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小さな棺桶

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1部分:第一章


第一章

                   小さな棺桶 
 ポーランドはかつてロシアだのプロイセンだのオーストリアだのにその土地を奪われてきて分割された歴史がある。ナポレオンに利用されたこともあればヒトラーに攻められたこともある。だが近年は民主化を果たしどうにかこうにか頑張りやっとそれが適ってきている。その昔はリトアニアと連合王国を形成していた。その時の話だ。
 首都ワルシャワにも流れるウィスラ川。ポーランドの大動脈ともいえる川だ。ここの船頭でワレサという男がいた。彼はいつも仕事の帰りにビールをたらふく飲んでいた。今日もそれでたらふく飲みいい気持ちでいた。それで家に帰ろうと夜道を歩いていると何やら話す声が聞こえてきた。
「はて」
 ワレサは何かと思い耳をすました。それで聞いていると実に小さな声が左の茂みの中から聞こえるのだ。月もなく真っ暗な夜だったが声だけは聞こえてくる。
「明日だな」
「うむ、明日だ」
 何人かいるらしい。口々に話している。
「明日箱を運んで行くと舟を使う男がいる」
「舟をだな」
「そうだ」
 それを念押ししているようだった。
「明日だ、いいな」
「わかった」
 そんな話をしていた。この時は何の気にも留めなかった。それで家に帰るとまずは女房から迎えの言葉を貰った。
「おかえり、あんた」
「ああ、おかえり」
「また随分飲んだんだね」
 ワレサの顔をランプで照らしながら声をかけてきた。
「晩御飯はどうするんだい?」
「いつも通りだよ」
 こう女房に答えた。
「軽くくれ」
「じゃあパンとソーセージってところだね」
「ああ」
 女房の言葉に頷く。頷きながら椅子に座り置かれたソーセージと黒いパンを口にする。その二つを食べながら女房に対して問うのだ。
「なあ」
「何だい?」
「最近何かおかしなことがあったのか?」
「おかしなことって?」
「とりあえず聞いたことはないか」
 こう問うのだ。
「戦が起こりそうだとかそんなのはないか?」
「別にそんなのは聞かないね」
 首を捻りながら亭主に答える。ランプの中にもう老けてしまった可愛い顔が見える。ワレサもワレサで若い頃と比べれば随分太ってしまった。最近では足の親指の付け根がやけに痛む。二人共いい歳なのだ。
「教会の神父様もお元気だし領主様もね」
「そうか」
「とりあえずこの辺りは平和だよ」
 また亭主に言うのだった。
「今まで通りね。いいことじゃないか」
「それは何よりだ。商売も繁盛しているしな」
「その分を飲むってのはどういうものかね」
 ここで少し嫌味を言ってきた。
「酒もいいけれど程々にしなよ。毒だよ」
「その毒を飲むのがいいんだよ」
 しかし彼は反省しない。見れば家でもビールを飲んでいる。泡立つビールを木の大きなコップに入れてごくごくとやっていた。顔はさらに赤くなる。
「違うか?」
「やれやれだね、全く」
「子供達も大きくなった。だったらもう気兼ねなく飲めるじゃないか」
「小さい頃から飲んでたじゃないか」
 女房はこう突っ込みを入れる。
「嘘を言ったら神様に怒られるよ」
「何だよ、今日は随分厳しいな」
「遅いからだよ」
 厳しい理由はそれだった。亭主の遅い帰宅に角を立てているのである。
「全く。食べ終わったら早く寝なよ」
「わかってるさ。じゃあな」
「あたしは先に寝るからね」
 女房は先に藁で作ったベッドの中に入ってしまった。藁の上に白いシーツをかけただけのものだ。この時代の庶民のベッドだ。ワレサも遅い夕食を食べ終わるとその中に入った。それで暫くしてうとうととしだした頃だった。今度は枕元で囁く声が聞こえてきたのだ。
「いいか、明日のことだが」
「うむ、さっきの続きだな」
「そうだ。その舟を操る船頭に金貨を千枚くれと言え」
「千枚だな」
「そうだ、千枚だ」
 そこが強調されていた。
「千枚と言うのだ、いいな」
「わかった、千枚だな」
「また随分と大金だな」
 ワレサはその話を聞いて心の中で思った。しかし今はそれを聞いているだけだった。何も言わずに寝ながら聞いているだけだった。
「若しそいつが出し惜しみをすれば」
「どうするのだ?」
「これを見せてやれ」
 そう言って三つの紋章を家の壁に描いた。ワレサもそれを見た。見ればそれはどれも何処かの家の家紋である。
「この三つを見せてやればいいからな」
「ふむ、その三つをだな」
「それだけでいい。わかったな」
「承知した。それではな」
「うむ」
 これで話は終わった。ワレサは話が終わったのを確認した。とりあえずは夢か何かだと思うことにした。酒をかなり飲んでいることも自覚していた。それでもう完全に寝ることにして目を閉じた。翌朝起きると朝飯の固いパンをミルクで溶かしたものを飲んでから仕事に向かった。舟を行き来する間昨夜のことを考え客人にも気をつけていた。やはり昨夜のことが気になっていたからだ。
「さて、どうなるかな」
 こう考えるのだった。
「来るかどうか。あの話が」
 そのことを考えていると日が西になる。その時に岸辺に大きな葛篭を背負った小柄な男がいた。ワレサはその男を見て心の中でもしや、と思った。それで好奇心に誘われて彼に近付くのだった。
「向こう岸までですね」
「その通りです」
 見れば陰気な顔をしている。顔の色は土気色だ。どうにも薄気味悪い印象を受ける。だがそれでも話の通りになるのかどうか興味を持っていたのと仕事なので彼を舟に乗せた。そうしてまずは向こう岸までやったのだった。
 そして向こう岸に着いた。すぐに渡し賃を要求しようとした。だがそれより前に。
「金貨を頂きたい」
「金貨を」
「左様」
 夜の話の通りだった。こう彼に言ってきたのだ。
「金貨をです。宜しいでしょうか」
「私が受け取るのではなくて?」
「貴方が払うのです」
 理不尽にこう言うのだった。
「宜しいですかな」
「まさか。御冗談でしょう」
 彼はそれを相手にしなかった。だが心の中ではやはり、とも思っていた。しかしそれをあえて隠して話を続けるのだった。これも好奇心故である。
 
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