真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第159話 黄承彦がやってくる 前編
前書き
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蔡孝伝とその家族の処刑が行われた後、正宗は殺戮を命じた村のあった場所に足を運んでいた。
村は面影を失い廃墟と化していた。村を囲む塀は炎で焼け無惨に倒壊し塀の先がまる見えの状態だ。
正宗が村の中に足を踏み入れると、そこには焼け崩れた家屋の残骸が辺りに広がりっていた。その残骸の近くに住民達の遺体が転がっている。遺体の多くが村の入り口付近に集中していた。その光景を見るに住民達が必死の抵抗を試みたことは容易に想像がついた。
正宗は物を言わなくなった遺体達を凝視し、拳から血の気を失うほど強く握りしめていた。彼も仕方なかったとはいえやるせない気持ちなのだろう。それを余所に兵達はせわしなく遺体を布に包み村の外に運び出していた。彼らは正宗の存在に気づくと作業を中断し拱手し深々と頭を下げるが、直ぐに遺体を運ぶ作業を再開していた。
その光景を正宗は感情がない交ぜになった複雑な表情で眺めていた。しばらくすると彼は村の中央部に進んで行く。彼はそこで歩くのを止めた。
粗末な家屋の残骸の影に隠れて子供の遺体が複数倒れていたのだ。その遺体に正宗はゆっくりと近づき周囲を見回した。そこにはまだ多くの子供の遺体があった。遺体の年の頃は正宗が処刑した蔡子真と同じか数歳ほどしか違わない背格好だった。村の住民が幼い子供を庇うために村の奥に避難させたのだろう。彼らの遺体には全て剣による深い刀傷が見られた。
正宗は脱力したように膝を折り地面に座った。そして、彼は視線を地面に落とすと乾いた笑い声を上げた。その声音は力なく小さかった。
「仕方なかった。いいや。いくら弁解しようと私は鬼畜の所業を行ったのだ」
正宗は力無く小さい声で呟いた。彼も命令を出した時にこうなる事態は理解していただろう。しかし、頭で理解できても目の前で見せられれば彼も人の子である。感情があるが故に心が動揺するのも当然のことだろう。
彼は打ちひしがれたのか体勢を前に崩し、頭を下げ地面に両手をつけた。
「私は何をしているのだろうな」
正宗は自嘲した。彼の指に力が込められ地面に食い込んだ。
「私の命令に従った兵士達は私以上に苦しんだであろうな」
正宗はつぶやき、ゆっくりと顔を上げた。彼は哀しみに満ちた表情で子供達の遺体をゆっくりと見回した。
それ後も正宗は一刻(十五分)程その場にいた。
「正宗様、ここに居られたのですね」
「泉か。ご苦労だった。支障は無かったか?」
正宗に声をかけた者がいた。正宗は声の主に振り向くことなく返事した。
「何も問題はございませんでした」
泉は一拍間を置いて元気無く正宗に答えた。彼女も子供達の遺体に視線を向けているだろう。
「泉、私は蔡徳珪を討ち荊州を掌握するまでこの光景を幾多と作っていくことになるだろう。私が荊州を掌中にしようとも、私の野望のために多くの罪の無い者を屠っていかねばならない」
正宗は泉に振り向くことなく、哀しさが込められた低い声音で泉に話した。
「正宗様」
泉は正宗の心境を察してか哀しい表情で彼の後ろ姿を見つめていた。
「正宗様、これから多くの者達が各々の正義を打ち立て自らの正義のために他を従えんと争いの火種を撒き散らすでしょう。その中において乱れた世を正す役目は誰かが為さなければならないと存じます。今までもこれからも弱き者には生きにくい世にございます。どのような綺麗事を並べようと弱き者は強き者に搾取される定めです。全ては強き者の胸先三寸。弱き者は強き者によって生き方を宿命ずけられてしまいます」
泉は意思の籠った瞳で正宗のことを見ていた。
「私は正宗様に世を正す者であって欲しいと思っています。正宗様は昔仰られたはずです。『皆が飢えることなき世を創りたい』と。目の前の弱き者達の死に哀しもうと歩みを止めることだけはお止めください。彼らをただ犬死させることだけはお止めください。彼らを犠牲にし、死んだ者達の死が意味あるものだったと言えるようにしてください」
泉は正宗に訴えるように言った。泉の言葉はある意味詭弁である。幾ら正宗に殺戮の正当性があろうと、虐殺した事実は変わらない。仕方ないこととはいえ、気持ちの中で完全に割り切れないしこりのようなものがあってもおかしくはない。だが、彼女の言葉は彼女が必死に考えた忌憚無い気持ちなのは間違いない。
正宗は泉の言葉を黙って聞いていた。
「泉、情けないところを見せてしまったな。私はこれからも弱き者を踏みつけ進まねばならない時が来るかもしれない。それでもお前は私について来てくれるか?」
正宗は振り返り泉の顔を見た。彼の発した言葉に泉は微笑んだ。
「私は貴方様が仮に悪鬼に落ちましょうとも付いていかせていただきます」
泉は迷いなく正宗に即答した。正宗と泉の間に静寂が漂うが二人はただじっとしていた。
正宗の表情からは気持ちの整理が出来たのか迷いは無くなっていた。
「この戦で私は荊州を完全に掌握する。この私が生きている限り、二度と荊州に戦は起こさせん。何人も荊州の地を犯させん」
正宗は力強い意思の篭った低い声で自らの決意を口にした。
「満伯寧。微力ながら正宗様をお支えさせていただきます」
彼の決意を聞いた泉は拱手し返事した。その時、どこからともなく一陣の風が吹き抜けた。
正宗の命で蔡孝伝とその家族の首が晒された翌日、正宗は一万九千の兵を率い次の目標である村に向けて兵を進軍していた。泉と榮菜は正宗の命を受け前日の日の出とともに出陣していた。村の住民が襄陽県以外に逃げ込まないように街道を封鎖するためである。
「朱里、次に攻める村へは使者を送ったか?」
正宗は彼の少し後ろで騎乗する朱里に声をかけた。
「滞りなく。村長が賢明で徳高き人物であれば自らの首を差し出し、住民の助命を願い出ることでございましょう」
朱里は口では村長が投降する可能性を示唆したが、彼女の声音は村長は投降しないと考えているように感じられた。荊州で権勢を欲しいままにしている蔡一族に村人達のことなど虫けら程度にしか考えていないだろう。彼女の後方か騎乗して着いて来ている桂花の表情も彼女と同じだった。
蔡孝伝の愚劣振りから朱里と桂花の蔡一族への評価は最悪だった。
「そのような人物であれば既に私の檄文に対して恭順の意を示していているはずだ。この段階での投降は村人達に被害が及ぶ確立は五分五分。危険な賭けにでる者が村人達の命を考えるわけがない」
正宗は村がある方角を凝視していた。
「劉景升様は固有の軍事力をお持ちでなかったために、蔡一族へ飴が必要でございました。それが蔡一族の増長を招いてしまいました。しかし、正宗様は蔡一族を潰せるだけの軍事力をお持ちです。増長した蔡一族は毒にしかなりません。これを機に完全に叩き潰すのが上策と存じます」
伊斗香は神妙な表情で正宗に蔡一族の族滅を再度意見した。彼女の中では蔡一族は完膚なきまでに粛清する必要があると考えているのだろう。それと三日前の蔡一族の処刑で非戦闘員である子供を殺したことを正宗が引きずっていると思っているのかもしれない。それで今後のことを考え、彼女はわざわざ彼に忠告しているともとれた。
「分かっている。伊斗香、村人達は村を捨て逃げると思うか?」
「次の目標の村は蔡一族が村長を務める村です。村人は大半が蔡一族の者に従属する小作人(土地を持たず大土地所有者に隷属する者のこと)です。元々は流民ばかり、前回は住民にとっても突然のことで動揺し逃げ遅れた感もあります。今度は殲滅された村の情報も既に得ているはず。正宗様が目標と定めたことも使者により知りえることでしょう。であれば、流民出身の彼らは間違いなく逃げると思います」
伊斗香は思い出すような仕草をしながら正宗に説明した。
「村に残る者達は少なからず蔡一族に縁がある者達ということか?」
正宗がそう言うと伊斗香は頷いた。
「絶対とまでは言い切れませんが蔡一族に長年仕える者達が殆どと思います。生かしておいては面倒な者達であることは確かです」
伊斗香は小声で正宗に呟いた。
「蔡一族に長年仕える者達から離反者を出すことはできないか? 襄陽城攻めを前に城内の情報を詳しく知る者が欲しい。できえれば間者として城内に潜伏できる者であればなおいい」
「これから向かう村から離反者を出すことは時間的に無理でしょうが、次の村であれば何とかなるやもしれません」
伊斗香は狡猾な笑みを浮かべ正宗に答えた。
「如何にして離反者を作る?」
「簡単にございます。いかに忠誠心が篤かろうが、主人に疑いをかけられ家族にまで類が及ぶとなれば簡単に裏切りましょう。それに次の目標の村には私に心当たりある人物が一人おります。その人物は蔡一族へ強い恨みを抱いております」
伊斗香は小声で正宗に説明した。
「そのような都合の良い人物がいるのか?」
正宗は伊斗香を訝しんだ。
「その人物は蔡一族の情報には疎いですが、この非常時にあっても襄陽城への出入りは自由にできる人物です」
正宗が難色を示すと伊斗香は自らの発言に情報を補足した。
「襄陽城へ自由に出入りできる人物か。その人物は信用に足る人物なのか?」
「信用できます。蔡一族が滅ぶことを願っていますから」
伊斗香の言葉から正宗は伊斗香が薦める人物が蔡一族に強い遺恨があることを察したようだ。蔡一族に面従腹背で従属している人物であれば、最悪でも蔡一族に利する行動をとらない。
「進めてくれるか?」
正宗は少し考える仕草をし伊斗香に人物を調略するように指示を出した。
「畏まりました。正宗様、その人物は蔡一族の血筋の者ですが構いませんでしょうか?」
伊斗香は正宗の言質を取ると問題ある情報を告げた。正宗は渋い表情で伊斗香を見た。
「心当たりというのは蔡一族の者なのか? それとも外戚か?」
「血筋のみは紛れもなく蔡一族でございます」
伊斗香は正宗に微妙な言い回しをした。
「それは本当なのか? 蔡一族に恨みを抱いているなら何故私の檄文に応えなかった。そのような者は一人も私の元を訪ねてきていないぞ」
「正宗様に謁見できようはずがありません。その者は蔡一族の後ろ盾も地盤も何も持っていないのです」
伊斗香は正宗に言った。正宗は一瞬で神妙な表情に変わった。
「訳ありの人物なのか?」
伊斗香は正宗の言葉に肯定するように頷いた。
「その者は蔡一族であることは間違いありません。ただ、母が娼婦の出身で妾の立場であったため蔡家の者として扱われておりません。その者の母は二年程前から病を患っておりましたが、その者の父は禄に面倒も見ず病が悪化し一年前に他界しました。その者の蔡一族への憎しみは計り知れません。その者の父を殺す機会を与えてやると言えば間違いなく協力します」
伊斗香は馬を寄せると囁くように正宗に説明した。彼女の申し出に正宗の表情は曇った。
「正宗様、内通させる以上、蔡徳珪討伐後はその者の助命は確約願えますでしょうか? もし、ご同情なさるなら、その者が功を上げた暁には仕官していただきたく存じます」
伊斗香の口ぶりから彼女が気にかけている人物ようにも思える。
「その者の名は?」
「蔡平と申します」
伊斗香は心当たりのある離反者の名前を告げた。
「どのような人物なのか?」
「蔡姓を名乗っておりますが、蔡氏とは思えない貧しい暮らしぶりでございます」
伊斗香は蔡平についてあまり深く話したくない様子だった。正宗は伊斗香を訝しんだ。
「伊斗香、蔡平は何か問題がある人物なのか?」
「いいえ、間者としては申し分ない人物です。ただ」
「『ただ』何だ?」
「少々込み入った話でして、正宗様がご不快を抱かれないかと思い話すのを躊躇いたしました」
伊斗香は正宗の顔を窺うように言った。
「ここでは話せないことか?」
「……」
伊斗香は沈黙し正宗の顔を窺うように見た。
「朱里、村を襲撃する前に一度兵士達を休ませる。次は蔡徳珪が奇襲を仕掛けてくる可能もある。周囲の警戒を怠らないよう交代で兵士達を休ませよ」
「正宗様、わかりました」
朱里は伊斗香の会話に興味がありそうだったが、正宗から命令を受けたため兵達に指示を出しに馬を走らせた。
「伊斗香、向こうで話すぞ」
正宗はそういうと兵士達が陣幕の設営をしている辺りから少し離れた場所に馬を走らせた。
「ここなら話せるな? 蔡平とはどういう者なのだ」
「蔡平の父は蔡仲節。蔡仲節は次の目標の村長を務める蔡伯節の弟にあたります。蔡平は村の蔡一族から一切の援助を受けておりません。蔡一族は村から追い出す訳にもいかず、村に置いてやっているだけの状態です。そのため日々の暮らしにも苦労しています」
伊斗香はそこで正宗の表情を見て話のを躊躇った。
「どうした? 続けよ」
正宗は伊斗香を訝しみ話を続けるように促した。
「蔡平は娼婦。いえ元娼婦と言うのが正確でしょうか。彼女は自ら望んで、その境遇に落ちた訳ではありません。彼女の父親である蔡仲節は彼女に対して援助を一切しない男でしたが、当初は貧しいながらも慎ましく母娘で暮らしておりました。母親が病に倒れ彼女は父親に援助を頼み込みましたが無碍に追い返され、形振り構わずに娼婦の身に落ちたのです。ですが、気位の高い蔡仲節は彼女が娼婦になったことに激怒して娼婦の仕事ができないように邪魔をしました。おかげで母親は病が悪化して死んだのです。生きる希望を失った彼女を見かねた村の老夫婦が蔡一族に睨まれるのを覚悟で面倒を見るようになりました」
あまりに暗く重い話に正宗は表情を曇らせた。
「そのような境遇の者を使えると思うのか?」
正宗は伊斗香に抗議するように言った。
「村長の実弟である蔡仲節の命を狙っております。彼を殺す機会をあたえると持ちかければ蔡平は協力すると思います」
「何故断言できる?」
「一度、蔡平は蔡仲節を殺そうと襲ったからです」
「話の流れからして蔡仲節は生きているのであろうな」
正宗は不愉快そうだった。
「しかし、蔡平がそんな真似をして、面倒を見ていた老夫婦もただでは済まなかったのではないか?」
正宗は蔡平の面倒を見ていた老夫婦のことが気になったのか伊斗香に質問した。
「蔡仲節は逆上して蔡平に暴力を振いました。老夫婦が庇ったおかげで蔡平は半殺しで済みましたが老夫婦は蔡仲節の暴力で受けた傷が元で死にました」
正宗は伊斗香の話に沈黙した。
「蔡仲節は県令に捕らえられ罪人となったのか。ろくでなしには相応しい末路だな」
正宗が憮然とした。伊斗香の言葉を否定するように顔を左右に振った。
「いいえ。蔡仲節は無罪放免です」
「そんな男を県令は放置したのか!?」
「蔡仲節の兄・蔡伯節が表沙汰になることを恐れて県令を買収いたしました。そのため老夫婦が蔡仲節に殺されたことは無かったことになっております」
正宗は呆れていた。その表情からは汚職官吏が蔓延っていることに正宗は心底失望している様子だった。
「蔡平はどうしているのだ」
正宗は徐に蔡平のことをたずねた。
「死んだ老夫婦の家で一人住んでいます。その事件以来、村の者達は蔡平を腫れ物を扱うようになり近づきません。村長である蔡伯節すら関わろうとしません」
「蔡平という娘は不憫と思うが到底私の任務に応えることができるとは思えない。村で除け者になっている者に間者の役目は無理だろう」
「まあ、最後まで話をお聞きください。老夫婦が死んでから、どういう訳か蔡平は畑を耕し竹細工を作っては襄陽城に売りにいっております。父親を殺そうとした者が急に大人しくなりました」
「老夫婦の死で全てを諦め考えを改めたという可能性はないのか?」
「そうは思えません。暇を見つけては一人で剣の修行をしております。所詮、我流の剣技なのでどこまで役に立つかわかりませんが」
伊斗香は正宗の意見を否定した。
「父親を殺すために剣技を磨いているということか?」
「そうではないかと思います」
「何故、お前が蔡平のことをそこまでわかるのだ?」
正宗は伊斗香の確信めいた発言に疑問を抱いた。
「盗賊討伐でたまたま蔡平が住む村に立ち寄ったのです。その時に彼女と会いました。彼女は私に剣を教えてくれと必死に頼み込んできたので、数日程村に滞在して剣の手ほどきをしたことがあります。筋は良いと思いました。その時、彼女の身の上を住民から聞きました。私が滞在している時、蔡仲節は私の前に姿を現さず、自室に籠もっているようでした」
正宗は考えこんだ。
「伊斗香、蔡平と剣を交えたなら感じたものがあろう。どういう感じであった」
正宗は蔡平のことを伊斗香に確認するように聞いた。
「当然ながら武人らしさは微塵も感じさせない剣技でした。ですが復讐心に執着する者の剣と評するのがふさわしい荒く激しい剣筋でした。あのような者は復讐をなしたとしても、いずれ野垂死ぬでしょう。救いは賊に落ちていないことでしょうか」
伊斗香は正宗に蔡平に対する自分の評価を淡々と述べた。
「蔡平は襄陽城に詳しいのか?」
正宗は陰鬱とした雰囲気を変えようと話題を変えた。しかし、彼は蔡平に興味を抱いているようにも見えた。辛い境遇にありながらも賊に落ちない姿勢に好感を抱いたのかもしれない。
「秋佳は内城や官吏の屋敷が集中する富裕街には詳しいでしょうが、市井の者が暮らす区画について疎いと思います。その点、蔡平は詳しいでしょうね」
「蔡平は父親を殺して、その後どうするつもりなのだ。父親を殺すことしか頭にない者だ。目的を達成したら腑抜けになるかもしれん」
「蔡仲節を襄陽城が陥落するまで拘束して生かしておいてはいかがでしょうか?」
「そんなことはできん。捕虜を連れたまま行軍など面倒なだけだ」
「では蔡平の望み通りに父親を殺させてやればいいのです。蔡平は約束を守る人物です。それに、蔡平は蔡徳珪の計らいで自由に襄陽城を出入りすることができます。非常時である襄陽城であってもです」
伊斗香はどうしても蔡平を使いたいようだ。
「蔡平は蔡徳珪に直接の面識があるのか?」
「いいえ、私が蔡平の身の上を蔡徳珪に話したら、蔡平が自由に襄陽城で物売りができるように取り成したようです。蔡平が売りにくる竹細工は全て買い上げるように部下に命令まで出していました。他家のことなので蔡平の実家に干渉することはありませんでしたが」
正宗は秋佳の件で蔡瑁を鬼畜の権化のように思っていただけに、蔡瑁の行動が意外に写った。
「正宗様、蔡徳珪は蔡平のことを不憫に思って取り成した訳ではありません。名士の一族である蔡氏の血が流れる者が飢えて死なれては困ると考えたからです。私にそう申しておりました」
伊斗香は正宗が勘違いしていると思ったのか、蔡瑁の人間性を正宗に説明した。だが、正宗は伊斗香の言葉に納得している様子ではなかった。蔡瑁が口では情のないことを言っていていたとしても内心まではわからないからだろう。
「仮にそうであろうと蔡平にとって蔡徳珪は恩人であろう。自らの生活を陰ながら支援する恩人を裏切るとは到底思えない。竹細工など作った所で全て売れるものではないだろう。毎回全て売れればおかしいと考え、誰かの意が働いていると考えるのが普通ではないか?」
「蔡平は蔡徳珪が手心を加えていることは知らないはずです。でも感の良い子ですから気付いているかもしれませんね。しかし、蔡徳珪は生を繋ぐ手助けはしても蔡平の願いを叶えることはできません」
「蔡平は父親を殺すために蔡徳珪を裏切ったことを悔いるかもしれん」
「それは蔡平の問題です。私達に預かり知らぬことです。お互いに利があるなら、お互いを利用する。これに何の不都合はありましょうか?」
伊斗香は正宗のことを真っ直ぐ見た。正宗はしばし悩んだ素振りをしたが伊斗香に対して頷いた。
「伊斗香、蔡平に連絡をつけてくれ」
正宗は蔡平を使うことに迷いがあるようだったが伊斗香の提案に乗ることに決めたようだ。
「私は蔡平に連絡をつけるために一旦離脱させていただきます。少数の騎兵のみ引き連れるつもりですので、残りの兵をお任せしてもよろしいでしょうか」
「問題ない。急いで繋ぎをつけてくれ」
伊斗香が正宗に拱手し去ろうとすると近衛兵が足早にやってきたので伊斗香は立ち去るのを中断した。
「清河王、黄承彦と名乗る者が謁見を願いでおります」
近衛兵は正宗の足元まで駆け寄ると片膝を着き拱手し要件を話しはじめた。
「黄承彦だと?」
正宗は以外な人物の訪問に困惑した表情だった。彼はひとまず近衛に黄承彦を丁重に扱い待たせるうように命令し、朱里と桂花を彼の陣幕に呼ぶように下がらせた。
「伊斗香、蔡平の件は後回しだ。黄承彦と会うのは気が進まないが、彼女への対応を考えるために同席してくれるか?」
「畏まりました」
正宗達はひとまず彼用の陣幕に入ると、少し遅れて朱里と桂花が入ってきた。
朱里と桂花は正宗から黄承彦が訪ねてきていることを聞くと、二人とも驚いた表情をしていた。黄承彦の訪問はあまりに突然だったからだ。朱里は考えをまとめるために黙考した。
「正宗様、黄承彦殿にはお会いになるべきかと存じます」
朱里は考えがまとまったのか拱手して正宗に意見を述べた。
「会う気になれんな。代理で話を聞いておいてはもらえないか?」
正宗は黄承彦に会うことに気が乗らない様子だった。
正宗の知る歴史で黄承彦は河南郡出身の名士である。そして、彼女の妻は蔡一族の出身である。彼女には一人娘がおり、娘の名は黄碩という。彼女は醜女だが才媛であったが、その才覚に惚れた諸葛亮が妻に迎えたと記録に残っている。
正宗が黄承彦に会いたくない理由は彼女がこの世界でも蔡一族の者を夫として迎えているからである。蔡一族の村を壊滅させた時期に合わせて彼女が正宗を訪問した理由は夫の件しか思いつかない。
「豪族への手前会うべきに存じます。彼女は正宗様に礼を尽くしております。あれだけの兵糧を短期間に集めるには相場以上の金銭を使ったものと推察します。ここで礼を失する行為は流石にまずいと存じます」
朱里は正宗に再度黄承彦に会うように意見した。彼女がここまでしつこく言うのは理由がある。
黄承彦は正宗が檄文を発した一週間後に食邑二千戸の税収に匹敵する兵糧を献上してきたからだ。豪商とはいえ並みの豪族では献上するには経済的にきつい量だ。ここまでした人物を足蹴にするように追い返せば正宗の悪評が広まる。礼に対して礼を踏みにじる。最悪の行為である。孫文台の罪を不問にするのとは全然意味合いが違う。朱里がしつこく食い下がる理由も頷けた。
「黄承彦が兵糧を献上した理由は朝廷への忠誠心からか。それとも私への縁を繋ぐためか。はたまた蔡一族である夫の助命を願い出てきたか」
「いずれも当てはまりましょうな。後は紫苑殿の件でしょうか。正宗様、礼を尽くした相手に会わないのは他の荊州豪族からの信頼を失います。わざわざ向こうから出向いてきている以上、気乗りしなくても会うより仕方ありません」
伊斗香は神妙な表情で正宗に答えた。朱里と彼女から意見され正宗は誰にもわからないように小さい溜息をついた。
「朱里は黄承彦が私に会いにきた理由は何だと思う」
「正宗様と伊斗香殿の考えと同じです。大量の兵糧を献上してきたあたりから何かあるとは思っておりました」
正宗は腕組をし考えこんだ。
「黄承彦の夫は蔡徳珪の実兄であったな。それに劉景升の夫の兄でもある。厄介この上ないな」
正宗は眉間にしわを寄せ考え込む。
「朝敵である蔡徳珪の実兄の助命については即断は禁物です。蔡徳珪を討伐後に時間をかけて処理すべきことと存じます。それに黄承彦殿の貢献を考えれば不用意に荊州豪族の疑心を買うような真似は得策とは思いません」
伊斗香は考える仕草をしながら正宗に意見した。
「黄承彦殿の夫とはいえ、蔡徳珪の実兄を見逃すのは無理だと思います。しかし、黄承彦殿は兵は出していませんが兵糧を供出することで恭順の意を示しています。ここは助命については名言せず、伊斗香殿の仰る通り時間をかけて処理されるべきと思います」
朱里も伊斗香に同意しているのか難しい表情を浮かべていた。聡明な黄承彦の行動に二人とも困っているようだった。
「この場で議論を交わしても時間の無駄ではないでないでしょうか? 一度、黄承彦殿にお会いし仔細を聞いてからでも遅くはないかと存じます」
桂花が三人に対して意見を述べた。視線が彼女に集まる。
「黄承彦がただ私に会いにくるとは思わないのだがな。厄介事の臭いしかない」
正宗は黄承彦に会うことは納得している様子だが、対応策がまとまるまで黄承彦に会いたくない様子だった。
「黄承彦殿は果断な性格の御仁であり商人でもあります。正宗様に一方的な無理難題を押し付けるような愚かな考えはしないでしょう。わざわざ出向いてきたということは何か理由があってのこと、助命の話であれば何か腹案があって訪ねてきているものと思います」
正宗の話を聞いた桂花は更に自分の考えを正宗に説明した。
伊斗香は桂花の話を聞きながら腕を組み顎に指をやり考え込んでいた。朱里は黄承彦と個人的な面識がないのか何も言わず桂花の話に耳を貸していた。
「桂花殿の仰ることは一理あります。黄承彦殿は後先を考えず正宗様に無理強いをすることはないでしょう。会うだけ会ってみれば良いかと思います」
桂花の意見を聞いていた伊斗香が桂花に賛同するように話した。彼女は黄承彦とある程度交友があるのかもしれない。
「朱里はどうだ?」
正宗が朱里に話を振ると頷いた。
「黄承彦殿の出方を見てからでも遅くないと思います。ですが黄承彦の夫の助命については明言をお控えください」
朱里は黄承彦の前で彼女の夫を助命することを確約してはならないと念押しした。正宗は頷いた。
「ここで例外を作ればさらなる例外を生むことになりかねない。そうなれば後々反乱を起こされ面倒なことになる可能性もあり得る。蔡一族の血筋は可能な限り抹殺しなければならない」
正宗はそう言うと近衛を呼び黄承彦を自らの陣幕に通した。この場には荀爽はいない。正宗、朱里、伊斗香、桂花の四人。黄承彦は連れの者を一人連れていた。その連れの者は黄承彦と年の近い壮年の男だった。
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