| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

季節外れのバレンタイン

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 次ページ > 目次
 

季節外れのバレンタイン

                    季節外れのバレンタイン
 いきなりだ。それは来た。
 彼、広澤伸次郎の机の上にだ。いきなりチョコレートが来た。しかも巨大で尚且つハートマークのだ。少なくともこの季節、七月にはかなり不釣合いな。何処からどう見てもバレンタイン用、しかも本気の告白の為に手作りのだ。ストレートなチョコレートだった。いささか以上にこの暑い夏には場違いなものである。少なくともこの日本においてはそうだ。
 そのチョコレートを前にしてだ。伸次郎はそれを机の上に置いてきた金髪の少女ヒルデガルト=フォン=ローエングルグに対して尋ねるのだった。
「あの、フロイライン」
「何でしょうか?伸次郎君」
 その少女ヒルデガルト、クラスメイトからヒルダと呼ばれている豊かな金髪に湖を思わせる碧眼、それに白い透き通る様な肌の少女は彼に問うてきた。尚彼女の国籍はドイツである。家は音楽教師だ。何でも由緒正しい貴族の生まれらしい。何処かの独裁者が理想と主張したそのままの美貌がそこにある。オペラ歌手か女優になれば必ず成功する、ワーグナーの楽劇に出てきてもおかしくはないような容姿の少女だ。
 その彼女がだ、伸次郎の問に応えたのである。
「何かあったのですか?」
「何かもそうかもじゃなくてさ」
「そうかもじゃなく?」
「何でチョコレート、僕にくれるのかな」
 唖然としてだ。彼女に問うたのである。
「今七月だけれど」
「はい、七月だからです」
 だからだとだ。ヒルダは切実な顔で答えるのだった。その切実な顔がだ。さながらワーグナーのヒロイン、あらゆるものを救う女性的なものを思わせる。
「それでなのです」
「七月だから?」
「七月、それも今日は」
 この日はだ。何かというと。
「七夕ですね」
「ああ、七夕」
「七月七日。恋人達が会える唯一の日ですよね」
 こう伸次郎に言ってくるのである。
「そうですよね」
「そうだけれど。天の川を挟んでね」
「その素晴しい恋の日に。日本の女性は男性にこうして自分が作ったチョコレートをプレゼントして愛を告白すると聞いているのですが」
「いや、それ違うから」
 伸次郎は目をきらきらとさせて言うヒルダに即答した。
「そんなことないっていうか
「というか?」
「それで七夕のその行事は何ていうのかな」
「七夕バレンタインですよね」
 二つのイベントが見事なまでに絡み合い一つになっていた。どうやら日本文化について学ぶ途中で誤解してそうなってしまったらしい。
「そうですよね」
「バレンタインと七夕はそれぞれ別だよ」
「そうなのですか?」
「そうだよ。というか」
 ここでふう、と大きく息を吐き出してだ。また言う伸次郎だった。
「チョコレートをあげるのはバレンタインで。七夕では御願い短冊に書いてそれを色々に飾った竹にかけるものなんだよ」
「そうだったのですか。それがバレンタインと七夕ですか」
「どっちもどっちで。違うから」
 伸次郎の日本文化への説明は続く。
「その辺りわかっておいてくれたらいいかな」
「そうだったのですか。バレンタインにチョコレートはプレゼントしないのですか」
 そのことがわかってだ。ヒルダは見てするわかる程はっきりと落胆してだ。こう言うのだった。
「がっかりですね」
「残念だけれどね」
 伸次郎もこう言う。彼はここで話が終わったと思った。ところが。
 ヒルデはあらためて身を乗り出してだ。そのうえで彼に問うのだった。
「それで。チョコレートの返事ですが」
「ええと、チョコ?バレンタインの」
「はい、その返事は」
 見れば黒いハート型の巨大なチョコにホワイトチョコで何か書いている。ドイツ語なので読めないがそれでも何と書いてあるかわかる。伸次郎はそれを見てまずは唾を飲み込んだ。
 実は彼女はいない。しかも昼では奇麗でタイプでもある。これだけで断る理由はない。しかしそれ以上に。
 ヒルダの思い詰めた様な顔を見るとだ。とてもノー、ドイツ語ではネインとは言えない。彼は既に敗れていた。 
 そうして決断を下してだ。ヒルデに答えた。
「僕でよかったら」
「ダンケシェーン、ヘル」
「それどういう意味?」
「有り難うございます。殿方という意味です」
 こうにこりと笑ってその日本語での意味を話す。それを聞いてだ。
 伸次郎はダンケシェーンは知らなくともこの言葉は知っていた。ドイツ語でお嬢様とはどう呼ぶのか。
 それでだ。その呼び名でヒルデに返した。
「ダンケシェーン、フロイライン」
 彼もにこりと笑ってヒルデに答えた。そうしてだ。彼女の作ったチョコレートを食べる。そのチョコレートは最高の甘さだった。ただ溶けそうだったのは夏の暑さのせいだけではなかった。


季節外れのバレンタイン   完


                   2011・6・28 
< 前ページ 次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧