相模英二幻想事件簿
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山桜想う頃に…
Ⅸ 不明
「…ここは…?」
目を覚ますと、そこは何もない場所だった。真っ暗な闇だけが存在し、自分すらも闇が浸食したかのような錯覚に襲われる。
ピチャン…
そんな中、私の後ろから水の滴り落ちる音がしたため、私は後ろを振り返った。
辺りは闇に覆われているはずだが、そこに女がいることが分かった。そこだけが何だか薄ぼんやりと明るく感じたからだ。
「すみませんが…ここはどこでしょうか…?」
私は何とはなしに、そこへいた女に聞いてみた。他に人影はないし、私にはそうするしかなかったのだ。
だが…私に声を掛けられた女が徐に顔を上げた時、私は自分の愚かさを心底呪った。
「あ…あぁ…!!」
女の顔を見て、私は声を挙げることすら出来ない程の衝撃が走った。
その女の顔には…額から口までにかけて骨の奥まで見えようかと思える深い傷があったのだ。その傷から血が流れおり、私が聞いた水音は、その血が地面に滴り落ちる音だったのだ…。
「何故…その様な顔をなさるのですか…?」
女が口を開いた。私はゾッとし、目を見開いたまま身動きすらとれずにいた。まるで蛇に睨まれた蛙さながらだ…。
「私が…そんなに恐ろしでしょうか…?」
女は再び口を開き、私に質問を投げ掛ける。だが、私にそれを答える勇気などなかった。真ん中から半分になっている女の顔…。唇すら真っ二つになっていて、中から歯と歯茎の一部らしきものも覗いている…。女が喋ると同時に、それが不規則に見え隠れする様は、私の精神を冒すには充分な恐怖を与えていた。
- こんな状態で…喋れる人間がいるものか…! -
私は胸のうちではそう思うものの、それを口に出して言えはしなかった。しかし、女はそれを感じ取ってか、暫くして涙を流し始めたのだった。
「悔しい…憎い…。そして…哀しい…。私はただ…息子を平等に愛してほしかっただけ…。私なぞどうでもよかった…。順番が最下位でも…同じ息子として…愛してほしかっただけ…。」
私には分からなかった…。この女が何を言っているのか…いや、一体誰に語りかけているのかすら分からなかったのだ。
「何故…本家に迎えて下さらなかったのでしょうや?あの子も…旦那様の息子ではありませぬか…!」
悲痛な叫び…我が子を愛する親の声…。その言葉を聞いて、私はやっと理解することが出来た。彼女は…堀内家当主の妾だった女…。
「ハルを…お忘れですか?旦那様が自らこの傷をお付けになられたのに…。」
どうやら堀内家当主の誰かと私を間違えているようだ…。だが、この状態でどう誤解を解けば良いものか…。
私は何とか誤解を解こうと思案を巡らせたが、不意に視界が開け、思考を中断せざるを得なかった。
「あれは…僕…!?」
いや…違う。良く見ると、あちらが幾分面長だ…。しかし、随分と似ていて私は驚いた。確かに、ハルと名乗った女が間違える訳だ。これは恐らく、そのハルの記憶なのだろう…。
「あなた…何てことを…!」
「仕方ないのだ…こうするしかなかった…。」
彼らの前には、血塗れの女が倒れていた。目をカッと見開き、立ち尽くす二人を睨み付けているかの様だ…。
「私とて貴方様の妻。妾が居たとしても、何を諌めようものですか。」
「それは分かっている。だが…」
「お春さんは妾だとしても、貴方様を深くお慕い申しておりましたのに…。何故この様なことに…。この私にさえ、お話し頂けぬことでしたのでしょうか?」
「トヨ…。こやつ、息子を分家の養子にしたにも関わらず、お前を亡き者にしようと企てておったのだ。そこまでしようとは…露程も思わなんだが…。」
これは…ハルが殺された場面…なのか…?男は日本刀を握り締め、女はその惨状に同様している。幽かに揺れる蝋燭の明かりが、室内を淡く映し出している。その光が、死したハルの見開かれた瞳に揺めき、まるで二人をずっと睨み続けているようで…背筋がゾッとした。
「染野!染野は居らんか!」
トヨと呼ばれた女に散々窘められた後、男は使用人らしき者を呼んだ。呼ばれた者は直ぐに駆け付け、主の部屋の前に来た。
「旦那様、お呼びで御座いますか。」
「染野…他の者は誰も居ぬか。」
「はい。既に下がっており、私だけに御座います。」
「入れ。」
男は端的にそう告げると、染野は障子戸を開いてスルリと中へ入った。恐らく、戸を開く前に気付いていたかも知れない。あれだけの血が流れているのだから、かなり臭っているはずだ。それに…障子戸にも血が飛び散っているのだから、気付かない筈はないだろう…。
「旦那様…これは一体…。」
「何も申すな…。」
眉間に深い皺を寄せて問う染野を、男は小声で制した。だが、その声は有無を言わせないだけの力があったため、染野はそれ以上の追求を止めた。
「染野…この亡骸を、あの櫻華山へと葬ってまいれ。いいか…誰にも見咎められぬでないぞ。」
そう言われた染野は頭を下げて「畏まりました。」と言うと、一旦その身を翻して部屋を出た。暫くして、その手に布を持って戻って来たのだった。彼はその布でハルの亡骸を包み込むと、早々にそれを抱えて屋敷を出ていったのだった。
「案ずるな。ハルは…病で死んだのだ。あれの墓も作らせる。これで…よかったのだ…。」
その場に座り込んで、未だハルの亡骸があった場所を虚ろな目で見詰めるトヨに、男はそう言った。トヨは男を見上げ、弱々しい声で返した。
「旦那様…もし、これが正吉様に気付かれでもしましたら…。」
「大丈夫だ。あやつとて馬鹿ではない。知ったとしても、当主になろう家をみすみす絶やす真似はすまい。それより、この血を消さねばならん…。」
「そう…ですわね。でしたら、使われない北の客間の畳を…。私が血を拭き取り、障子を張り替えます。旦那様は畳を…。」
そう言われた男は頷くや、直ぐに部屋を出た。トヨは目に涙を浮かべながらも、血痕を拭き取るものを取りに部屋を出たのだった。
「正吉…例の兄弟に関係があるのか?ではこの男は…まさか栄吉…?」
私はそう呟くが、無論それに答えてくれる者はいない。目の前に広がる記憶も答えてはくれず、一瞬にして掻き消えてしまった。だが、再び新たな映像が浮かび上がり、今度は淡い三日月の頼りない光に照らされ、荷車を引く染野の姿が映し出された。
「お前も欲を出さなけりゃ、死なずに済んだものを…。本家の正妻に、何でなれるなんて考えたんだ…ハルよ…。」
染野は一人呟きながら、主から命を受けた場所へと向かっていた。彼が向かう先を見ると、大きな影のようなものが見えた。
櫻華山だ。月が反対から照らすため、まるで巨大な墓標のようにも見える…。
暫くすると染野は櫻華山へと着き、そこへハルの亡骸を担いで登っていった。月明かりを頼りに半ばまで来たとき、そこにポッカリと穴が開いている場所に出た。染野は亡骸を一旦地へと横たえて、それに向かって手を合わせた。そうして後、染野は亡骸を穴へと投げ入れたのだった。見ると、その穴の傍らには小さな社があり、どうやら古い墓のようだと悟った。恐らく…正式に埋葬出来なかった者達の行き着く場所なのだろう…。
「ハル…今度は良い時代に産まれるんだぞ。」
染野はそう呟いて再び合掌した後、逃げるように山を下ったのだった。
そこで再び視界が切り替わり、今度はどうやら堀内家ではなく、別の屋敷の門の前だった。
「謙継様、この様な所へ何か御用でしょうか?兼造様までご一緒とは…。」
「謙之介、兄と呼んでほしいと言ったじゃないか…。まぁ、これといった用事ではないが、兼造が餅をついたからお前にもとしつこくてなぁ。」
「兄者、それは言わぬと言ったじゃないか!全く…これ、柔らかいうちに食わしたかったんだ。」
兼造と言われた男は、手にしていたものをバツが悪そうに目の前の男へと差し出した。どうやら例の兄弟の話らしい…。謙継という男、どこかで見たことがあるような気がするが…。
「わざわざお持ち下さったのですか?有り難う御座います!折角お越し下さったのですから、どうかお寄りになって下さい。謙継兄上、兼造兄上。」
「そうか…兼造、少し上がらせてもらうとするか。」
「そうですね。でも…謙之助、その丁寧な口調は止めてくれ。どうも俺の性には合わん。名も皆似たり寄ったりだし、母が違えど兄弟に変わりはないからな。いや…お前だったら、血が繋がらずとも兄弟だと俺は思うだろうが。」
「兼造…それでは兄弟でなく、寧ろ親友と呼ぶべきではないか?」
「どっちも似たようなもんだろ?」
その兼造の言葉を聞き、謙継はやれやれと言った風に首を振り、謙之助は苦笑しながら中へと入って行った。
「何だよ!何で何も言わずに行くんだよ!」
兼造はブツブツと何か言いながら、小走りに二人の後を追い掛けたのだった。
また不意に視界が変化した。同じ屋敷だろうことは分かるが、少し違って見えたのは…気のせいだろうか?
「夜分に失礼致します。染野兼吉と申しますが、弘吉殿は居られますかな?」
暫く見ていると、門から男が現れて言った。現れた男は、堀川家の使用人である染野だった。どこかへ赴いていたようで、染野は旅の格好をしていた。その帰りに立ち寄ったと言う風だ。
「おぉ、よう参られた。文は受け取っておるが、随分と早かったのぅ。」
染野の声に、奥から初老の男が出てきて言った。この屋敷の主らしい。
「いや、山越えが順調でしたのでな。して、例のことは何か掴めましたかな?」
「その話は中で…。先ずは夕餉の支度をさせる故、上がって寛ぎなされい。」
「それは有難い。この辺りは店仕舞いが早くて困っておったところですからなぁ。」
そう言って染野は履き物を脱ぎ、初老の男と世間話をしながら奥へと入って行ったのだった。私の視界もその後に続く様に奥へと向かい、十二畳程の部屋へと入った。
「しかし…この件に、この畑名家の力を借りることになろうとは…。何分、急を要する事態故、先に文にて失礼致したことをお詫び申し上げる。」
「いや、それは構わん。此方はただの分家じゃし、そう畏まる必要もあるまいて。そなたとは知らぬ仲でもなし。」
「そう申して頂けると、此方も幾分気が休まりますな。」
畑名…確か、最後まで残っていた堀川の分家がその名だったはず。では、あの謙之助と呼ばれていた男がハルの子で、それを畑名家が養子にしたってことか…?
私は周囲を気にして見回してみたが、使用人以外は全く見ていない。妻や子供がいてもよさそうなものだが、その気配は全くないのだ。
察するに、この初老の男は独り身なのだ。なぜそうなのかは分からないが、それが理由で謙之助を養子として受け入れたのだろう。
「妻が死んで三十年になるかのぅ…。もし、わしに子があったなら、また違った道があったやも知れん…。」
この言葉は私の疑問を払拭した。男はどこか寂しげに、障子戸から見える月を見た。亡くなった妻を偲んでいるのかも知れない。
「なにを仰られる。いかな養父といえ、兼之介は貴殿を慕っておるではないか。確かに、血の繋がりは無いにせよ、思いというは受け継がるるもの。」
「そうだのぅ…。じゃがそれ故に、本家は分家であるこの畑名家を監視しておるのじゃから、謙之助は辛い立場じゃろうよ…。」
監視…?たかが一分家であり、それも大して富も無さそうなこの家をか?ここを何故監視する必要があったのか?私がそう不思議に思った時、再び視界が揺れた。
視界が正常になった時、そこには別の風景が広がっていた。
そこは見覚えのある場所であり、頭上にある美しい欄間は忘れようにも忘れられないものだった。だが全てが同じわけではなく、そこは整えられた大広間になっていた。
そこへ二人の男が見えたが、廊下の隅に女の影も見てとれた。この女、どうやら中の会話を盗み聞きしているようだ。
「して、兄上。イトのことは如何されるつもりか。妾として傍に置くとは、あまり世間体のよいものではありますまい。」
「兼造…お前、妾のことを問い質しに来たのではないのだろ?」
イト…兼造…?では、兄上と呼ばれた男は長男の謙継か…。だがこの二人、こんなに睨み合うような仲だったか…?
私は訝しく思いながらも見ていると、二人は黙り込んだまま微動だにしない。暫くし、やっと兼造から沈黙を破って口を開けた。
「兄上…いや、当主殿。この春、山桜の咲く頃に、櫻華山へ死者の弔いに赴いて頂きたい。昨年は赴くことなく終えてしまいましたので。」
その言葉に初め、意図を読めずに謙継は黙したままだった。暫くすると何かを察してか溜め息を洩らし、目の前に座る弟へと返答した。
「…分かった。では、四月十日にするとしよう。それで良いな。」
「はい…。」
兼造の返事を合図に、再び視界がぼやけた。私は溜め息を吐くしかなかった。こうもあれこれと見せられても、それがどう繋がっているかがいまいち把握出来ない。だが、それを答えてくれる者は勿論、いるはずもないのだ…。
霞がかった視界が晴れると、そこには目映いばかりの山桜が咲き誇っていた。そんな山桜の中、二人が歩いて来る姿が見えた。堀川家の兄弟、謙継と兼造の二人だ。手には桶と風呂敷がある。風呂敷には恐らく、蝋燭と線香などが入っているのだろう。
二人は黙々と先へ進み、とある場所へと辿り着いた。そこには大小様々な墓が並んでいたが、その中央に風穴の様なポッカリとした穴が開いていた。前に見せられた染野がハルを葬った場所と同じようだが、随分と印象が違う気がした。穴の隣には小さな社もあるため、同じだとは分かるが、こんなに墓石が並んでいたとは…。
そこは意外と急斜面になっており、端には頑丈な柵が作られていた。以前に落ちた者がいたようだ。だが、私の目には不可思議なものが見えていた。柵に付いた真新しい傷だ。あの二人には見えない様な足下に、深く切られた様な傷…。故意に付けられたものに違いない。これを見せられているとしたら…何かがあることを物語っているのだ…。
「これで満足か…。」
「はい。」
どうやら済んだらしい。二人は社の前に立ったまま話を始めた。
「だが…お前が何故これを言い出したのだ?これは先代の父上が、個人的に始めたことではないか。」
「いいえ。これは堀川家当主が代々行ってきたこと。そして…この山が桜で満たされている理由…。」
兼造が語ったことを謙継も良く知っている風で、暫くは互いに睨み合っていた。だが、謙継の方が根負けしたように溜め息を吐いて言った。
「そうか…知っていたか…。確かに、ここは元来墓所としての役割がある。それも、戦で亡くなった者を葬るためのな…。」
「あの小さな社は、その者等を英霊として祀るためのもの…。ですが、兄上はそれを知っていて、何故に来られなかったのですか?」
その問い掛けは、再び緊迫した雰囲気を齎した。謙継は弟を見てはいないものの、そこからはこれ以上の問答は無用と言わんばかりの威圧感が出ていて、私でさえ身震いするほどだった。
だが、兼造はその上に言葉をのせ続けた。
「知っておられるのでしょう?父上がここに葬った妾は、実は病死などではなく、父上の手によって…」
「それ以上口にするでない!」
謙継は怒声を発した。その声は辺りに響き、憩いを満喫していた野鳥を飛び立たせた。兼造もその声には一歩身を引いたが、気を持ち直して再び口を開いた。
「知っておられた…だけではないようですね。分かってはいたのです。再び同じ事が起こる予感はあった…。」
そう呟く様に言うと、兼造は兄の元へと歩み寄って行った。その表情には憐れみや憤り、哀しみや淋しさなど…様々な感情が入り乱れていた。
一方の謙継は、あの柵へと手を掛けていた。先程の話が堪えているようだ。そうしていたため、謙継には兼造の表情を見ることは出来なかった。ただ…疚しいことを隠してきた者の様に、黙したまま俯いていたのだった。
私は兼造が何を遣ろうとしているのかを察知し、何とか謙継に伝えようと叫んだ。だが、全くの無駄だった。その声は届かぬままに四散しただけだった。当たり前だ…これは、ただの記憶の断片なのだから…。
暫くの後、とうとう兼造は兄の元へと辿り着き、ただ一言、目の前で俯く兄へとこう告げたのだった。
「さようなら…兄上…。」
その一言でハッとして振り返った謙継は、弟の手に押され、寄り掛かった柵ごと転落してしまった。その目はカッと見開かれ、最期に映したのは、きっと哀しみに満ちた弟の顔だったに違いない…。
兼造は涙を流していた。その場に膝をつき、兄が落ちて逝った底を見つめながら嗚咽していた。
「もう…こんなのはたくさんなんですよ…。兄上…貴方はそのまま罪を負うことなく…。」
そう言ったかと思うと兼造は立ち上がり、流れた涙を拭うこともせずにその場を後にしたのだった。
私は暫く誰も居なくなった場所を見詰めていたが、ふと一つの疑問に思い至った。
私は…誰なんだ…?
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