婆娑羅絵巻
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序章
菫の蕾と桃の花~中~
女中が出ていってから少したったあと、廊下を歩く小さな足音が段々と久脩がいる室に近付いてきた。
「……しつれいします。」
スッと障子が開けられ無機質な声とともに薄紫色の着物に菫色の被布を身にまとった幼い少女が現れる。
____『巡音(めぐりね)』_____
本当の名は分からない。
だから久脩は彼女の母方の祖先である、征夷大将軍・坂上田村麻呂の愛娘の一人・『巡音姫(めぐりねひめ)』から名前を頂戴した。
彼女を腹を痛めて産んだ母親は白児(しらこ)で、もともと赤子を産めるほど強い身体ではなく彼女と、彼女の片割れの弟を産み逝世。
だがその片割れの弟も産まれて間もなく亡くなった。
一方父親である、久脩の兄は表沙汰には行方知れずとされているが久脩の父親である先代の手の者達により、暗殺。
それを久脩が知ったのは父親の死後、家督を継いでからの事だ。
せめてもの彼女の母親に対する罪滅ぼしとして、この娘を引き取ったのだ。
久脩は、伏せていた目を鈴彦に向ける。
___夜の闇を思わせる様な黒い髪、日ノ本の民と言うよりもまるで羅馬の民の様な彫りの深い顔つき。
世にも珍しい瑠璃と菫の二色を一つの瞳に持った眼。
その瞳に光は無く人の感情を一切感じない。常に何処か遠く、過去を見ているかのようだ。
「あぁ、…とりあえずそこに腰掛けてくれないかな?」
手前に座るよう促すとコクリと頷き大人しく正座するが顔を伏せてしまう。
利口な子だ、大方なんの話かはわかっているのだろう。
少しの間沈黙が続くが、重い口を開く。
「……なんの話かは予想はしているだろう?」
「はい」
顔を伏せたまま短く返事し小さく頷く。
「………無理に養子に行けなんて言わない、鈴彦の好きなように_____」
「_____いいえ、お家の為ならわたしは…。」
「何処に養子入りするか知った上で君は……!」
久脩は思わず声を荒らげ、鈴彦の両肩を掴んだ。
自分よりも更に幼い巡音が分かって居るように、自分でも痛いほど分かっている。
今自分が置かれている状況を、もし逆らえばどうなるかということも。
だけども止められずには居なかった。
「__魔王がわたしのとー様になるのでしょう、久脩おじ様?」
鈴彦と呼ばれた少女はそれまで伏せていた顔を持ち上げ歳に似合わぬ顔で久脩を見る。
…異論を認めない、そんな目だ。
あまりの凄みに久脩が年上の筈なのに、思わず口を閉ざしてしまう。
何も言い返せないままでいると肩を掴んだ手を払い、鈴彦が立ち上がる。
「おはなしはそれだけでしょう…?」
それだけいうと一礼し、室から立ち去ってしまった。
久脩はその背を、自分の不甲斐なさと、唯一人愛し心の拠り所としていた人を失う哀しさを浮かべた瞳で見つめることしか出来なかった。
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