ソードアート・オンライン〜Another story〜
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GGO編
第170話 過去の闇
――今日は本当に色々とあった。
とても、この様に一言では現せられない程、濃密な時間だったと思える。あの世界ならまだしも、この世界……、現実の世界でそんな時が来るとは思えなかった。
詩乃は、自身が暮らしているアパートに着き、ゆっくりと、コンクリートの階段を上る。2Fに着いて、階段から2つめのドアが、詩乃が一人で暮らすアパートの部屋だ。そして、スカートのポケットから鍵を取り出し、旧式の電子錠に差し込んだ。そして、そこ後小さなパネルから四桁の暗証番号を打ち込んで鍵を捻る。
すると、“がちん”と言う金属音が重く響く。
この暗証番号も鍵も、新たに変えた鍵、暗証番号だ。以前、トモダチ、と思っていたあいつらが使っていた番号と鍵は、あの事件以来即変えたから。また、覚え直すのには、多少面倒だったが状況を考えたら仕方がない。
詩乃はそのまま、施錠確認のアラームを聞きながら、無声音で『ただいま』と呟く。勿論、応じる人はいない。もう、あの時の様な想いは嫌だから、これで良いんだ。
――……1人で。
「っ……」
胸にチクリと何か、針の様なモノが突き刺さった気がした。そして、無意識にそっと視線を下ろし、自分の手を見た。もう、何時以来……だろうか。
誰かに手をつないでもらった事、強く引っ張ってもらった事など。
ずっと、もう自分以外は敵。この街の人間の殆どが敵だと言い聞かせてきた。そして、これまでも、これからもこれで良い。そうずっとと思ってきたのに。
――だけど、今日は何でだろう?
そう思えば思う程、小さいがはっきりと、何かが痛む。
「いやっ……」
詩乃は、自分の身体をそっと両腕で抱いた。否定したい気持ちとこの変な痛みが入り混じってしまっている。もう、二度と後悔しない為に、あの時の様な事にならない様に、と心に刻んだんだ。
だから……。
詩乃は、暫く身体を抱き、痛みと震えを抑える様にした後、ゆっくりと動きスーパーで買ってきた野菜等を冷蔵庫へ収めた。その後、通学鞄を置き、白のマフラーをほどく。コートを脱いでハンガーにかけ、マフラーと共にクローゼットの中へと収納した。
そして、自身の制服にも手をかけ、スカーフを引き抜き、左脇のジッパーも下ろす。
「……」
丁度その時、自身のライティングデスクに視線を向けた。そこに備え付けられている鏡で自分の姿を見る。
今日は確かに色々とあった。
だけど、その中でもあの遠藤達の要求を、脅しを正面から立ち向かえたこと、それが囁かだが、自信につながってきたのだ。確かに助けてくれたと言う事も勿論あるし、感謝もしている。
……その感謝の言葉を、心を伝えきれなかった事が気がかりだけど、間違いなく少し、少しは前に進めたと思う。
そして、2日前。
新川が言っていた様に、ベヒモスを倒せた事、かつてまみえた中でも間違いなく上位に位置する強者を死闘の末に撃破する事が出来た事。
……その後の妙なイレギュラーは置いといたとしても、その一際強い火力で心を鍛えてくれた様な気がした。
あのベヒモスと言う男は、パーティー戦では殆ど無敵と言われていたらしい。これも新川の情報だ。……だが、自分の中で最強の二文字を兼ね備えているのはあの男だけだ。
でも、それでも確かに、彼の圧力、胆力は凄まじかった。
何度も脳裏に、あの所属していたスコードロンの皆と同じように蜂の巣にされ、死を覚悟したか判らない。でも、最後には勝利を力ずくでもぎ取ったのだ。
――だから……、もしかしたら。
詩乃の脳裏に浮かぶ。今なら、あの記憶と正面から向き合う事ができるかもしれない。そして、先ほどからまだ胸の奥に燻り続けているこの何かとも真剣に向き合えるかもしれない。
詩乃はそう思うと、じっとデスクの引出しを睨み続けた。
そして、そのまま睨み続ける事数十秒。足早にデスクに駆け寄ると、数回、深呼吸をして、背骨のあたりを這い回る怯えを自身の外へ追いやり、意を決する。引出しを引っ張り出し、その中にあるモノを確認した。
引出しの中に入っているのは、数点の筆記用具を小分けにした小さな収納ボックス。そして、いっぱいにまで引出しを引っ張り出すと、それは見えてきた。
鈍くブラックに輝く、小さな――おもちゃ。
それは、プラスチック製のモデルガンだ。
だが、作りは非常に精緻で、細かいヘアライン仕上げの施された表面などは金属にしか見えない。これは、あのBoB本選に進出した者に与えられる参加賞。
届いた当初は、箱に収められており大丈夫だったが、開封する決意を固めるのに時間を要した。
そして、中身を取り出したと同時に嘔吐してしまったのだ。記憶の奥へと押し込める様に、このモデルガンも机の引出し奥へと押しやったのだ。
――だけど、あの時とは違う。
この銃、もしくはGGO内でアイテムや賞金にするか、選択する事が出来た。だが、詩乃は合えて、現実世界で銃を求めたのだ。荒療治の効果を確認する為に、いつかは必ず現実世界で、触る必要が出てくるから。
詩乃は震える手で、そのモデルガンのグリップに触れ、握り持ち上げる。
流石は、GGOでの参加賞。おもちゃとは言え、プラスチックとは言え、重量感が備わっている重い手応え。
そして、何よりもこの冷たい部屋の冷気を吸っているのか、凍る様に冷たい。
この銃の名前は《プロキオンSL》。
現実世界に存在するコピー品ではなく、ガンゲイル・オンラインに存在する光学銃の1つだ。そう、現実には存在しないたかがおもちゃ。
――大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ……、だ……。
誌乃はこの時、グリップを握った掌から体温が奪われていく錯覚に見舞われた。そして、目に見えない無数の鎖が銃から生まれ、自分自身を縛り上げていく。
――なに、これは? だ、だれ……? だれの?
そして、握っている銃はやがて熱を持った。
まるで生きているかの様に熱をもち、冷や汗で湿った詩乃の手にその生暖かさが伝わる。伝わると同時に、詩乃は誰か他人の気配を感じた。……今日突然背後に感じた様なそんなモノじゃない。
ドス黒い、何かを感じたのだ。
それを認識するやいなや、詩乃はもはや鼓動は抑え様もなく早まってしまう。まるで、身体中に蛇がまとわりつき、身体の中を駆けずり回っているかの様に感じる。立つ事なんて、もうできない。足に感覚が無い。
だけど、詩乃はその手の中にある黒い銃だけは離すことが出来なかった。耳鳴りが始まり、そして甲高い絶叫へと変わる。幼い少女の純粋な恐怖にまみれた叫び声と共に……。
――だれの、ひめい? それは……わたし。
自分自身だと認識した瞬間、脳裏にフラッシュバックした。
それは、誌乃がまだ幼かったあの日の出来事。
あの悪夢の記憶。
詩乃は父親を知らない。
それは、記憶がない、と言う事ではなく、文字通り全く知らないのだ。父親については、顔写真や映像すら一切無い。この現代社会、思い出を残す為の道具は無数にあるのだが、それでも何一つ、一切残っていなかった。その原因は、彼女が僅か2歳の頃に起こった交通事故にあった。
事故が起きたのはとある県境の山奥。
斜面に沿って伸びる片側一車線の旧道で悲劇は起きた。もう深夜の時間帯、詩乃の家族が乗車していた乗用車に1台のトラックが衝突した。それは、状況証拠、現場に残された痕跡から、カーブを曲がりきれずに対向車線に膨らんできたトラックが原因だと断定された。が、本当の真相はもう明らかにはできない。何故なら、トラックの運転手は事故を起こした直後、フロントガラスを突き破って路面に投げ出されてほぼ即死をしてしまったからだ。
だが、詩乃の家族はもっと悲惨なモノだった。
父親は意識不明の重症でありながらも、即死には至らなかった。母親は、脚の単純骨折、詩乃はチャイルドシートに守られて無傷。
運転手の心理として、咄嗟に起こった事故の時。反射的に己の身を守ろうとする為、比較的助手席の方が死亡率が高い。だが、父親は最後に何かを思ったのだろうか、或いはただの偶然なのだろうか、今となってはもう誰にも判らないことだが、結果的に母親と娘は無事で、自分だけが重症になったのだ。
その後も不運は続いた。
助け出されたのはその事故の更に6時間後だった。その事故の衝撃で端末類が全て破損したからだ。幼い詩乃は勿論、母親も脚の骨折のせいで動けない。だから、まだ生きている筈であろう父親を黙って見ている事しか出来なかったのだ
その日を境に母親は変わった。
いや、少しだけ心の奥まった部分が壊れてしまった。父親と知り合う以前の10代の頃にまで、巻き戻ってしまったのだ。それまでの父親との思い出の品や遺品の全てを処分し、一切思い出を語ろうともしなかった。ただ、ひたすらに平穏と静寂のみを欲する、鄙の少女の如き生活を送るようになったのだ。
だが、幸いにもそれでも詩乃に対する愛情までも失ってしまった訳ではない。
その事故の後も変わらず詩乃を愛してくれた。
だけど、母親は常に、儚く傷つきやすい少女のような姿。詩乃は自分がしっかりしていなければと思うようになり、母親を守らなければと思うようになったのだ。
時には押し売り、時には悪質な電話の対応。
実家に帰り、祖父母達が外出している間、できる事、全部詩乃はやった。この時もずっと思うのは母親を守らなければならないと言う使命感だった。
だから、多分必然だったのだと、詩乃は思った。
――あの事件が起きたのは。
それは、ある日の土曜日の午後。
詩乃と母親は、連れ立って近所の小さな郵便局に出かけたのだ。客は自分達2人以外はひとりもいなかった。母親が窓口に書類を出し、手続きをしている際、詩乃は局内に備え付けられているベンチに腰をかけ、自分の楽しみの1つである読書をしていた。その時、何を読んでいたのかは、今でも思い出せない。
そして、それは突然やって来た。
ドアが鳴る音がして、顔を上げると、ひとりの男が入ってくるのが見えた。別に郵便局なのだから、と気にしていなかったけれど、何か目が離せなかった。その男は、灰色っぽい服装で、片手に大きなボストンバックを下げていたやせた中年男性。局内をぐるりと見渡した後、突如窓口で手続きをしていた詩乃の母親の右腕を男はいきなり掴み、そのまま後ろに引き倒した。いきなりの事で、母親は声も出せずそのまま倒れ込み、ショックのあまり、目を見開いて凍りついてしまった。
突如襲われた理不尽な暴力。
詩乃は当然母親を守らなければ、と声を上げようとしたのだが、男の方が早かった。男が取り出したのは、黒く光る何か。
「この鞄に金を入れろ!!」
――……コノカバンにカネをイレロ。
一体何を言っているのか、周囲の人、即ち職員の誰1人としてこの時は理解出来なかった。だが、詩乃は違う。
――ピストル? おもちゃ?……いや、本物!? 強盗っ!!
詩乃は、普段から沢山の本を読んでいる。
この手の話も多数読んでいたからこそ、この場の誰よりも早く順応し、状況を理解する事が出来たのだ。それでも、驚きのあまり、脚が竦んでしまったのは幼い少女であれば仕方がないだろう。
そして、職員達もコンマ数秒後にはっきりと理解した。
その血走らせた目、不自然に乱れている動悸。そして、向けられている圧倒的な暴力の象徴である凶器。それが、冗談の類ではない事は、その顔に、眼に、凄まじい凶兆として現れていたのだ。
「両手を机の上に出せ! 警報ボタンを押すな! お前らも動くな!!」
拳銃を片手に機関銃の如きに早口で要求を続ける。
忙しなく拳銃を動かし、奥にいた職員達の牽制を続けていた。
この時、詩乃は必死にどうすればいいのかを考えていた。
――……母親を助けるのにはどうすれば良い? 助けを呼ぶ? でも、母親は倒れてしまっていて動けない。
誌乃自身は、母親を守らなければならないと言う使命感が強く出ている。それ故に、そんな母親を残して行く事は決して出来ない。
「早く金を入れろ! あるだけ全部だ! 早くしろ!!」
男の要求のままに、男性職員が顔をこわばらせながらも、右手で5cm程の厚さの札束を差し出したその時。“どぉんっ!”と言う音が、閉ざされた局内に響き渡った。
音がなった時、まるで、空気が一瞬膨らんだ様な気がした。
両耳がジンと痺れ、それが先ほどの高い破裂音のせいなのだと気づくのには時間がかかった。ころころ……と、詩乃の足元に転がってきたのは、金色の細い金属の筒。そして、次に見たのは目を丸くさせ、胸を両手で押さえている男性職員。その後1秒もしない内に、バランスを崩し倒れたのだ。
「ボタンを押すなといっただろうがぁ!!」
男は明らかに異常だと言う事は、もう皆が判っただろう。如何に男性職員とて、男だとしても命が惜しい。
武勇伝を、と思い行動をできるのは、フィクションの中だけだ、と思える程に。
銃を突きつけられた状態で、逆らうなんて事は選択肢の中で排除し、いわれるがままに札束を差し出したのだが、撃たれてしまったのだ。だから次も撃たないとは限らない。そう例え、要求を聞いたとしても……。
「おい! オマエだ、こっちに来て金を詰めろ!!」
男が銃を向けた先には女性局員が固まって立ち尽くしていた。
当然だろう。……目の前で同僚が撃たれ、そして血を流し倒れているのだ。非現実的な光景。異常な光景を連続で目の当たりにして、脳が完全に麻痺し、身体に命令を下す事ができなくなってしまったから。
「早くしろ! 早くしねぇともう1人撃つぞ! 撃つぞォォォ!!!!」
絶叫しながら拳銃を振り回す。
狂人の凶器を向けられた先にいたのは、倒れて動けない詩乃の母親にだった。その光景を見た瞬間、詩乃の意識はたった1つの行動理念だけを意識した。
――わたしが、お母さんと守らなきゃ!
幼児期からずっと、常にそう思い続けてきた詩乃の信念。大切な母親。大好きな母親。儚い少女の様に震えている母親を守らなければならない。意識の全てがその行動を示し、そして身体を動かしたのだ。
「あぁぁ!?」
男は驚愕の声を上げた。
なにが起こった?
男は理解出来ない光景に戸惑いを隠せられなかった。この場で一番小さい幼子が拳銃に掴みかかってきたのだ。無害だと踏んでいた筈なのに、まさかの抵抗に驚き、そして怒り狂った様に詩乃を振り回し、叩きつける様に投げた。
詩乃は、カウンターに背中から叩きつけられ、そして乳歯が2本程抜け、口の中に血の香りが充満した。……が、詩乃は 全く気にしてなかった。興奮した事で、アドレナリンが分泌され、痛みの事など考えられなくしていた。
見ているのはただ一点。
目の前に滑り落ちた黒い拳銃。
それを無我夢中で拾い上げた。幼い彼女にとってその拳銃は重かった。ずしりと両腕に響く金属の重み。だが、持てない事はない。そして、小説、テレビの中でも見ている。それの撃ち方。そして、これを使えば恐ろしい男を止める事ができる。
その途端、奇声をあげながら男が篠に飛びかかり、拳銃から詩乃の手をもぎ離そうとするかの様に、自分の両手で詩乃の両手首をきつく握った。
その行動が本当に良かったのかと言う事は詩乃には判らない。
だが、結果的に、正面から銃と手首を握ったから、丁度銃口を男自身に向けられている状態。向けられた拳銃の事、忘れられる筈がない。
1930年代、つまり90年以上も昔に、ソ連陸軍が《トカレフ・TT33》と言う拳銃を正式に採用し、やがて中国がコピー生産して《五十四式・黒星》と称した。
それが、あの銃の名前。
ぬぐい去る事が出来ない黒く光る悪夢の兵器だ。
詩乃は、握られた時、奪われると思った。だから、引き金を絞ってしまったのだ。男自身、もうすでに発砲しているが、そもそもこの銃には安全装置の無い拳銃だから、と言う理由もあったかもしれない。
引き金を絞った瞬間、強烈な衝撃が両手から肘、肩へと伝わった。ちゃんとした構えから、発砲しなければ脱臼したりする可能性がある。反動の衝撃は、男が強く銃身を握っていたからか、そのエネルギーは分散され、詩乃には比較的に低衝撃で済んだ。
それでも、幼子には強すぎる衝撃であったから、カウンターにまた、肩を打ち付けていた。
そして、それよりも再びあの破裂音が局内に響いたのだ。
「あ……あぁぁぁぁ!!」
高い声を漏らしながら両手で腹を押さえているのは、あの男だ。どうやら、静脈を傷つけたのか、流れ出る血の量が多く、赤黒い円が男の服にできており、傷口を抑えたから、その手にも多量の血が着き、流れ出ていた。
だが、まだ男は動けている。
これは後にわかった事なのだが、この男は覚醒剤も使用していたから、という理由もあるだろう。
「がぁぁぁぁ!!!」
奇声をあげながら、詩乃に迫る。詩乃にすれば、恐ろしい化物が襲いかかってきている。そう言う風にしか見えない。でも、詩乃の頭にあるのは、恐怖よりも、何よりも……。
――お母さんを守らなきゃ!!
それだけだった。
響くのは2発目の銃声。
反動の衝撃を、今度は誌乃1人で受けてしまった為、肘・肩の両方に激痛が走ったが、それも気にしていられない。男は、倒れつつもこちらを凝視し、睨みをきかせているからだ。そして、あの耳をつんざく様な奇声も。
「ぁぁぁぁぁ!」
――……今度こそ、止めなきゃ。お母さんを守るために。
そして、3発目の銃声。
まるで、千切れる様な痛みの筈だった。
それをまるで無視し、仰向けのままで奇声を上げ続けている男の方へと進んだ。
1歩、2歩。進んだところで、詩乃は今度は確実に狙った。
男に命中したのは、最初は腹部、次は鎖骨あたり。動きを止めるなら、身体の真ん中だ。詩乃は、そのまま3発目の引き金を絞った。
そこで、詩乃の身体は耐え切れなくなり、右肩を脱臼。左肩も殆ど脱臼しかけた。撃つ前に少し進んだ為、詩乃の身体を支えるものは背後にはなかった為、まるで弾かれる様にもんどりうって倒れる。
それでも、その銃だけは離さなかった。
母親を守るために、必要な唯一の武器だったから。あの男が また、また襲って来るかもしれないから。
詩乃のその心配は杞憂となるのだった。
男はまるで、糸が切れた人形の様に身体をぐにゃりと歪ませ、重量のある頭から、ごとり、と音を立てながら床に落とした。……男は、頭の中心を。
丁度額を打ち抜かれ、絶命していたのだ。
この瞬間、詩乃に浮かんだのは守ったと言う実感だった。
男は倒れて動かない。
死んだ、なんて当初は思わなかった。だけど、すぐ思い知らされる事になるのだ。守るべき母親の顔を見た瞬間、当初は男に向けられていた恐怖の表情が、自分自身に向けられているのだから。
――その後詩乃の人生は更に悪夢が待っていた。
マスコミ各社の自主規制により、事件の詳細がそのまま報道されることは回避された……が。事件が起きた小さな郵便局、そして小さな街。委細漏らさず、だった筈だが 様々な御鰭のついた噂となって、燎原の火の如く街中を駆け巡った。
詩乃は、小学校では殺人者を意味する様々な派生語を浴びせられ、中学校では全て無視され続けた。
だが詩乃にとって悪夢はそこではなかった。元々、周囲の視線は大した問題ではなく、集団に属することへの興味が非常に薄かった事もある。
母親をずっと見てきたからこそ、だったと言えるだろう。
真の悪夢は、事件が詩乃の心の中に残していった爪痕にあった。
何年経とうとも、一向に癒える事なく苦しめ続けた。あの時の顔と手に残る重い感触が延々と。
だが転機はあった。
新川と言う新たな街で出来た友達の紹介で、GGOと言う世界を知った事から。
そして、現代。
「ぁぁぁぁぁ……!!」
詩乃は、喉の奥から、細い叫び声を絞り出しながら、両手で握ったあのモデルガン、プロキオンSLを凝視続けた。
そして、あの時の光景がフラッシュバックする。
自身の手に収まっている黒い銃。そして、浴びている返り血が手にまで付着し、ながれている。
何度瞬きをしても、それは消えない。幻影じゃない、とさえ思える程、現実感が出ていた。
「ぁ……ぁ……」
息が全くできず、呼吸困難に陥る。
喉の奥に舌が張り付いてしまい、呼吸ができなくなったからだ。そして、胃が激しく収縮し、吐き気が襲ってくる。
詩乃は何とか、《プロキオンSL》を全精神力を使って床に放り投げると同時に、口を押さえながらキッチンへと走り、ユニットバス内に駆け込む。
便器の蓋を跳ね上げ屈み込むと同時に、熱い液体が胃の底から沸き起こった。
喉が焼ける様に痛いが構うことなく、何度も何度も、体内にあるもの全てを排出するかのように嘔吐した。やがて、胃の収縮もなくなった頃、詩乃の精神力も無くなり、力尽きてしまった。何とか、片づけをし、立ち上がり、メガネを外して、洗面台で冷たい水を顔にかけた。
何度も、何度も。
そして、最後に口の中に僅かに残っている胃酸を洗い流すために、うがいを数回程すると、清潔なタオルで顔を拭った。
全てを終えた後、詩乃はユニットバス内の鏡を見て、思う。
――……ひどい、かお。
涙で赤くなった目。頬がコケてしまったかのように窪んでいる。目の下にはクマも出来ている様だ。そのまま……、精根尽き果ててベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
あの銃は、見ない様にしながらタオルで隠し、再び引出しの奥へと放り込んで。
「だれか……たすけて……、たすけて……、だれか……」
詩乃は小倉で同じ事を何度も繰り返し続けた。そして、暗く沈む意識の底で、思い出した。
――きょう、にかいめ……。
詩乃はそう思うと情けなく感じてしまう。
最初は遠藤のあの手を見て……、吐き気に見舞われた。目の前が暗くなり、胃が激しく収縮して立つ事もままらない。どうして、こんなにも自分は弱いのだろうか。
あの時、あの強敵を倒すことが出来て、少しは強くなったと、少しくらいは変われたと思ったのに。
自分は、何も変わらない。
弱く、蹲る事しか出来ない、こうやって、倒れ込む事しか出来ないんだ。
――あ、れ?……きょうは、どうやって、いえにまでかえってこれた?
混濁する意識の中で、詩乃はそう思っていた。今日、どうやって家にまで帰ってきた?……今日、あの連中達に絡まれて、また気を失いそうになって、倒れてしまって。
――わたしは……?
必死に、意識の底、記憶の中を思い返す。
まだ、あの悪夢がながれている中、それは苦痛だったけれど、それでも。
そんな時、だった。
――無理をするな。
「っ!!」
それは一体誰の声、だろうか。
詩乃は疲れ果て、うつ伏せに倒れて目を瞑っていたが、意識が覚醒したかの様に、目を見開いた。
――……心に巣食った痛みは、簡単に取れるモノじゃない。
また、声が聞こえた気がした。
「ぁ……」
詩乃は、ゆっくりと、身体を回転、寝返りをし、うつ伏せから、仰向けにし天井を見た。そう、そうだった。
『この子、気分が悪い様だ。……悪いけど、ソコ、のいてくれるか?』
詩乃はゆっくりと、手を伸ばした。そう、あの時この手を掴んでくれた人がいたんだ。……血塗られた人殺しの手を、握ってくれた人が。
『悪かった。いきなり手なんか握って』
詩乃は、ゆっくりと左右に首を振った。
――そんな事、ない。だって、だって……たすけて、たすけてくれたから。
詩乃はひと筋の涙を流す。そして、同時に後悔が生まれた。
「……なん、で、なんで、わたしは、おれいをちゃんとできなかったんだろう」
そう、あの人は手を握ってくれた。この人殺しの手を。痛い程冷たいこの手を握ってくれた人だったのに。
「――っ」
涙は流れ続ける。
また、また会える事はできるだろうか。今度はちゃんとお礼を言えるだろうか?
あの時、深く考えもしなかった。……いや、考える事が出来なかったんだ。
「……たすけて」
詩乃は、必死に思い出す。
そう、確かあの人と一緒にいた男の人が、名前を読んでいた筈だった。
「……は、やと」
たった一日、それも数十分間だけだった。
街ゆく人達とすれ違う、信号待ちで、公共機関で。その位の時間を共有しただけだった。
でも、この時、詩乃は彼に助けを求めていた。
精神状態が異常だった為、かもしれないけれど。はっきりと、名前も思い出し、その名前を呼んだのだった。
だが、彼に縋ったのも数分間だけだ。
徐々にではあるが、精神を立て直すことが出来てきた。今自分が欲しいモノは一体何なのか。それも思い出す事が出来たから。
――強くなりたい。
それが詩乃にあった願望。
あの悪夢の事件。
でも、あの状況では、あの行動に出るのが当然だ、と言えるだけの強さが欲しかった。
――確かに、彼の名前を呼び、縋ってしまってけれど。
――確かに、彼には助けてもらったけれど。
……自分が抱えている重さを彼は知らない。
――なら、全てを知った上でも、彼はこの手を握ってくれるのだろうか?
考えるまでもない。そんな事、判りきっていたから。
人殺しの手。それを知ったら、握ろうとする人なんて誰もいない。今までもそうだったから。
全てをわかってくれた上で、手を差し出してくれて、掴んでくれる。
そんなモノは幻想だ。
弱い心を持っていたら、何にでも縋ってしまう。だから、強さが欲しかったんだ。そう、戦場で容赦なく敵を倒していく女兵士の様な力。
詩乃は、ベッドに横になりながらも、鏡に映った姿。……はっきりと今の自分の姿を見た。少々痩せすぎていて、目ばかりが大きく見える。鼻は小さく、唇も厚みが欠ける。
あの世界の彼女、《シノン》とは比べるべくもない。
唯一同じなのは、体格と両脇で細く結わえたショートという髪型だけ。現実の自分は栄養の足りてない猫の様な姿。……だが、シノンは、獰猛な山猫だ。
あの世界では、発作など起こらず、戦い続ける事ができる。いつか、必ずその強さは自分のもとに還ってくる。
――誰も助けてくれはしない。自分を助けるのは自分自身だけだ。
心の中で、本当にそれでいいのか?と聞き続けている弱気な声を、現実でのその声を撥ね退ける様に心の中で叫ぶ。
自分よりも強いガンナー達は、あの世界にあと21人も君臨している。
そして、その頂点があの男だ。
その全てを打ち砕き、冥界へと送り込み、ただひとりの最強者として、荒野に君臨したその時こそ、詩乃はシノンと完全に一体化し、この世界においても、本当の強さを手に入れられるはずだ。
現実でのあの出来事などは、その時に倒してきた強者達の屍の下に埋没されて、二度と浮かび上がってくる事はない。二度と、記憶に浮かぶことなんかない。
詩乃は、乱れていた制服の上着を一気に脱ぎ捨てる。スカートのホックもハズして、足から脱ぎ去り、まとめて床に放り投げる。
最後は、現実世界での防具でもある淡い水色の眼鏡を外し、デスクの端にそっと置いた。アミュスフィアを頭につけ、その機械が立ち上がるのを感じ取ると、掠れた様な声であの言葉を呟く。
でも、呟いた先には強い自分が待っていてくれる筈だ。
いつか、この世界にも来てくれる強い自分が……。
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