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釜の音

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1部分:第一章


第一章

                   釜の音
 この日僕は知り合いの方の家まで行っていた。その方は大阪の此花にいて僕の家からは結構な距離がある。だがいつも僕によくしてくれる人であるので行ったのだ。
 この人の名前を若松さんという。小柄だが人のいい方で多くの人に慕われている。家はあまり大きくはないが清潔でよくまとまった感じの家である。その家の玄関の辺りも実に奇麗で僕はその庭を見ながらチャイムを鳴らしたのだ。
 するとその小柄な若松さんが家から出て来てくれた。もう七十だというのに随分若く見える。奥さんも一緒でこの人も随分若く奇麗に見える。僕はこの二人に招かれて家に入ったのであった。
「よく来てくれたね」
「いえいえ」
 まずはそう挨拶を交わした。白い茶の間で壁には掛け軸がある。何か僕が知らない人の筆での言葉が書かれている。残念なことに僕は書道には疎くこれを書いたのが何処の誰なのか全くわかりはしないのである。
 だがそれは今のところはどうでもよかった。若松さんは畳の部屋で座布団を敷き僕の向かい側でにこにこと笑っている。僕も座布団の上で座っていた。
「実はですね」
「何かあったのですか?」
「ある方から相談を受けていまして」
 若松さんは僕にそう言ってきたのだった。
「相談ですか」
「はい。結婚のことです」
「結婚ですか」
 若松さんは人望もあるのでよく人から相談を受ける。その中には当然のように結婚に関するものも多い。僕はそれを聞いてこの時は特に何も思わなかった。
「どう思われますか?」
「別にいいのでは?」
 特に考えることもなくそう言葉を返した。
「誰かと誰かが幸せになるのはいいことですから」
「ですね」
 だが答える若松さんの顔は今一つ晴れない。
「普通ならば」
「普通ならばとは」
「人は。わからないものです」
 不意にといった感じでこう述べてきたのであった。
「何時気が変わるかわかりません」
「それはそうですね」
 これは僕もわかっているつもりだ。正直人間というものは非常に不安定なものだと思う。何時気が正反対に変わるのかわかったものではない。所詮神ではない人間だからこれは当然のことだとも思っていた。だがこれは若松さんもよく知っていることだと思っていた。
「それで。昔こんなことがありました」
「昔ですか」
「まずお断りさせて頂きますが」
 若松さんの態度が急にあらたまった。僕はそれを見てまずこれは何かあるなと心の中で呟いてそうして身構えるのであった。
「この話。他言はされないで欲しいのです」
「ではこうしましょう」
 僕はそれを聞いて若松さんに言葉を返した。
「今から聞くことは浮世の作り話です」
「作り話ですか」
「そうです、覚えるに足りない」
 これはいささか自己催眠じみていると僕は思っている。僕はその話は忘れた、と自分で言うと以後他言はしなくなるのだ。実際に忘れた方が幸せな話なんてこの世には幾らでもある。だから忘れることも大事なのだと自分では思っている。
「それでいいでしょうか。忘れるということで」
「御願いします」
 若松さんはまた述べた。
 
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