古城の狼
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1部分:第一章
第一章
古城の狼
中に入ってみると日本の森とは違う印象を受けた。
「これがドイツの森か」
ふとそう呟いた。ドイツの森は子供の頃に童話でよく読んだ。妖精や魔物、魔女が息を潜めて人の隙を窺っている。童話から感じた印象はそれであった。
見てみると確かにそういった気配がする。何か見られている感じがした。
「狼や熊はもういないと聞いていたが」
学生になりワーグナーやウェーバーの曲を聴くようになった。そしてドイツの森に対する印象は一層固まっていった。
ギークフリートが小人と共に住み龍を倒したのも森であった。狩人マックスが悪魔に魂を売った男に誘われ入った狼谷も深い森の中にあった。舞台で見た森の記憶が今甦ってきた。
「魔物が今にも出てきそうだな」
不意にそう思った。子供の頃山に一人で入った時の様な感じであった。
心細く怖い。小さな葉の擦れる音にも怯えてしまう。そうした幼い日の思い出が今戻ってきた。
日が落ちてきた。欧州の夜は日本のそれと比べて長い。そして寒い。僕は予約していた宿に向かった。
だが宿は満室であった。何と手違いで僕の予約は忘れられていたのだ。
「その代わりといっては何ですが」
宿の人が紹介してくれたのはその近くにある古城であった。何でも古い貴族の夫婦が住んでいるそうだ。
かってはこの辺りを治める伯爵家であったらしい。
「あそこですよ」
宿の人間の一人に車で案内されてその古城に着いた。見れば平地に一つ立つ石の城であった。
「見事なお城ですね」
僕はその城を見て言った。宿の人はそれを聞いてにこやかに笑った。
「そうでしょう、この辺りの名物ですからね」
どうやらこの城はこの辺りの人達にとって象徴のようなものらしい。僕は知らないが結構名の知れた城であるようだ。
宿の人は城の門の前に来ると車を停めた。そして城の中へ向かった。
「ちょっと待って下さいね」
僕は暫く車の中で待っていた。やがてその人は帰って来た。
「行きましょう」
宿の人は車の扉を開けて僕に言った。
僕は宿の人に案内され城の中に入った。
「ようこそ」
そこには一人の老人が立っていた。身なりから察するにこの城の執事らしい。
宿の人は僕とその執事に別れを告げると帰っていった。車の音が遠くに消えていく。
「お話はお聞きしています。それではこちらへ」
僕はその執事に案内され城の中を進んだ。
中を見る。石で造られた頑丈そうな城である。
「随分由緒正しいお城みたいですね」
僕はドイツ語で言った。僕が一人で旅行しているのもドイツ語が話せるからである。これが幸いした。
「ええ。十世紀の頃に建てられたと聞いております」
「十世紀ですか。またそれは凄い」
十世紀をいえば丁度神聖ローマ帝国が成立した頃だ。この領邦国家は名実だけは十九世紀まで続いた長い歴史を持った国家であった。
だがその内実は何時までも領主達の力が強くまとまりを欠いていた。そして三十年戦争で事実上崩壊し最後にはナポレオンによってその名さえも消されてしまう。教会と双頭の鷹ハプスブルグ家によって綱引きされ続けたモザイク国家であった。
だがそれが残したものも大きかった。ドイツ人にとっては最初の国家であったのだ。
見れば壁に双頭の鷹の紋章がある。どうやらこの家はかってハプスブルグ派であったらしい。
鎧や槍、剣等も飾られている。どうやらかなりの価値があるものらしい。
そういったものを見ながら僕は城の奥へ進んでいった。
執事は一言も発しようとしない。だがその足取りが老人のものではないように思えた。
(速いな)
まるで若者のようだった。見れば脚の動きが異様に速い。外見は六十を優に越えているようだが見かけよりも若いのであろうか。それともただの健脚か。
そんなことを考えているうちに城の奥にあるある扉の前に案内された。
「旦那様、お客様をお連れしました」
執事は低い声でそう言い扉をノックした。
「入ってもらえるように言ってくれ」
扉の向こうから声がした。低い男の声であった。
「わかりました」
執事は答えた。そして僕の方へ顔を向けた。
「どうぞ」
執事はそう言うと扉を開けた。
「はい」
僕は答えて扉の中へ向かった。その時執事の顔をチラリ、と見た。
廊下に飾られた燭台に照らされたその顔は異様に白く感じられた。それは肌の色の問題ではなかった。
まるで死人の様な顔であった。生気が無く蝋の様な白であった。
(・・・・・・・・・)
僕はその顔を見て一瞬不気味に思った。だがそれは失礼だと思い打ち消した。思えばこの時に既に本能で何かを察していたのであろう。
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