機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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27話
「それじゃあ14回目……えーと、じゃあ攸人とクレイの初教導を祝して~」
すっかりアルコールで顔を赤くしたヴィセンテがふらふらとグラスを掲げる。それに応じるように、そこに居合わせた数人も覚束ない手つきで酒の入ったグラスを天井に向けた。
「おい、それさっき言っただろーが」
「あーもう面倒臭いんです! 面倒なんですわ! なんでもいいから乾杯乾杯!」
「かんぱーい!」
ヴィセンテが喚くに合わせて、紗夜も声を張り上げた―――手に持っていたのはキャロットジュースだが。
サイド3某所、時刻はまだ20時を回ったばかりで、店の中の一画は連邦の軍人とサナリィの人間がほとんどだった。周りの喧騒に耳を傾けながら、ヴィセンテに合わせるように小さく乾杯したジゼルもとりあえず濃厚なコクのビールを一口で流し込む。そうして次はテーブルの蒸かした芋を放り込むと、隣にちょこなんと座る銀髪の少女の髪を撫でた。
「残念だったね、クレイ居なくて」
顔を上げた少女―――エレアは特に気にしていないように首を振った。
「ちょっと寂しいけど、へーきだよ。ジゼルも、皆もいるから楽しい」
「そかそか」
邪気など知らないとばかりに笑みを浮かべたが、それでも幼いかんばせには微かに陰りがあった。ジゼルは彼女の銀の髪の間に指を入れ、その熱っぽい感触を愛撫するように触れ、そうしてエレアはくすぐったそうにした。
「あんにゃろ~あんなにぶっ壊しやがって……インコム大破だぞ!? スラスターもほとんど使えないし。整備する身になれって言ってんのにぃ!」
「はいはいそれはさっき聞いたから。クレイはどこ行ったの?」
「あいつ終わってからすぐシミュレーター行きましたよ。まぁ、今は別な用事だと思いますけど……多分」
なんだそりゃ、とヴィセンテの隣に座っていたヴィルケイが首を傾げる。ジョッキ半分に残っていた苦いアルコールを飲み込んだ攸人がテーブルにジョッキを置く―――童顔の男の顔は、奇妙な誇らしさのようなものが滲んでいた。
「士官学校時代に書いたなんかの論文の日本語訳の依頼が来てるって言ってましたから。今頃辞書片手に一人で格闘してますよ」
「あいつ本当にようやるなぁ。あぁそうか、あの時嬉しそうにしてたのはそういうことね」
「ええ、多分」
ヴィルケイが目を丸くする。UC.100年の地球連邦軍再軍備計画に向け、地球連邦軍全規模で部隊の水準を上げる動きの中、他部隊教導はより多くなっていく。しかもそれだけでなく戦技研究、さらには『ゲシュペンスト』は本来教導隊という部隊に関わりの無い試作機の試験も任務としてある。戦後にあって、教導隊は決して楽な仕事ではないのである。ある意味既に二足の草鞋状態にも関わらず、さらに別なこともしている。本業が疎かにならなければいいが、とジゼルは不安を感じた―――問題ないか、とも思う。取りあえず、揚げ芋を口に投げ入れた。ちょっとしょっぱすぎるなぁと思いつつ、汗をかいたグラスを煽る―――中身は何のアルコールなんだろうか。自分の左手に持ったグラスを眺めたが、濁った液体の名称が何なのかはよくわからなかった。まぁ、うまけりゃいいや、と再びグラスに口をつけた。
「あいつ、あんまりみんなで酒飲んだりってのが得意じゃないですから」
「人間色々だからなぁ。うーん」
何事か思案顔のヴィルケイ。と、エレアがジゼルの袖を軽く引っ張った。
「なぁに?」
「えっと、ちょっと……」
困ったような照れたような顔をしたエレアが視線を泳がせる。
「頼みがあって―――」
※
小気味良い音が耳朶を打つ。
エンターキーを押した小指の疲労感を感じながら、クレイは大きく伸びをし、だらしなく欠伸をした。目の前にあるのは公用のパソコンではなく、専用のキーボードに繋がれた私用のタブレット端末であり、その液晶画面には日頃使い慣れない言語―――日本語の群れが犇めいていた。連邦政府の公用語である英語と母親の母国語だったドイツ語は西ゲルマン語に分類される言葉で比較的共通性があるが、日本語は共通の起源をもつ言語の無い言語故に、他と共通する部分の少ない言語なのだ。実際自分が訳した文章を読んでいると、漢字だのカタカナだのひらがなだのが混在していて混沌と言うほかないように思える。よくもまぁこんなしち面倒くさい言葉を使って話すものだと呆れるやら感心するやらだが、そんな言語に奇妙な興味を覚えるのも事実だった。
だが、興味があるからといってそう長く訳するのも堪える話だった。机に広げられた和独辞典とドイツ語の哲学用語辞典、日本語の辞典、そして日本語の哲学用語辞典を順々に閉じると脱力と共に背もたれに身体を預けた。ドイツ語と英語と日本語を行ったり来たりしていたせいで頭が漠としている。取りあえず今日はここまでだろう、とのそのそと立ち上がりかけると、ドアをノックする軽い音が部屋を木霊した。
「はいはい、だぁれ?」
大きく伸びをして、冗談半分千鳥足でドアの傍まで寄り、タッチパネルを2、3操作し、音も無くドアがスライドし―――。
「捗ってるか?」
長い黒髪が目に入る。琥珀の眼差しがクレイを真正面に見返した。
「た、大尉? どうして―――」
慌てて背筋を正して敬礼しようとすると、フェニクスが素振りでそれを制した。
「私も少し暇になったから飲みにでも行こうと思ったんだがな。一人で飲むのもなんだし。大丈夫か?」
「ええ、いいですよ。丁度今一区切りついたところですから」
その前に、とロッカーからジャケットを取り出し、タブレットの右上にある電源のスイッチを押し込む。画面が暗くなるのも待たずにキーボード兼カバーを画面に被せ、デスクの中に滑り込ませて振り返ると、フェニクスは背を向けて漠と佇んでいた。どうやらデスクの反対側にあるベッド下に適当に置いてあった段ボールの中から本を漁っていたらしい。
「なんです?」
「いや―――ちょっとな」フェニクスは何かの本を手に取りながら立ち上がった。上から横からびっしりと付箋がはみ出てた薄っぺらな本をぺらぺらと捲ったあと、「気になっただけだ」と段ボールの中に本を置いたフェニクスが身を翻す。
「最近は何を読んでいるんだ?」
「最近ですか?」クレイはデスクに振り返り、その上に置かれた分厚い本を手に取った。「最近はこれですかね?」
まじまじとその表紙を眺めたフェニクスは、意外そうな顔をしながら頷いた。
「じゃあ、行こうか」
「あ、はい」
柔和な微笑を浮かべたフェニクスに微かにどぎまぎしながら、彼女の隣についていった。
エイジャックスから出てドッグを通り、サイド3首都ズムシティへと入る前の多少煩雑な検査を受けた後、市街へと降りていく。ターミナルから出ると、ひやりと冷たい風が頬を撫でる。流石にサイド5に次ぐ観光サイドであるサイド3なだけあって人は多いが、パーキングエリアを見回すと案外エレカが多く残っていた。大抵の人は長旅の疲れから自分で運転したくない、という人が多く、運転手が居るタクシーを選ぶ。それに夜ともなればなおのことだ。人が多いタクシー乗り場を横切り、黄色く角ばった車体のエレカの運転手席に手をかけると、助手席側に立ったフェニクスが車体越しの顔をのぞかせる。
「なぁ、お前運転好きか?」
「いえ? そんなに好きではないですが」
「なら運転代わってくれないか? 今日はそういう気分なんだ」
「はぁ。了解しました」
そうか、と助手席に潜り込んだフェニクスは、そのまま這うようにして運転手席に座った。多少呆気にとられながら、クレイはエレカの後ろを回って助手席に座り、シートベルトを締めるとフェニクスがエレカのエンジンのスイッチを押した。電気自動車なだけあって、エンジン音は驚くほど静かだ。無音といってもいい。コロニーでは道路脇に常時どこでも停められているエレカが住人の足であるからして、別段それ自体驚くには値しないのだが、普段ミノフスキーイヨネスコ型核融合炉を心臓にするMSに乗っている身としてはなんとも奇妙な感覚ではあった。
音も無く―――正確には歩行者に知らせるための音を出しながら、パーキングを出たエレカが市街を横切る。観光などに興味のカケラも無いクレイには、サイド3は目新しい街だが、コロニーの発展した街など大して違いはない。せいぜいがズムシティの官庁であるあの人面の奇抜な建物があるぐらいだろう。それにしたって、カーナビゲーションによれば違う方向だった。
「隊長って結構可愛らしい趣味してますよね」
20分ほど市街を運転した後、フロントガラスから向こうを見ながらふと思いついたことを言ってみる。何気ない会話など何気ない話題でいいのである。
が、何気ない話題にしたつもりだったが、フェニクスは何故か静かに唸り声を上げると、押し黙ってしまった。そのまま5分ほど黙然としてから、咳払いしたフェニクスがこちらをちらと一瞥した。
「ジャックなら元気にしているぞ」
「なんか触れてはいけない話題でしたかね……」
「そんなことはないぞ。どんどん触れろ」
「いや、いいです……」
何故か不機嫌になったフェニクスは片手でハンドルの下の方を掴んだまま、梟のようなジト目をしてしまった。上官の機嫌を損ねてしまったことに慌てていると、彼女はすぐに微笑を浮かべた。
「冗談だよ。別に大したものじゃない」
微笑は変わらない―――嘘だ。表情筋は確かに微かにも動かなかったが、影が出来たその顔はどこか―――寂しげだった。夜だから、影が強いだけだろうか? 脇目でフェニクスの姿を見たクレイは、再び視線を前に向ける。丁度、左手の方に今となっては珍しいガソリンの二輪車が並んだ。
「そうだな、ティターンズ入隊からちょっと後だから―――24歳の時に目覚めたんだ。なんでかは知らんが」
「あぁ、そういえばグリプス戦役のころから軍人なんでしたっけ」
「まぁな」
信号が青に変わる。LEDの無機的な明るい閃光が網膜を刺激し、滑るように加速したエレカが道路を往く―――。
それから10分ほどして、メインストリートからやや外れた外部駐車場の2階に停めると、目的地はそこから歩いて2分もかからない場所だった。
現代的なビル街の中にあって、その建物はやや奇妙だった。店先に出されたホワイトボードや店の看板のデザインはどこかクラシカルで、木製の引きドアの取っ手も使い込まれてメッキが剥げている。サイド3の短くない歴史の初期に店を構えた、といった風采だった。
看板に書かれた文字は―――フランス語、だろうか。
quatorzième chat―――?
「どうした?」
看板を仰いでいると、ドアを開けたフェニクスが訝しげな視線を向けた。
「これ、どういう意味なんです?」
「ん? あぁ、えーっと、猫―――だったかな。14番目の猫、だっけ」
「猫?」
もう一度看板を仰ぐ。流暢に書かれた金色の文字にどこか高級感があるが、それにしてもバーで猫というのも奇妙な名前な気がする。それこそもっとファンシーな店構えに似合いそうな語呂だと思うのだが? まぁいいか、とフェニクスが開けたままのドアを潜った。
薄暗い店内にはテーブル席が並び、静かにアルコールを楽しんでいる老紳士やら若い企業家と思われるインテリ風な男とその家族が小さな祝賀を開いていた。カウンター席にも2人ほど人がおり、その向こうにスキンヘッドのいかつい男が客と何かを談話しているようだった。
フェニクスが手を上げると、巌のような男がこちらを向く。膨れた随意筋の群れに、プロの格闘家のような峻厳な顔はもはや筋肉もりもりマッチョマンという陳腐な形容しかできない男の顔が、パッと明るくなった。
「あら~! フェニクスじゃないの」
「久しぶりだな。いつぶりだ?」
3年前かしら、とスキンヘッドの男がころんと小首を傾げる。まるで無垢な少女がするように、だ。
カウンター席に座ると、男がにこりと笑みを向ける。人当たりの良さそうな笑みに、案外落ち着いた声色だ。柔らかい物腰は、いい人そうだなと思わせるのには十分だった。
「このムッシューは誰かしら? 今カレ?」
「残念ながら部下だ。まだご無沙汰だよ」
「あら! じゃあこの子が?」
禿頭の男が好奇の瞳を向ける。値踏みしているようにも見え、内心身震いした。そんなクレイの内心を察知した禿頭男は、さらにわざとらしく意味深な流し目を投げやった。
「例のもの。あとは適当に頼むよ」
猫なで声で応じた男が店の奥へと引っ込んでいく。
この店の常連、なのだろうか。視線だけフェニクスにやれば、職務中の凛乎とした目つきはなく、柔らかな顔立ちは安堵を感じているに違いない。クレイも自然と肩の力を抜いて、カウンターの向こうに並んでいるワインやブランデー等その他もろもろのボトルをぼんやりと眺めた。それが高級なのか、それともちょっとしたポケットマネーで買える程度のものなのかは、よくわからなかった。フェニクスも、漫然と店の奥に視線を投げているらしい。
運ばれてきたワインだのジンだのをグラスに注いでは口に含み、そうして些末な雑談を交わすこと十数分。白ワインのボトルをたちまち2/3まで減らしても、隣に座る女性は大して酔った様子ではなかった。
「飲まないのか? これ結構うまいんだぞ。『大帝の白』だからな」
無造作にグラスに白い液体を注ぐと、軽くワインをくゆらす。この後も色々やりたいことがあったのだが、と思ったが、今日は止めておくことにした。たまには羽目を外してもいい。少量だけグラスに注いでしばし眺める。そうして口に運んでみたが、味の良さはさほどわからなかった。
「正直よくわからないです…」
「高級ワインなんてのは」と今度はグラスに並々と白ワインを湛えたフェニクスが言った。「金持ちの道楽だ。味なぞ大して変わらん」
「ならそんな雑に飲んでほしくないんだけど?」
店の奥から顔を出した男が大仰に顔を顰めて見せる。それほど高いものなのだろうか、とフェニクスの手前に居心地悪そうに佇立するワインボトルのラベルを見たが、酒に関してはさして理解がなかった。
憤慨をさっさと払いのけ、にこやかな笑みを見せた男がクレイの前に白い陶器の皿を差し出した。一礼して受け取れば、どうやら肉料理のようだ。それに合わせてか、男が赤ワインのボトルを置いた。
「これが例のもの、ですか?」
皿をカウンターに置く。そうだ、と頷いたが、どうやらフェニクスは食べないらしい。代わりに、白ワインに合いそうなホタテのソテーが乗ったプレートを男から受け取っていた。ナイフとフォークを手に取ると、麗人は静かにクレイのグラスに赤いアルコール液を注ぐ。そうして、どこともない虚空を眺めるフェニクスが乾杯、と思い出したように呟く。クレイもフェニクスのグラスに残り僅かになった白い液体を注ぎ、同じ言葉を返した。
なるべく音を立てないように皿の上の肉を切り分け、口に運ぶ。
―――はて、なんだろうか。少なからず食べたことのない味だった。だが匂いは嗅いだことがあるような、ともう一切れ口に運ぶ。絶品料理、というわけではないが、悪くなかった。
「奇妙な味ですね? なんです?」
「猫だ」
「はい?」
「猫と言っているだろう」
表情を微かにも動かさず、ホタテを丸々口に入れたフェニクスが訝しげな視線でこちらを見る。訝しげな視線を投げてやりたいのはこちらなのだが、とカウンターの向こういる禿男を見やる―――視線が合うと、愛らしい仕草でウィンクを返してきた。
「え、猫(cat)って猫(ein katze)ですか?」
まじまじと眺める―――確かに口に含んだ時の滓かな風味は、猫の匂いだった。
「食猫ってあるんですね…犬は聞いたことありますけど」
半ば呆れながら口に運ぶ。決して悪くはない味なのだが―――普通にフェニクスが食べているものの方が美味しそうだな、と赤く渋い液を口に含んだ。
「あの……」
「なぁに?」
カウンターに両肘をついた男が満面の笑みを浮かべる。
「僕にも隊長が食べているものを……」
「あーそれねぇ、ちょっとそれで品切れなのよ」
さも残念そうに、と言った様子で肩を竦める。それだけ人気ということなのだろうと一応納得したように肯くと、
「まぁ貴方達のサイド8だっけ? にもお店出してるからそっちで食べてよ。代わりのものは今作るから」
男は厳つい笑みを見せながら背筋を伸ばすと、調理場の方へと戻って行った。それにしても筋骨隆々なその姿は、昔プロレスでもやってたんじゃなかろーか、と思うほどだった。
2、3の話題を喋った後、澄み切った飴色のコニャックをグラスに注いだフェニクスが、特に含みも無く、なぁと声を漏らした。
「お前は私に何も言わないのか?」
「何がですか?」
ぐいとブランデーを飲みほしたフェニクスが緩慢な動作でこちらを見た。まだ、酔っていないように見える。
「あの子…エレアのことはもう知っているんだろう?」
「ニュータイプかということですか?」
「人工的に作られたということもか?」
固くごつごつした透明の氷が入ったグラスに再びコニャックを垂らしていく。
フェニクスの声はいつもと変わっていない―――気がした。本当だろうか? 酔いが回り始めたクレイには、そうした機微な変化は把握できなかった。 肺に溜まったアルコールを吐く。オーナーから冷えた水を貰い、それを飲み込んだ。
目頭を抑える。漠然とした思考がごちゃ混ぜになり、上手く意思を統合できなかった。一度声を出そうとして一度吃った。
「私は人間的な道徳とかを絶対視して糾弾するのは好きではないんです。もちろん道徳や倫理は最大限も尊重されなければならないとは思いますが、そうであるが故に慎重にならなければならない筈です。現代では往々にして道徳や倫理とはマニュアルと同類に見なされていますが―――本来違うものです。マニュアルに唯々諾々と従うのではなく、人々の語りの中で常に再構築されるべきものであると僕は思うんです」
水を飲んだ。空になったグラスを当ても無く手の中で弄ぶ。
「何が言いたいかと言えば、何も知らない私が隊長に何を言えるというのか、ということです。そもそもエレアがどのようにして誕生したのか、そしてそれに隊長がどう関わっているのか。直観的には、隊長は正しくないことをしているような気はしますが、だからといって感情論を捲し立てる気はありません。そんなことは無意味です」
それに、とグラスにコニャックを注ぐ。カラメル色の液体は、掴みどころのない美しさだった。
「隊長はエレアのことを愛していると私は判断しています。でなければあの子、とは言わないでしょう。それに、エレアが隊長にぬいぐるみをプレゼントしようと思ったのも、きっとエレアも隊長のことを愛しているからなのでしょう。ユートとも楽しげに会話しています。エレアが単なる物としてのみ扱われていたなら、彼女はあのような人物にはならなかったのではないか、と思います。確かに彼女の産まれ方は自然なヒトの産まれ方とは異なるのは事実ですし、産まれ方もまた重大な意味があります。しかし、生の本性全体を理解することの重要性も見失われるべきではないでしょう。そもそも自然なものが望ましいものでしょうか。自然なものが本性的なものとどうして言えるでしょうか……」
わかりにくくてすみません、と苦笑いをしてみたが、表情筋は思うようには動かなかった。フェニクスは、やはり微かにも顔色を変えない。ただ淡々と液体とツマミを口に運んでは、口をもごもごと動かし、ウェットティッシュで口元と手を拭いていた。
背後から聞こえる柔らかな言葉と微かな物音。口元に運んだ最後の猫の塊をワインで全て流し込んだ。味はもうよくわからなかった。
「あの……」
口が強張る。ちらとこちらを見たフェニクスは特に何も言わず、再び視線を戻した。
「エレアを物として、手段としてだけ見ているのはむしろ僕なのかもしれません」
フェニクスが身動ぎする。ジャケットと中に着ているシャツの内側に手を入れ、肩をもんでいるらしい。肩でも凝っているのだろうか。デスクワークに加えて胸もデカいから凝るのだろう―――肩でも揉もう、と頭皮でも真皮あたりの部分が思案した。
「エレアは私を真摯に愛してくれています。とても嬉しいことですよ。にも関わらず私は彼女の出自を知っても義憤に震えて声を荒げることもしないんですよ。それよりも客観的、理性的であることに情熱を傾けているんです。私は冷たい人間なんです。それに、心の中で私は彼女を性的欲求の対象あるいはその期待としか見ていない節があります。私にとってエレアはダッチワイフ程度の存在かもしれないんですよ。僕は、本当にエレアを愛しているんでしょうか?」
フェニクスのグラスが音を立てた。中の氷が溶けて身震いしたのだ。そうして、フェニクスは小さくなった氷塊を口一杯に入れると、激しく音を響かせて噛み砕いた。
「クレイ・ハイデガーはその程度の人間なのです」
※
部屋の電灯をつける。白いLEDの冷たい光がフェニクスの網膜を痛いくらいに刺した。
覚束ない足と思考のまま居住ブロックに宛がわれた自室を網膜に投影し、視覚野の部分を像的に理解する。上級士官用に広くスペースがあるが、ベッドとデスク以外特に何もない部屋故にむしろ虚しい純物理的無機的空間でしかなかった。
いや、それは違う。ぴったり並んだツインベッドのうちの1つはこんもり盛り上がっており、枕元には白濁した目をする真っ黒なぬいぐるみが怪しげな笑みをしていた。慣れないと不気味としか感じないが、見慣れれば案外愛らしい―――気がする。きっとあのぬいぐるみ、ジャックと名付けられたあのオーストラリア出身者はおかえりと言っているに違いない。だから、フェニクスもただいまの挨拶をした。
SDUのジャケットとカーゴパンツをさっさと脱ぎ捨てると、程よい涼しさだ。タンクトップに下着のままで寝たら流石に明日風邪をひくだろうかという懸念を一瞬感じたが、些末なことと無視してベッドに腰掛けた。途中買ったペットボトルの水を数ml口に入れて舌の上で転がす。
本当の、愛。先ほどまで共に居た部下は、酒で顔を真っ赤にしてそう言った。
本当の、愛。先ほどまで共に居た男は、回らない呂律でそう言った。
本当の、愛。先ほどまで共に居た希哲者は、自分の脳みそに焼き鏝を突き刺しながら、そう言った。
一気に脱力感が押し寄せてきたが、思案は手元にしっかりおいておいた。
本当の愛とはそもそも何だろう? いや、『本当』とはなんだ? 世間一般でよく言われる、聞こえのいい陳腐なプラトニック・ラブか? それとも巷で繰り広げられる純愛と痴情が常に交わされる経験を基盤にするものを愛を読んでいるのだろうか?
プラスチックが軋む。気が付けば、空になったペットボトルは中ほどでぐしゃぐしゃに潰れていた。
その音を聞いてか、盛り上がっていた布団がのそのそと動く。間の抜けた欠伸とともに身を起こした重金属オスミニウムの少女のルビーに、フェニクスの姿が映った。白磁の肌が柔和に笑む。
「遅かったね」
おかえり、と言う彼女の頭を撫でる。エレアの髪は絹糸のように滑らかだった。エレアはそのまま、フェニクスに身体に体重を預け、背に手を回してくる。フェニクスもエレアの小さな身体を強く抱きしめた。
フラッシュバックする光景。
14年前、寒々とした空気の中で遠ざかる少女の―――。
腕の中でエレアが身を捩る。恐る恐るエレアが顔を上げ、心配そうにルビーの光が揺れた。エレアは人間の感情に敏感すぎる。彼女は意図的に読むのは避けているが、強い感情はどうしようもなく頭の中に流入してくるらしい。なんでもないよ、と言葉で注げ、エレアの白無垢の頬に自分の頬を合わせた。
愛とはなんだろう? その答えを提出する術は、フェニクスには無い。
しかし、ただ1つだけ言えることはある。
フェニクス・カルナップは人間を弄ぶ悪辣なヒトだということだ。
より強く少女を身体に寄せる。顔を上げれば、黒い塊はやはり不気味な微笑をあどけなく満たしていた。
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