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SAO─戦士達の物語

作者:鳩麦
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MR編
  百四十話 冷たい雨

 
前書き
はいどうもです!

前回に引き続き、病室からスタート、少し重めの展開が続きますね。

では、どうぞ! 

 
AIDS(エイズ)

正式名称、《後天性免疫不全症候群(AcquiredImmune Deficiency Syndrome)》

これは、人類の歴史上でも特に知名度の高い感染症の一つである。
発見は1982年のアメリカのロサンゼルスであるとされているが、歴史上の感染が疑われる事例は1950年代までさかのぼり、人類が何時この病と闘い始めたのか、その正確な日付は未だにわかっていない。
確かな事は、その最初の事例が報告されてから、僅か10年ほどで感染者が全世界で100万人まで拡大したことと、現在世界でその感染者が5000万人を超えている……つまり、人類が未だ闘い続けている病であると言う事だ。

AIDSはHIV(ヒト免疫不全ウィルス)と呼ばれるウィルスが免疫系の細胞に感染する事で引き起こされる病で、その特徴はこのウィルス自体が病状を引き起こすのではなく、免疫系の細胞の機能不全を起こさせる事で、人間の免疫力(病気に対して抵抗する力)を直接下げて来る、と言う点である。
そして同時にもう一つ特徴がある。この病の名が世に知れ渡った最大の理由の一つである其れは、この病が現代の医療技術では根治困難な、所謂“不治の病”であると言う点だ。

現代に置いてHIVに対するウィルス研究は著しい発展を遂げている。その為AIDSも、少なくとも存在が確認された1980年代程恐ろしい病では無く、治療開始が早ければその寿命をまっとうする事も十分に可能なこのウィルスと病だが、それでも、ウィルスを完全に体内から取り除く事はほぼ不可能であるとされており、一度抗ウィルス薬を呑み始めれば其れを生涯続ける必要のある恐ろしい病であることに変わりは無い。

それでも、ユウキと家族は、その病と闘い続ける事を選んだ。初めの内は自殺と言う選択肢すら考えたそうだが、ユウキの母は敬虔なカトリックの信徒であり、自殺を禁じているその宗教形態への信仰心や、夫の支えもあって、闘病と言う選択肢を選んだのだそうだ。
生を受けた瞬間からその戦いの日々を強いられた少女(ユウキ)は、多くの薬を呑む事、そしてその副作用に辛い思いをしながらも、必死に普通の生活をしていた。小学校へと通い、成績もトップクラスを維持し、友人も多くいたのだそうだ。彼女が四年生の時、伏せていたHIVキャリアーであると言う事実が、同学年の保護者に広まるまでは。

AIDS患者に対する差別意識の始まりは、この病が性感染症であることと、初期の頃、特に同性愛者や麻薬常習犯に感染者が多かったことに起因する社会的な偏見を発端として、現在までずっと続くHIV関連の問題の一つだ。
無論現代に置いてはそれらの差別は法的に禁止されているが、不治の病であると言う点等を主として、この病に対する正しい知識を持たないが故の過剰な恐怖感等を主な発端として、HIVキャリアーに対する差別意識は根強い物がある。

残念な事に、ユウキの通っていた学校の保護者達の意見は、この時差別側へと傾いてしまったらしい。ユウキの登校に対して反対する申し出や、電話や手紙と言った類の嫌がらせが始まり、数カ月の後、ユウキ達家族は転居を余儀なくされ、ユウキは転校する羽目になった。その直後に彼女のエイズが発症したと言う経緯を語る時、倉橋医師の気配と呼吸から滲みだしていた抑えきれない程の怒気を、表出させない彼の胆力と共に、涼人達は強く感じていた。

人間は本来、自分でも気が付かない内に多くの病原菌に感染している。我々がこれに気が付かずにいられるのは一重に、私達自身も気が付かない内に、身体の免疫機能がこれらの菌を排除しているからである。
しかしエイズの発症した人間は、他の人間と比べて免疫能力が極端に低下する、つまり、そのような力の弱い菌でも、身体に異常をきたしてしまうのである。これを、日和見感染と言うのだが、AIDSは一度発症した場合、この日和見感染に対する場当たり的な対処療法以外に治療を行う事が出来なくなる。
ウィルスが一度活動を始めてしまったら、もうこれ以外にとれる選択肢は無いのである。

ユウキがAIDSを発症してから約数カ月が経った頃、世間は丁度三年前、つまり、ナーヴギア事件の発生した頃だった。フルダイブ技術の是非が世間に問われる中、国と一部メーカーが研究開発を行い、この病院に運び込まれたのが……医療用フルダイブ機器、メディキュボイドだった。

しかし時はナーヴギア事件の真っただ中である。人体に対して、ナーヴギアの数倍の電子パルスがどのような影響を与えるのかすらわからないこの時期、これらのリスクを呑みこんだうえテスターになろうと言いだす患者は多くは無く、テスターとして名乗りを上げたのがユウキだったと言う訳だ。

「木綿季くんとご家族に、メディキュボイドの件を紹介させていただいたのは、私です」
倉橋医師は語った。

「このメディキュボイドは、とてもデリケートな機械です。その関係上、機械は無菌室(クリーンルーム)に設置される事が決まっていました。被験者としてメディキュボイドのテスターになれば……細菌もウィルスも排除された環境下で有る無菌室に入れば、日和見感染のリスクは大幅に低くなる、そうご説明したのです」
勿論、マイナスはある。誰かと直接触れ合う事や、クリーンルームから出る事は出来ないからだ。しかしそれでも、ユウキはメディキュボイドの被験者となった。被験者となり、日に数時間行われるデータ最終実験以外の全ての時を、VRワールドで旅してきたのだ。それは実に、三年間と言う長い長い旅だと、医師は語った。

「…………」
ある種、尊敬に近い感覚が胸の内から湧き上がるのを、涼人は強く感じる。
敬虔、とでも言おうか、遥かな道を歩んできた旅人をたたえるような、尋常ならざる道を歩み、余人には到底たどり着けへぬ高みへと到達し得た者へ抱くような、そんな強い感情が、三人の胸の内に静かに渦を巻いていた。
まるで頭を垂れるように数秒俯いて沈黙した明日奈は、倉橋医師を見て言った。

「ユウキに会わせてくれて……ありがとうございました。ユウキは、此処に居れば、ずっと向こうの世界で度を続けられるんですね……」
「それは……」
ある種、縋るような、絶望的な現実の中に見る、一筋の希望の光を負う様なその言葉に、一瞬だけ、倉橋医師は返答に詰まった。そのまま、彼は周りに居る他の二人を見る。そして……戦慄した。

明日奈の表情は、倉田医師にとってはある意味で見慣れてしまった物だった。人は往々にして、自分にとって希望となる言葉を求める。彼女のような眼をした患者を、家族を、倉橋はこれまでの医者としての人生の中で、何度も見てきたからだ。
しかし明日奈の横に居た二人の若者は、彼女とは全く逆の、しかし倉橋の知る、もう一つの眼をしていた。

希望を持たず、ただ、絶望的な全てを受け入れる、覚悟。其れを倉橋は二人の瞳の中に見て、あぁ……と確信した。
経緯は分からない。だが間違いなく、この二人の若者と目の前の一人の少女は、其々全く違う何かを目的にして、この場所へ来たのだろう、と。

「……いいえ」
そしてどちらの者へも揺らぐことの無い真実を伝えることこそが、彼の義務なのだ。

「例え周囲が無菌の状態であっても、元々体内に存在する細菌やウィルスを排除する事が出来る訳では有りません。AIDSが発症している以上免疫系の能力は確実に低下し、それらの勢力は増して行きます。それにHIV自体も、脳に入り込む事で脳症を引き起こします、木綿季君は其れも進行している。自力で身体を動かすことも、今の彼女にはもう出来ないのです」
「ぇ…………」
「AIDSが発症してから、三年半。彼女の症状は既に末期症状に入って居ます。彼女自身もVR空間に入ったことによって鮮明なまま残る意識で、其れを理解しています」
「……だから、木綿季さんは、明日奈の前から……」
美幸の言葉を、倉橋は受け取るように頷いて、はっきりと言った。

「はい」
「……そん、な……」
「明日奈……」
悲嘆と絶望が胸を満たす中で、明日奈は小さく首を振る。小さく数歩後退した彼女の方を、美幸が支えた。
痛ましげに彼女を見る涼人が、不意に視線を逸らす。

「……一つ、いいですか」
「何でしょう」
「……嬢ちゃ……木綿季さんは、前に明日奈と会った時、此奴の事を「姉ちゃん」と呼んだそうです。……彼女には、お姉さんが?」
「あぁ……はい、その通りです。そもそも全ての発端である帝王切開が行われたのは、彼女が双子だったからなのですよ。藍子さんと言う、木綿季君と比べると、大分大人しめなお姉さんでしたね」
「……藍子……さん」
美幸の言葉に小さく頷いて、記憶の奥に残るその少女を思い出すように、倉橋医師は天井を見上げて小さく微笑む。

「そう言えば……成程、顔や雰囲気が何処となく明日奈さんに似ていたかもしれません」
過去形で話す彼の言葉を、涼人は酷く冷静な頭で聞いていた。脳の殆どは、予想される次の言葉を察している。その無言の問いを肯定するようにもう一度だけ頷き、倉橋医師は続けた。

「木綿季くんのご両親は二年前……藍子さんは去年の二月頃に……亡くなりました」

────

自分は十分に闘ったと、そう思っていた。
その闘いの中で、人の死とその重みを、理解したつもりになって居た。

其れが間違いであった事に気が付くことも、気が付こうとすることすらせずに、ただ安寧と今の幸せに固執し、戦わず、ただ状況に流される事に、心の何処かでそれらを言い訳をしていた。

──ぶつからなければ、伝わらない事もある──

その意味を、ようやく明日奈は真に理解した。
生きる事、その全てを闘いとして、残酷な現実に抗い続けてきたその少女の、本当の芯であり矜持の意味、それを知った今、明日奈はこれまでよりはるかに強く、ユウキに会いたいと感じていた。

弱い部分を消し去ること無く話すだけの自分では無い、本当の意味で、彼女の言葉に返す事が出来る自分によって接する事が出来ないのなら、何のために自分は彼女と出会ったのか、何のために、自分は此処まで来たのか。
慟哭に似た欲求が目尻に熱い物を込み上げさせる。強く、強く求める。その欲求が、自らと彼女を隔てる分厚いガラスの壁に、手の平を押し付けさせた。そして……

[泣かないで、アスナ]
「ッ……!」
何処か懇願するようなその声に、弾かれるように明日奈は顔を上げた。しかしガラスの向こうに居る彼女の身体は相変わらず横たわったままだ。今の声は……と、明日奈が困惑するのを察したように、涼人が言った。

「モニターだ。よく見ろ」
「えっ」
言われて、メディキュボイドの脇にあるモニターパネルを見る。其処には薄緑色の文字で、[User Talking]と言う文字が浮かんでいた。その言葉の意味を理解した頭が、ようやく小さな言葉を紡ぐ。

「ユウキ……そこに、居るの……?」
返答までの間は一瞬だった。上部のスピーカーから、確かに少女の声がする。

[……うん、みえてるよ、アスナ……びっくりしちゃった。向こう側と本当にそっくり。それに……あの時のお兄さんも]
「ん?あぁ、覚えてたか」
苦笑しつつ片手を上げる涼人がモニターを見た。続いて何かを口にしようと口を開け閉めするアスナを見て、溜息がちに頭を掻く。

「ほら、なにモジモジしてんだよ、何しに来たんだお前ェは」
「あっ……あ、あの……ユウキ……私……」
言うべき言葉と、言いたい言葉、其々沢山あるはずなのに、どうしてもそれらが口から出て来ない。そんなもどかしさに、アスナは胸元を抑えた。けれどユウキはそんな彼女の全てを察したように、先に倉橋医師に声を掛けた。

[先生、お願いがあるんです。アスナに……隣の部屋を使わせてあげて下さい]
「え……」
言われた倉橋医師は、一瞬だけ迷うように視線を伏せる。しかしすぐに小さくうなずくと、穏やかに微笑んで言った。

「分かりました。奥の部屋に、私が何時も彼女との面談用に使っているフルダイブ用のアミュスフィアが二台あるので、お使いになってください、ただ手続きを省略しているので、時間はニ十分程で……」
「あ、あのっ!」
その時だった。其れまで何処か嬉しそうに微笑んでいた美幸が、急に声を上げる。彼女は真剣な目で倉橋とユウキの居るであろうカメラ部分を交互に見ると、何処か張りつめた声色で言った。

「二台あるなら、私も、そっちに行って良いかな……私、どうしてもユウキさんに聞きたい事があるの……!」
「サチ……?」
[え、えっと……答えるだけなら、ここでも出来るけど……]
「ごめんね、でも……その……」
困惑したようなユウキの声に、美幸は申し訳なさそうに胸の前で手を組む。けれど彼女の瞳が言いたい事が伝わったのだろう、少しの沈黙の後、ユウキは柔らかな声で答えた。

[うん、分かったよ、それじゃ先生、えーっと]
やや言いにくそうに倉橋医師に声を掛けたユウキに、医師は苦笑しながら頷いて方をすくめた。

「良いでしょう、ただ、時間厳守でお願いしますよ?」
「は、はいっ!」
少しばかりの注意をする教師のような、悪戯を見逃す大人のような、そんな言葉に、表情を華やがせて次々に二人は隣の部屋へと入っていく。その様子を何処か微笑ましく思いながら眺めて、涼人は肩をすくめた。

「なーんか、すんません」
「いえいえ」

────

「コーヒーで良いですか?」
「あ、すんません出来ればコーヒーは……苦手で……」
「おや」
数分後、涼人と倉橋は部屋の外にあった自動販売機の前で腰を降ろしていた。

『女性陣を待つ間に、一息つけましょうか』と、先に提案してきたのは倉橋だった。流れに乗せられおごってもらう羽目になってしまったのは誤算だったが……

「どうぞ」
「あ、ども」
受け渡された有名紅茶飲料のプルタブを開けつつ、涼人は何となく呟くように言う。

「にしても……思ってたよりずっと大がかりなんですね……」
「……あぁ」
話しの流れから、其れがメディキュボイドの事だと察したのだろう。倉橋は小さく笑って、持っていた缶コーヒーを開ける。

「将来的には、ベッド一つに全ての機能を纏めるカタチで運用する予定なんだそうです。そう言う意味でも、ユウキ君の臨床データは本当に貴重なんですよ」
「ですよね……正直、ちょっと意外でした。こういう機械の事ですし、明日奈はともかく、俺達の面会は、多分断られても仕方ないだろうなって思ってたんで」
「あぁ、確かにそうですねぇ……」
何処か遠い所に意識を置いているような声で、倉橋は天井を見上げた。彼の声色が、やや暗い影を帯びる。

「正直な所、私も少し、浮かれていた部分はあるかもしれません。彼女が最初の小学校を転校してから、入院するまでは殆ど間がありませんでしたから、木綿季君がメディキュボイドに入ってから、彼女のお見舞いに来て下さったお友達は、貴方方が初めてなんですよ」
「…………」
「親戚の方も、AIDSの事を知ってからは殆ど彼女の家族とは接触を断っていたようで……打算的にしか、彼女と接しようとしません……」
と、此処まで言ってから、倉橋医師はハッとしたように口をつぐんだ。

「すみません、こういう事は言ってはいけないんですが……」
「あぁ、いや……んじゃ、何も聞かなかった事にしときますよ」
「申し訳ない」
苦笑して涼人に感謝の言葉を口にする倉橋医師に、涼人もニヤリと笑って応対する。言葉の端々から、倉橋の苦労が見えるようで、涼人はうっすらと同情した。
ユウキのような患者と長期に寄り添って生きるのは、恐らく想像以上の精神的負担が伴うだろう。そう言う意味で、涼人は倉橋医師に尊敬の念を覚えずには居られなかった。

「……私からも、一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「ん……どぞ」
「貴方方が聞きたい事……それは、藍子さんの事なのですか……?」
「あぁ……」
成程それか。結構敏いなこの人、と、涼人は若干驚きながら天井を見た。明るさを抑えたLEDランプが、けれどはっきりとした明るさで廊下を照らしている。

「……まだ、分からないんですよ」
「……?と、仰ると?」
続けて聞いた倉橋に、涼人は小さく苦笑した。自分でも、やや要領を得ない答えだとは分かって居たからだ。

「俺達も、明日奈(あいつ)と同じなんですよ。向こうの世界で出会った友人の事を追って、此処に来たんです。だから彼奴が……ランが、藍子さんだったのかは、まだ知らないんです」

────

「アスナは、先に行って?」
「え?」
ALOにダイブした直後、サチは唐突にアスナにそんな事を言った。

「最初は、二人で話した方が良いと思うから。私の方はすぐ終わるから」
「……うん」
躊躇いは、無かった。二人きりで話したい、そう言う欲求は、確かにアスナの中にあったからだ。其れを言いだしてくれたサチに、アスナは心から感謝していた。

「しばらくしたら追いかけるから、言いたい事、伝えたい事、伝えられるように、ね?」
「ありがとう……!」
言うが早いが、アスナは森の家から飛び出した。ユウキがどこにいるのかは、もう知っていた。

────

冬の冷気の中の飛行は、思いのほか寒さが身に応えるものである。VRであっても、いや、だからこその寒気を高速で飛行する感覚が明日奈に身を切るような冷たさを与えたが、今の彼女にとってそれらは些末事の範疇にすら入らないほどの、意識外にある事象だった。

朝方の時間帯で薄暗くなっている空を見ながらアスナはパナレーゼを飛び立つ。湖の上には薄く靄がかかり、晴れていればすぐに見えるはずの小島をベールのように覆い隠していて、まるでそこだけが本物の異界であるかのような錯覚を彼女に与えた。
人が超えてはならない、あちら側とこちら側の境界線に横たわる霧に包まれた水辺……

「っ……!」
浮かび上がった奇妙なイメージを振り切り、意を決してそのベールの中へと飛び込む。
湖の中央の小島は、当然といえば当然のように、今もその場に存在していた。

島に降り立つと、アスナは即座にその姿を求めて周囲を見回した。しかし、薄暗い明け方の光量と靄によって白く濁る視界は島に上がってすらもアスナの視界を翻弄するように狭め、少しの間、アスナは彼女を見つけられずに彷徨う。一秒一秒が過ぎるたびに、アスナの中に焦燥が溜まっていく。

やがて、一迅の風が吹いた。昇り始めた朝日が世界を薄く照らし、吹き散らされた白い靄の向こうの視界が開ける。
そこに、彼女がいた。

濃い矢車草と同じ色をしたスカート、濃紺の髪と、薄黒く細身な剣。乳白色の肌を持つ闇妖精(インプ)の少女が、どこか浮いたような動作で振り向いた。

「……不思議だね、なんとなくだけど、ボク、アスナがボクを見つけてくれるような気がしてた。ほんとになるなんて、嘘みたいだよ……すごく、嬉しい」
花の蕾が綻ぶような小さな笑顔を浮かべて少女……ユウキは言った。
ゆっくりとアスナは彼女に歩み寄り、その左肩に触れる。

「……ッ!」
「わっ」
その瞬間に、確かにそこにある熱を、アスナは強烈に求めずにいられなくなり、どこか透明で、幻のようだった彼女の存在を確かなものとして確かめたくて、アスナはその小さな体を抱きすくめる。
少しだけ驚いたような表情をしたユウキはしかし、すぐに微笑んで、その胸に顔をうずめた。

「あぁ……やっぱり、ねぇちゃんと同じ匂いがする……お日様の匂いだね……」
「…………ッ!」
何も言えないまま、アスナはユウキを抱く。数秒にわたってそうしていたアスナに、やがてユウキはぽつぽつと語り始める。
彼女の人生がここに至るまでの、最後の一ページを。

《スリーピング・ナイツ》のメンバーが出会ったのは、《セリーン・ガーデン》という、医療系ネットワーク内のヴァーチャルホスピスでのことだったのだという。その医療系ネットワークの中でも、特にある一定の重症患者……具体的には、余命宣告や、治療不能な病などの深刻な症状を持つ患者たちが交流する場として設けられたサーバーであるそこで結成された、「最後の時までの時間を、VR世界での旅で過ごす」という目的で結成されたギルド。それが、《スリーピング・ナイツ》だった。

初代ギルドマスターは、ユウキの姉である紺野藍子。
ユウキいわく、自分以上に高いVRゲーマーとしての能力を持っていたのだという。

《スリーピング・ナイツ》に所属するメンバーははじめ、九人だったのだそうだ。
しかし初代マスターである藍子を入れて、すでに合計で三人がこの世を去った。そして残りのメンバーにも、“その時”は確実に迫っているのだという。
だから、ユウキたちは一つの決断をした。

次の一人がもしこの世を去る時が来たなら、その時はギルドを解散しよう。……と。

そして同時に、解散する前に、残ったすべてのメンバーで、これまでで最高の冒険をしようと考えた。そう、いつの日か“向こう側”へと旅立つ日が来たとき、胸を張って土産話にできるような、そんな思い出を。

「春に、スリーピング・ナイツが解散する本当の理由はね……長くてあと三か月……って告知されたメンバーが三人いるからなんだ……ごめんね、アスナ。最初に会う前、だれかに助っ人を頼もうって言ったとき、シウネー達に、「知られたときにいやな思いをさせちゃう」って、ボクちゃんと言われてたのに……その通りになっちゃった……本当に、ごめん……」
「……謝らないで?ユウキ」
泣きそうな声で言ったユウキに、アスナは小さく首を振ってこたえた。心の内から生み出された素直な気持ちが、口から言葉としてあふれ出る。

「確かに、ショックはあるよ……?でも私、ユウキたちと出会ったこと、一緒に冒険したこと、一つも後悔してない。嫌な思いなんてしてない。今だって、スリーピング・ナイツに入れて欲しいし、ユウキたちのこともっと知りたいって思ってる」
「…………あぁ……」
まるで花からこぼれる朝露のような小さな吐息とともに、ユウキはどこか濡れた声を漏らす。

「ボク……アスナと出会えて、あの世界に出会えて、本当にうれしい……もう、今の言葉で、全部満足だよ……もう、十分すぎるくらい……」
その言葉に、アスナは小さな焦りと危惧を覚えた。その言葉を受け入れてしまったら、胸の中の少女は、本当に幻の存在となって消え去ってしまうような、そんな気がしたのだ。
抱いていた肩から少し離れ、目線を合わせて、アスナは問う。

「まだ、まだ、あるでしょ……?アルヴヘイムで行きたい場所……ほかのVRワールドだって良い。したいこと、行きたい場所、沢山あるでしょう……?満足なんて、十分だなんて言わないでよ……」
「アスナ……」
アスナの不安を察したように、ユウキは少しだけ遠くを見るような視線で、アスナを見た。すると小さく、やや悪戯っぽく笑って、ユウキはこんなことを言った。

「……じゃあ、ボク、学校に行ってみたいな」
「学校……?」
やや意外な発言に少しだけ首を傾げたアスナに、ユウキはどこか照れくさそうに小さく笑ってうなづく。

「VRでも、学校はあるんだよ?でも、なんていうのかな……作り物っぽいっていうか、お行儀がよすぎるっていうか……だから、リアルの、本物の学校に行きたいんだ」
「学校、か……」
しかしユウキはリアルでは活動することすらできない。せめて現実の物を自由に見たり聞いたりできれば、そんなことを思って、アスナはふとそんな話を最近聞いたような気がして、人差し指の第二関節を下唇に充てる。
その様子に気が付かないまま、ユウキはどこか申し訳なさそうに小首をちぢこめた。

「ごめんね、無茶言って。でも、ボクこれでも、本当に満足なんだよ……?アスナ?」
「……!行けるかもしれない」
「へっ?」
ぽかんと口を開けたユウキに、アスナが興奮したように返した。

「行けるかもしれないよ!学校!!」

────

「ふふっ、よかった……」
眼下で興奮したように話すアスナと、戸惑いつつ話を聞くユウキを見ながら、サチは穏やかに微笑んだ。
アスナが随分と興奮しているようだが、一体どうしたのだろう。そんなことを思いつつ、サチは時計を確認する。約束の二十分まではあと七分ほどある。もう少し、二人だけで話す時間があってよいだろう。そう考えつつ、ゆっくりと上昇し始める。

「…………」
ユウキという少女があるいはああいった境遇にあるのかもしれないという事は、涼人からメディキュボイドの話を聞いた時から……いや、あるいはそれよりも前。彼女に初めて会った時から、なんとなく察していた。
彼女の中にどこか、記憶に焼き付いた少女の片鱗を見ていたから。

「…………」
伸ばした手が、浮遊上の幾層にも連なる天井に触れる。
冷たい鉄の感触が掌に広がり、それから羽を広げてゆっくりと墜ちていく……

「…………」
ふと右に首を傾けると、地面と天井の間から、層をとり囲む柱の向こうに朝焼けの空が見えた。
湖面が昇り始めた朝焼けの色と、うっすらと青く染まり始めた空を映している。

「…………そこに、いるの?」
泣く寸前の子供のような顔をしながら、サチは暗い蒼穹の彼方へと手を伸ばす。
もう届くはずもないのだと知っている“誰か”の元へ、手を伸ばす。

小さく吹いた風が、一粒こぼれた滴を、どこへともなくさらっていく……

────

「先生、ありがとうございました」
「いえ、また何時でもいらして下さい。事前の連絡もしていただければ、面会もしていただけますから」
「はい」
コクリと頷く明日奈は、やや緊張した面もちでそれと……と続ける。倉橋医師は彼女の言わんとする事を察したようにコクリと頷いた。

「内容にも寄りますが、接続やアクセスの問題に関しては可能な限りこちらでも対処させていただきます」
「はいっ!ありがとうございます!」
顔を花のように綻ばせて頭を下げる明日奈に、美幸が我が事のように微笑んだ。

「どれ、んじゃ帰るぞお前等。一雨来そうだ」
「あ、うん」
「先生、失礼します」
「えぇ、お気をつけて」
軽く手を上げて見送ってくれる倉橋に深々と礼をしながら、三人はその場を後にする。

駐車場にある涼人の車に滑り込み、車が走り出すと直ぐに、助手席の美幸が嬉しそうに言った。

「良かったね明日奈、木綿季さん、ちゃんと見つかって」
「うん!」
大きく頷いた明日奈は少しだけ真剣な顔になると、それでも歓喜を押さえ切れていない表情で身を乗り出して運転席を覗き込んだ。

「ありがとう、サチ……それにリョウ」
「ん?なんだよ、俺達は、こっちの都合でお前に付いてっただけだぜ?」
苦笑して肩をすくめた涼人を見ながら、明日奈は首を大きく横に振った。

「そうじゃなくて、サチはユウキと二人で話す時間を作ってくれたこと。リョウは、キリト君と一緒にユウキを見つけてくれたこと。どっちも……お陰で私なりに納得できる答えが出せた。みんなのお陰よ……本当にありがとう……」
歓喜と感謝の入り混じった表情で、明日奈は目を閉じて小さく頭を下げる。
その様子を車内ミラーで確認した涼人はばつが悪そうに頬を掻くと、ややぶっきらぼうに返した。

「はぁ……初めに見つけたのはカズで、俺は乗っかっただけだ……そういう言葉は、嫁さんの為に一番必死だった剣士さんの為に残しといてやんな」
ついでにディナーでも作ってやりゃあ、彼奴も心底喜ぶだろうよ。と、カラカラと笑う涼人に、明日奈は心を温められるのを感じながら、微笑んで勿論と頷く。
そんなやり取りを、美幸は嬉しそうに眺めていた。

「っ…………」
右手で無意識の内に、まるで息苦しさに喘ぐように、胸を抑えながら。

――――

「さて、そろそろ着くぞっと……」
「あ、此処で大丈夫だよ?」
東京都港区、六本木。美幸の家があるその街のマンション前でハンドルを回す涼人に美幸が路肩を指差した。しかし一瞬だけ其方へ泳がせた視線を、涼人は直ぐに正面に戻す。

「いんや。一回駐車場に入れんぞ。お前傘持ってねぇだろ?」
「あ、う、うん」
涼人が危惧した通り、この日の関東は午後からしとしとと雨が降り始めていた。美幸のマンションの入り口はすぐ近くではあるが、このまま路駐で卸すと多少濡れる羽目になるだろう。

「あれ?サチ、普段折り畳み傘持ってるよね?」
「あ、えっと……」
「スクールバッグならな。お前、降り始めた辺りからやたら外気にしてたろ」
「う……」
「大方、バッグから移すの忘れたってとこだ」
「せ、正解です……」
特にどうといったこともなさそうに指摘にこたえた涼人によって、頬を赤らめながらうつむく美幸を見て、質問者の明日奈は感嘆の声を上げた。

「あぁ……リョウ、目ざといねぇ」
「まぁな」
フッと一笑いしてハンドルを回した車が、ゲスト用の駐車場に入っていく。入り口で美幸の携帯端末から申し込みを済ませて車を通すと、涼人は入り口になっているエレベーターホール前に車を止める。

「ほいついた」
「あ、ありがとう。ごめんねりょう、わざわざ……」
「俺から言い出したんだ。気にすんな」
降り際に申し訳なさそうに言う美幸に、涼人は肩をすくめる。
それらの所作というか、二人の会話の様子は遠慮がなく、けれど配慮はある。とても自然、それでいて独特のちょうどよい距離感があり、まるで付き合いの長いカップルか、夫婦のようだ。……いや、あるいはこれが“幼馴染”というものなのかと、明日奈は微笑む。

「んじゃま、今日はちゃんと休めよ」
「うん、ありがとう。明日奈」
「うん、また明日ね」
短く挨拶を交わして、美幸が車から離れて歩き出す。乗り出した体を深く腰掛けなおして、明日奈は小さく息をついた。と……

「……?リョウ?」
「…………」
車が動かない。美幸が降りたのだからすぐに出せばいいのにその状況に違和感を感じて、明日奈は涼人の顔を見る。そこには、深刻な表情で美幸の去った方向を見る涼人の顔があった。重々しくどこか威圧感すら感じるその顔は、まるで何かを危惧しているかのようで、一体どうしてそんな顔をしているのかと明日奈が聞こうとした瞬間。

「くそ、悪い、降りるぞ」
「えっ!?」
突然涼人がエンジンを切った。彼は即座にベルトを外すと車から降りはじめる。一体何事かと涼人が見ていた方向を見ると……

「さ、サチッ!!?」
美幸が、何もない地面で膝をつき、片手で胸を押さえながら、苦しげに喘いでいるのが即座に目に飛び込んだ。
慌ててベルトをはずし、涼人の後を追うように車から飛び出すと、すでに美幸の傍らにかがみこんで様子を確認している涼人の後ろに飛び込むように駆けつける・

「さ、サチ!どうしたの!?」
「かひゅ……ひゅっ……ヒュウッ……!」
「サチ!!」
「落ち着け。明日奈、お前もだ。ただの過呼吸だ」
「た、ただのって言ったって……!」
あくまで至極冷静な涼人にやや戸惑いつつも、明日奈は彼の様子から少なくともむやみやたらと騒がない程度の冷静さを取り戻す。そんな涼人はというと、美幸の背をさすりながらゆっくりと美幸に呼びかけていた。

「落ち着け。ゆっくり深呼吸だ。ゆっくりな」
「ひぅっ……かひゅぅ……!」
涼人のよびかけのおかげか、本の少し美幸の呼吸のリズムが安定し始める、が、まだ不規則だ。ほかに何か……と明日奈が思案しようとしたところで、涼人は思わぬ行動に出た。

「……大丈夫だ」
「わ……」
「…………!」
美幸の全身を覆うように、前から涼人の体が美幸の体を包む。
まるで毛布で包むかのように、涼人は背を撫でながら、やわらかく美幸を抱きしめた。

「(わ、ぁ……)」
「ひゅぅ……すぅ……」
それが、効果として現れたのかはわからない。しかし紛れもなくその瞬間から美幸の呼吸が安定し始める。

「……大丈夫だからよ、な。深く、ゆっくり息しろ」
「…………」
普段の彼からは想像もできないほど優しい声で、彼は美幸に語り掛け、美幸の呼吸が安定していく。明日奈はその様子を、ただ立ち尽くしたまま眺めていた。

────

「ふぅ、ま、とりあえず安静にしときゃ大丈夫だろ」
「ごめんね……」
それから十数分のち。マンションの上層階にある、美幸の家のリビングまで彼女を運んだ二人は、美幸をソファに寝かせると、

「やめやめ。今更お前からの迷惑なんぞ、気にしてもキリがねぇ」
「うぅ……」
「リョウ、そういう事は思ってても言わないの。親しき仲にもって言葉知ってる?」
「へいへい」
苦言を呈した明日奈に、涼人が肩をすくめて答えた。この男はこういう口の悪いとこがどうにかなればよいのだが……まぁ、これが涼人らしさだというのは明日奈も党の昔に納得しているため、特にそれ以上何も言うことなく美幸のわきにかがみこむ。

「サチ、大丈夫?」
「うん、もう平気。心配かけてごめんね……?」
「ホントに心配したよ~」
やや大げさに言うと、美幸は困ったように笑ってごめん、と再び口にした。つられるように小さく笑うが、即座に少し申し訳なさそうな顔をして

「その、本当は、私のほうこそ謝らなきゃいけないよね……」
「えっ?」
「その、ユウキのところに連れて行ったり、いろいろ、疲れさせたりしちゃったのが、やっぱり……」
「あ、う、ううん。そうじゃないの、ただ、これは私の……」
そこまで言って、美幸は急に黙り込んだ。考え込むように、あるいは深く迷うよう上体を起こした姿勢から顔を伏せ、それ以上言葉をつづけようとしない。

「…………」
「サチ……?」
「さて、と」
どうしたの?と明日奈が聞こうとして口を開きかけたのを遮るように、涼人が会話に割り込んできた。何故だか聞くことを制止されたような感覚がして、彼のほうを見る。

「お前もだんだん帰らねーと時間的に不味くねぇか?」
「えっ?」
天井近くの壁掛け時計を見ると、すでに五時を十分ほど過ぎていた。夕飯は六時だ。この前遅れたことを考えると、またしても母の機嫌を損ねるのはあまり好ましくない。が……
しかし……

「うわぁ、ちょっとまずいかも……」
これから帰るとなると、明日奈の実家がある世田谷まで、電車を使っても五十分は確実にかかってしまう。門限までに家にたどり着けるかは怪しいところだ。

「やれやれ、だ。ほれ行くぞ。送ってやる」
悩んでいると、涼人が頭を掻きながらそんなことを言い出した。確かに、車で行けば家までは三十分かそこらでつくだろう。隣区だし、それ以下かもしれない。だが……

「え、で、でもリョウ良いの?サチについてなくて……」
「あぁ?お前、そいつが家にいて自力で動けないほど重症に見えるか?」
「それは……」
まぁ、客観的に見ても美幸はすでにある程度気力を取り戻しているように見える。一人でもある程度は大丈夫だとは思うが……しかしついさっき過呼吸を起こしたばかりだ。美幸のこととなると何だかんだで気に掛ける涼人はここについていたいと思っていたし、美幸にしてもその方が安心するはずだ。

「私のことなら平気だよ?もう落ち着いたから……それより明日奈、門限が厳しいんだよね?」
「うん、うちは何て言うかちょっとね……」
あはは……と苦笑して、少しばかりごまかす。あまり家のしきたりについては話したくはない。

「なら、やっぱり帰ったほうがいいよ。お母さんも心配するだろうし……」
「うん……」
良いながら、明日奈は再び涼人を見る。支度を始めている青年は、明日奈の視線に気が付くと首を傾げた。

「で?どうすんだ。行くのか行かねーのか」
「じゃあ、お願いします」
「はいよ。料金はツケでいいぜ」
「お金はだせません!」
面白がるようにニヤリと笑った涼人に、明日奈は苦笑しながらも全力で突っ込んだ。

────

「それじゃ、行くけど……サチ、ちゃんと休んでね?」
「うん、ありがとう。そうします」
美幸の家の玄関先で、目を離すだけでまた症状がぶり返すと疑っているかのように何度も安静を支持してくる明日奈に、美幸は苦笑しながらうなづいた。外にいた涼人肩をすくめていう。

「お前はそいつの母親か。はよしろ。今切羽詰ってんのはどっちかっつーとお前だっつーの」
「わかってる!それじゃ、また明日」
「うん」
うなづいた美幸に軽く手を振って、明日奈と涼人をは家から出ていった。閉じた扉の前で一息ついて、美幸は胸に手を当てる。

「うん、大丈夫……」
言い聞かせるかのように、美幸はひとり言を呟くと、自室に入っていく。
美幸の部屋には、いくつかの小さな縁によって、写真がかけられていた。一番小さい頃は、涼人や詩乃とまだであったばかりのころの写真、小学生のころの写真、最近のものだと学校で女子メンバーがそろって取った集合写真や、ダイシーカフェでの今の仲間メンバー全員の集合写真、SAOの中で取ったものを、涼人に何とか復元してもらった森の家の前の写真や、明日奈に強引に取られた(今となっては取ってもらったといったところだが)涼人とのツーショットもある。
そんな中に二枚だけ、涼人も詩乃も、和人も明日奈も写っていない写真がある。一枚は美幸が高校時代、もう一枚は中学時代のものだ。

「…………」
この写真には、二つの共通した意味がある。
一つは、これらがどちらも、美幸が所属していた部活のメンバーの集合写真であること。そして一つは……これらの写真に写っているメンバーに、必ず故人がいる。つまり……美幸にとっては、遺影に近い意味を持つことだ。

「……大、丈夫……」
再び、胸が締め付けられるような痛みが走り、美幸は胸を押さえた。

────

「ねぇ、本当によかったの?」
「あぁ?」
車が走り出して二十分ほどが過ぎたとき、不意に美幸がそんな事を聞いた。運転のため視線をそらすことなく、涼人が聞き返すと、明日奈がやや身を乗り出す。

「サチのこと!いきなり過呼吸になったり、やっぱりちょっとおかしいし、リョウだけでもそばに付いてたほうがよかったんじゃ……」
「おいおい、今更いう事かよそれ」
「それは……」
もう世田谷だぞ。と苦笑する涼人に、明日奈は自分でもその通りだと思っているのか口ごもる。それでもどこか気になる表情をする彼女に、涼人はどこか呆れたようににため息をついた。

「あのなぁ、俺はあいつの親でも兄弟でもねぇんだ。本人が大丈夫っつってんのに、いつまでもあいつの家に居座るわけにゃいかねーだろうが」
「でも、リョウはサチの……」
「付き合いが長いからって、何でもかんでも踏み込んで良いわけじゃねぇんだよ」
幼馴染でしょう?と言おうとして、遮るように先回りされてしまった。こちらの言いたいことはお見通しというわけだ。
しかしそんなことが先読みできるなら幼馴染の気持ちにきっちり気が付いてくれてもいいのにと思いながら、どう返すべきかと思案して、しかしそこにさらに涼人が続けた。

「ところでお前、あの嬢ちゃんとのこと、どうすんだ」
「えっ?あ、ユウキのこと?」
「おう」
ハンドルを回しながら真顔で聞いてくる涼人の雰囲気から、彼の質問が至極真面目なものであることを察した。

「とりあえず、キリト君に例の機械のこととか相談してみて、なるべく早く現実世界の景色を、ユウキが見れるようにしてあげようと思ってる」
「ふぅん?で、学校に連れてくんだっけか……」
「うんっ!他にも行きたい場所とか、やりたいこととか、できる限り協力してあげようと思ってる」
「協力、ね……」
どこか淡白な調子で呟くように返された言葉が、明日奈にはややとげのようなものが感じられて、思わず窺うように聞き返す。

「その……リョウは、ユウキに協力するの、反対なの?」
「……反対だっつったら、やめんのか?」
「それは……」
聞き返されて、自分の質問が無自覚にやや維持の悪い物になっていたと気が付く。そこで反対してしまったら、世間一般の道徳というやつに結び付ければ、涼人に薄情のレッテルを与えかねない。

「その、そういうつもりじゃなくて……」
「わぁってるよ。……反対っつーより、危惧してるだけだ」
「危惧……?ユウキの病気の事?」
今の状況で、涼人が危惧するとすれば、それか美幸のことだろうか?そう思って、明日奈は聞き返す。しかし涼人の口から出たのは、意外な人物だった。

「どっちかっつーと、お前とか、美幸だな」
「え、わ、わたし……?」
自分の顔を指さして言う明日奈に、涼人はあっけらかんとうなづいて真面目な顔をする。視線は正面を見ているためかもしれないが、その視線はどこか遠くを見ているようにも見えた。

「昔はそうとは思いもしなかったんだが……お前、ちょっと理想論に傾き過ぎるとこあるからな。良くも悪くもお姫さまっつーか……」
「……また、からかってる?」
「いや、欠点を上げてる」
「…………」
ひとまず黙り込んだ彼女の沈黙をどう受け取ったのか、彼は少し考えると、小さく息をついてブレーキを踏み込む。

「例えば……そうだな……わかってるかもしれんがあえて言っとくが……」
わずかな制動感とともに、車がスピードを落として停車する、と同時に……

「あの嬢ちゃんは、たぶん死ぬぞ」
「…………ッ!!」
言葉が、激甚の衝撃となって、明日奈の胸を抉った。

「リョウ、それは……!」
「お前も理解できてる筈だ。あの嬢ちゃんは末期の重病患者で、医者ですら半分匙を投げざるを得んような状態だ。もしお前が、頭のどっかで奇跡的に特効薬ができて嬢ちゃんのAIDSが治るとか期待してるんなら……その考えは捨てとけ。嬢ちゃんとはそのうえで付き合うんだな……」
「やめてっ!」
突然、明日奈が吠える。受け入れ切れていない事実を一度希望の持てる未来にうずめることで押しのけようとした明日奈にとって、涼人の言葉は強すぎた。
涼人の言葉を断ち切り、力なく笑ってすがるようにか細い言葉を紡ぐ。

「やめて……お願い、どんな時でも、希望はあるものでしょう?リョウだって、今まで色んな危険とか、危ない場面を切り返してきたし、乗り越えてきたんでしょう?……だから、そんな事……」
「……覚悟の話だ」
「…………ッ」
けれど、リョウの意見は変わらなかった。

「確かに、今まで俺もお前も色々あぶねー目にあったし、死んでたかもしれん状況も一度二度じゃなかった。それを乗り越えたから、今俺らはここにいる。けどな」
そこで涼人は一度言葉を切った。その先をいう事を迷っているように見えたが、それでも言葉を止めることはしなかった。

「……それとこれとは全く別の問題だし、あの嬢ちゃんが助かる可能性がほとんどねーっつー事実は変わらん。そいつは……嫌な言葉だが、言っちまえば運命ってやつだ。だからもしその覚悟が出来ねーなら、あの嬢ちゃんにこれ以上深入りしとくのはやめとけ」
「…………ッ!!!」
頭をハンマーで殴られるような衝撃、というのはまさしく、こういうものをいうのだろう。その衝撃が抜けきらず、明日奈は少しの間硬直する。けれどやがて震える唇が、小さく開いた。

「……ずっと、背中を押してくれてたから……」
「あ?」
震えてか細いその言葉が、小さく車内の空気を震わせる。
明日奈自身、いうべきではないとわかっている言葉を紡ごうとしていた。けれどそれを止められないほど、心を大きく揺さぶられてもいた。

「今度も、押してくれるって思ってた……!甘えだって、贅沢だって、分かってる、でも……っ!」
「……明日奈、あのな……」
「リョウにとっては!」
何かを言おうとした涼人の言葉を遮って、明日奈は自分の言葉を主張する。胸の奥底でわずかに残った理性が制止しようとしたが、その小さな制止は、明日奈の胸を焦がす衝動にとっては、焼け石に水だった。

「リョウにとっては……一度デュエルを見て、ちょっと協力しただけの女の子なのかもしれない……でも、私にとっては本当に大切な子なの!ユウキがいなきゃダメなの!リョウみたいに……!」
喘ぐように息を吸う。目の淵からぽろぽろとこぼれだした涙が、車内を濡らした。

「リョウみたいに、私は人の死を見ても何も感じないほど、強くない!!!!」
「ッ!!!!!」
今度は、涼人が完全に硬直する番だった。目を見開いて、一切の表情がその顔から抜け落ちる。言ってから、ようやくとりもどした明日奈のひとかけらの理性がその口を押えたが、もう遅い。

「……ぁ、ぇ、わた、し……」
「……ついたぞ、降りろ」
車が、路肩に寄せられ停車した。
確かに、すでに目的である最寄り駅の目の前だ。しかし……

「……あ、りょ……ごめ……」
「降りろッ!!!!」
一切明日奈のほうを見ることもなく、涼人が怒鳴った。すさまじい剣幕と威圧感のその言葉に、体が跳ね、一瞬で全身を恐怖が支配する。ほとんど危険に対する反射行動のように、明日奈は車から降ろされた。

「リョ……!」
「…………」
降りたドアが閉じられ、窓を開けることもなく車が発信し、走り去る。明日奈はその様子を、手に持った傘をさすこともなく、ただ茫然と見ていることしかできなかった。

────

「…………」
車を走らせながら、涼人は頭を押さえる。明日奈から十分に離れて車を止め、一度椅子に深く腰掛けた。

「……ははっ」
小さく乾いた笑い声が漏れた。車の窓カラスに、自分の顔が映っている、酷い顔だ。普段の自分が見たらそれこそ笑うだろう。

自分の言ったこと、言われたことが、頭の中でぐるぐると回る。
自分は、いったい何を言った?あの毅然としているとはあくまでも年下の少女に向けて……彼女の気持ちに十分に配慮していたか?彼女が受け入れられる言葉だったか?言い方にしろ言葉にしろ、ほかにやり方はなかったのか?何より……

自分はなぜ、彼女に怒鳴りつけた?

「……何してんだ……馬鹿が……」
小さく呟いて、涼人はハンドルの淵をたたいた。

降り続く冷たい雨が、しとしとと、窓を濡らして流れていた。
 
 

 
後書き
はい!いかがでしたか!?

今回はユウキと言う存在を中心として、アスナ、サチ、リョウ、この三人の思いがそれぞれ絡み合うような回でした。
おそらく察しの良い方は「あぁ……」「やっぱりな」となっていた方もいるかもしれませんw

それぞれの場面で雰囲気のアップダウンが激しかったと思うのでついてしっかりついてきてもらえているかがやや不安なのですが……き、きっと大丈夫ですよね……?

次回も少し更新が遅れるかもしれませんが……申し訳ありません。

ではっ! 
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