銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百七十四話 走為上
帝国暦 490年 4月 1日 帝国軍総旗艦ロキ ナイトハルト・ミュラー
「いよいよ決戦か」
「うむ、待ち遠しいな」
「反乱軍は二個艦隊、フェザーンから本隊が戻ってくる前に叩かなくては」
「難しくはあるまい、こちらは三倍の兵力を持っているのだ。ヤン・ウェンリーがどれほど用兵巧者であろうと兵力差は如何ともし難い筈だ」
レンネンカンプ提督、ケンプ提督、ビッテンフェルト提督の会話にアイゼナッハ提督が頷いた。総旗艦ロキの会議室には微かに覇気と興奮が漂っている。
艦隊が集結すると各艦隊司令官は総旗艦ロキに集まるようにと命令が来た。決戦前に作戦会議を開くのだろう、後はエーリッヒを待つだけだ。
「ヤン・ウェンリーを叩き、フェザーン方面から駆けつけてくる反乱軍の主力を叩く。各個撃破か、腕が鳴るな」
ビッテンフェルト提督が言い終えて身震いすると会議室に笑い声が上がった。ここまで戦いらしい戦いが無い。ようやく戦える、そんな気持ちが有るのだろう。
「フェザーン方面の反乱軍ですが戻ってこられるのでしょうか? メルカッツ閣下に捕捉され身動きが出来ない可能性もあると思いますが」
「ミュラー提督、それでは詰まらぬ。何とか振り切って此処まで来て欲しいものだ」
俺とレンネンカンプ提督の会話にまた笑い声が上がった。誰も負けるとは思っていない。過信は禁物と言いたいが確かに負ける要素は少ない。
会議室のドアが開いてエーリッヒがワルトハイム参謀長、シューマッハ副参謀長、副官のフィッツシモンズ大佐を従えて入って来た。皆起立して迎える、先程までの浮き立つような空気は綺麗に消えていた。エーリッヒは相手を侮る様な言葉を酷く嫌う。その事は皆が知っている。
敬礼を交わし席に着くとオペレーター達が飲み物を持ってきた。皆の席にコーヒーが置かれる。コーヒーの香りに混じって微かに甘い匂いがするからエーリッヒにはココアだろう。オペレーター達が会議室から去るとエーリッヒがココアを一口飲んだ。それを見て皆がそれぞれコーヒーを口に運んだ。司令長官より先に飲み物を口にするのは流石に気が引ける。エーリッヒもその辺りは分かっている、ココアを一口飲んだのは皆に自由に飲めという事だ。
「飲みながら聞いてください。既に知っていると思いますが反乱軍は我々を目指して集結しつつあるようです。なんと言ってもハイネセンに一番近いのは我々ですからね。我々のハイネセン攻略を防ごうというのでしょう」
エーリッヒの言葉に皆が頷いた。反乱軍が集結すればその戦力は我々と同等以上になる、不可能ではない。
「彼らの集結を待つ事は無いでしょう。各個撃破は用兵の常道、行うのは難しくありません」
「レンネンカンプ提督の言う通りです。先に二個艦隊を叩き、その後にフェザーンから戻って来る本隊を叩く。メルカッツ副司令長官も後を追っている筈、挟撃も可能です。負ける要素は有りません」
レンネンカンプ提督、ケンプ提督が発言すると同意する声が会議室に満ちた。皆がエーリッヒに視線を向けた。エーリッヒは微かに笑みを浮かべている。
「私はむしろ彼らの集結を待ってみようかと思っています」
「……」
会議室で無数の視線が交錯した。エーリッヒの言葉の意味を皆が確認している。武勲は望んでいるが危うい戦いを望んでいるわけではない。反乱軍は後がないのだ、卒爾な戦いは危険だ。
「そうなればハイネセンはがら空きですからね。メルカッツ副司令長官は楽に攻略できる」
「それは……」
ケンプ提督が何かを言いかけて口を閉じた。なるほど、こちらは陽動か。しかし反乱軍を引き付けるという事は……。
「……閣下はここで決戦をとお考えですか?」
思い切って訊いてみた。何人かが頷いた。やはり同じ疑問を持っている。エーリッヒらしくない、無意味な危険を冒すような男ではないはずだが……。
「決戦? まさか、そんな事は考えていません」
会議室の空気が緩んだ。
「では?」
「反乱軍が戦いを挑んできても逃げますよ、ミュラー提督」
「それは……」
今度はビッテンフェルト提督が何かを言いかけて口を閉じた。困った様な笑みを浮かべている。
「おそらく反乱軍は我々をジャムシードまで誘導する筈です。そこまでは付き合いましょう。しかしその後は徐々にハイネセンから遠ざかります。今後の事を考えれば必要以上に同盟市民の恨みを買う事は避けたいですからね」
なるほど、戦後の事を考えての事か。宇宙の統一を考えればただ勝てば良いという戦いは出来ないという事だな。
「気付くでしょうな、反乱軍は」
「気付いても如何にもならん」
レンネンカンプ提督とケンプ提督の言葉に皆が頷いた。その通りだ、どうにもならない。我々に背を向ければ後ろから撃たれる。艦隊を分ければ各個撃破が待っている。何より時間的にハイネセン救援は間に合わない筈だ。つまり戦いらしい戦いは起きない……。
「しかしそうなると我々は武勲の挙げ場が有りませんな。ハイネセンには観光に来たようなものか」
ビッテンフェルト提督の何処か気の抜けたような言葉に彼方此方から笑い声が上がった。アイゼナッハ提督も声を出さずに笑っている。
「そんな事は有りません。イゼルローン要塞を攻略し反乱軍の防衛態勢を崩壊させた。そして反乱軍を引き付け別働隊によるハイネセン攻略を援護した。十分過ぎる程の武勲ですよ。我々は二つに分かれていますが別々な軍ではないのですから」
「……」
「ま、それも全てが終わってから言える事ですけどね。未だ戦いは終わっていない以上何が起こるかわからない。気を引き締めて行きましょう」
エーリッヒが穏やかに窘めると皆が頷いた。
帝国暦 490年 4月 1日 帝国軍総旗艦ロキ エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
レンネンカンプ、ケンプ、アイゼナッハ、ビッテンフェルト、ミュラーが気の抜けた様な顔をしている。軍人にとって戦わないというのはやっぱり不本意なのかな。まあこれが最後の戦いだろうからな、心に期待する物が有るのかもしれない。分からないでもない。
でもね、俺はヤンと戦いたくないんだ。戦後の事を考えてとは言ってるけど本音はヤンが怖いんだよ。本当はイゼルローンで降伏させる予定だったんだがな、上手く逃げられた。こっちの考えを見抜かれたらしい。やっぱりヤンはミラクルヤンだ。何を仕出かすか分からない怖さが有る。例え一個艦隊の指揮官に過ぎなくても油断するべきじゃないと思う。
三十六計逃げるに如かずという言葉も有るが危険だと思うなら無理せずに戦いを避けるべきだ。勝てないなら戦わないように工夫するべきだ。戦わなければ負ける事は無い。その上で戦わずして勝つ方法を考える。今回は同盟軍の防衛作戦は破綻しているし兵力も劣っている。一生懸命態勢を立て直そうとしているが無理が有る。直接戦わなくても勝てる条件は揃っているんだ。危険を冒す必要は無い。
言い訳するつもりは無いが指揮官は臆病なくらいで丁度いいんだ。但し、周囲には臆病では無く慎重だと思わせる事が必要だ。そうでなければ侮りを受ける事になる。上に立つのも容易じゃないよ、本心なんて滅多に出せない、常に理想の上官を演じているんだからな。役者にでもなった気分だ。
ラインハルトはそういうのは出来なかったな。戦いを避ける事も出来なかったし戦後の事を考える事も無かったと思う。演じるなんて事も無かっただろう。天才とか英雄っていうのはそういうものなんだろうと思う。演じてなくても英雄を演じ周囲を魅了する、だから誰も真似出来ない。俺みたいな臆病な小市民には到底無理だ、真似する気もないけどな。
宇宙暦 799年 4月 2日 同盟軍総旗艦リオ・グランデ ドワイト・グリーンヒル
総旗艦リオ・グランデの艦橋は張り詰めた緊張感と奇妙な明るさが混在していた。緊張感はイゼルローン方面の帝国軍がハイネセンに迫っている事がもたらし明るさはフェザーン方面の帝国軍の追撃を何とか振り切れそうだという希望がもたらしている。状況は厳しいが一筋の光明を見ているのだろう。
その一筋の光明にすがりたい気持ちは理解できる。しかし状況は良くない。帝国軍の大軍に同盟領奥深くまで踏み込まれてしまった。そしてこちらの防衛態勢はボロボロと言って良い。何とか作り上げた迎撃案も綱渡りのようなものだ。果たして上手くいくのか……。
「ハイネセンより通信です」
オペレーターの声が上がる。ビュコック司令長官がスクリーンに映すようにと命じると直ぐにボロディン本部長の姿が映った。互いに礼を交わすと本部長が口を開いた。
『イゼルローン方面から来襲した帝国軍の進撃が止まりました』
艦橋がざわめく。ビュコック司令長官が“静かに”と窘めた。
「ではヤン提督が?」
『ええ、帝国軍に接触したようです。帝国軍は前後から挟撃されるのを恐れシヴァ星域において集結しています』
進撃が止まった、悪くない。ヤン提督が追い付いてきた、これも悪くない。少し運が上向いて来たか。
『そちらの状況は如何ですか? 今何処に?』
「ランテマリオを抜けジャムシードに向かっているところです。後一週間ほどでジャムシードに到達するでしょう」
『後一週間……』
ビュコック司令長官の言葉にボロディン本部長が頷いた。
『帝国軍は?』
「追って来てはいますが戦闘にはなっていません」
『振り切ったと?』
司令長官が首を横に振った。
「そこまでは。何とか捉まらずにいる、そんなところですな」
『そうですか』
本部長が頷きながら大きく息を吐く。思うようにいかない、そんな感じだ。
『出来れば帝国軍をジャムシード星域にまで誘引したいと思いますが同盟軍は二個艦隊、帝国軍の半分にも及びません。場合によってはシヴァ星域にまで行って貰う事になりそうです』
「已むを得んでしょう。無理をすれば各個撃破される危険が有ります」
帝国軍はその各個撃破を狙って来る筈だ。無理は出来ない。だがそれは……。
「本部長閣下」
『何かな、総参謀長』
「シヴァ星域方面、ジャムシード星域方面にそれぞれ補給部隊の手配をお願いします」
『……』
ビュコック司令長官が頷くのが見えた。フェザーン方面軍に元々配備された補給部隊は速度が遅いために已むを得ずとはいえ置き去りにせざるを得なかった。帝国軍に追い付かれたら無理をせずに降伏しろと命じたが……。
「小官からもお願いします。このままではイゼルローン方面の帝国軍とは戦えても後を追ってくるフェザーン方面の帝国軍とは武器弾薬の不足から戦えない可能性が有ります。決戦場が確定しない以上両方に必要です」
『分かりました、手配しましょう。ヤン提督、カールセン提督も補給を必要とする筈です。彼らの分も用意しましょう』
その後はハイネセンの様子について本部長から説明が有って通信は終わった。ハイネセンはパニックとまでは行かないがやはり混乱が生じているらしい。もっとも宇宙艦隊がほぼ無傷でハイネセン防衛のために戻ろうとしている事も分かっている。ハイネセンの市民は我々が帝国軍を撃破する事に一縷の望みを抱いている様だ。その他の自治星系は殆どの有人惑星が無防備宣言を出している。そして帝国軍がハイネセンを目指している事、自分達を攻撃しようとしない事を理解して落ち着いているらしい。酷い混乱は無いようだ。
「閣下」
「何かな、総参謀長」
「問題は我々の後を追ってくる帝国軍です。このまま後を追ってきてくれれば良いのですが……」
ビュコック司令長官が顔を顰めた。
「そうだな、連中がハイネセンを目指すようだと……、残念だが我らには手の打ちようがない」
「出来るだけ早く帝国軍を撃破してハイネセンに戻り、ハイネセン攻略を防ぐ。……やはり決戦場はジャムシードがベストです。シヴァではハイネセンから遠くケリムでは後ろの帝国軍が我々を追って来た場合イゼルローン方面の敵との合流を許してしまいかねない」
「そうだな、ヤン提督もその辺りは理解しているとは思うが……」
お互い口調が重い。改めて状況は厳しいと思わざるを得ない。ボロディン本部長が気付いていないとは思えない。だが何も言わなかった。徒に不安材料を並べても仕方ないと思ったか。或いは先ずは目の前の帝国軍を撃破する事に集中すべきだと思ったか……。四月は残酷な月か、確かにそうだな、この四月に同盟の運命が決まるだろう。
宇宙暦 799年 3月 13日 ハイネセン ある少年の日記
信じられない事が起きてしまった。イゼルローン要塞が、あのイゼルローン要塞が帝国軍に取られてしまったんだ。帝国軍が攻めて来たって大したこと無いと思っていた。イゼルローン要塞に二個艦隊、フェザーンに五個艦隊、十分帝国軍に対抗出来る筈だった。実際昨日までは何の問題も無かったのに……。
エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、悪魔のような奴だ。まさか要塞をイゼルローン回廊まで持って来るなんて……。あっという間に防衛線は突破され帝国軍の大軍が同盟領に侵攻している。地方の有人惑星は大混乱だ。無防備都市宣言を出すって言ってるけど大丈夫かな。帝国軍が見逃してくれるんだろうか?
不安な事ばかりだ、母さんも酷く怖がっている。学校でも皆不安がっている。校長先生が校内放送で落ち着いて勉強するようにと言ってたけど無理だよ。同盟が滅ぶかもしれないんだ。そうなったら僕達はどうなるんだろう? 奴隷扱いされるのかな?
唯一の希望は宇宙艦隊がそれほど損害を受けていない事だ。イゼルローン方面の艦隊、フェザーンで戦っていた艦隊は今ハイネセンを守るために大急ぎで戻ろうとしている。何とか無事に戻って僕達を守って欲しいよ。アルテミスの首飾りが有るから大丈夫だと思うけど相手はあのヴァレンシュタインなんだ。何を仕出かすか分からない。イゼルローン要塞だってあいつの前では無力だったんだから……。
宇宙暦 799年 4月 2日 ハイネセン ある少年の日記
やったよ、帝国軍の進撃が止まった。ヤン提督が帝国軍を後ろから牽制したらしい。シヴァ星域まで来ていた帝国軍は進撃を止めて様子を見ている。前後から挟み撃ちされるのを怖がっているんだ。後はビュコック司令長官が来てくれればヴァレンシュタインをやっつけられる! やっぱりヤン提督は凄い!
久々に良いニュースだよ。皆喜んでいる。これまでは帝国軍が近付いているというニュースしかなかった。皆不安で自棄になって暴れる人もいた。暴動や殺人事件、強盗事件も起きている。ハイネセンは酷く物騒になってしまった。僕達も登下校には気を付けるようにと先生から注意されているくらいだ。
でも今日からは大丈夫だ。帝国軍をもう少しで挟み撃ちに出来る。フェザーンから来る帝国軍がハイネセンに攻め寄せて来るって言う人もいるけどアルテミスの首飾りが有る。イゼルローン要塞の件もあるから絶対に難攻不落とは言えないけど簡単には攻略出来ない筈だ。帝国軍が手古摺っている間にヴァレンシュタインをやっつけてハイネセンに戻ってくれば帝国軍を撃退する事も難しくない。必ず勝てる、大逆転だ。
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