夫を救った妻の話
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夫を救った妻の話
夫を救った妻の話
中国明代の話である。北にある太原という街に壬生という男がいた。
この者は商いをして暮らしていた。武具を売る仕事である。太原は北にあり異民族との戦いにおいては後方基地としての役割を担っていたのでこの仕事は繁盛した。彼はこの街では知られた男となった。
いい歳になったので妻を迎えた。陳という若く美しい女であった。
この女は美しいだけではなかった。賢くよく気がついた。
そうした女を妻とし商売も繁盛していたので彼は何不自由なく幸せな暮らしをしていた。この日も夜更けまで楽しく飲んでいた。
「ではこれで」
彼は友人達と別れて帰路についた。気前のいい彼は友人達からの評判もよかった。
「また飲みましょうぞ」
友人達は彼に言葉を送った。彼等もまた実に楽しく飲んでいたのである。
「はい、また」
彼は赤い顔で別れた。そしてふらつく足取りで家に向かった。
道は暗い。左右の店はその中で静かに連なっている。人の気配もなく静まり返っていた。
「寂しいのう」
彼はこうした風景が好きではなかった。繁盛している店の主であり宴が好きな彼はそれよりも明るく賑やかな場所が好きなのであった。
だが無理を思っても仕方がない。今騒いだら見回りの役人の怒られるだろう。そうなればいい恥晒しである。
彼はそのまま一人歩いていた。個人的な付き合いなので共の者は連れてはいない。
あと少し歩くと家が見えてくるというところまで来た。ふとそこで何やら苦しげな声が聞こえてきた。
「はて」
不審に思い辺りを見回す。すると道の端に蹲る一人の女性がいた。
服はあまり派手ではない。むしろ貧しい服を着ている。向こうを向いているので顔も全く見えない。髪は闇の中であるが黒いことだけは何とかわかった。
「もし」
壬はその女の声をかけた。
「如何なされたのですか」
彼女を気遣う言葉をかける。すると女はこちらに顔を向けて来た。
「はい」
見ればかなり美しい女である。歳の程は十八であろうか。切れ長の黒い瞳に紅い唇が闇の中にも映える。その顔立ちは闇の中でも整っていることがわかる。
「実は胸が苦しくて」
「胸が」
壬はそれを聞き只事ではないと思った。
「労亥か何かですか」
まずはそれが脳裏によぎった。
「いえ」
だが女はそれを否定した。
「ただ身体が苦しくて。何が理由かはわかりませんが」
「ふむ」
壬はそれを聞き再び考え込んだ。顔を見るとどうやら酔っているというわけでもない。
どうも彼にはわからない。だがここはつてを頼ることにした。
「わかりました」
彼は拳で胸を叩いて言った。
「ここは私にお任せ下さい」
「貴方にですか」
「ええ。悪いようには致しません」
丁度知り合いに医者がいた。彼ならば間違いはないだろうと思った。
そして彼は女を医者に案内しようとした。だが女はここで妙なことを言った。
「お医者様はちょっと」
「駄目なのですか?」
彼はそれを聞きまた妙なことだと思った。
「はい、それには及びませんので」
「左様ですか」
えらく苦しそうだったのに不思議なことだ。だが彼はここは女の言葉に従うことにした。
「ではどうすれば宜しいですか」
「私の家に。そこに行けば薬がありますので」
「わかりました」
そして逆に女の家に案内された。
彼女に夫がいるのだろうか。ふとそう思ったがそれにしては妙だ。何故このような時間に一人で外にいるのだろうか。
親がいるとも考えられない。同じ理由でだ。
それにこれ程の美しさなら街の話題になっている筈だ。だが壬はこの女を見たのははじめてだ。
(最近越してきたのか)
そう思ったがそんな話も聞いてはいない。彼にはわからないことだらけであった。
そう考えているうちに女の家に着いた。見れば貧しい一軒家である。
「こんなところに」
やはり知らない。商売柄街のあちこちを歩き回ることもあるがこんなところに家があるとははじめて見た。やはり不思議であった。
「どうぞ」
だが女はそんな彼の考えを知らないのかまだ苦しそうな顔で彼を家に招き入れた。
中もやはり外と同じく貧しい造りである。寝台と机、台所がある他はこれといって何もない。
「寝台へ」
そして自らを寝台へ運ばせる。そして彼女はそこに横になった。
「薬は何処ですかな」
壬は寝台に横になり安堵の息を立てた彼女に問うた。
「それは」
彼女は机の上を指差した。見ればそこに一つの壺があった。
「その中にあります」
中を覗いてみると黒くて丸いものが沢山入っていた。どうやら丸薬らしい。
「それを下さい」
「わかりました」
壬は言われるままそれを取り出した。そしてそれを女に手渡した。
「どうぞ」
「有り難うございます」
彼女はそれを手にすると水も使わずに飲み込んだ。そして安心しきった顔で言った。
「これでもう大丈夫です」
「それは一体何の薬ですか」
壬は気になったので問うた。
「精のつく薬です。私は身体が弱くて。お医者様から頂いたものです」
「そうですか」
そう言われると納得がいく。どうも彼女は身体が強くはないようだ。
「ご家族はおられないのですか」
壬は今まで気になっていたことを問うた。家の中を見る限り彼女だけのようだが。
「はい」
彼女は答えた。
「ついこの前この街に来たばかりでして」
「そうですか」
一応は納得した。だがもう一つ気になることがあった。
「どちらからですか」
出身は聞いておきたかった。それで気性等もわかるからである。
「ええと」
女は口篭もった。何となく様子がおかしいように感じたがそれは言わなかった。
「ここから少し北に行った村です」
「そうですか」
出稼ぎだろうか。しかしそれなら一軒家には住まないだろう。では夜逃げか。そうすると物騒な話になるのだが。
だがとても悪事を働く顔には見えない。それでは他に何か理由があるのだろうか。
「もし」
北というのが気にかかる。彼はこの女に再び問うた。
「北虜から逃れてきたのでしょうか」
明代も歴代の中国の国家の例に漏れず北の騎馬民族には悩まされていた。元々モンゴル民族の王朝である元を長城の向こうに追いやって建国された王朝である。明が出来てからも元は相変わらず長城の向こうに勢力を持っていた。
それからもツングース等の勢力が長城の向こうで窺っていた。南に襲来する倭寇と共に明の頭痛の種であった。
この太原がその後方基地なのだからそれはよくわかる。壬自身がそれで生きている人間だからだ。
長城もこの時代に大幅に修復された。そして彼等への警戒を怠ってはいなかった。
壬はそこに思い至ったのである。
「いえ」
だがそれでもないらしい。
「そこまで北にはありませんので」
「そうですか」
では何故だろうか、さらに気になった。だが女はそれを打ち消す様に言った。
「よろしければこれからも度々こちらに来て頂けるでしょうか」
「どういう意味ですか」
「この度は苦しいところを救って頂き感謝しております。その御礼をしたいのですが」
「御礼ですか」
だが見たところこの家には財はない。では何だろうか。
「あの」
女は頬を赤らめさせた。
「お情を頂きたいのですが」
どうやら囲って欲しいようである。
「この通り身寄りもなく今は食にも事欠く有様。このままでは」
彼の妾になりたいらしい。
「貴方のような方でしたら」
「よろしいのですか」
美しい女である。こちらに異存はない。
「はい」
女はこくり、と頷いた。これで決まりであった。
こうして女は壬の妾となった。彼女は家と使用人を与えられそこに住んだ。壬は妻にはそのことを話した。
「よろしいのではないでしょうか」
この時代では当然のことである。金や力を持っているならば妾も持つ。それは当然のことであった。
妻である陳もそれはわかっていた。それを承知で嫁入りもしていた。
こうして彼はその若い女のもとへも通うようになった。くして月日が流れた。
商売の方も順調であった。彼は何事もなく陳と女のもとを行き来する日々を送っていた。
ある日のことであった。壬は市場に出掛けた。
目的は妻への土産であった。ふと気が向いたのだ。
「いつも苦労をかけているからな」
彼は妻の内助にはいつも感謝していた。
派手さはないが美しく気立てのよい女である。あの女を囲っても嫌な顔一つせず受け入れてくれた。そして商売でも何かと助けてくれる。
「わしには過ぎた女房じゃ」
本当にそう思っていた。そう思うといてもたってもいられなくなったのだ。
「何を買おうか」
市場の中を進む。櫛か簪が妥当なところであろうか。
「あいつの好みというと」
派手なものは好まない。地味なものを好むのだ。
だとすると限られてくる。だが出来るだけ値のはるのが欲しかった。
そこには見栄もあった。仮にもそれなりの財を持っている。ならばけちりたくはない。
それにも増して妻にいいものを着けてもらいたかった。これまでしてくれたことを考えると自然とそう思えるのだ。
選ぶのは時間がかかった。店を替えていき選んでいく。
「ううむ」
こう探してみると案外いいものがないのだ。
「刀ならすぐに見つかるのだがのう」
これは商売柄当然であった。彼は何しろそれを取り扱っているのだから。
だから櫛や簪に疎いのも当然かも知れなかった。普段気にもとめていないと中々わからないものだ。
彼は市場中を歩き回った。そしていいものを探した。
だがどうしても見つからない。ふとそこで一人のみすぼらしい老人の横を通り掛かった。
「む」
見れば髪と髭は伸び白くなっている。そして道服を着て杖をついている。どうやら仙人の様だ。
「仙人か」
仙人も街に出ることはある。この世にいると何かと必要になるからだ。それが嫌ならば天界に行くといい。だがこの世も面白くあえて残っている者もいるのだ。
壬も今通り過ぎた仙人はそうした類かと思った。太原は大きな街なので仙人を見ることも珍しくはないのだ。
通り過ぎた時仙人はぴたり、と足を止めた。そして壬の方を振り返った。
「もし」
そして彼に言葉を掛けた。
「私ですか」
言葉を掛けられた壬はすぐにその仙人の方に顔を向けた。
「はい」
見ればその仙人の顔は何やらいかめしくなっていた。
「これはよくない」
そして壬の顔を見て言った。
「貴方の顔には死相が出ている」
「死相が」
流石にそう言われては彼も顔色を変えずにはいられなかった。
「ご冗談を」
内心暗澹としたがあえてそれを隠して言った。
「いえ」
だが仙人は首を横に振った。
「事実です。このままでは御命が危ないですぞ」
その声は本気であった。それを聞いて壬は不吉なものを確かに感じた。
「ううむ」
彼は辺りを見回した。丁度昼時で腹も空いてきたところである。
「あちらで詳しいお話をお聞きしたいのですが」
そして目についた店を指差して言った。
「はい」
仙人はそれに従った。そして二人はその店に入った。
壬は飯と羊の肉を頼んだ。仙人は精進ものの麺を頼んだ。それを見るとこの仙人はやはり偽りではないようだ。
これはどの国にもあることだが導士や仙人、僧侶でありながら肉食をする者もいるのだ。そうした不埒な輩が多いことを考えるとこの仙人は信じてもよさそうだと思った。
(今回だけではわからぬがな)
それでも最初でこうしたことを見ると信じたくなる。壬はそうした人の心理を思った。
「そのお話ですが」
仙人は麺をすすりながら言った。
「貴方はあやかしに取り憑かれております」
「あやかしにですか」
「はい、どうやらかなり危険な存在です。このままではそれに肝を取られ食われてしまうでしょう」
「肝を」
それを聞いて顔が青くなった。
「そうですね。貴方に憑いているのはどうやら鬼です」
「鬼」
中国では鬼とは霊のことを言う。それは点鬼簿や鬼籍という言葉はここから来ている。特に怨霊の類は人々に最も恐れられている。
「それもかなり悪質なようですな。人を食らう類のもののようです」
壬の顔を見ながら言う。
「何か思い当たることはありませんかな。例えばお友達のご様子が急に変わったりとか」
「それは」
思い当たるところはなかった。皆今までと変わりはない。
「若しくは新しいお知り合いができたとか」
「知り合いですか」
考え込んだ。そういえばあの女を囲った。
「近頃妾を新しく持ったのですが」
「妾を」
ここで仙人の目が光った。
「はい。そういえば何かとおかしな点も」
彼はそこであの女のことを詳しく話した。話を聞く仙人の顔がどんどん険しくなっていく。
「どのような点ですかな」
「はい」
壬はその仙人の只ならぬ様子に驚きながらも答えた。
「いえ、いきなりこの街に出て来たようですし。それに身寄りもないとか」
「身寄りがない」
「それに家には何もなくて。本当に貧しい家でした」
「他には」
「はい。それで囲ってからはそれよりはずっといい家に住まわせているのですが鏡も置きませんし。それでいて化粧はするのですから奇妙といえば奇妙ですが」
「鏡を」
仙人はそこに一際強く反応を示した。
「ええ。それが何か」
「間違いありませんな。その女はおそらく鬼です」
「何故ですか」
「鏡を置かれないのでしょう」
「はい」
「それです」
仙人は言った。
「鏡は特別な力がありましてな」
「どの様なものですか」
「人の姿を映しますな」
「ええ」
「しかし人あらざる者、この世の者ではない者は映さないのです」
「ということは」
「はい、おそらくその女は正体を見せない為に家に鏡を置かないのでしょう。そこに姿が映らないとなるとたちどころにわかってしまいますからな」
「そうだったのですか」
壬はそれを聞いて顔から血の気が引いていくのを感じていた。
「事態は深刻です。すぐに手を打たなければ貴方の御命が危ない」
仙人はすぐに麺を食べ終えた。壬もである。
「行きますか。その女の家はどちらですか」
「はい」
二人は席を立って店を後にした。そして壬に案内され女の家に向かった。
「こちらです」
その家は街の隅の方にあった。さして大きくはないがまとまったいい家であった。
「ここですか」
「はい」
仙人は家を見回した。
「ううむ」
その顔がさらに険しくなっていく。額からは脂汗まで流れていた。
「これはいかん」
「それ程強いのですか」
「はい、今までここまで強い妖気を感じたことはありませんでした」
仙人はまだ汗をたらしていた。
「これは厄介なことになりそうですな」
そして壬に顔を向けた。
「ある程度覚悟を決めた方がいいですぞ」
「はい」
壬も自分自身が危機にあることはわかっていた。だがそれはどうやら彼が思っていたよりも深刻なようだ。
「まずは敵を見ましょう」
二人は門に向かった。だが鍵がかかっていた。
「では」
回り込んで庭先に忍び込んだ。そして家の中を覗き込んだ。
「ここにいる筈です」
そして女の部屋を見た。だがそこに女はいなかった。
代わりに恐ろしい顔をした者がいた。人の姿をしてはいるが何かが違う。
「あれは」
「静かに」
仙人は壬を諭した。
「気付かれては終わりですぞ」
そして小声で囁いた。
「はい」
壬はそれに従うしかなかった。そしてその異形の者を覗いた。
見れば顔は確かに人だが何かが違っていた。肌は青白く蝋の様である。髪はザンバラで乱れ艶なぞ全くない。灰色になっていた。
そして目は赤かった。炎の様に赤い色をしていた。
「間違いありませんな。鬼です」
仙人はその姿を見て言った。
「それもかなり悪質なものです。あの目を御覧なさい」
そう言って壬に鬼の赤い目を指し示した。
「あの目は人食いの目です」
「人食いですか」
「はい」
中国では人食いの大罪を犯した者は目が赤くなると言われている。とするとあの鬼は人を食う鬼だ。
「どうやら私の予想は当たったようですな」
「そのようですね」
だが全く嬉しくはなかった。二人は蒼白になり鬼を見ていた。
鬼は棚から何かを取り出した。それは人の皮であった。
「どうやら餌食になった犠牲者のようですな」
「何という奴だ」
だが怒りは湧かなかった。むしろ恐怖の方が大きかった。
見ていると絵の具を取り出してきた。そしてそれでその皮に描いていく。
「何をする気だ」
見ているとすぐに描き終えた。そしてそれを頭から被った。
するとそこにはあの女がいた。美しく、また艶のある姿になっていた。
そしてその姿のままその部屋を後にした。
「ううむ」
壬も仙人もそれを見て考え込んでいた。
「これはまたかなり恐ろしい奴ですな」
「どうしたらいいでしょう」
壬はまだ顔が青かった。だが恐れているばかりでは何もはじまらない。仙人に対策を問うた。
「それですが」
彼等はまずその家から去った。そして仙人の宿に入った。そこはごくありふれた普通の宿であった。
「丁度鬼を倒す為のものを幾つか持って来ておりまして」
彼はそう言いながら荷物の中を調べていた。
「これなら大丈夫でしょう」
そして何かを取り出し壬に手渡した。
「これは」
それは蝿叩きであった。
「無論ただの蝿叩きではありませんぞ」
仙人は言った。
「これは鬼を倒す為の蝿叩きです」
「鬼を倒す為の」
「はい。こうした姿になっていますが実際は蝿を叩く為にはありません。あくまで鬼を倒す為のものなのです」
「そうなのですか」
「これだとあの鬼も倒せるでしょう。ただし」
彼はここで注意をした。
「これで駄目ならばまた来なさい。その時は私自身が行きます」
「はい」
こうして壬は鬼を倒す為の蝿叩きをもらった。そして家に帰った。
家に帰ると妻の陳にすぐに事情を話した。だが彼女は首を傾げていた。
「本当でしょうか」
「間違いない、この目で見た」
壬は険しい顔でそう言った。
「あの女は鬼だ。それも人を喰らう」
「人を」
「うむ。人の皮を被っているのを見た。おそらく以前に食い殺した者であろう」
「では今の姿は」
「おそらく前に食われた犠牲者なのだろう。その皮を使っているのだ」
「本当ですか」
「わしを疑うのか」
「いえ」
それに対して首を横に振った。夫のことは知っているつもりである。ましてや夫を疑うつもりもなかった。
「ではどうなさるのですか。このままですと」
「それで先に話した仙人からこれを頂いた」
ここで一つの蝿叩きを取り出した。
「蝿叩きですか」
「無論只の蝿叩きではない」
彼は言った。
「鬼を倒すものらしい」
「鬼をですか」
「そうだ。これでも駄目なら自分自身を呼べ、と仰った」
「そしてその仙人はどちらにおられるのですか」
「うむ」
彼は仙人が泊まっている宿の場所を妻に話した。彼女はそれを聞き終えて頷いた。
「わかりました。それではこれで駄目だった時には参りましょう」
「そうはなって欲しくはないがな」
彼は難しい顔をしてそう言った。これで鬼を退けたいのだ。
「あとはこれじゃ」
そして今度は懐から数枚の札を取り出した。
「もらってきた。これを家の所々に貼るとよいそうじゃ」
「魔除けのお札ですね」
「うむ。ただしこれが効くかどうかは疑問らしい」
「何故ですか」
「あの鬼は相当強力な奴らしい。果たして札が通じるかどうか疑問だそうじゃ」
「そうなのですか」
「だがないよりはましだ。さあ、早速貼るとしよう」
「わかりました」
貼り終えた頃には日が暮れていた。この日は女が家に来ることになっていた。
「気をつけるようにな」
「はい」
二人は使用人達を早くに休ませた。無駄な被害はできるだけ少なくしたかったからだ。そして鬼を待った。
真夜中のことであった。不意に正面の門が派手に叩き壊される音がした。
「この様なものを貼ったのは誰だ!」
無気味な女の声がした。あの女のものであることは間違いない。
だが声の質はまるで違っていた。地の底から響き渡る様な声であった。
「来たな!」
やはりお札は効果がなかった。壬はすぐに身構えた。
「一体何事ですか!?」
「正門の方からですが」
その音に驚いた使用人達が慌ててやって来た。だが壬は彼等に対して言った。
「案ずることはない」
「しかし」
それでも彼等は不安で仕方なかった。壬はそんな彼等に対して言った。
「その方等は何も心配することはない。よいな」
「はい」
彼は使用人達にとっても信頼できるよい主人であった。だからこそ彼等はその言葉に従った。
「安全な場所に隠れておれ」
「わかりました」
彼等は主の言葉に従った。だが陳はまだ夫の側にいた。
「御前も隠れるがいい」
彼はそんな妻に対して言った。
「いえ」
だが陳はその言葉に対して首を横に振った。
「夫を守るのが妻の務めです。それを果さずして何が妻でしょうか」
何時になく強い声であった。
「貴方を何としても鬼から御守り致します。ですから御安心下さい」
「何としてもか」
壬はその強い言葉を聞き心中思うものができた。
「わかった」
そしてこう言って頷いた。
「では頼むぞ。そろそろここにも来るからな」
「はい」
その時目の前の扉を引き裂く音がした。その扉にも札が貼り付けてあったがそれを完全に破壊していた。
「この様なもので私を止められると思うているのか!」
またあの声がした。そして扉は無残に破壊された。
その扉の向こうに鬼がいた。姿はあの女のものであった。
しかしその表情は普段のそれとは違っていた。口は耳まで裂け歯は全て牙となっていた。そして目は赤く光っていた。
「どうやら知ったようだな、私のことを」
鬼は壬を睨みつけて言った。
「ああ」
壬は恐れる気持ちを必死に抑え答えた。少しでも怯めばそれで終わりであることは鬼の様子でわかった。
「まさか鬼だったとはな。それも人を食らう鬼だとは」
「そこまで知っていたか」
鬼は爪を振りかざした。禍々しく伸びている。
髪が蠢く。まるで蛇の様にのたうつ。
「では生かしてはおけぬ。今ここで食ろうてやるわ」
「もとよりそのつもりであっただろうが」
ここで退くわけにはいかなかった。壬はあの蝿叩きを前に構えた。
「だがそうはさせん。今ここで滅ぼしてやる」
「それでか」
鬼は蝿叩きを見て凄みのある笑みを浮かべた。
「それで私を滅ぼすつもりだな」
「如何にも」
壬は答えた。
「貴様の様な邪な鬼はこれ以上のさばらせるわけにはいかぬからな」
「ふん」
鬼はその言葉を鼻であしらった。
「その様なもので私を倒すとは片腹痛いわ」
さらに髪が逆立ち動き回った。壬の側にいる陳はそれを見て顔面蒼白となった。
「いえ」
だが彼女もそこで踏み止まった。
「この人を御守りしないと。さっきの言葉の通りに」
そして夫の側で彼を護るようにして立った。そして鬼を睨んだ。
「貴様は今はどうでもよい」
鬼は彼女に対して言った。
「今はこの男の肝を喰ろうてやる方が先だからな」
そして男に顔を戻した。少しずつ歩み寄っていく。
「来るか」
壬は身構えた。そして鬼の隙を窺う。
一瞬で決まる、そう察した。彼は鬼の動きから目を離さなかった。
鬼が跳んだ。その瞬間壬も動いた。
「食らえ!」
そして蝿叩きを繰り出す。だが鬼はそれを掴んだ。
「そんなものは通用せぬと言った筈だ!」
そしてそれを握り潰した。その勢いのまま壬の腹に腕を突っ込んだ。
「うぐっ!」
壬は声をあげた。その瞬間鬼は壬の腹から肝を取り出した。
「これでよし」
鬼は手に持つ血の滴る肝を見て笑った。その顔は異形の者そのものの顔であった。
「では早速喰らわせてもらうか」
そしてそれを口に入れた。ガツガツと食べた。
「これでよし」
最後に口の周りついた血を舐め取った。人のものとは思えぬドス黒く長い舌であった。
そして鬼は風と共に去った。後には肝を取られ仰向けに絶命している壬と真っ白な顔で震えながら立ち尽くしている陳だけが残されていた。
翌日陳は夫の亡骸を棺に入れるとその仙人のいる宿に向かった。夫の仇をとる為だ。
「そうか、やはりな」
仙人はそれを聞き苦い顔で呟いた。
「あれ程の妖力を持っておるとそう簡単には倒せぬか」
彼は唇を噛みながら言った。その顔には深い皺が刻まれていた。
「あの、どの様にすればよろしいでしょうか」
陳は何とか心を保ちながら仙人に言った。
「夫も殺されましたしあの鬼はまだ生きておりますし」
「奥方が案ざれることはありません」
だが仙人はそれに対してこう言った。
「鬼は私が必ずや退治致します。そしてご主人も生き返らせることが可能です」
「本当ですか!?」
「私は嘘は言いません」
彼は毅然として言った。
「ですから気を落ち着けて下さい。いいですね」
「はい」
彼女はその言葉に頷いた。
「まずは鬼を倒しましょう。放っておいてはさらに恐ろしいことになります」
「そうですね、あの鬼をまず何とかしないと」
「では行きましょう。おそらくまだ貴女の屋敷の側にいる筈です」
「何故おわかりに」
「気を感じるからです」
彼は言った。
「おそらく肝を食べて妖力が増大しているのでしょう。ここからでもおおよそのことがわかります」
「それ程まで」
「はい。これはかえって好都合です。わざわざ居場所を教えてくれるのですからな」
そう言う彼の顔はこれからのことを思い険しくなっていた。
「では参るとしましょう。そして禍根を断ちましょうぞ」
「はい」
こうして二人は屋敷に戻った。するとそこに隣の老婆がやって来た。
「昨夜はどうされたのですか」
老婆は心配そうな顔で陳に尋ねてきた。
「ムッ!」
仙人はその老婆を見るなり顔を殺気立ったものにさせた。
「わしの目は誤魔化すことはできんぞ」
彼はすぐにその老婆に詰め寄った。
「あの、仙人様」
陳は彼が何故その様に怒っているか理解できなかった。
「一体どうされたのですか」
「奥方お気をつけられよ。こ奴は鬼ですぞ」
「えっ、まさか」
陳はまさかと思った。
「いや、まことです」
仙人は答えた。そして手に持つ杖を振りかざした。
「あの方の仇は取らせてもらうぞ」
仙人はジリジリと詰め寄った。老婆はそれに対して酷薄な笑みを浮かべた。
「フン、気付きおったか」
それは昨夜のあの鬼の声に他ならなかった。
鬼はその本性を露わにしてきた。その顔を夜叉のものにし爪と伸ばし髪を蠢かせてきた。そして仙人と対峙した。
「行くぞ」
仙人は杖を振り下ろした。そして鬼の頭を叩いた。
「グハッ!」
その歳からは想像もできぬ程の速さであった。まるで雷の様な速さで杖を振り下ろしたのであった。
一撃を受けた鬼の皮は溶け落ちた。そしてその中から鬼の真の姿が現われた。
「ヒ・・・・・・!」
その禍々しい姿を見た陳は思わず叫び声をあげた。だが仙人にはその声は耳に入らなかった。あくまで鬼と対峙していたからだ。
「ムン!」
仙人は隙を置かず再び杖を振り下ろした。鬼は今度はそれを腕で防ごうとする。
「そうそう好きにさせてたまるか!」
叫びながら動く。だが杖を防ぐことは出来なかった。
杖は今度は腕を溶かした。やはり仙人の力は鬼に対して圧倒的な強さを誇る。
そしてさらに打ちつける。それで鬼の頭を砕いた。
「凄い、あんな強い鬼をあっという間に」
「奥方、御安心召されるにはまだ早いですぞ」
彼はさらに攻撃を続けた。そして鬼の身体を完全に消し去った。
しかしまだ終わりではなかった。その溶けた身体は煙になり逃げ去ろうとしていた。
「逃がすか!」
彼は今度は懐から何かを取り出した。それは小さな壺であった。
「それ!」
その口の部分を鬼の煙に向ける。それでその煙を吸い込んでしまった。
その壺を杖で叩き割った。すぅると煙はその割れた壺ごと何処かへ消え去ってしまった。
「鬼はこれで退治致しましたぞ」
彼は肩で息をしながら言った。
「一瞬でケリを着けることが出来ましたが一歩間違えていたら。どうなるかわかりませんでしたな」
「そうなのですか」
「はい。この鬼は恐ろしい妖力を持っておりました。それを使わせていたら危ないところでした」
「すぐに攻撃に出たからよかったのですね」
「そういうことです。先んずれば人を征すといいますから」
彼はここで項羽の言葉を引用した。
「何はともあれこれで鬼は倒しました。後はご主人ですな」
「はい」
陳はその言葉に頷いた。
「夫はどうしたら生き返るでしょうか」
「それですが」
仙人はそれについて話しはじめた。
「実は私ではご主人を生き返らせることは出来ないのです」
「それでは一体」
「まあ話は最後まで聞いて下さい。いいですか」
「はい」
陳は落ち着きを取り戻して彼の話に耳を傾けた。
「街の外れに道士が一人おりますね」
「ええ」
あまり派手ではない一つの道寺にいる。身なりも質素な男でこれといって目立ったところはない。
「彼ならば生き返らせることが出来ます」
「本当ですか!?」
「本当です。実はあの男は唐代から生きておりまして私の古い知り合いなのです」
「そうだったのですか」
「彼はそうした術に長けておりまして。必ずや貴女のご主人を生き返らせてくれることでしょう」
「わかりました」
「ではそこへ行きましょう。勿論ご主人も一緒に」
「はい」
こうして二人は壬を入れた棺を車の上に置いて進みはじめた。そしてその道寺に着いた。
「ここです」
仙人はすぐにその門を開けた。すると中からその道士が姿を現わした。
「おお、お主か。久し振りじゃのう」
彼は仙人の姿を見ると顔を綻ばせた。
「来ておるなら来ればいいのに」
「来るつもりだったがの」
仙人も顔を綻ばせていた。
「実はその前に鬼が出てのう」
「鬼が」
道士はそれを聞いて綻んでいた顔を引き締めさせた。
「うむ。それでこちらの奥方のご主人の肝を食ってしまったのじゃ」
「こちらのか」
そこで彼は陳の顔を見た。
「何とも気の毒に」
彼は沈痛な顔で言った。
「で、鬼はどうした」
「わしが退治した。老婆に化けておったわ」
「そうか。それは何よりだ。ところでだ」
道士はここで目の光を強くさせた。
「そちらの棺に入っておるのはそちらの方のご主人であるな」
「いかにも」
仙人は答えた。
「ならばお主が何故ここに来たかわかったぞ。ご主人を生き返らせたいのじゃな」
「そうじゃ。できるか」
「少し死体を見せてくれ」
道士はそう言うと車の上に置かれている壬の死体を覗き込んだ。
「ううむ」
彼は暫くその死体を見ていた。そしてそれから言った。
「大丈夫じゃ。任せておけ」
「本当ですか!?」
それを聞いた陳の顔色が一変した。今まで沈みきっていたのが急に晴れやかなものになった。
「はい。ですが奥方には一つ苦労をしてもらわなければなりません」
道士は厳しい顔でそう言った。
「苦労とは」
「はい、実は」
彼はここで二人を寺の中に案内した。
やはり質素な寺であった。唐代からいるような道士のいる寺とは思えなかった。これといって華美なものはなく至ってどの街の片隅にもある有り触れた道寺であった。
その中央には神の像が置かれていた。神農のものであった。牛の頭に人の身体を持つ古代の帝王の一人である。人々に農業や医学を教えた神だという。
道士はその側に置かれている一つの丸薬を取り出してきた。
「これですが」
見ればそれは黄色く小さいものであった。見たところ飴玉の様である。
「はい」
道士は答えた。
「これをお飲み下さい」
「私がですね」
「そうです。そうすればご主人は助かります」
彼は言った。
「ただしかなりの、死ぬ様な苦痛が襲いますがよろしいですか。いや」
「いや!?」
「下手をすると貴女の御命も危ない。それでもよろしいですかな。ご主人の為に命を捨てる覚悟はおありですかな」
陳はそれを聞いて一瞬言葉を詰まらせた。だがすぐに答えた。
「はい」
陳は毅然とした声で言った。
「主人が助かるのでしたら。私は喜んでこの命をかけましょう」
「わかりました」
道士はそれを聞いてほんの一瞬であるが口の端を綻ばせた。
「ではお飲み下さい」
そう言ってその丸薬を手渡した。
陳はその薬を見た。外見は別に他の薬と変わりない。ごくありふれた丸薬のようである。
だがそれは劇薬であるらしい。それも命を落とす程の。
夫の命か、自分の命か。普通ならば迷うところであろう。だが彼女は迷わなかった。
夫の命が救われるのならば、躊躇する理由はなかった。彼女はそれを口に入れた。
そして飲み込む。喉をその丸いものが伝わり落ちていくのが感じられる。
おそらく胃に達したであろうか。暫くすると胃の中から不思議な感触が起こった。
「これは」
何かが胃の中で蠢いている。それは胃のあちこちを突いていた。
これがその苦痛かと思った。覚悟はできている。
だが違った。それは胃を上がり食道を登っていく。まるで這い上がるように。
それは生き物のようであった。丁度猿が木を登るような、そんな感じであった。
そして口の中に出た。舌の上を四本の脚で這うと唇の上下に手を当てた。そしてその口をこじ開けた。
そこから飛び出た。見るとそれは小さい人の形をしたものであった。
その人の形をした小さいものは壬の亡骸の上に落ちた。そしてその口まで行くとそれを開けて中に入っていった。
「これは」
一部始終を見ていた陳はその光景を見て不思議そうに言った。
「霊魂です」
道士はそれに答えた。
「霊魂」
「はい。あの丸薬は霊魂を生み出すものだったのです。ご主人はもう暫くしたら起き上がられることでしょう」
「そうだったのですか」
陳はそれを聞いて頷いた。
「激しい苦痛を伴うと言ったのは嘘でした。貴女を試す為でした」
彼は真相を話した。
「それ程心からご主人のことを思っていないと到底できないことなので。申し訳ないことをしました」
「いえ」
陳は頭を下げる道士に顔を上げてもらった。そして言った。
「謝られるには及びません」
「しかし」
「確かにそう思われても仕方ありませんから。人の命を救うにはそこまでの覚悟がなければ到底できないことは私にもわかっているつもりです」
彼女は微笑んでそう言った。
「私は何としても夫を救いたかった。それが妻の勤めですしそれに」
「それに!?」
「夫を誰よりも愛しておりますから。愛している人の為ならば」
それは強い声であった。愛する者の為なら何でもしようと決意している妻の強い声であった。
「そのお気持ちです」
道士はそこで言った。
「その貴女のご主人を思う気持ちがご主人を救われたのです」
「この気持ちが」
「そうです、その想うお気持ちが必要だったのです。それがなければこの薬は何の役にも立ちませんから」
「そうなのですか」
「はい、この薬は想う気持ちを形にするものですから」
「それが魂になるのですね」
「そういうことです」
道士は言った。
「もうすぐその想うお気持ちが功を為しますよ」
見れば壬の顔が見る見るうちに赤らんでいく。そして傷口も塞がっていた。
「ほら」
そして彼は目を開けた。ゆっくりと棺から出て来た。
「私は助かったのか」
「はい」
陳は笑顔で答えた。
「鬼に肝を食われたというのに」
「奥方が救われたのです」
仙人が言った。
「御前が」
壬は妻に顔を向けた。
「御前が私を救ってくれたのか」
彼は棺から出た。そして陳のもとに歩み寄った。
「すまない、色々と苦労をかけた」
そう言って妻を抱き締めた。
「いえ」
だが彼女はそれに首を横に振った。
「私は貴方だけが全てですから。ですから」
「そうか」
それ以上言う必要はなかった。こうして彼等は再び抱き合うことができるようになった。
生き返った壬は以後も商売に励み財を為した。そして太原で知らぬ者はいない程の金持ちとなった。
その傍らにはいつも美しい妻である陳がいた。彼女はこれまで以上に夫を助け内助の功を発揮した。そして二人は子に恵まれ何時までも仲睦まじく幸福に暮らした。
この妻を太原の人々は褒め称えた。そしてその話は何時までも語り継がれていったのであった。
夫を救った妻の話 完
2004・10・19
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