逆さの砂時計
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アリアドネの糸
『いかなる状況であっても、最優先すべきは、マリアの娘を確保すること』
アリアであろうと、ロザリアであろうと。
その瞬間のマリアの娘が、どんな状態であろうと。
捕獲側の人員がどんな窮地に陥っていたとしても。
それを誤ってはならない。
だから。
離れた所に居た筈のレゾネクトが、いきなり至近距離に移動していても。
突然現れたベゼドラが、胸に大きな風穴を開けて、血まみれになりながら落下しそうになっていても。
肝心なマリアの娘が、何故か気を失いかけているとしても。
フィレスは冷静に、ほとんど反射のみで首に下げたマリアの羽根を握り。
ロザリアの体に触れて、その場を離脱した。
直後、硬直していた精獣達も姿を消す。
「なるほど」
レゾネクトが、地面へと力なく落ちかけていたベゼドラの右腕を掴み。
向き合う形で乱暴に引き上げ、その顔を静かに見据える。
ベゼドラは、ざまあみろと言わんばかりの表情で、笑っていた。
「力業専門の貴様が、ずいぶん器用な真似をしたものだな。ベゼドラよ」
「ああ、すっげー面倒くさかった。後でロザリアに、倍で返させて、やる」
物理的に体を貫かれてもまだ不敵に笑い続けるベゼドラに。
レゾネクトは、すっと目を細める。
「あれは、俺の物だ。決して人間や悪魔が汚して良い器ではない。完全なる女神として覚醒した今、ようやく」
「貴方の『物』じゃないわ、レゾネクト。あの『子』は、私の娘よ」
「!」
気絶したゴールデンドラゴンを抱えながら、ベゼドラの左腕にしがみつく格好で現れた少女を見て、レゾネクトの表情がわずかに強ばる。
その瞬間。
白雲が漂う真昼の空から、木が一本も生えていない岩だらけの山頂へと、空間を移動した。
足場を得た三人は、姿勢を保ったまま睨み合う。
「『扉』の、マリア」
「アリアに手を出さないで! これ以上私から大切なものを奪わないで!!」
怒りと敵対心を剥き出しにしたマリアの叫びに。
レゾネクトは、ふと唇の両端を落とした。
澄んだ紫色の目が、どこか遠い……現実ではない、遥か遠い場所を見る。
「あれは必要だ。完全にする為に」
「「…………!?」」
ベゼドラの胸に開いた風穴が、淡く薄い緑色の光に包まれ。
破られた黒いコートごと、音も無く瞬きの間に塞がる。
レゾネクトが契約者と共有している『時間』の力と。
解放されてしまった最後の力、元は神々の祝福であった『治癒』。
それを、ベゼドラに使った。
理解したマリアとベゼドラが、どういうつもりかと疑念を抱く前に。
三人は、どことも知れぬ山頂から忽然と姿を消した。
「やっと会えましたね、ロザリア。貴女が消えていなくて、良かった」
三つの人影以外は何も無い、真っ白な空間の中。
私とアリアの意識の中に、長い黒髪を首筋で一つに束ねた男が居る。
私がよく知ってる、教会で一緒に暮らしてた頃のまま笑う神父が居る。
「クロス、ツェル?」
嘘だ。
だって、クロスツェルは今、レゾネクトに捕まってる。
残り少ない魂の大半をレゾネクトに抜き取られて。
死ぬ寸前で時間を止めた体も、どこかに隠されて。
だから、私は。
「本当なら私の体に戻してもらう想定をしていたのですけど、そうできない事情があったのでしょうか? 結果として貴女に会えたから良いのですが。体に異常などはありませんか? ロザリア」
「異常、って」
「詳しい理窟までは解りませんが、この私は、ベゼドラの悪魔としての力で形を固定しています。一つの体の中に、三人分の人格と二人分の魂が同時に存在していては、体のどこかしらに、相当な負荷が掛かるのではないかと。ロザリアは大丈夫そうですが、貴女は大丈夫ですか? アリア」
私の背後で膝を抱えて丸くなってるアリアの肩が、大袈裟に跳ねた。
顔を合わせるのも怖いのかなんなのか、耳まで塞ぎやがった。
「……やはり、嫌われてしまったのでしょうか?」
「っ違う!!」
クロスツェルの言葉に慌てたアリアは、勢いで顔を上げ
「私は……! 私のせいで……ごめんなさい、ごめんなさい、レスター!」
また、頭を抱えて泣き出した。
ああもう、うっぜぇ!
「何故、その名前を?」
現在はほとんど誰も知らない筈の『レスター』に反応した。
ってことは、本物のクロスツェルなのか。
そうか……ベゼドラが、クロスツェルを守って……。
「……レゾネクトがアリアにお前の過去を見せたんだ。契約は解るよな? アリアとレゾネクトで交わしてたそれを進めさせようとしたらしい。つか、なんなんだよあれ!? 私は謝れって意味で言ったんじゃねぇぞ!? あれは、とにかく殴らせろって意味で! 勢いで!」
そうだ。コイツが目の前に居るなら、今この場で殴れるじゃないか。
と詰め寄って、腕を振り回してみるが。
私の握り拳は、クロスツェルの体? 精神体? 魂? を通過して。
見事なまでに空回った。
くそっ! 触れないのかよ!
むかつく!!
「もしかして、全部知られてしまいましたか?」
苛立って歯ぎしりする私を無視したクロスツェルは。
首を傾げて、私とアリアを交互に見る。
「ああそうだよ! 情けねーガキの時分から、人の話をまったく聴かないで都合良く解釈しやがってるお前まで、全部知ってる! アリアも私もな!」
ビシッと人差し指を突き立てた私をじっと見て。
変態キング神父は、困ったとでも言いたげに両肩を持ち上げて苦笑う。
「私自身が伝えなければ、意味がなかったんですけどね。やむを得ません。もう一度、ちゃんと聴いていただけますか?」
アリアがますます縮こまる。
「嫌なこった。面倒くさい!」
腕を組んで横を向いたら、クスクスと楽しげな笑い声が耳を撫でた。
ベゼドラといいコイツといい、謝る気なんか全然無いだろ!
「すみませんでした」
しかも、勝手に言い出すし!
「それでも私は、貴女を愛しています。ロザリア。そして、アリア」
「……っ」
実体でもないのに、くわあっと急激に顔が熱くなる。
この野郎、性懲りもなくっ!
「やめて……っ! 私は本物の女神じゃない! 貴方達を酷い目に遭わせた私に、そんなこと言わないで!」
アリアが首を振って、クロスツェルの声を遮ろうとする。
そりゃあ、結果だけ見ればな。
直接ではないにしろ、自分の身勝手でクロスツェルの家族を殺したんだ。
自己嫌悪にもなるわな。
だが、私にしてみりゃ、ひたすら鬱陶しいだけだ。
お前のせいで、クロスツェルもベゼドラも死にかけてんだぞ。
本物の蒼の女神だって、もう少し遅かったら殺されてた。
お前の!
私のせいで!
どれだけの奴が死んだと思ってんだ!!
「ええ。貴女は、かつての神父が信じ崇めていた女神ではない。私は、私に生きろと言ってくれた貴女という存在を、愛しています。アリアでもあり、ロザリアでもある貴女という存在だけを、心から愛しています。ロザリアと共に、私の手を取っていただけませんか? 私は貴女と生きていきたい」
「どうして!? どうして私に、そんなっ……」
「遥か昔、創造神として悪魔達を退治し、封印した女神アリア。貴女は何故世界を護ったのですか?」
「護ろうとしたんじゃない! 自分にとって居心地が良い世界に変えようとしただけよ! 私の、……身勝手な、わがままで……っ」
「おや、奇遇ですね。私も同じですよ。単なる身勝手なわがままです」
アリアがピタッと止まった。
バカみたいに濡れまくった顔をクロスツェルに向けて。
信じられないと目で訴える。
にこっと笑ったクロスツェルは、アリアの横に片膝を突いて、固く握ったアリアの左手をふわりと引き寄せ……
あれ? と、私が明確な引っ掛かりを覚える間もなく。
その甲に、軽く口付けた。
「貴女が欲しい。私自身はどうなっても構わない。私の傍で、ずっと幸せに笑っていて欲しい。理由なんて、そんなものです」
アリアも。
ついでに私も。
言葉が出ない。
アリアは驚いてるからだろうけど、私は……
き……、聴いてて、めっちゃくちゃ、恥ずかしい……っ!
顔やら首やら背中やら、とにかく全身がむず痒い!!
なんだコイツ?
こんな性格だったか!?
やっぱり偽者? 幻!?
「レスター……」
「いいえ。罪人の『レスター』はもう、この世界のどこにも存在しません。私は『クロスツェル』です。ただ、意味が少し変わってしまいましたけど」
「……?」
「貴女達の心を鎖で繋いで、他の誰の手も届かない場所に架ける。どうか、私を愛してください。誰よりも何よりも。世界よりも、私を選んで」
やっぱり偽者かああああぁぁああ────っっ!?
死ぬ!
なんか、いろんな意味で殺される!!
ダメだ、コイツ。
なんとかしないと!!
「クロスツェル、私は……」
急速に膨れ上がっていく羞恥心で爆発しそうな頭を抱えて身悶える私とは正反対に、アリアはふるふると首を横に振った。
く……っ! 年の功ってヤツか?
スルースキル半端ねえ…………
って、違うか。
コイツは。
「私は、貴方を選べない」
うつむいて閉じた目蓋の隙間から、涙が一粒零れ落ちる。
「私は……」
小さな滝壺の近くに生えている花の実を摘んで。
気を失っているロザリアさんの長衣の袖に忍ばせた。
これで、しばらくは気配を隠せると思うが。
レゾネクトが相手では、無駄な足掻きかも知れない。
ここも、できるだけ早く離れなければ。
封印が解けてしまった今、レゾネクトがいつ襲ってくるか分からない。
それにしても。
「ああ、びっくりした」
ここに着いて、ようやく息が抜けた心地だ。
時間を操るとか、心臓に悪いから本当にやめていただきたい。
ほんの一瞬で事態を急変されるこちらの身にもなって欲しい。
すぐに合流する筈のマリアさん達も来ないし。
ベゼドラさんは、あんなに血まみれだったのに放置して大丈夫なのか?
居ない筈のクロスツェルさんに「起きろ」と言っていたのにも、ちゃんと意味があるんだろうけど。事前に説明がないと混乱してしまう。
「もしかして、前に言ってた対策かな?」
クロスツェルさんを本当には死なせない為の。
ベゼドラさん曰く、物凄ぉく面倒くさい対策。
クロスツェルさんと話し合って決めた風な口振りだったけど。
レゾネクトは対象の記憶を読み取る力を持っている。クロスツェルさんの記憶が読まれていたら妨害されるんじゃないのか? と、密かに思ってた。
それを見越して応用した? とか。
だとしたら、不測事態分余計にややこしい状況を招いてしまったのでは。
「フィレス様」
移動後、花園に戻っていたリースさんが、心配そうな顔で翔んできた。
「その、アリア様は大丈夫でしょうか?」
「なんとも言えません。ベゼドラさんが何かをしたのは間違いないですが。精霊の皆さんは大丈夫でしたか?」
「はい! 皆、すっごく元気になりました。聖天女様にもフィレス様にも、言葉では表せないくらい感謝してます!」
「それは良かったです」
『水鏡の泉』に残ったマリアさんとティーは、リースさんに話を聴いて、泉から離れた精霊達を捜し回っていた。
レゾネクトから気配を消す目的で求めた花の実が大いに活用された甲斐もあって、大多数の精霊は助けられたらしい。
私も、あちこちを移動中、見かけた精霊達に実を持たせて回復させたり、泉に魔王は居ないと伝えたりしてた。
残念ながら間に合わなかった精霊は、それぞれの目の色をした花に姿形を変えていたそうだ。
そう聴いて、花園の正体をちょっと考えてしまったのだが。
知らなくても良いことが、世の中にはたくさん溢れてる。
あえて質す必要はないだろう。思い過ごしかも知れないし。
「私達三精霊は、いつ、どこまででもフィレス様達に付いて行きますから。及ばない点も多いと思いますけど、なんでも命令してくださいね!」
リースさんの紅い目が、私の目を真剣に見つめる。
本来の精霊は義理堅い種族なのだと、マリアさんが言ってた。
なるほど、私も元は嫌悪の対象であると知っているのに。
彼女達は惜しみなく協力してくれる。
「ありがとうございます。とても心強いです」
ならば私も、彼女達の気持ちに報いなければ。
精霊達の穏やかな未来を築く手助けができると良いのだが。
「……う……」
「アリア様!?」
横たわるロザリアさんが小さく呻き、もぞ……と動いた。
リースさんが慌てて顔を覗く位置に降りる。
「リースさん。今の彼女は、『アリア』ではなく、『ロザリア』さんです。多分、アリアと呼ばれるのは嫌がりますよ」
クロスツェルさんの教会で自己暗示みたいにくり返してたし。
ロザリアさんにとっては、重要なことなのだろう。
リースさんにも通じるものがあるのか、そうですねとあっさり頷いた。
「ダメ、だ、ベゼドラ……!」
「! ベゼドラさん?」
ロザリアさんは眠ったまま。
胸元を掻きむしるようにして、長衣に細かいシワを刻む。
夢にうなされているのか?
それとも、ベゼドラさんの身に何かが起きている?
「ロザリアさん!」
「ロザリア様!!」
リースさんと一緒になって、苦しげに脂汗を滲ませる額を押さえるが。
「やめ……そいつに、『 『 』』に強い意識を向けるな!」
「「……!?」」
突然紡がれた言葉に私達は驚き、固まった。
『 『 』』
ありえない響き。
怪奇現象に慣れてきた脳が、一瞬理解を拒むほどの衝撃。
前後の言葉の繋がりから、それが指すのは、まさか。
だが。
もしもこれが真実なら、さっきの現象に説明がつく。
神々が、わざわざ非力な人間の中から勇者を選んだ理由も解る。
神々自身では、『 』を特性に持つレゾネクトには、絶対に、敵わない。
悪魔でも精獣でも……きっと、成体のゴールデンドラゴンでも殺せない。
だから、強い力を持たないからこそ、力に頼らない思考を持つ人間達に、頼らざるを得なかったんだ。
アルフリードさんは、勇者として正しくも、最後に間違えてしまった!
「やめ……っ ベゼドラぁあああ────!!」
「ロザ……!」
ロザリアさんの全身から、目を焼くほど眩しい薄い緑色の光が放たれる。
そして……
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