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剣の丘に花は咲く 

作者:5朗
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第十六章 ド・オルニエールの安穏
  第四話 抱擁

 
前書き
 久しぶりに独りじゃないクリスマスを過ごした。

 もちろん家族とね(^v^) 

 

「―――陛下はなかなかおやりになりますな」

 タバサは億劫そうに顔を上げると、何処か眠そうな目で隣りに立つ男を見上げた。男の歳の頃は二十代後半。神官服を着た常に笑みを絶やさない男である。一見すれば人懐っこそうに見えるが、その目は常に笑ってはいない。
 今もまた、顔に笑みを貼りつけながら興味深そうに見つめてくる男から目を離すと、止めていた足を動かしタバサは歩き出した。

「効率を優先しただけ」

 ガリアの新しい女王タバサの記念にと、新しい建築物を造る工程で監査官と作業員の石工との間で争いをタバサは止めた。その争いは、近づいてくる夏を前借りしたかのような強力な日差しから木陰に避難していた石工に対し、監査官が休んだ分賃金を下げると言ったのが諍いの原因であった。
 まるで子供の喧嘩。
 半ば呆れながらもタバサは解決作として、風の使い手である貴族たちに石工に風を吹くよう命じた。その結果は、魔法に誇りを持つ貴族たちは不満を感じながらも、新女王の命令だからと渋々といった様子で従い、石工たちは話の分かる新女王に歓声を上げるというものであった。





 タバサはチラリとも男に視線を向ける事なく歩き続ける。
 その小さな身体を王家のマントに包み、その青い髪を王冠で飾るタバサの後ろを、幾人もの延臣が付き従っている。
 歩きながらタバサは神官服の男を―――ロマリアから派遣された助祭枢機卿であるバリベリニ卿の事について考える。補佐件連絡員としてロマリアから派遣されてきた男であるこのバリベリニは、件の政変の後、トリステインに倣い宰相としても登用したのであるが、問題はこの男を推薦したのが教皇その人という点であった。内心を悟らせない笑顔の仮面を常に被り、その本心は全くと言っていいほど分からない。しかし能力は高く、政変による混乱を最小減に抑えている手腕は確かなものであった。
 とは言え敵か味方といえば敵だろう、とタバサは考えていた。
 タバサはロマリアを信用してはいなかった。
 今のところロマリアからの干渉は見られない。 
 即位にロマリアの力を多分に借りたことになっているため、どのような要求をされるかと警戒していたが、肩すかしを食らった気分であった。
 気付かないだけで、自分の見えない裏側で干渉しているのかもしれないが……。
 これまでの人生、様々な裏の仕事で命のやり取りの経験はあるが、残念ながら政治の経験はなかった。そんな自分の目を掻い潜り何らかの工作をしていてもおかしくはない。
 それに何より。
 政治には疎いが、これまでくぐり抜けてきた多くの修羅場により得た野生の獣にも似た直感が訴え掛けてくるのだ―――。

 ―――彼らは何かを企んでいる、と。

 油断は出来ない。
 そう、例え……。

 タバサは不意に足を止めると、貴族たちに風を吹かせながら、黙々と石工たちが造り上げる建造物を見つめる。
 現在建造中のこれらの完成をもって、このヴェルサルテイルで大規模な園遊会が催される予定であった。
 その園遊会では、各国から大々的に客人を呼び、正式に自分の即位をお披露目するのである。
 その中には、トリステインのアンリエッタ女王と、ロマリアの教皇ヴィットーリオも含まれる、そして……。
 唐突に立ち止まった主に怪訝な視線を向けてくる延臣たちを無視して、タバサは足をプチ・トロワへと向けた。
 プチ・トロワ―――そこに以前の主である王女イザベラの姿はない。タバサがリュティスに入城した時には、何処かへその姿を消してしまっていたのだ。とは言え、見つかるのも時間の問題だろう。ジョゼフ―――前王派と目された貴族たちは、オルレアン公派の貴族たちが見つけ次第のキマに投獄されたり地方へ追いやられたり、又は閑職へ回されたりしていた。これは別にタバサがそう命じたわけではない。長年不遇を受けていたオルレアン公派の貴族たちが自発的に始めていたのである。
 タバサはそれを止めないのは、止める理由がないだけであった。目に余るものがあれば、タバサは止めただろうが、今の所そういったものは見られない。そのため、暫くは様子を見ていようと判断したのである。
 しかし、そんな中でも、最も狙われていたはずの王女イザベラだけが、まだ見つかってはいなかった。





 プチ・トロワの玄関先に辿り着いたタバサは、付き従ってきた延臣たちに解散を告げた。解散を告げられた延臣たちは、各々頭を下げるとそれぞれバラバラに歩き去っていった。その中には、勿論バリベリニ卿の姿もあった。
 タバサは去っていく臣下たちにさっさと背を向けると、プチ・トロワの玄関をくぐり居室へと足を向けた。
 居室に到着したタバサは、何気なく部屋の中を見渡す。

 変らない。

 ふと、そんな言葉が脳裏に過ぎる。
 この部屋には、何度となく訪れたことがあるが、別段じっくりと見たことはなかった。しかし、それでも無意識のうちの記憶に残る程にタバサはここに通っていた。明日命の知れぬ命令を受けるために……。
 その頃には、自分がこの部屋の主になるなど欠片も思いもしなかった。
 何となく感慨に耽ったタバサが、部屋の中をゆっくりと歩く。
 家臣の中には、タバサがここでどういった扱いをされていたか知る者がおり、調度品から内装まで全て変えては、と言うものは幾人かいた。しかし、タバサはその言葉にうなずかなかった。特段の理由があるわけではない。ただ無意味だからだ。家具を変えようと、記憶が、過去がなくなるわけでもない。それに、別にタバサはここでの思い出(過去)を忌避する気持ちなどなかった。
 目を一度閉じ、取り留めのない思考に区切りをつけたタバサは、無造作に冠と無駄に豪奢な女王としての被服を脱ぎ捨てる。シワになることを気にする事なく、脱ぎ捨てた服を床に放置したまま、用意されていた動きやすい部屋着に着替えたタバサは、ベッドに倒れこむようにしてその身体を投げ出した。ごろりと転がり、うつ伏せから仰向けになると、ベッドの天蓋の細かな飾りが目に映った。そして、顔をそのままに、横目でテーブルの上に置いた王冠を見る。

 自分が選んだ道を……。
 
 不意に、寂しさが身を襲った。
 ここには、豪奢な建物が、広く綺麗な部屋が、柔らかで暖かなベッドがある。
 付き従い忠誠を誓う多くの家臣がいる。
 自分の意志一つで動く軍がある。
 読んだことのない入手困難な本が数え切れないほどある。
 およそ人が思い至る望むもの全てが自分の手のうちにはある。
 しかし……本当に欲しいものは一つもなかった。
 本ばかり読む自分を呆れた声で、しかし親しみを込めた声で名を呼ぶ親友が、何時も騒がしく、見かけるたびに何かしらの騒ぎを起こす友人たちが―――そして何より―――。

「―――シロウ」

 彼が、いない。
 小さな震えた声で、彼の名を呼ぶ。
 捨てられた子犬のように細かに震える身体を抱きしめ。大きなベッドの上で、胎児のようにまるまった姿でタバサは、瞼を閉じ想い人に焦がれた。
 最近、ベッドの中で彼の姿を思い出すと、自然と彼に触れられた記憶が蘇ってしまう。
 自分()とは違う、硬く厚い指に触れられた記憶。
 初めて知った、未知()の味を。
 愛されることと、愛することを……。
 いけない事だと思いながらも、どうしても止められない。
 蘇る記憶に、寂しさに凍える身体の奥に、熱が宿る。
 小さなそれは、次第にその熱量を上げ、ゆっくりと身体に広がっていく。

 ―――っ、ぁ……。

 濡れた熱い吐息が、僅かに開いた唇から溢れ落ちる。
 どんどんと上がる熱量が、身体を侵食していく。
 下腹部から生まれたその熱を押さえ込むように、熱の生まれるそこへと、揺れる指先が伸びる。

 ―――っ、ん……ぁ、っ。

 押しては引く、波のように、身体の中を、粘性を持ったナニカが満たしていく。
 ソレは既に頭にまで至り、思考に霞が掛かる。
 身体を満たすソレは、遂には身体の外へと溢れ出ていく。

 ―――ッ。

 濡れた、音が耳に届く。
 粘性を帯びたその音。
 熱を持つ身体。
 次第に、動きが激しくなる。
 記憶をなぞるように、指が動く。
 しかし、足りない。
 長さも、太さも、何もかも足りない。
 届かない。
 だから、思い出す。
 鮮明に。
 まだ、片手で数え切れる程の思い出だけれど、今の自分には十分だ。
 思い出す―――抱きしめられた時の匂いを、身体をなぞる様に触れた自分とは違う指先を、自分でも触れたことのない場所へと触れる彼の唇を―――そして―――。
 
 ―――ッッ。

 自分の意思とは関係なく、全身に力がこもり、小さな電流が身体を走る。
 軽く開かれた唇から姿を見せた小さな舌先が、興奮と快楽に赤く染まり、細く震える。
 僅かにベッドから離れた位置でピンと張った足先が、ふるふると揺れ、どさりと落ちた。
 荒い息を落ち着かせながら、深い眠りから覚めた時のような気怠い身体をゆっくりと動かし、仰向けらうつ伏せに変わる。
 ベッドに押さえられた眼鏡が瞼に張り付き、冷たい感触と不快な圧迫感を感じる。
 しかし、眼鏡を外す動きさえ面倒に感じ、うつ伏せのまま動かない。
 最近の激務からの疲労と、先程の運動(・・)により、鉛のような倦怠感に全身が浸っている。 
 もう、このまま寝てしまおうかと思うタバサだったが、鼻に感じる独特の臭気に、何時やってくるかわからない感覚の鋭いあの子にバレたら厄介だと、『このまま寝てしまおう』という誘惑に鞭を打ち身体を起こした。
 ベッドの上を這いながら、立てかけていた杖を掴み風で部屋の中に漂っていた匂いを窓から外へと追いやる。
 後はシーツをどうにかするかとベッドの上で膝立ちしてシーツの一部、濡れたそこを見ていると、

「きゅいっ! お姉さまっお姉さまっ! はいどうぞ、なのね! お姉さま、何時もベッドでゴソゴソした後水を飲んでいたのね! だから今日は準備していたのね!」
「…………」

 奥の間から、ドタバタと騒ぎたてながら人影が現れた。その人影は、水が注がれたグラスを盛大にこぼしながらタバサへと駆け寄ってくる。ベッドの上、微動だにせず、石像と化したタバサの前までやってきたその人物―――シルフィードは、女官のお仕着せで身を包んだ己を誇示するように胸を張ると、手にもった殆んど水が溢れてしまったグラスを突き出してきた。

「ほらね! 飲むのね!」
「…………………………………ら」

 褒めて褒めてと言わんばかりに目を輝かせるシルフィードに対し、避けるようにタバサは顔を俯かせている。ぐいぐいとグラスをタバサに押し付けていたシルフィードだが、虫の音のように小さな声が耳に届くと、小首を傾げその声の主に疑問を示す。

「? なにか言ったのね?」
「……つ……から」

 シルフィードの傾げた首の角度が深くなる。

「お姉さま! 良く聞こえなかったのね! なんて言ったのね!?」
「い、つから、いた……の……」
「ずっとね! ずっといたのね! お姉さまが部屋に入ってくる前から! ベッドの上でごそごそしている間もずっといたのね!」

 やっとこさ聞き取れた内容に対し、どんっと胸を張って答えるシルフィード。
 ふんすふんすと鼻息も荒々しく、胸を張ったままグラスを伸ばすシルフィードを前に、タバサは俯かせていた顔をゆっくりと上げていく。
 
「…………そう」
「あれ? お姉さま何でそんな目で見るのね?」

 褒められるのを期待して立つシルフィードとは逆の方向へと這って移動したタバサは、ベッドから降りると、小さく溜め息を吐き冷え切った視線をシルフィードに向けた。

「……別に、あなたが悪いわけじゃない。それは……理解している」
「お、お姉さま? 何で杖を向けるのね?」

 ぶつぶつと呟きながらベッドに立て掛けていた杖を握り締めたタバサは、ゆっくりとその切っ先をシルフィードへと向けた。

「部屋に入って、ちゃんと確認していなかったわたしも悪いと、分かっている」
「…………」

 何処か遠くを見るような目つきでうんうんと頷くばかりで、全く自分の声に反応しないタバサに、流石のシルフィードも不穏な気配を感じジリジリと後ずさりを始める。
 だが、全ては遅きに逸した。

「でも。納得できるかできないかは―――別の話」
「―――ッ!」

 タバサを中心に魔力が渦を巻く。
 巨大な竜巻のように渦巻く魔力と殺意を前に、シルフィードの全身に鳥肌が立つ。慌てて逃げ出すシルフィードだが、そうは問屋が卸さない。

「―――ッッ!!! いるならいるで、声を掛けてッ!!」

 珍しく声を荒げたタバサの声と共に、部屋の中を暴風が駆け抜けた。
 避ける事も出来ず荒ぶる風に巻き込まれたシルフィードの足が床を離れ、

「っうぎゃあああぁぁあ―――なのねッ!!!?」
 
 シルフィードは哀れそのまま窓ガラスを突き破り外へと放り出されてしまった。 
 
  
 



「全くもうねっ! わたしじゃなくちゃ死んじゃっていたのねっ! お姉さまは怒りん坊なのねっ!!」
「…………」

 女官のお仕着せに付いた割れたガラス片やら枝やら葉っぱやらを払い、プンプンとばかりに怒りを顕にしているシルフィードに背を向けながら、タバサは一人黙々とベッドの後始末をしていた。現在のタバサの服装は部屋に入った時に着替えた部屋着ではなく、部屋に入った際に脱ぎ捨てた豪華な女王としての衣装を再び着ていた。動きやすい部屋着は、ベッドの上での運動と、シルフィードとの一戦の他に、怒りに任せシルフィードを窓の外へ放り捨てた際に居室の外を守る衛兵が何事だと部屋に入ってこようとするのを押しとどめた際にボロボロとなってしまった事から着替えるはめとなってしまっていた。
 一国の女王様が、自分のベッドのシーツを小さく折りたたんでいる姿からは、A○フィールド並の強固な壁を感じさせるが、そんな事はお構いなくシルフィードは話しかけてくる。なお、窓から放り出されたシルフィードは、丁度窓の下に生えていた木に頭から突っ込んだ後、枝を伝って飛び出た窓から戻ってきていた。

「むう……何で無視するのねお姉さま? ベッドでごそごそしたら何時もお水を飲んでいるからわざわざ隠れて待っていたのに、何で怒っ―――いたた!? 何で叩くのねお姉さまっ?!」

 突然振り返って無言で叩いてくるタバサにシルフィードは文句を口にする。しかしタバサは無表情ながら頬を赤く染めた顔で無言でシルフィードを叩くだけで口を開かない。

「もうねっ! 何なのねっ! 何でそんなに怒っているのねっ! 一体お姉さまはベッドで何をしていたのねっ!?」

 とうとう頭を抱え部屋の中を逃げ始めるシルフィードの後ろを、増す増す顔を真っ赤にさせたタバサが長い杖を大上段に構えた姿で追いかけ始めた。ドタバタと部屋を駆け巡る二人(一人と一匹?)。逃げ回るシルフィードを小さいながらも機敏な動きと冷静な思考でタバサは追い詰めていく。そして遂にシルフィードを壁際に追い詰めるタバサ。震えて縮こまるシルフィードに、タバサはいざ大上段に構えた杖をふり下ろそうとする。
 絶体絶命のシルフィード。
 しかし、断罪の刃は振り下ろされる事はなかった。
 そのピンチを救ったのは、居室の外から響いた衛士の声であった。

「東薔薇花壇警護騎士団長、バッソ・カステルモール殿!」

 今まさに振り下ろさんとした杖と怯えて縮こまるシルフィードを見比べたタバサは、小さく溜め息を吐くとテーブルに置いていた王冠を被ると、軽く身だしなみを整え入室に許可を与える。
 タバサの許可を得、部屋に入ってきたカステルモールは、女王姿のタバサを見ると足を止め唐突に涙を流し始めた。タバサの戴冠後、カステルモールは、若い貴族を新たに加えた新生東薔薇花壇騎士団の団長として再び仕え始めたのだった。とは言え、彼は団の切り盛りを副団長に任せ、本人は何やらタバサのためにと色々と動いているようであったが……。

「ああ……このような立派なお姿、亡きオルレアン公が見れば、泣いてお喜びになられるでしょう……」

 よよよ……とばかりに涙に濡れる顔を片手で覆い天を仰ぐカステルモールの様子に、タバサは何処か気まずそうにベッドの方をチラリと見る。が、直ぐに自然な動きでベッドから視線を離すと、気分を切り替えるようにコホンと一つ咳払いし、タバサは未だ感動を露わにするカステルモールに話を促した。
 タバサの意図を読んだカステルモールは、一つ大きく頷くと、喜色満面な顔で手を叩いた。カステルモールの合図に、直ぐに部屋の扉が開くと、両手を縄で縛られた一人の女を連れた騎士が入ってきた。

「きゅいッ!? あ~ッ!! わがまま王女ねっ!」

 騎士が連れた女の顔を見たシルフィードが、女を指差し驚愕の声を上げた。

「その通りでございます。さる修道院に隠れていたところを発見し、捕らえました。修道院に隠れるとは、なるほど考えたものですが、流石の神の御威光もこの娘の性根を隠し切れなかったということでしょう」

 シルフィードに頷きながら、カステルモールがイザベラの両手を縛るロープを引っ張ってみせた。ぐいっとロープを引かれ、体勢を崩したイザベラが憎々しげに部屋にいる者を睨みつける。その強烈な視線の向けられる先には、感情を露わにするイザベラとは真逆に何の表情を浮かんでいないタバサの姿があった。屈辱にギリギリと歯を鳴らしながらタバサを睨みつけてくるイザベラの目には、憤りが燃え滾っていた。
 つい先月までは想像も出来なかった光景。
 今までタバサを虐め抜いてきたイザベラの胸中は、荒れに荒れていることだろう。
 そんな今にも噛み付いてきかねないイザベラの姿に、しかし、タバサは嘲りも怒りも見せる事なく、何時もと変らない冷たい氷のような眼差しを向けるだけであった。

「この娘のお裁きについては、陛下の思うがままになされてくださいませ。それでは、わたしは失礼します」

 タバサに一礼したカステルモールが部屋を退出する。
 支配者(タバサ)支配される者(イザベラ)が部屋に残される。女官姿のシルフィードの姿もあり、その光景はかつての部屋の姿のようであった。その配役が真逆ではあったが。
 暫くの間無言の時間が過ぎる。何時も空気を読まない発言をするシルフィードも、部屋の中に漂う緊張感を感じられるだけの野生は残っていたようであり、口をつぐんでいた。

「……っ、殺せばいいじゃない」

 まず最初に口を開いたのは、イザベラだった。
 吐き捨てるように「殺せばいい」と口にしたイザベラは、髪を乱しながら顔を上げると、タバサを睨み付ける。

「ほらっ! 何とか言ったらどうだッ!! 修道院で聞いたっ! お前が父の仇を討ったとッ!! なら簡単なことの筈だっ! 父と同じように、その娘も殺してみせればいいっ!」

 ドロドロとした煮詰めたタールのような憎悪が混じった声に、直接言葉を向けられていない筈のシルフィードの背中が粟立った。どうしようどうしようとばかりにイザベラとタバサの顔を交互に見るシルフィード。シルフィードの気遣わしげな視線を向けられるタバサだったが、イザベラの憎悪に塗れた言葉を浴びせられながらも、全く動じた様子も見せず、平然とした顔をしていた。

「何を黙っているっ! 父から冠を奪ったその手で、娘の首も取ればいいッ!!」
「―――ッ!? さっきから一体何を言っているのねッ! お姉さまがい―――」

 イザベラの言動に怯えていたシルフィードであったが、流石の言いように抗議の声を上げようとするが、それは杖を掲げたタバサの動きに遮られた。杖を掲げるタバサの姿に、シルフィードもイザベラも口を噤む。
 杖を掲げたタバサが自身の命を奪う魔法を唱えるだろうと、イザベラが最後の意地だとばかりに悲鳴を上げないよう歯を食いしばる。
 一体どんな魔法を使うのだろうか?
 大きな魔法で一発で殺すのだろうか?
 それとも小さな魔法でじわじわと嬲り殺すのだろうか?
 どれだけ強がりを口にしても死は恐ろしいものだ。
 湧き上がる死の恐怖にギュッと目を閉じ、悲鳴を上げそうな口を必死に押さえながら、自分の命を奪うだろうタバサの唱える呪文を耳にする。

「―――ッ!! ―――…………ぇ?」

 不意に風が両手の間を通り過ぎた。
 その後、どれだけ待っても襲ってこない痛みに恐る恐る目を開けると、両手を縛るロープが切られ、その切れ端が手に引っかかっていた。自由になった両手を持ち上げると、引っかかっていたロープが床に落ちた。
 イザベラは床に落ちたロープを見下ろした。一瞬の空白の後、イザベラは顔を上げるとテーブルの上に置かれていたペーパーナイフを掴むと、それをタバサに突き立てようと振り上げた。

「父の仇ッ!!」

 一気に振り下ろされるペーパーナイフ。ナイフとしては鈍らであるペーパーナイフであっても、刺す箇所によれば命を奪えるだろう。イザベラの動きは早く、シルフィードもタバサも動くことは出来なかった。
 しかし、振り下ろされたナイフの切っ先がタバサの身体に突き刺さることはなかった。
 まるで透明な壁があるかのように、タバサの眼前でイザベラが握るペーパーナイフの先が震えている。イザベラは呼吸を荒げながら何度もタバサを突き刺そうと手に力を込めようとしていた。しかし、ペーパーナイフが震えるだけで、一ミリ足りともタバサの身体に突き刺さることはなかった。
 タバサは無言で震えるナイフの先を見つめている。
 タバサが魔法で防いでいるわけではない。
 シルフィードが何かをしたわけでもない。
 ―――イザベラが自分で止めていたのだ。
 イザベラの荒い呼吸音が部屋の中に響く。
 次第に激しい呼吸は収まっていく。
 そうしてそのまま暫らくが過ぎ、部屋の中が静かになると、イザベラが震えた声で尋ねてきた。

「……どうして」
「…………」
「どうして、殺さない……? 情けをかけると……言うの」

 ダラリと垂れ下がった手の中にあるペーパーナイフを、イザベラの手ごと掴んだタバサは、小さく顔を横に振った。

「理由がない」

 タバサのその言葉に、微かに残っていたペーパーナイフを掴んでいた力が抜ける。
 ペーパーナイフがイザベラの手からタバサの手へと移動する。
 タバサはペーパーナイフを後ろに投げ捨てると、顔を俯かせるイザベラに向き直った。

「……なに、言っているの? 理由がない? そんな筈がないわ……わたしはお前を辱めた。そうよ、憎まれ殺されるだけに十分な辱めをお前は受けたはずなのにっ! なによ!? 理由がないって!? この期に及んで何を気取っているのよっ!」

 髪を振り乱しながら叫ぶイザベラをじっと見つめ続けるタバサ。無言で見てくるタバサに、少しばかり落ち着きを取り戻したイザベラがタバサに疑問の視線を向ける。

「―――何か言いなさいよ……」
「わたしには味方が必要」
「なに、言ってるのよ、本当に……? 味方? 必要? なに? わたしにお前の味方になれって言うの? は、はは……冗談一つも言わないとばかり思ってたけど、勘違いだったようね。何よ、言えるじゃない。最高の冗談よ、味方になれだなんて。父を殺し、冠を奪ったお前の味方になれるとでも本気で思っているの? ばっかじゃない……はは、本当に、ばか……はは、はははは、ハハハハハハハハハハ―――」

 イザベラの口から漏れる小さく笑い声は次第に甲高い笑い声へと変わっていく。狂気さえ感じさせる甲高い耳障りな笑い声が部屋の中に響くが……、次第にそれは小さなすすり泣きへと変わっていった。

「―――知っていた……はは……違う……わかっていたのよ」

 未だ涙を流す瞳でタバサを見るイザベラは、掠れた声で絞り出すようにして言葉を紡ぐ。

「エルフと手を組んで恐ろしい兵器を作っていたことだけじゃない……あの人が今までどれだけの人の命を、心を弄んでいたか知ってた。その中には、あなたの両親もいたことも……謀略であなたの父を殺し……我が子を守ろうとしたあなたの母の心を狂わせた……まるで悪魔のような人……きっと人らしい情愛なんて、欠片も持っていなかったのでしょうね……だから、もちろん知っていたのよ……わかっていたのよ……昔から、そう、ずっと幼い頃からわかっていたのよ……実の娘のわたしすら、あの人は全く愛しても……興味もなかったって…………」

 すっ、と一粒の涙がイザベラの頬を伝う。
 目を閉じたイザベラの目尻から最後の涙が頬を伝い、あご先から床へと落ちる。



「でも……それでもあの人は―――」



 ゆっくりと瞼が開き。
 涙に瞳を濡らしたイザベラは、



「―――わたしの父だったのよ」

 
 
 そう言って、儚く笑った。
 









 プチ・トロワの居室に、二人の少女が向かい合って座っている。
 二人の少女の前には、赤いワインに満たされたグラスが置かれている。
 無言のまま時が過ぎる中、一人の少女がグラスを手に取り、ソレを掲げるように持ち上げた。 
 手に掴んだグラスに満たされたワインの向こうに、二つの月が浮かんでいる。
 呆けた眼差しで長いことグラス越しに赤く染まった月を見つめていたが、諦めたように小さいが深い息を着くと、少女は一気にそれを飲み干した。テーブルに置いた空になったグラスを見下ろしながら、少女は口を開いた。
 「あなたに仕えるわ」、と。
 
「あなたのことだから、気付いていたんでしょ。わたしがあなたに劣等感を抱いていたことを。父があなたの父に感じていたように、わたしもあなたに劣等感を感じていた。魔法も、人望もわたしはあなたに敵わなかった。だから、この結果は当然なのよ。冠は正統な者の頭へと戻ったのよ」

 懺悔するようにグラスを見下ろしながら呟くイザベラを見つめていたタバサは、自身の手に持つグラスをイザベラと同じように一気に飲み干した。
 空になったグラスをテーブルに置くと、イザベラが手を伸ばしタバサの手を取った。そしてかつての仇敵である従姉妹の手へと接吻をした。自然と二人は近付き、抱擁をした。それはまだ何処かぎこちない形だけのものであったが、二人は触れた相手の暖かさを互いに感じていた。
 抱擁が終わり、離れた二人が俯くと部屋の中に沈黙が満ちる。
 所在無さげにイザベラが身体をもじもじと動かしていると、タバサが小さくイザベラの手を引いた。

「ついてきて」
「ちょ、ちょっと? ど、何処へ連れてくつもり?」
「……あなたに会わせたい人がいる」
「会わせたい人って……?」

 困惑しながらも手を引くタバサに逆らう事なくついていき辿り着いた先は、プチ・トロワの奥に設けられた離れであった。
 離れの玄関には一人の兵士が歩哨を行っていた。タバサに気付いた歩哨の兵士は一礼すると、設置されていた呼び鈴を押した。直ぐに玄関の奥から返事があり、扉が開かれた。玄関の向こうから姿を現したのは、一人の老執事であった。

「おお、これは陛下。一緒にご夕食をと、奥さまはお待ちでございますよ」
「ペルスラン、一人お客が増えたから、もう一席用意して」
「お客さま、ですか?」

 首を傾げたペルスランが、タバサの後ろに立つ少女の姿を目に映すと、その目を大きく見開かせた。

「これは―――! まあ、なんとも驚きましたな……」

 はぁ……と深く息をついたペルスランは、胸の前で何度も聖具の形に印を切った後、確かめるように視線をタバサに向けた。ペルスランの「本当によろしいのですか?」という無言の問いかけに、タバサは小さく頷いてみせた。
 タバサの返答に、小さく苦笑したペルスランは、頭痛を耐えるように皺が寄る眉間に手を当てると小さく諦めたような声音で呟いた。

「―――……まあ、確かに今更ですか」

 チラリと離れの奥へと視線を向けたペルスランは、タバサとイザベラを迎え入れた。
 タバサの後ろをついていくイザベラは、何となく向かう先にいるだろう人物について予想がつき始めていた。奥へと続く廊下を歩くにつれ、心に描いた人物の姿が鮮明になり、胸の奥の心臓は痛い程高鳴っていく。
 そして離れの奥―――廊下の先にある食堂に着いた。
 淡いロウソクの炎に照らされた食堂には、美味しそうな料理の香りが漂っていた。
 ペルスランとタバサはさっさと食堂へと足を踏み入れるが、イザベラは廊下と食堂の堺で足を動かせず立ち尽くしていた。この食堂にいるだろう人物と会う事を恐れ、足が動かなくなっていたのだ。様々な葛藤が胸の中で渦巻き、一歩も動けないイザベラ。遂にはこのまま引き返そうかと考えてしまい、一歩足を後ろに動かしたイザベラを止めたのは、引き返してきたタバサの手であった。不安に震えるイザベラの手を掴んだタバサは、一気に手を引いて食堂へとイザベラを引き入れた。たたらを踏みながら食堂に足を踏み入れるイザベラ。

「あ―――ま、待って」
「待たない」

 イザベラの手を引きどんどんと食堂の中を進むタバサの足が止まる。
 急に足を止められ、転げそうになる身体を必死に押しとどめたイザベラが、抗議しようと顔を上げると、食堂の中心に置かれたテーブルの上座に座る人物と視線があった。
 思わず口を噤み、立ち尽くすイザベラへと、その人物は口を開いた。

「あら、素敵なお客さまね」

 手を叩き笑うその顔を見たイザベラの全身が震えだす。イザベラの予想はやはり間違ってはいなかった。食堂で待つその人物とは、かつて自分の父が毒を呷らせたタバサの母であるオルレアン公夫人であった。
 しかし、オルレアン公夫人はイザベラが以前見た毒を呷ったことで心を狂わせ、やせ細った幽鬼のような姿ではなかった。骨が浮くほどやせ細った身体は、未だ細いが以前と比べられないほどふくよかになっており、何処を見ているのか判然としない瞳には、ハッキリとした意思が見て取れた。立ち居振る舞いやその身に纏う雰囲気にすら、高貴さを取り戻していた。
 愕然とした顔で、イザベラはオルレアン公夫人を見つめる。
 事情を知らず、以前の狂った姿のままと考えていたイザベラにとっては、予想外に過ぎた姿であった。
 そう、タバサはリュティスに凱旋した折、ビダーシャルに薬を調合させ、それをもって母の心を取り戻していたのだ。
 未だ驚きが抜けず立ち尽くすイザベラに上品に小さく笑みを浮かべながらも、オルレアン公夫人は自らの手で姪のため椅子を引いてみせた。

「ほら、座りなさいイザベラ。立ったままじゃ食事も取れないわ」
「お、叔母上……」

 胸に切り裂くような痛みを感じ、心臓の辺りを握り締めながら、イザベラは怯える声を上げた。
 叱られるのを恐れる子供のように不安気に見上げてくるイザベラに、オルレアン公夫人は困ったように笑うと、引いた椅子へと手を向ける。

「はい。その通りわたしはあなたの叔母ですよ。さあ、何時まで立っているつもりですか? 早くお座りなさい。料理が冷めてしまうわ」

 オルレアン公夫人の言葉に、ふらふらふらつきながらもイザベラが椅子に座ると、同じようにタバサとシルフィードも席についた。しれっと席につくシルフィードは、普通ならば同席を許される筈がないのだが、この場でそれに否を唱える者はいないことから黙認されていた。
 呆然と椅子に座っていたイザベラだったが、内心の混乱が一段落着いたのか、テーブルの下でギュッと両手を握り締めると、覚悟を決めた顔で口を開いた。

「わたしを―――わたしをお咎めにはならないのですか?」
「咎める、ですか? それはまた物騒な。どうしてわたしが姪のあなたを咎める事になるのです?」
「どうしてって―――わたしは、あなたの夫を殺し、あなたの心を失わせた男の娘なのですよっ!?」
「そうですね。でも、結局わたくしの心は戻りました」
「あなたの心だけは、です。オルレアン公は戻ってきません」

 イザベラの言葉に、オルレアン公夫人は悲しげな顔をすると目を閉じた。

「ええ、わかっています……わかっているのです。どれだけ夢であればと思いましたが、わたくしは全てを覚えています」
「なら―――ならどうしてっ!?」

 両手で頭を抱えながら激しく首を横に振るイザベラに、オルレアン公夫人は穏やかな声で語りかけてきた。

「わたくしたちは未来に生きねばなりません。過去はどうしても変える事はできません。しかし、これからは変えていくことはできます」
 
 オルレアン公夫人は自分の娘―――タバサに顔を向ける。

「これは娘―――陛下にもよく言って聞かせましたが、生前夫は……オルレアン公は言っていました。『この国をよくしなければならない』と。ハルケギニアの中でも随一の大国であるガリアですが、その巨大さが災いし、なかなか一つにまとまるということが出来ませんでした。貴族たちはかつての誇りを忘れ、己の利益のみを求めている始末。それを見越しての言葉だったのでしょう。そしてイザベラ。あなたには信じられないかもしれませんが、あなたの父君も、昔は同じように考えていたのですよ。しかし、何時しかその真心を見失ってしまった……」
「父が……そのようなことを……っ、しかし……わたしには、信じられません……」

 国を良くしようとする父の姿を思い浮かぶことが出来ず、悲しげに顔を俯かせるイザベラに、オルレアン公夫人は微笑み掛けた。

「なら、話してみればいいのです。時間はたっぷりとあります。もうそろそろワインを持ってここに来ると思うのですが……」
「はい…………え? 話す? あ、あの、叔母上? 話すとは一体誰と?」

 戸惑うイザベラに向かって、オルレアン公夫人は童女のように小首を傾げて見せた。 

「何を言っているのです? ここは家族で食事をとるための場所。なら、あなたの父君もここに来るのは当然のことでしょう」
「…………はぁ…………へ?」

 オルレアン公夫人の言葉に頷いたイザベラだったが、一拍の後その言葉の意味を理解し間の抜けた声を漏らした。

「あ? え? その―――あれ?」 

 混乱する思考を抑えるように、イザベラが頭を抱えた時であった。食堂の出入り口から新たな影が現れたのは。

「―――ッ!!??」

 イザベラの目に、居るはずのない人物の姿が映る。

「…………っ、ぁ」

 一瞬イザベラの目の前が暗くなり、全身から力が抜ける。傾げる身体に、そのまま椅子から転げ落ちそうになるのを慌てて止める。その勢いのまま、イザベラは椅子の背もたれに手を掛け立ち上がった。

「ち―――ちち、うえ……?」

 前を見ると、食堂の入口には、かつて見た時と変らない父の姿があった。
 いや、少し痩せただろうか。堂々たる偉丈夫だった父の身体が、以前見たよりも小さく感じられた。その違和感が、目を逸らせば消えてしまうのではないかという不安を煽る。知らず、手は背もたれから離れ、足は食堂の入口―――父の下へと向かっていた。
 ふらふらと初めて歩いた赤子のような足取りであったが、少しずつその足は(ジョゼフ)の下へと向かっていく。
 段々と大きくなる父の姿。今やその表情すらハッキリと見える。
 痩せたと感じたのは間違いではなかった。
 血色が良く、二十代にも負けない若々しい張りと艶があった肌が今や見る影もない。明らかに本来の年齢より十は歳上に見られるだろう。頬の痩け方など、まるで病人のようだ。
 しかし―――。

「っ……ちち、うえ」

 手を伸ばせばその身体に触れられる程の距離で立ち止まったイザベラは戸惑っていた。
 自分を見下ろす父の瞳に。
 あの日、最後に見た父とは明らかに違う。
 今、自分を見つめるのは、あの、まるで底のない虚無じみた瞳ではなく、一人の人間として悔恨と悲しみに染まったそれであった。

「ほんとうに……ちちうえ、なのですか?」

 だからこそ、イザベラの口からは誰何する言葉が出た。
 父の姿をしていながら、父とは思えない誰か。
 しかしそれでも、自分の中の何かが叫んでいる。
 この人はわたしの父だと。

「……あ―――ぇ?」

 気付けば視界が滲んでいる。
 何時の間にか溢れ出した涙が視界を歪め、声も濁り始めていた。
 それでも、イザベラは手を伸ばし声を上げた。
 まるで、長い間迷い続けいていた、探し続けていた何かを見つけた子供が、恐る恐る手を伸ばすかのように……。
 そして―――。

「―――ぁ」

 暖かいなにかで包まれた。
 それが抱きしめられたということに、直ぐにはわからなかった。
 初めだったからだ。
 この人に、こんな事をされることは―――。
 混乱の最中、頬にざらついた感触を感じる。
 微かに視界の端に入ったそれは、青い髭であった。
 ふと、幼少の頃、遠くから見た父の姿を思い出す。
 多くの家臣に囲まれている父を、柱の影から隠れて見た父の姿。
 その時、立派な父の髭を触りたかったことを思い出す。
 大国の王の髭に触る。
 誰しもが出来ることではない。
 それは、家族の特権。
 しかし、結局一度も触れる事は出来なかった。
 瞬間。
 心臓に握りつぶされるような鈍い痛みが走る。
 全身が、燃えるように熱い。
 鼻の奥に鋭く痛み、目頭がカッと熱くなる。
 気付けば、両腕が動いていた。
 硬く大きな身体を強く、強く抱きしめ。
 ―――溢れ出す。



「ちち、うえ―――ちちうえっ―――ちちうえっぢぢうえっ! ちぢうえ゛ぇ゛ッ!!」



 泣き声が、響く。

 少女の泣く声が。

 喜び、悲しみ、怒り―――様々な感情がごちゃまぜになった父を呼ぶ声。

 それは、長い年月を経て、やっと父と出会えた、幼い子供の泣き声のようでもあった……。
   
 

 
 

 
後書き
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