を言い出したのが怜司だからだ。あいつは自分を殺そうとした人間の牢屋の環境を気にしたらしい。はっきり言って、馬鹿げている。
硬い床の上で寝ていたせいで痛む身体を引きずって、俺は牢屋の壁際に移動。壁に背中を預けるように座った。
右腕を持ち上げた瞬間、痛みが走る。右手首を見てみると、ちょっとした痣ができていた。桜に捻りあげられたときにできたのだろう。
俺の脳が自動的に、あの夜の記憶を呼び起こした。桜の拘束は、予想していたよりずっと痛かった。
怜司の部屋に忍び込んだが、俺は失敗した。失敗するだろうと思っていた。だから、桜や蒼麻たちが来たことにもなにも驚きはしなかった。
怜司はとにかく運が良い。そうでなければ、こんなことにはなっていないだろう。だから俺は驚かなかった。相手が怜司で実行犯が俺なら、失敗以外はありえないのだ。
失敗して牢屋に入ることになったとしても、あるいは殺されることになったとしても、俺はああするしかなかった。もうこれ以上、感情を無視することができなかったのだ。
そういえば、襲撃した次の日に怜司がここに来ていた。俺から話すことはなにもないので、黙っていたらさっさと帰っていった。きっと理由を知りたがっていたのだろうが、言うつもりはない。ナイフを振り向けることはできても、言葉を振り向けるような勇気は俺にはなかった。
俺の心にあるのは虚無感だけだった。いったい、なにをどうすれば良かったのだろう。問いかけてみても、誰も答えてはくれない。
なにかを、どこかで間違えてしまった。俺のせいなのか、俺以外のせいなのかは、もうどうでもいいことだった。重要なのは、俺の人生がもう修正不可能なところに来てしまっている、ということだけだ。
だから、きっと俺が幸福になるためには──。
突然の振動と爆音。地震かと思うほどの揺れが、俺の身体に伝わってきた。
さらに二度、三度と爆音が続き、銃声が響く。音のすべては上階から聞こえてきている。
「なん、だ?」
恐る恐る俺は鉄格子へと近づく。だが目の前にある上階への階段からは、なにも見ることができなかった。それでも異常事態だということだけは分かる。
銃声に絶叫。大勢の人間が生み出す振動が、巨大なものとなって天井を揺らしていた。
俺は鉄格子のそばに不安な心持ちで立っていたが、すべきことが見つからない。こうしていても仕方ないので、壁際にまた座り込んだ。
恐らく何者かが侵入、あるいは襲撃してきたのだろう。そうであるなら逃げ出したかったが、ほかの人間たちも俺どころではないだろう。収まるまで待つしかなかった。
思いのほか、俺の頭は落ち着いていた。死ぬかもしれない。そのことに巨大な恐怖を抱いたが、感情を無視するのは得意だった。
しばらくすると、少しずつ音が遠ざかっていった。天井の揺れも収まり、戦いは終わったのだと俺は安堵した。
次の瞬間、牢屋全体に衝撃が走った。先ほどまでとは比べものにならないほどの振動が発生。思わず俺は床に手をついてしまう。
爆発のような轟音が上階から鳴り響いていた。音が連なるにつれて振動がどんどん増幅していく。
そしてついに天井が崩落。巨大な瓦礫が落下してきて、俺の身体は衝撃によって吹き飛ばされてしまう。
壁に激突。全身に激痛が走る。視界が土埃で埋まっていてよく見えないが、どうやら横に派手に吹き飛ばされて、別の壁にぶつかったようだった。
爆音と振動のすべてが収まっていた。なにが起こったのかさっぱり分からなかったが、瓦礫を登ればなんとか上階に出られそうだった。
身体を起こそうとしたところで、腹部から激しい痛み。視線を落として自分の腹を見ると、細い鉄パイプのようなものが三本、刺さっていた。
「……うそ、だろ」
冗談のような言葉が自分の口から勝手に出ていった。状況を認識したせいか、思考を塗りつぶすほどの痛みが俺に襲いかかる。
「あぁああああああああっ!!」
絶叫。腹部が鼓動するかのような感覚。膨れ上がるたびに、俺は耐え切れずに叫び声をあげていた。
腹部からは夥しい量の出血。だが激痛のあまり、命の危機を感じている余裕さえない。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
息がうまくできないほど痛い。視界がぼやけるほど痛い。痛い。とにかく痛い。俺の頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。
絶叫に次ぐ絶叫。俺は喉が枯れるまで叫び続けた。
いったい、どのぐらいの時間が経ったのだろうか。何時間も経ったように思うし、数秒のようにも思えた。
いつしか、痛みは幾許か引いていた。俺は叫び声をあげずにいられるようになっていた。
代わりに訪れたのは寒気だった。もしやと思って床を見てみると、血溜まりが広がっていた。妙に冷静な頭が、こんなにも人体には血が入ってるのか、と場違いなことを考えていた。
小説なんかじゃ、痛みには耐えていたのだが、どうやらあれは嘘らしい。その代わり、寒くなるというのは本当だったようだ。
……俺は、このまま死ぬのか。そう思った瞬間、なんとも言えない気分になった。恐怖でも、喜びでも、怒りでもなかった。
昔の記憶が脳裏に浮かび上がった。走馬灯が浮かぶというのも本当らしい。
そこには子供の姿の俺がいた。まだ、自分自身の幸福を疑っていないころの自分だ。それを思い返しながら、俺はまた、どうしてこうなったのだろう、と考えていた。死が目の前に迫る今でさえ、答えが見つからない。
「はっ……もう、いいか」
自嘲した笑みが俺の口からこぼれ落ちた。もう死ぬのだから、その理由や原因などどうだっていいことだ。
俺の人生にはなにもなかった。俺という存在にはなにもなかった。ただ、それだけのことだった。
もう、疲れた。眠ろう。そう思って俺は目を閉じた。
脳裏には未だに走馬灯が浮かび上がっていた。両親に、妹。きっと俺がいなくなって両親は喜んでいるのだろう。俺が死んで悲しむ人間は、どこにもいない。本当に、俺はなんのために生まれてきたのだろう。
走馬灯を眺めている俺の脚に、柔らかい感触。死に際にも俺はなにかに邪魔をされるらしい。目を開けてみると、脚のすぐそばに猫が倒れこんでいた。腹部から血を流していて、もう長くなさそうだ。
猫は背中を俺の脚につけたまま、ぐったりとしていた。
「……はっ……なん、だ……お、まえも、ここ、で……死ぬの、か……」
俺は、もう口も満足に動かせなくなっていた。途切れ途切れな言葉に合わせて、嘲笑が俺の口元に浮かび上がる。こんなところで惨めに死ぬのだから、この猫も哀れなものだ。
俺の声に答えるように、猫は顔を持ち上げて、俺を見た。
猫の丸い瞳には俺の姿が映っていた。俺の目にもきっと、この猫の姿が映っているのだろう。
そのことに気づいた瞬間──俺は、この世のすべてを許す気になった。
「くっ……ははっ……あははっ……!」
場違いな笑いがこみ上げてきた。心の底から、俺は笑っていた。途切れ途切れに、笑っていた。
「じゃ、あ……一緒に、死のう、か……」
俺の言葉に猫は頷くように首を落とした。まだ、猫の瞳は俺のことを見上げていた。俺も、この猫から視線を外そうとはしなかった。
寒気はどこかに消えていた。正体の分からない感情は安堵に置き換わっていた。そう、俺は安堵していた。この世から去ることに。
もうこれ以上、苦しまずに済む。これ以上、無価値なことをせずに済む。そのことに、俺は心から安堵していた。
「……そ、うい、えば……むか、し、ねこを……かお、うとし、てたっけ……」
震える腕を持ち上げて、感覚のない指先で、俺は猫の顎を撫でてやった。かすかに猫が喉を鳴らしたような気がした。
次第に瞼が重くなっていく。持ち上げた腕が力なく落ちていく。俺は必死になって目を開け続けた。猫から視線を外さないようにした。
猫がか細い声で一度だけ鳴く。それから目を閉じて、息を吐いた。そして、ついに動かなくなった。
俺は安心して、眠るように瞼を閉じた。
敵の襲撃を受けた後、俺たちは本拠地から逃げ出すはめになった。
何度かの逃亡劇の末に敵を撃破することに成功。数日ぶりに戻ったときには、本拠地は爆破されて瓦礫の山になっていた。
“幸いなことに死傷者はほとんどいない”と俺は言われた。死んだのはたったひとりだったからだ。
地下牢には壁に縫い付けられるようにして死んでいる雄二がいた。足元には猫が一匹。最近、勝手に出入りするようになった野良猫だった。寄り添うようにして、死んでいた。
葬儀は非常に簡単に行われた。埋葬場所は本拠地のすぐそば。俺の提案で、猫も一緒に埋められることとなった。
それから数日後。本拠地の再建を進めてる横で、俺は墓に花を供えにきていた。墓には木造の十字架が建てられていた。こちらでの祈り方は分からないので、簡単な黙祷で済ませる。
「怜司」
墓の前に立っていると、蒼麻がやってきた。彼女も花を一輪供えると、少しの間、黙祷を捧げた。
俺も蒼麻も言葉を発せずにいた。他人事として捉えるにはあまりに近すぎて、墓の前で雄弁に語るには雄二はあまりに他人すぎた。
それでも俺は墓前で、言いたいことがあった。
「……雄二、おまえは、どうしたかったんだ。俺に、どうしてほしかったんだ」
俺には最後まで、雄二という人間のことが分からなかった。あいつは俺に、そして俺たちになにも話してはくれなかった。
気がつけば、桜さんも来ていた。彼女は俺や蒼麻よりもずっと長く、黙祷を捧げていた。
「俺は、どうすれば良かったんだろうな」
俺に問いかけに、桜さんも蒼麻も答えることができない。それに答えられる人間は、この場にはいなかった。
雄二、俺には、俺たちにはおまえのことが分からない。分からなかったんだよ。
「……どうすれば、良かったんだろうな」
無意味な問いかけが再び口からこぼれ落ちた。
誰ひとりとして、答えることはできなかった。
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