アニー
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7部分:第七話
第七話
ヘンリーは盛んに繁華街へ行くようになった。そして手当たり次第にあちこちの酒場に入る。アニーに乗って店へと向かうのであった。
「あら、珍しいわね。ここへ来るなんて」
知り合いのホステスに声をかけられた。このホステスの離婚問題の際に仕事をしたことがある。それから知り合いになった。外見は派手だが気のいい女である。今は年下の恋人がいるらしい。名をミスティという。
「何を飲みたいのかしら」
「バーボンがいいね」
ヘンリーはにこりと笑ってそれに応えた。
「ボトルをキープしてね」
「たまたま入ってきてキープなんて。飲む気満々ね」
「お酒は嫌いじゃないのは知ってるだろう?」
「ええ、まあ」
ヘンリーは煙草はやらないが酒は好きだ。ウイスキーもバーボンも浴びるように飲む時がある。
「じゃあ頼むよ。ひょっとしたら今日で一本空けるかも知れない」
「あら、強気ね」
「飲めるさ、それ位」
彼は言った。
「じゃあ賭けるかい?僕がボトル一本今日一日で空けられるかを」
「悪くないわね」
ミスティはそれを聞いて面白そうに微笑んだ。彼女が賭け事を好きなのを知っての言葉だ。
「賭けるのは何かしら」
「そうだね」
ここまでは彼の計算の範囲内だ。チラリと駐車場を見る。アニーが夜の闇の中に停まっていた。
「君にボトルを二本奢るというのはどうだい?僕が飲むのと同じラベルのをね」
「気前がいいわね」
更に乗り気になった。これも計算のうちだ。彼女は酒も好きなのである。
「じゃあそれでいいね」
「ええ」
こうして賭けは決まった。彼は店の中に入りカウンターに座ると早速バーボンを手にした。ラベルは彼がいつも飲んでいるお気に入りのものだ。かなり高級なものである。
「いいの?これ、かなり効くわよ」
「知ってるよ」
彼は余裕を以って頷いた。
「だからこそ飲むんだよ。そうでないと面白くないだろう?」
「ええ」
「殺鼠はじめるよ。いいね」
「それじゃ。時間は?」
「そうだね」
彼は店の時計を見て考えた後で言った。
「一時間だ。いいね」
「わかったわ。それじゃ」
「うん」
彼は飲みはじめた。ボトルの中の茶色の魔法の水を瞬く間に飲み干していく。そしてそれを完全に空にした時に丁度一時間となっていた。
「どうかな」
「やるわね。あたしの負けね」
「そうだね。けれどまだ飲めそうだ」
「あら、大丈夫なの?」
ミスティは彼に微笑みながら言った。
「一本空けたのに」
「どうも今日は調子がよくてね。まだ飲めそうなんだ」
「本当に?」
「ああ。だからもう一本。また賭けるかい?」
「今度は何かしら」
「僕の家にあるワインのラベルを全部。それでいいかな」
「確か貴方の家のワインには」
「そうさ、トカイがある」
彼はニヤリと笑って答えた。欧州で王族達が親しんだ半ば伝説となっているワインだ。甘みの強い、美味い酒である。値もかなりする。
「トカイ」
それを聞いたミスティの喉がゴクリ、と鳴った。
「それでいいかな」
「勿論よ」
彼女は目を輝かせてそれに頷いた。
「けれど本当にいいのね?」
「何がだい?」
「トカイなんてよ。そんな高いお酒。本当に譲ってくれるの?」
「おいおい、まだ君が勝つと決まったわけじゃないよ」
「それはそうだけど」
しかし彼女はもう賭けに勝った気分だった。今のヘンリーの酔いぶりから見ればそれも当然であった。
「けれど、本当にいいのね?」
「ああ」
ヘンリーは頷いた。
「じゃあ時間は一時間でね。それでいいね」
「ええ」
今度はミスティが頷いた。
「それじゃあはじめようか」
こうしてヘンリーはまた飲みはじめた。相変わらず見事な飲みっぷりである。そして全て飲み終えたところで彼はグラスを置いた。
「僕の勝ちかな」
「残念だけれど」
ミスティは首を横に振った。
「貴方の負けよ。時計を見て」
そう言いながら壁に掛けられていた時計を指差す。
「ちぇっ」
ヘンリーはそれを見てわざと悪態をついた。一分遅れであったのだ。
「一分位いいじゃないか」
「時間はきちんと守るのが貴方の主義じゃなかったかしら」
ミスティはからかうような口調で彼に言った。
「弁護士なんだし。どうかしら」
「わかったよ」
彼は苦い顔を作ってそれに頷いた。
「君の勝ちだ。約束通りトカイは全部あげるよ」
「有り難う」
彼女はそれを聞いて微笑んだ。
「じゃあ有り難く貰うわね」
「ああ。けれどただ一つ問題があるんだ」
「何かしら」
「今僕はお酒が入っているね」
「ええ」
「車を運転するわけにはいかないんだ。家まで頼めるかな。帰りのタクシー代は出すから」
「ああ、そんなことだったの」
ミスティはそれを聞いておかしそうな笑みになった。
「いいわ、喜んで」
「優しいんだね」
「当然でしょ、トカイの為だもの」
「僕の為じゃなくて」
「悪いけれど貴方はタイプじゃないのよね」
「おやおや」
「けれどいいわ。運転は任せて」
「お願いするよ」
「今から行くわね」
こうして彼女はアニーに向かった。ヘンリーは酔ってはいるが確かな足取りでアニーに進んだ。そしてゆっくりとした動作で助手席に座った。運転席にはミスティがもういた。
「行くわよ」
「うん。カーナビあるからそれに従ってね」
「ええ」
こうして二人はアニーに乗ってヘンリーの家に向かった。その途中でヘンリーはミスティに尋ねた。
「乗り心地はどう?」
「悪くないわ」
彼女は答えた。
「凄くいいじゃない。こんな車はじめてよ」
「そうなんだ」
それを聞きながら違和感を感じていた。何か自分とは違うのだろうか。
「ハンドルもいいし・・・・・・あれ!?」
「どうしたんだい!?」
不意に声をあげたのでハッとして尋ねた。
「いえ、ちょっとね」
ミスティは戸惑いながら答えた。
「急にハンドルの調子がおかしくなったのよ。何故かしら」
「・・・・・・そう」
それを聞いたヘンリーの顔色が急激に悪くなった。酔いも醒めてきた。
「そんなに酷いの?」
「いえ、それ程じゃないけれど」
彼女はハンドルを操りながら答えた。
「何かね、もつれるのよ。乗り心地も急に変になったし」
「そうなんだ」
それを聞いてやはり、と思った。だがそれは口には出さない。
「大丈夫?」
「今のところはね。これ位なら平気よ」
「だったらいいけれど」
そうは言っても安心はできなかった。
「何かあったら大変なことになるからね」
「私の車ってオンボロでね」
運転しながらまた言った。
「こんなのとは比較にならない位運転しづらいのよ。だから平気よ」
「そうなんだ」
「だから安心していて。大船に乗ったつもりでね」
「ああ。ところでもう一つ聞きたいんだけれど」
「何かしら」
「今日はもう店じまいだよね」
「そうね」
ミスティは運転席にあるデジタル時計をチラリと見た後で答えた。
「もうそんな時間ね。けれどどうして?」
「いやね」
ヘンリーは微笑んでから言った。
「うちに泊まったらどうかなって。もう遅いし」
「誘ってるのかしら」
「さてね」
彼は笑みを深めた。まるでアニーに言うように。
「どうかな。君にとっても悪くないと思うけれど」
「前に言ったわよね」
アニーもそれに合わせて笑っていた。
「貴方はタイプじゃないって」
「おや、そうだったかな」
わざととぼけてみせた。しかしその目と心は実はミスティには向けられてはいない。
「それにそんなに酔って私の相手はできるの?言っておくけれど私は積極的よ」
「ふふふ」
ここは笑って誤魔化した。
「無理だと思うけれど。それでも魅力的ではあるわ」
「僕がかい?」
「まさか。トカイがよ」
そう言うミスティの目も顔も笑っていた。それが待ち遠しくてたまらないようであった。
「一つ聞きたいけれど泊まったらそこでトカイも飲んでいいわね」
「勿論だよ」
彼は喜んでそれを認めた。
「好きなだけ飲んでいいよ。何本でも」
「わかったわ。じゃあ泊まらせてもらうわ」
「了解」
「肴は何があるかしら」
「チーズならたんまりと」
彼は答えた。
「モツァレラでもカマンベールでも何でも」
「用意がいいじゃない。いい旦那になれるわよ」
「生憎それだけじゃ今時の女の子は振り向いてくれなくてね。今だに花の独身貴族さ」
「あらあら。じゃあ立候補してあげようかしら。花嫁候補に」
「今さっきタイプじゃないって言ったじゃないか。それに恋人もいるんだろう?確か年下の」
「よく知ってるわね」
「君自身から聞いたことじゃないか。離婚した後暫くしてから」
「記憶力いいのね、酔ってるのに」
「職業柄ね。いらないことも覚えてるのさ」
「あと減らず口もね」
「ふふふ」
そんなやりとりをしながらヘンリーの自宅に着いた。彼はミスティをリビングに案内するとキッチンのワインボックスを空けてそこからボトルを二本取り出して来た。
「とりあえずは二本でいいかな」
「ううん」
だが彼女はいささか不満そうであった。それを見てヘンリーはまた動いた。そしてもう二本持って来た。
「じゃあこれで」
「いいわ」
それでようやく頷いた。四本のボトルをテーブルの上に置くと今度はチーズを持って来た。ハム等も出す。
「あら、チーズだけじゃないのね」
「たまたま冷蔵庫にあってね」
「そうなの。何か豪勢になってきたわね」
「そうかな。ごくありふれた肴だと思うけれど」
「一品より二品ある方がいいじゃない。そういうことよ」
「そんなものかね」
「私はそう思うけれど。じゃあ早速頂くわね」
「どうぞ」
グラスも出した。ミスティは自分で栓を抜くと早速飲みはじめた。すぐに顔が赤く染まっていく。
「美味しいわね、やっぱり」
「気に入ってもらえたかな」
「ええ。幾らでも飲めるわ、これだと」
「それならいい。じゃあ気の済むまで飲んでくれ。どのみち君のものだしね、うちのトカイは」
「何かラッキーね。こんな簡単にトカイが飲めるなんて。嘘みたい」
「嘘じゃないよ、本当のことさ」
「後で何かあったりして。上手い話には裏がある、ってね」
「まさか」
「そうよね、あはは」
ヘンリーは話しながらミスティに対して言った。君にはね、と。だがそれは黙っておいた。話すと問題がややこしくなるとわかっていたからであった。
その日はミスティは朝まで飲んでいた。彼女の話によると次の日は休みであるらしい。だから好きなだけ飲めるのだと。それはヘンリーにとってラッキーと言えばラッキーであった。ただし、何故ラッキーなのかは彼にしかわからない。この家にいる者でそれを知っているのは彼だけであった。
朝になるとヘンリーは起きてそのままランニングと身支度を終えて家を出た。出て来る時居間を覗くとミスティがまだ飲んでいた。チーズもハムも殆ど残ってはいなかった。
「行ってらっしゃい」
「うん。まだ飲むつもりかい?」
「いえ、流石にもう駄目よ」
彼女は笑ってそう答えた。
「今日はね。六本空けたし」
「随分と飲んだんだね」
「いつもこれ位飲むわよ。ワインならね」
「強いね」
「お酒にはね。男には弱いけれど」
「おやおや」
冗談を交えてそう言う。だがそんな彼女も流石に限界であった。そのままソファーに寝転がってしまった。
「それじゃあね。少し寝かせてもらうわ」
「ああ。じゃあね。夕方には帰るから」
「わかったわ」
毛布を持って来るともう寝はじめていた。身体にそっとかけて家を後にする。そしてアニーに乗った。
「やっぱりな」
車を運転してみてそう思った。やはりハンドルもブレーキも調子が悪かったのだ。
事務所に入るとすぐに所長の部屋に入った。そして何やら話をした後で仕事に取り掛かった。その日はそのまま仕事に専念した。それが終わると家に帰った。所長に何やら話した後で。
夜にミスティはヘンリーの家を出た。一人であった。夜に女性が一人で歩くのはどうかと言われたがそれでも彼女は一人で家を出た。ヘンリーはそれを玄関で見送っていた。
「やれやれ」
困った顔をする。そして家の中をチラリと見た。
「まあいいか。本当に女性が一人とは限らないしな」
そう言って笑うと家に消えた。それから暫く経つと駐車場のガレージがゆっくりと開いた。アニーが音もなく前に出て来た。ライトはもう点いている。そしてそのまま何処へと消えて行った。
彼女はそのまま夜道を走っていた。寂しい道であった。灯りはあるがぼんやりとしたものであった。アニーはそのぼんやりとした灯りの中を進んでいた。だが一つ奇妙なことがあった。
その運転席には誰もいなかった。他の席にもいない。しかしそれでも彼女は進んでいた。ハンドルとブレーキ、アクセルだけが動いていた。誰もいない筈だというのに。
ライトは前を見ていた。何かを探すように辺りを照らす。そして道を進んでいた。
やがて女の後ろ姿が見えてきた。ミスティに見えた。それを確認するとアニーはスピードを上げた。
一直線に向かう。そしてそのまま突進する。まるで彼女を狙っているかのように。
「所長!」
そこで若い男の声がした。
「うむ!」
女から声がした。それは何と男の声であった。
道の端からヘンリーが飛び出て来た。そして女を横にはねやった。そのうえでアニーの前に飛び出て両手を大きく広げて仁王立ちになった。
「アニー、止めるんだ!」
「!!」
それを受けてか、ヘンリーの姿を認めてかアニーは動きを止めた。そしてヘンリーにあたる寸前に完全に停止した。
「思った通りだったな」
「はい」
ミスティの正体は所長であった。彼はカツラや服でミスティに変装していたのであった。
「まさかとは思ったのですが」
「言っただろう、世の中には科学だけでは説明できないことがあると」
「はい」
ヘンリーは強張った顔で頷いた。
「まさかアニーが。それも一人でに」
「これが現実だ」
所長はヘンリーの横に来ていた。そしてヘンリーのそれと同じく強張った顔で言った。
「正直私も驚いているよ。本当だったとは」
「でしょうね。しかしこれで事件の真相がわかりました」
「ああ」
「アニー」
ヘンリーはアニーに語り掛けた。
「まさかとは思っていたけれど」
アニーは答えない。そのライトの光が弱々しく点滅しているだけであった。それを見ただけで彼女が心を持っているということがわかる。
「今まで・・・・・・君がやっていたことなんだね」
答えはしない。だがそれでも真相はわかった。
「残念だ。君は今まで僕のよいパートナーだと思っていた。それが何故」
「よいパートナーだったからだろう」
ここで所長がこう言った。
「所長」
「パートナーだったからだ。彼女は君を愛していたんだ」
「僕を」
「そうだ。彼女は心を持っていた。それならば君に対して何らかの感情を抱くのは当然だろう」
「はい」
「彼女はマスター、いやパートナーとして君を考えたんだ。最初に出会った時から」
「そういえば」
納得がいった。何故今まであれ程乗り心地がよかったか。それは彼女が彼に対して気を利かせていたからであった。好意故に。
「ではアニーは」
「君を愛しているのだろうな、女性として」
「そうだったのか、アニー」
車だからだろうか。彼女は答えない。しかしその沈黙の中において彼女は答えていたのだ。ヘンリーにはそれがよくわかった。
「そうだったのか・・・・・・。だから」
「おそらくな。そういうことだったのだろう」
「アニー、それには気がつかなかった。僕は君が心を持っていることさえ気付かなかった。まさかそんな」
「普通はこうしたことは有り得ない。だが本当のことだった」
「何ということだったんだ」
「だがヘンリー、わかってるな」
「はい」
ヘンリーは所長の言葉を受けて頷いた。
「わかっています、少なくともわかっているつもりです」
「では君の手で全てを終わらせるんだ。いいね」
「わかりました」
彼はそれを受けてゆっくり前に出た。そして静かな口調でアニーに語り掛けた。
「アニー、よく聞いて欲しい」
アニーのボンネットに手をやる。互いの温かさが感じられた。
「君が愛してくれたのはわかった。それに気がつかなかったのは済まなかったと思っている」
アニーは黙ってそれを聞いている。やはり一言も発しない。所長は二人を見守っていた。まるでヘンリーの後ろを守るかのようにそこに立っていた。
「それを理解したつもりのうえで言わせてもらう。いいね」
そしてまた言った。
「僕を愛してくれていることには素直に感謝したい。だけれど」
「だけれど」
所長は次に彼が出す言葉に注目した。アニーも。
「だからといって他の女性を殺めてはいけない。それは愛じゃない、憎しみなんだ」
憎しみ、という言葉にアニーが反応した。ブルッ、と身体を震わせた。
「僕は愛は受け入れられる。けれど憎しみは受け入れることはできない。それは何故かわかるかい?君は今の僕の言葉でそれがわかっている筈だ」
そう、アニーはわかっていたであろう。だがそれでもヘンリーは言った。
「憎しみを持つ者はそれにより自分を滅ぼしてします。そして他の人も。だから僕は憎しみを受け入れることはできないんだ」
「以前言っていたことだな」
ヘンリーは彼が自分の事務所に来た時に言った言葉を思い出していた。自分は人達の憎しみを消す為に弁護士になったのだと。訴訟社会であるアメリカにおいては実に難しいことであるのをわかったうえで。それを聞いて彼はヘンリーを気に入った。だからこそ事務所に置いているのだ。
「だから君を受け入れることはできない。そして君に言いたい」
「罪のことか」
所長はふとそう思った。その通りであった。
「君が今まで犯した罪を償って欲しい。それだけだ」
アニーは最後までそれを聞いていた。話を聞き終えるとまた身体を震わせた。そしてゆっくりと後ろへバックしはじめた。
「ヘンリー」
「大丈夫ですよ、所長」
彼が轢かれるのではないかと危惧した所長に対してそう述べた。
「しかし」
「心配は無用です。彼女はわかってくれました」
「本当かね」
「ええ。ですから安心して下さい」
「わかった。それでは君を信じよう」
「有り難うございます」
アニーはそのまま下がって行く。そして反転した。そのまま何処かへと去ってしまった。
「行きましたね」
「彼女は一体何処へ行くつもりだ」
「罪を償いに行くのでしょう」
「罪をか」
「はい。私の言葉が伝わったようですから」
「だといいのだがな」
「私は信じていますよ、彼女を」
「償うことをか」
「はい。ですが」
ヘンリーはここでその顔を哀しくさせた。
「彼女と会うのはこれが最後です。おそらくは」
「それはわかる」
所長もそれを聞いて頷いた。
「残念なことだな」
「そうですか仕方のないことです。罪を犯せば償わなくてはならないのはこの世の摂理ですから」
「だからこそ法律が、そして神の存在がある。そうだな」
「ええ」
彼は所長の言葉に頷いた。
「行きますか。全ては終わりました」
「そうだな。それでこれからはどうするんだ」
「明日はバイクでそちらに向かいます。当分はそれですね」
「そうか」
「ずっとかも知れないですが。今はアニーのことを思うと車は」
「わかっているさ、それについては何も言わない」
「有り難うございます」
「それに関しては君に任せるよ。私が言っても何にもならないだろう」
「すいません」
「ところで彼女はどうする」
「彼女!?」
いきなり思いも寄らない単語を聞いてキョトンとした。
「あの、彼女というのは」
「おいおい、ミスティのことだよ。まだ家にいるんだろう」
「あ、そうでした」
それを言われてやっと思い出した。
「彼女今日はオフらしいんですけれど」
「いや、そういう問題ではなくてだ」
所長は言いながら口を尖らせはじめた。
「じゃあ何が」
「いや、いい」
それ以上言うつもりはなかった。そして二人は黙ったままヘンリーの家に帰った。それでこの騒動は一応の終わりを見た。
アニーはそれから二度とヘンリーの前に姿を現わさなかった。何処へ行ったのだろうと思っていた矢先ふとこうした噂が彼の耳に入って来たのであった。
真夜中のボストンの港に車が飛び込んだ、と。運転手は誰かはわからない。自殺だろうと噂されたが詳しいことは一切わからなかった。
「そうか」
彼はそれを聞いて彼女だとわかった。噂であるが彼女が自分でそうして終わらせたのだと思った。それからもアニーを見た者は誰もいなかった。こうして話は終わった。
以後彼は車を買うことはなかった。バイクに移った。だが時々車の店には足を運んだという。そしていつもシルバーの車をいとおしげに見ていたという。まるで恋人を見るように。
アニー 完
2005・8・28
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