Absolute Survival!! あぶさばっ!!
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第三話 覚悟と決別
家から脱出して数十分後、琉は橋の下にある、人ひとりが身を隠せるほどの狭い隙間に入りこんで、これからの事を思案していた。
家での出来事や、ここに来るまでの道のりで見てきたものを思い出せば思い出すほど、心中は絶望に染まっていく。
琉が今持っているものは、なんとも心細いものばかりだ。
唯一の食糧であるチョコバーが四本。牛刀、鎌型、出刃包丁がそれぞれ一本ずつ。それにペティナイフが二本に、木刀が一本。これで全部。
鞄やリュックを持っていないので、チョコバーはポケットにねじ込み、包丁などはズボンの裾に引っ掛けたままだ。
これから行くあてもなく、食糧はもって一日か二日。それに飲料用の水も無い。
救助が来る保障なんて無いし、助け合うことのできる仲間も居ない。
まさに、絶望的な状況。
これならまだ、『奴ら』になってしまった方が楽なように感じる。
しかし、死ぬのは怖い。痛いのも嫌だ。
生きる希望はなく、だからと言って『奴ら』の仲間入りなんてしたくない。
矛盾していることはよく分かっている。
だが、突然『平和な日常』から連れ出され、待っていたのはいつ死んでもおかしくはない『残酷な現実』。
そんな状況で、冷静に考えて行動できる人間なんて居ないと思う。
現に、琉はここで数十分も絶望に浸って、これからどうしようかと悩んでいるのだ。
こんな時、誰か信頼のできる友人が側にいてくれたら――――
「信頼のできる……友人……?」
ポツリと呟いた自分の言で、琉はハッと思い出す。
袴田颯。
彼は、琉の親友であり絶対的な信頼のおける彼『袴田颯』は、無事でいるだろうか。
こんな状況だ。もしかしたら、最悪の事態も有りうる。
そう、琉の父や母、妹の夏帆のようになっている可能性もあるのだ。
だが、もしかしたらまだ無事かもしれない。
彼が無事でいてくれたら、どれだけ安心できるだろうか。
ごくほんの僅かな希望が、琉の冷え切っていた心を温めていく。
家族を目の前で、その手で失ってしまった琉にとって、颯の生きているかもしれないという期待は、唯一の心のよりどころであった。
一刻も早く会いに行き、その安否を確かめたい。
そうと決まれば、手掛かりのありそうな颯の家に行ってみるのが一番だ。
もしかしたら、まだ家にいるかもしれない。
幸運なことに、琉と颯の家はあまり離れていない。せいぜい二百メートル前後だ。
距離は長くない。しかし、問題はその道のりだ。
その道程には、もちろんのこと『奴ら』が徘徊しているだろう。
ここまで逃げてきて分かったことだが、『奴ら』は走ることができない。むしろあれは歩くというよりも、重心を前に傾かせている、というのが正しい気もする。
しかし、問題はその尋常ではない筋力と『奴ら』の数だ。
一度掴まれてしまえば、絶対に逃れることはできないだろう。
しかも二、三人ならまだしも、一度に数十人単位で襲われたり、包囲でもされれば、確実に殺される。
そうなると、広い大通りや、見晴らしの良い場所などは使えない。だからと言って狭すぎる路地なども、前後を挟まれれば一貫の終わりなのでこれも使えない。
さて、どうするか。
下水道を使うか。しかし、光源を何も所持していない今、真っ暗闇の中を手探りで移動するのは無理だ。しかも下水道は、地上が見えないので迷子になる可能性だってありうる。
今は夜だ。本来なら動き回るべきではないが、ここにずっと居ても状況は変わらない。
あいにくと月明かりは眩しく、街灯はまだ点いている。地上は明るい。
そうなると、なるべく地上の光の下で行動でき、『奴ら』に見つからない移動の方法……
「街渠……か」
あった。一つだけ、かなり安全で灯りの下で移動できる、ただ一つの方法。
街渠とは、舗装された街路の雨水などが流れ込む、排水用の側溝のことだ。
この琉が住んでいる地域の街渠は、人ひとりが腰をかがめて通れるくらいに広くて大きい。構造はコンクリート造りで、雨の降らない日には全く水は溜まっていない、まさに理想的な通路になるのだ。
なぜこんなことを琉が知っているのかと言うと、幼い頃、よく街渠の中を探検と称して歩き回ったことが何度もある。後日、危ないからという理由で立ち入りは禁じられたが、まさかこんな事態で役に立つとは。
しかも好都合なことに、琉が隠れているこの橋の下の側には、その街渠への入り口があった。
街渠の中で『奴ら』に遭遇する確率は、非常に少ない。この街渠の出入り口は、河口の側にしかないのだ。そこから『奴ら』が侵入しているとは考えにくい。
しかし、万が一『奴ら』が居た場合、ほぼ絶体絶命だ。思うように身動きのとれない狭い空間で、『奴ら』の筋力を相手にするとなるとあまりにも分が悪すぎる。
これは『掛け』だ。
「仕方ない……」
琉は音をたてないように立ち上がって木刀をシャツの背中に差し込むと、静かに街渠の入り口まで移動する。
距離は隠れていた場所から三十メートルほどだったが、どうやら『奴ら』には見つからなかったようだった。
安堵しつつ街渠を覗くと、ぼんやりと街灯や月明かりに照らされた横穴が、延々と奥まで続いている。
リュウは腰をかがめて街渠の中に足を踏み入れると、そのまま颯の家の方角を思い出しながら静かに移動を開始した。
幸運なことに、街渠の中に『奴ら』の姿はない。
しかし、街渠の上、つまり地上では無数の『奴ら』が闊歩し、蠢いていた。
街渠の上部には隙間なくコンクリート製の側溝蓋がしてあり、一メートル毎の感覚でグレーチングがしてある。グレーチングとは、あの格子状に組まれた溝蓋のことだ。
そのグレーチングから見える街の様子は、既に混沌としたものになっていた。
炎に包まれた家々、死体を貪る『奴ら』。まだ生存している人は何人か居るようで、叫び声を上げながら『奴ら』から逃げ回っていた。
まさに、この世の終わりのような光景。
琉はなるべく上を見上げないようにしながら、歩を進める。
しばらく屈んだ姿勢で歩くと、琉は何かぬるっとした液体を踏んだことに気が付く。
薄暗くてよく分からないが、どうやらそれは血のようだった。
なぜこんな場所に血が、と思い首を傾げると、目の前で「ぽちゃん、ぽちゃん」と血の水たまりに滴が垂れている。
そっと琉が上を見上げると、そこはグレーチングがしてあり、その真上で一人の男が項垂れるようにして座り込んでいた。
男から垂れ流しになっている大量の血が、目の前の街渠を真っ赤に染めている。
「…………。死んでる……のか?それとも、」
奴らになっているのか、と言いそうになる言葉を慌てて飲み込む。
というのも、真上に座り込んでいる男の左腕が、ビクンッと飛び跳ねたのだ。
飛び跳ねた、というのは決して語弊なんかではない。
まさに魚が陸でのたうつように、ビクンッと飛び跳ねたのだ。
「ア……ぁアあぁぁ」
「―――っ!」
座り込んでいた男の首が、ガクンと琉が息を潜めている格子状のグレーチングへと向く。
焦点の合っていない眼、涎をだらだらと垂れ流す半開きの口。
男と真正面から顔を合わせてしまった琉は、背筋に氷を流し込まれたような、ゾッとした感覚に襲われた。
この感覚は、よくバトル物の作品なんかで出てくる、あの感覚に近い。
そう、殺気だ。
殺気なんて味わったことが無い、というのはよく分かる。しかし、こんな場面を想像してくれれば分かりやすいかもしれない。
例えば、虎が数匹いる檻の中に放り込まれたとしよう。
そして放り込まれた自分と言う『エサ』に気が付き、虎たちはその獰猛な口を開けて今にも捕食しようと迫ってきた時。
そんな、死を覚悟するほどの恐怖―――それが殺気の正体だ。
琉は真上を見上げて硬直したまま、男の顔から目を逸らすことができなかった。
目を逸らせば、殺される。
喰われる。
これは直感なんて生易しいものではない。
言うなれば生存本能の警告だ。
「あアァあ」
男―――いや、もはや『奴ら』か。『奴ら』はようやく琉から顔を背け、真正面に顔を戻した。
―――今が、好機だ!
琉は息を殺してゆっくりと前進を開始する。
足元には血の水たまりがあるので、音をたてないように摺り足で一歩一歩進む必要がある。
ガチガチと鳴りそうになる歯をどうにか食い縛り、真上の『奴ら』に注意しながら、どうにか真下を通りぬけることができた。
安堵の息を吐き、チラリと背後を振り返る。
座りこんでいる『奴ら』は琉に気が付いた気配は無く、ゆらゆらと身体を前後に動かしていた。
――――なんとか、一応の危機は脱した。
琉がホッと息をつき、歩き出そうとしたその瞬間。
「あァ」
頭上で、声がした。
恐る恐る顔を上げてみると、そこにはコンクリート製の溝蓋がしてある。そしてその隙間から、黒い瞳がこちらを一心に見つめていた。
「――ッ!」
呼吸が止まり、全身を悪寒が駆け巡る。
そして次の瞬間、琉は考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
琉は目の前に続く通路へ、スライディングをするみたいに身を投げ出す。
一拍遅れて、背後で「バガァンッ」というコンクリートの割れる音が鼓膜を叩いた。
チラリと音のした方、つまり背後に視線を送る。そこには、案の定とでもいうべきか、コンクリート製の溝蓋は瓦礫と化し、その空いた穴から『奴ら』が顔を覗かせていた。
「あぁアあああァぁアぁぁああアぁァァあアッ!」
先程の座り込んでいた『奴ら』とは違う、また別の『奴ら』。
その『奴ら』は完全に琉を視認したようで、ドサリと街渠の中に落ちてきたかと思うと、奇声にも似た金切り声をあげながら這うようにしてこちらへ近づいてきた。
―――殺される。
一瞬逃げようかと思ったが、『奴ら』の這う速度は予想以上に速く、このままでは追いつかれてしまうのが明白だった。
ならば、どうするか。
背後から『奴ら』が迫っており、逃げてもいつかは追いつかれる状況。
こんな狭い空間で木刀は扱えない。包丁を使うにしても、リーチが短すぎて危険だ。
もし本当に『奴ら』が、ゲームや映画みたいな『ゾンビ』であるならば、少しでも噛みつかれたら即アウト。奴らの仲間入り一直線だ。
ここは一か八か。
琉は腰に差していた刃渡り八十ミリのペティナイフを抜いて口に咥え、今もなお這ってくる『奴ら』へと向き直る。
『奴ら』との距離は五メートルほど。
琉はさっと頭上を見回し、すぐ後ろに格子状の溝蓋を見つけ、その格子状の溝蓋をしっかりと掴む。
「あぁァあアッ」
そして、『奴ら』が琉の足首を掴もうとしたところで、
「おらぁッ!」
琉は腕力で身体を浮かし、ありったけの力を込めて『奴ら』の顔面へと蹴りを入れた。
蹴りは見事に『奴ら』の顔のど真ん中を捉え、『ゴギン』という嫌な手応えと共に顔へめり込む。
そしてすぐさま琉は両足で『奴ら』の手甲を踏みつけ、格子状の溝蓋から手を離した。
首が変な方向に曲がり、じたばたともがく『奴ら』。
琉は咥えていたペティナイフを両手で握りしめると、渾身の力で『奴ら』の頸椎、つまり顎の下へ突き刺した。
肉を引き裂く感触がペティナイフから伝わり、吐き気がこみ上げてくる。しかし琉は嘔吐しそうになるのをグッと堪え、頸椎に刺していたペティナイフを真横へ掻っ捌いた。
ペティナイフの刃は『奴ら』の首を半分以上切り裂き、そこから真っ赤な鮮血が噴水のように噴き出す。
「アァあアアぁッ……。ァ………」
琉に喉切りをされ、『奴ら』の眼球はグルンと上を向き、身体中をビクンッビクンッと痙攣させながら力無く崩れ落ちた。
ピクッ、ピクッ、と微かに動く『奴ら』の亡骸を見下ろしながら、琉はペティナイフに付着した血液を服の裾で綺麗に拭き取り、腰に差し直す。
「…………」
真っ赤なシャワーを浴びて身体中がベトベトだ。
幸運なことに、どこも怪我はしていない。残ったのは、直接殺してしまったという罪悪感にも似た嫌悪感と、肉を引き裂いた時の不快感だけだ。
気分は最悪。
自分の血に濡れて震える掌を見つめ、そっと目を閉じる。
こんなんじゃ、ダメだ。
『奴ら』を殺したくらいで、こんなにも動揺していたら、ダメだ。
これから先、こんなことがもっと増えてくるだろう。
そんな時にいちいち動揺していたら、いつかきっと殺される。
慣れなきゃ。
慣れるんだ。
琉はグッと奥歯を噛みしめ、様々な感情を押し殺すように拳を握りしめる。
爪が手に食い込み肉を裂くが、気にしない。これは決別なのだ。
殺す覚悟。それに慣れてしまう覚悟。
もう戻れない。人としての常識の範疇に居た自分には、もう戻れないのだ。
琉は目を開け、もうピクリとも動かない『奴ら』へ視線を送る。
「俺は……こうはならない。絶対に。絶対に」
琉は自分に言い聞かせるように呟き、踵を返してこれから進む道を見据える。
進む道、いや街渠の中は薄暗く、延々と奥まで続いている。
目的は『袴田颯』を見つけること。今はそれだけを考えていればいい。
琉はやけに重たく感じる足を踏み出し、暗闇への前進を再開した。
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