海牛
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5部分:第五章
第五章
「すぐにだ。皆な」
「急にどうしたの?一体」
「ひょっとしたらあれは」
「ええ、あれは」
「まさかとは思うが。けれど」
彼は自分で呟く。半分以上我を失っていた。
「目撃例はあった。だから可能性はあるな」
「とにかく皆を呼ぶのね」
「それでもっと近付こう」
こうも言うのだった。
「あそこに。それでいいね」
「ええ、何かよくわからないけれど」
「噂は本当だったのか」
彼はさらに呟く。
「信じてはいなかったけれど。本当に」
「何かよくわからないけれど相当なことなのね」
「相当なんてものじゃない」
叫ばんばかりだった。その声は大山田にも伝わり彼女にも唯ならないことであるのを教えていた。だが彼女はまだあの白いものが何かわかっていなかった。
「あれは」
「そうなの。じゃあ何はともあれ」
「近付く。そして確かめる」
ヴィシネフスカヤの声がさらに強いものになる。
「何としてもね」
「わかったわ。じゃあ皆を呼んで」
「近付こう」
「ええ」
こうして皆を甲板に呼び船を近付けた。そうして彼等が見たその白いものの集まりとは。誰もが己の目を疑わずにはいられないものだった。皆それを見て呆然としていた。
「お、おい嘘だろ」
「まさか。こんな」
「だが。本当だ」
ヴィシネフスカヤは驚きを隠せない仲間達に対して告げる。彼の声も震えていた。
「これは。本当に」
「嘘でしょ、こんなことって」
大山田もその中にいる。今目の前にあるものを見て我が目を疑っていた。仲間達と同じく。
「だってもう」
「絶滅したって言いたいんだな」
「そうよ」
ヴィシネフスカヤに対して答えた。
「十八世紀に。それでどうして」
「二十世紀後半にも目撃例はあった」
ヴィシネフスカヤはその大山田達に対して告げた。その白いもの達を見つつ。
「その時にも。それ以前にも」
「あることはあったのね」
「だが。本当にいるとは私も思わなかった」
彼の声はまだ震えていた。どうしてもそれを抑えられなかったのだ。
「まさかな」
「これは現実のことなのね」
「ウォッカのせいじゃないよな」
「本当に」
大山田だけでなく誰もがそれを疑っている。信じようとはしていなかった。
「違う。断じて違う」
だがヴィシネフスカヤは彼等に対して念押しをしてきた。
「これはな」
「奇跡ね」
大山田はここまで言われてようやく己が今見ているものを信じることにした。ここまで来てようやくといった感じではあったがそれでもだった。
「これって」
「そう、奇跡だ」
ヴィシネフスカヤも言った。
「紛れもなく。奇跡だ」
「そうなの。やっぱり」
「現に見てくれ」
ここでヴィシネフスカヤは皆にそれを見るように声をかけた。
「ほら、彼等は食べている」
「確かに」
「海藻を」
黙々と食べていた。時々息継ぎをする為に海面に顔をあげつつ。その顔もまた見れば言われている通りの顔だった。豚にも似て愛嬌があり。その顔だった。
大きかった。それこそ五メートルを優に超えている。身体は肥えており胴回りも相当なものだ。身体の動きは鈍重で手鰭と尾を使っている。ぷかぷかと海に浮かんでいる感じで何匹も集まって静かに食べ続けていた。
「ステラーカイギュウ」
「まさかここで見るなんて」
「生き残っていたんだ、彼等は」
ヴィネフスカヤの声には感動があった。
「何とかここで」
「そうね。生きていたのね」
「そうだ」
彼は今度は大山田の言葉に頷いた。
「生きていたんだ、ここでずっと」
「私達がそれを知らなかっただけで」
「かつて私達が絶滅させたが。それでもまだ」
生きていたのだった。ここで。彼等はそのことに深い感動を覚えているのだった。
「ねえ」
「何だい?」
あらためて大山田の言葉に応える。
「まだ。ここも捨てたものじゃないわね」
「うん。守るべき自然はまだまだある」
彼女の今の言葉に頷く。
「彼等も残っていた」
「他の動物達もまだまだ」
「残っている。後は彼等を」
「守っていきましょう」
大山田の言葉だった。
「絶滅させて、減らすのが私達なら」
「守って増やすのも私達か」
「そうよ。だからよ」
それが彼女の考えだった。
「このステラーカイギュウも」
「守っていこう」
「ええ。帰ったらまず最初に」
「このことを発表しよう」
彼は言った。
「皆それでいいかな」
「ええ、是非共」
「これは大発見だぞ」
皆それに興奮を抑えきれない顔で賛成する。無理もないことだった。
「本当に生き残っていたなんて」
「まだこんなに自然があったんだ」
「ああ、そうだ」
ヴィシネフスカヤも言う。ステラーカイギュウだけでなく海牛類というものは豊かで奇麗な自然環境でなければ生きることができない。だから彼等がいるということはその証拠でもあるのだ。
だからこそ。皆笑顔になっているのだった。ヴィシネフスカヤも大山田も。
「これを世界中に伝えよう。そして」
「彼等と彼等がいることのできるこの自然を」
「守っていこう」
皆笑顔で彼の言葉に頷く。これで話はまとまったのだった。最後に大山田が一同に告げた。
「じゃあこのことを早く世界に」
「そうしよう」
ヴィシネフスカヤが応えてすぐにステラーカイギュウの姿が写真に撮られパソコンを通じて世界に流された。世界中がこの世紀の大発見に沸き立ったのは言うまでもない。全ては現実のこと。人々に残されていてそれが見つかった、大きな希望の話であった。
海牛 完
2008・5・17
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