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アニー

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2部分:第二話


第二話

 仕事がはじまった。ヘンリーはアニーに乗り取引先に向かった。そこは一人の未亡人の家であった。彼女は夫の遺産を巡って息子と争っていたのである。ヘンリーはその未亡人の担当となっていたのである。
 家の前に着く。白い大きな豪邸である。ボストンはアメリカではかなり古い街であり裕福な者が多い。アメリカ東部では気品のある街と考えられているのだ。
 この家もボストンに相応しいいい家であった。落ち着いた雰囲気の中に気品を醸し出している。彼はその家のチャイムを鳴らした。
「はい」
「すいません、スチュワート弁護士事務所の者ですが」
 所長の姓をつけている。所長は実は自分の姓に強い誇りを持っておりそれを自分の事務所の名前にしたという。その誇りの理由は複雑なものであった。彼は実はスコットランド系アメリカ人なのだ。ボストンのような東部の古い街では主流とされているワスプとは違うのである。宗教もカトリックである。なおヘンリーはウェールズ系である。しかし彼はプロテスタントであった。清教徒ではないが。
「私はここでは余所者だがね」
 彼は時々それを笑って言う。酒の席等で。
「だがそれにかえって誇りを持っておるよ。私はあの勇敢な騎士達の子孫なのだからな」
 スコットランドは勇敢な騎士達を多く輩出したことで知られている。イングランドとの戦いにおいても数多くの激戦を繰り広げ、怯むところがなかった。そういう歴史を持っているのである。
 それを酒が入った時等に言うのだ。そうしたところはマッカーサーに似ているとヘンリーは考えていた。ウエストポイントにおいて最高の秀才と謳われたサングラスの元帥は自分のルーツがスコットランドにあることを終生誇りとしていたのだ。自分がケルト人であるという誇りだ。所長もまたそれを強く持っているのだ。
 ヘンリーも自分のルーツは知っていた。ケルトの血を引いているということはわかっている。だが彼は所長やマッカーサー程そうした意識はなかった。あくまで自分は自分と考えていたのだ。宗教についてもそれ程強いこだわりはなかった。
「はい」 
 チャイムの向こうから声が返ってきた。歳は感じられるが綺麗な声であった。それを聞いたアニーの身体が何故か微かに揺れたように感じられた。
「ようこそ」
 すると黒い喪服を着たブロンドの女性がドアから出て来た。五〇代と思われるがまだ肌は若々しく、顔の皺も少ない。まだまだ女性としては華のある容姿であった。
「ヘンリーです、奥様」
「ようこそ」
 彼女はヘンリーの挨拶を受けにこやかに微笑んだ。
「それでは早速お話を窺わせてもらいます」
「はい」
 こうしてヘンリーはこの気品のある未亡人に誘われ家の中に入った。この家には未亡人の他は誰もいない。率直に言えばヘンリーと二人だけである。アニーはそれを家の外で見てどう思ったであろうか。彼女が女性であったならば。これは言うまでもないことであろう。
 アニーは沈黙していた。しかし不気味な沈黙であった。何も語ろうとはしない、そして黙って家を見据えていた。怒りすら車体から感じられていた。
 二時間程経ったであろうか。ヘンリーが出て来た。にこやかに挨拶を交わして家を後にする。そしてアニーに乗り込んだ。
「只今、アニー」
 当然ながら返事はない。彼はキーを入れ車のスイッチを入れた。そして動かしはじめた。そこで少しずつ違和感に気付いた。
「あれ、どういうことだ」
 何故かハンドルが重いのだ。どういうわけか。彼はそれを感じて首を傾げさせた。
「アニー、身体の何処か悪いのか?」
 しかし返事はない。それどころか今度はブレーキの効きも、そして乗り心地も変になってきた。しかし運転に支障をきたす程ではない。彼はそれを我慢して事務所に戻った。そして事務仕事を終わらせ別の仕事もしてその日は家に帰った。どういうわけかその日はずっと車の調子が悪かった。
 家に帰るとアニーをガレージになおした。そして食事やシャワーを済ませて休んだ。家から灯りが消えた。
 ガレージの灯りも消えていた。ヘンリーの家は暗闇に覆われた。筈だった。どういうことかガレージのシャッターがゆっくりと上がってきたのだ。
 だがそれに気付いた者は誰もいない。中からアニーが出て来た。しかし運転席には誰もいなかった。
 ライトが光った。不気味な、鈍い光だった。まるで冥府の蛍の様な。彼女はその目を光らせたまま走って行った。その行く先が何処なのか誰にもわからなかった。
 翌朝ヘンリーは起きるとトレーニングウェアに着替えた。日課として毎朝ランニングをしているのだ。健康の為である。運動不足ではいざという時体力が続かず大変だからだ。彼は着替え終わると家の前に出た。
「おや?」 
 そこで彼は気付いた。どういうわけかガレージのシャッターが僅かに上がっているのだ。昨夜完全に閉めた筈であるのに。彼はそれを見て首を傾げた。
「おかしいな、閉めた筈なのに」
 だがすぐにそれは自分の間違いだろうと思った少し閉め忘れることもある。その時はそう考えた。
 そこでそれについて考えるのを止めて準備体操をしてランニングに向かった。それが終わるとシャワーを浴び、着替えて食事と身支度を済ませて事務所へ向かった。ガレージを開けアニーに乗る。
「あれ」
 乗ってみたすぐにわかった。
「調子が戻ってるな」
 ハンドルもブレーキも元に戻っていた。乗り心地もだ。どういうわけかアニー自身がうきうきしているように感じられる。それが何故なのかは彼にはわからなかった。
「まあ昨日はたまたまか」
 そう思い事務所に向かった。そしてオフィスに入った。
「おいヘンリー、大変なことが起こったぞ」
「何かあったんですか?」
 所長が所長室からオフィスに来るなりヘンリーに声をかけてきた。彼はそれを受けて顔を向けさせた。
「君の担当の未亡人のマーガレットさんだがな」
「はい」
「昨夜亡くなられた。事故でだ」
「事故!?」
「そうだ。家の前でな。車に刎ねられて死んだらしい」
「昨夜ですか」
 彼はそれを聞いて暗い顔になった。
「昨日まであんなに元気だったのに」
「まあ仕方ないことだ」
 暗い顔になったヘンリーにそう言って慰めをかけた。
「せめて葬儀には行ってやれ、な」
「わかりました」
「他のことは我々でしておくからな。君は彼女のことからは離れた方がいい。わかるな」
「はい」
「ではな。他の仕事に回ってくれ」
 こうしてその未亡人のことは仕事に関しては終わった。遺産は結局息子のものとなり白い品のいい邸宅もその息子のものとなった。ヘンリーはそれを聞いていたたまれない気持ちであった。
「車、か」
 引っ掛かるものがあるのは事実だ。彼は息子を疑っていた。しかし彼は今はシカゴに住んでいる。それに遺産を巡って争っているとはいえ実の親子である。揉めてはいても会えば一緒に食事をしたりしていた。彼も同席したことがあるが仲は悪くはなかった。思ったよりも醜い対立もなくすんなりいく仕事だと内心喜んでいたのである。だがこうなってしまった。息子が犯人でないとしても疑いたくもあった。
 それから暫く彼は普段通り仕事を続けた。ある日行きつけのレストランで昼食をとることにした。その店のステーキがお気に入りなのである。
 アニーを駐車場に入れ店の中に入った。そして席に座りウェイターを呼んだ。やがて若い女性のウェイトレスがやって来た。
「御注文は何にしますか」
「そうだね」
 彼はメニューを読みながら考えていた。そして答えた。
「サーロインステーキにしようか。いや、待ってくれ」
「どうかしたんですか?」
「今日は止めておこう。チキンステーキがいい」
「チキンステーキですね」
「うん。サラダのドレッシングはオニオンで。いいかな」
「わかりました。それでは」
「うん」
 チップを渡して彼女にオーダーに行かせた。その後ろ姿をゆっくりと眺める。ポニーテールに制服のミニスカートから出ているスラリとした脚が印象的だ。まだ十代らしくその健康さと若さが彼の目に止まった。三十を過ぎた彼にとってはもう眩しくなりだすものであった。
「若さか」
 彼はふとそれについて考えた。
「何か急に懐かしくなってくるな」
 最近何かと色々なものが気になりだしてきた。腹や髪の毛のことが。だがあの頃はそんな悩みなぞなかった。それを思うだけでまた懐かしさがこみあげてくるのだ。
 学生時代はバスケットボールをやっていた。マイケル=ジョーダンのファンだった。彼のバスケットボーラーとしては小柄ながらそのバネを活かしたプレイに感動すら覚えていた。バルセロナオリンピックの試合はビデオで今でも家に置いてある。気が向けば今でも見る。あの頃のアメリカのバスケが大好きであった。
「そういうものを見ること自体がもう歳なのかな」
 不意にそう思ったりもする。何かと苦労して若さを保とうはしている。だがどうにもそれは儚い努力に終わりそうだ。それでも彼は努力を続けていた。やっていれば多少はましだろうと考えながら。
 あれこれ考えても仕方のないことを考えているうちに注文した料理が来た。まずはスープである。
 コンソメのスープだ。中に玉葱や人参が入っている。それを飲むとオニオンのサラダ、そしてメインディッシュのチキンステーキである。湯気と肉汁を出して皿の上に置かれていた。
「どうぞ」
「有り難う」
 スープとサラダを食べ終えた彼のところにそのステーキが置かれた。持って来ているのはあの若いウェイトレスである。にこやかな笑みを彼に向けている。
「デザートは何にしますか」
「そうだね」
 彼は暫く考えた後でそれに答えた。
「アイスクリームがいいな。バニラで」
「畏まりました。それでは後でお持ちします」
「うん」
 ステーキは中々美味かった。鶏のあっさりとした味に濃いソースがよく合っていた。仕事で疲れた身体に心地良いエネルギーを与えてくれる。彼はそれを食べ終えた後でパンを食べ、運ばれたデザートも食べ終えてその店を後にすることにした。勘定を払ったところであのウェイトレスが扉を開けてくれた。
「有り難う、気が利くね」
「いえ、そんな」
 彼女は笑ってそれに応えてきた。
「料理もよかったし、サービスもいい。あらためて気に入ったよ」
「店がですか?」
「そうだね」
 本当は別のものも気に入っていたがそれは口には出さなかった。
「また来るよ」
「はい」
 彼女にまたチップを渡し店の前の駐車場に向かう。そこからもうアニーが見える。こちらに向けて停められていた。そう、
こちらに向けて停められていたのだ。 
 アニーはヘンリーと彼女のやりとりを見ていたのだ。それも一部始終。それを見ていた彼女のボディが微かに震えていた。微かに、ではあるが。だがヘンリーも他の誰も彼女には気付きもしなかった。
 それからヘンリーは昼食はいつもこのレストランで採るようになった。ウェイトレスも同じである。彼女はよく働き、明るく、元気がよかった。それがいたく気に入ったのである。
「明日は休みだったね」
 ある日彼は食事をしながら彼女に声をかけた。
「ええ、明日は水曜ですから」
「残念だね。君に会えないなんて」
「けれどお店は開いていますよ」
「そういう問題じゃないんだよ。僕はここに食べ物だけをもらいに来ているわけじゃないんだ」
「じゃあ何ですか?」
「ただで貰えるものだよ」
「ただで?」
「そうさ、スマイルさ」
 彼はにこりと笑ってそう言った。
「スマイルをね。これはただだろう?」
「さて、それはどうでしょうか」
 だが彼女はそれには疑問の声を呈した。
「違うのかい?」
「今日び女の子はスマイルもただではあげませんよ」
「おやおや、厳しいんだね」
「ハンサムで格好いい人にしかあげないんですよ。おわかりですか?」
「じゃあ僕はそのハンサムで格好いい人なのかな」
「さて、それはどうでしょう」
 ここで答えをはぐらかしてきた。
「他の人から見れば」
「じゃあ君は?」
「笑顔を見せていることでおわかりだと思いますが」
「わかったよ」
 それを聞いてまたにこりと笑った。どうやらお互い思っていることは同じのようだ。それを確認できてほっとしていた。彼自身は。
 アニーは違っていたのだ。しかしそれにはやはり誰も気付きはしないのだ。水曜日この若いウェイトレスは休みであった。その夜に事件が起こった。


 
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