月に咲く桔梗
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第3話
三
薔薇の咲き乱れる花畑は、遠くから眺めればたいそう華やかなものだが、一歩でも足を踏み入れてしまえばその棘にうんざりさせられてしまう。結月はそんな薔薇畑に両手を広げて頭から飛び込んだ、幼気な少女であった。
結月は父親譲りの剣道馬鹿であった。受験勉強を始めるまでは、ずっと剣道漬けの生活を送っていて、大会では常に好成績を収めていた。彼女が最も得意とする『面抜き胴』は多くの対戦相手から畏敬の対象とされ、相手の神経をすり減らす『出ばな小手』には、攻略の難しさから対戦校のコーチも歯が欠けるほど歯ぎしりをした。そして、このような強さ、隙のなさ、的確な技選びをする結月に多くの高校が目を付けた。大会があるごとに「うちはスポーツ推薦があるよ」などと甘い言葉で勧誘された。中には「あの子は名門のK高校に行きたがっている」といった根も葉もない噂が流れたりして、無駄な期待だけが膨らむ学校もあったという。それほど、どの高校も彼女を欲しがった。無論、大会で中学生を引率する月姫学園女子剣道部の高校生もそうだった。
だが、彼女たちは実際のところ、すっかりあきらめていた。「入ってきたら奇跡だよねー」みたいな構え方だった。理由は簡単である。『それほど強くない』し、なにより『進学校だから』だった。
月姫学園にはスポーツ推薦のような「心技体も重視する幅広い視野の教育」といかにも聞こえの良い、だが本当は「とにかく実績を残して金を稼ぎたい」という商売根性むき出しの教育への興味がなかった。学校とは勉強をする場所であって、学園の名声のために偏った教育を生徒に施すことに歴代学園長は嫌悪感を抱いてきたのだ。
この教育方針は部活動にも大きく影響した。将棋部や囲碁部といった頭脳系文化部がいつも潤う一方で、運動部に入部する『禁固三年』の生徒に結月のような大会優勝者がいることはめったになかった。
考えてみてほしい。結月のような運動大好き少年少女である。成績のことを考えると月姫には手が届かないだろうし、たとえ秀才であっても月姫よりも大会成績の良い学校を選ぶであろう。何か特別なことがない限り、ありえないのだ。
だから、「あの剣豪片山結月が月姫学園高等部に入ってきた」という情報を女剣の部長戸塚沙織が耳にした時、ありえないといった顔で信用しようとしなかった。だが、やはり期待はしていたのだろう。女剣のブースの前を通る生徒ひとりひとりを、鬼の形相とも揶揄されるほど強ばった顔で凝視していると、小柄だが細い腕にしなやかな筋肉を装備した怪物が、こちらの方へ歩いてくるのが見えたのだ。噂は本当だったと叫んで、椅子から跳ね上がって彼女に駆け寄るのに無駄な動作はなかった。こうして女剣は結月というジョーカーを手に入れたのであった。
かわいそうなことに、このことが結月に余計な自信を与えてしまったのである。中三で大会に優勝し、念願かなって絶望的とまで言われた第一志望に合格し、さらには部活からも熱烈な歓迎を受ける。ここ最近何かに負けたためしがなかった。だから、固く握りしめてくる沙織の手を振りほどいて駆けていった男子剣道部のブースで、お目当ての優大が剣道部をとっくにやめていたという現実を突き付けられた時、意識のヒューズが飛んでしまったのだ。
小学生の時から知っているとは言え、優大は先輩である。ましてや『懲役六年』の生徒であったから校舎も違い、両校舎合わせて二千人以上いる生徒の中から特定の人物を見つけるのはそうそう上手くいかない、というのは十分承知していた。女剣の先輩を頼ろうとしたこともあったが、なにせ女子しかいない部活であるから、練習のたびにからかわれるのかと思うと、どうしても気が進まなかった。時間がたつにつれて、ますます優大との再会の手がかりが失われていった。
ところが、神様は実に気まぐれなお方である。
想像以上の学習進度のせいでたまりにたまったストレスから、結月は悶々とした日々を送っていた。人付き合いでは、運動大好き少女特有の明るさからクラスの女子からの人気も高く、天真爛漫な可愛さもあって男子から言い寄られることも多かった。もちろん、優大のことをあきらめることが出来なかったから素気無く断っていたのだが。
中間テストの認めがたい成績に愕然とし、放心状態で席に座ってた結月に一人の少女が声をかけた。
「かたやまちゃあーん。一緒にご飯食べよー」
両手に購買で買ってきたパンとジュースを持っているのは、同じクラスの高山優佳である。
「いいよー」
よしっとつぶやいて、結月は両手で頬をピシッと叩く。昼食を机に広げながら
「どうせテストの結果、悪かったんでしょ」
と、優佳は意地悪そうに尋ね、前の席の椅子を拝借した。
「いやー、これは墨塗りものだなあ」
「気になる。ちょっとだけ見せて」
「ちょっとだけ」と催促する優佳に結月は
「絶対に嫌だ」
と笑って、まだ未開封の優佳のジュースを取り上げた。
食事の間、二人はたわいのない話に花を咲かせていた。クラスの男子がうざいとか女々しいとか、ドラマに出てくる俳優がかっこいいとか興味ないとか、そんなようなものである。二人に共通した趣味はなかったのだが、優佳の兄が剣道をやっていたらしく、「道着って臭くない?」というマイナーな話題から二人は仲良くなった。
昼食も終わり、結月が弁当箱を唐草模様の風呂敷で包んでいる時、飲み干したジュースのストローを名残惜しそうに噛みながら
「そういえばさ、結月はなんで月姫を選んだの」
と、優佳が問いかけた。結月はきれいな真結びを風呂敷にあしらって
「んー、当ててみ?」
と不敵な笑みを浮かべる。
「そうだなあ」
優佳は右手で頬をさすりながら少し黙ると、土曜の夜九時にでもやっていそうな名推理をつらつらと述べはじめた。以下、その内容である。
結月の頭が良くないことは十分承知である。かなりギリギリの点数で受かったに違いない。しかも、月姫の手厳しい教育は知っているはずだから、普通なら第一志望として目指さないだろう。
ここで、「ギリギリでもいいから受かりたい」と思った動機について考察したい。
前述のとおり、結月優れた教育を目的としてこの学校を選んだわけではない。ではほかにどんな動機があるだろうか。考え得る一つは「剣道部にどうしても入りたかったから」である。なるほど確かに、結月は剣道大好き少女であるから、この推測は正しいかもしれない。だが、この月姫の女子剣道部はお世辞にも強いとは言えない。個人戦で目立った者がいるとすれば、始業式などで発表されているはずである。
これら数ある説の中で最も有力なものとして、「どうしても会いたい人がいた」説である。これを更に二つに場合分けしたものを考える。
一つは「好きな同級生が月姫を目指していたから」であるが、これが成立するとすれば、結月はすでにその生徒に何らかのアプローチをかけているはずである。せっかく受かったのだから何としてでもモノにしたいはずである。だが、それは現実に矛盾し、帰謬法により成立しないことが分かる。
もう一つは「好きな先輩が月姫にいたから」である。もしそうなら、剣道大好き少女の好きな先輩と言えば、憧れの先輩に他ならないだろう。つまり、男子剣道部に所属している人物ではないだろうか――――。
「はい、そこまで!」
最初は余裕ぶっていた結月も、話の後半になると顔をひきつらせ、優佳の名推理を途中で制止した。優佳はにやりと笑う。
「どんぴしゃだな?」
「良くそこまで分かるね」
「宮部みゆきの本を読んでますから」
めいっぱいの勝ち誇った顔にため息をつく結月を見て、優佳は身を乗り出した。
「で、どんな人?」
ここまで推理されてしまえば仕方がない。まあ、優佳ならいいか。そんな風に思って、周りに他の生徒がいないのを確認した結月は、これまでの苦労について話した。
優佳は結月の話を親身になって聞いた。結月が感情的になった時には相槌を大きくしたが、決して憧れの先輩について非難をしたりはしなかった。だが、話のところどころで気になる点がいくつかあったようで、眉間のしわが次第に深くなっていった。
散々話し終えた結月は、自分の体重が数グラム程度軽くなった気がしていた。久しぶりの解放感に浸っていると、優佳が眉の間にすっかりしわを作って質問してきた。
「その先輩とかたやまちゃんは、どこの道場に通っていたの」
「警察署の道場だけど」
そう答える結月に優佳はやけに冷静な顔をした。身長はどれくらいかとの質問に、たぶんこれくらいと言って結月は右手を頭の上にかざす。大体一七〇センチぐらいだろうか。
「その人と同じ学年に誰かいる?」
「うん。一人だけいるけど―――」
結月はこう答えている最中、優佳が自分を指さしているのに気付いた。
「そいつ、たぶんうちの兄だ」
優佳の答えに口をあんぐりとあけてしまった。信じられない。結月は開いた口を右手で覆った。
「優佳のお兄ちゃんって、ヒロさんだったの!」
周りの生徒が二人を凝視するほど叫んだとき、昼休みの終了五分前を知らせるチャイムが、あたりの空気を震わせた。
ホームルームが長引いていつもより遅い放課後、二人の少女は講堂に向かっていた。
なぜマツさんは剣道部をやめたのか。
なぜマツさんは演劇部を選んだのか。
何としてでも確かめたい。
その一心で歩みを早める結月に、優佳は駆け足でないととてもついていけなかった。
たどり着いた講堂前。開け放たれた重厚な二枚戸の内側から、味わい深い管弦楽器の優しい音色と共に、流れるような歌声が漏れている。
「すごくきれいな歌……」
そうつぶやいた結月は、吸い込まれるようにして中に足を踏み入れる。
驚嘆した。
今度披露する演目の練習中であるのだろうが、そのまま出しても平気なくらい完成度が高かった。一つ一つの動作や歌声に感情が込められている。観客席に座っている部員が、時々演者に向かってダメ出しをしていた。
道場にはない濃密で趣のある空気に包まれ、誰かになぞられたかのように背中がぞっとした。土俵がまるで違うのに、負けた気がした。
これが演劇部か。
そうつぶやいた後、舞台の上から飛んできた、勇ましく優しいあの声が結月の心を引っ掻いた。
* *
浩徳の家はこのご時世には珍しい庭付きの家である。とは言うものの、建てた当時は周囲に空き地や雑木林が多く、土地も広めにとれたのだ。通っていた小学校は一学年あたり一クラスだったのが、途中から二クラスへと変わり、今や四クラスまでに増えているという。それほどの宅地開発が進んでいたので、ささやかな緑の生える公園を除けば、月姫神社のある『わかれの森』くらいしか、もうこの辺に雑木林はない。幼いころからこの町に住んできた浩徳は思い出が消えていくさまに、渡り鳥が然るべき季節に遠くへと飛び去って行くのを見ているような、そんな侘しさを感じていた。
玄関の戸をあけると、真っ先に愛犬のエドワードが駆け寄ってくる。彼はコーギーの雄で、「さあ、なでろ、兄弟」と言わんばかりにおなかを見せつけてくる。浩徳がエドワードをわしゃわしゃと撫でリビングへ向かうと、キッチンから部活終わりの学生の食欲をそそる、香辛料のいい匂いがする。その元をたどった目線の先には、父の健が立っていた。なぜ陽気な性格が浩徳に遺伝しなかったのか、不思議になるくらい陽気な父親である。どうやら夕飯を作っていたようだ。
「おう。ヒロ、おかえり」
「ただいま。昨日は泊まりだったんだ」
「ああ。だから今日は俺が夕飯を作ってる」
「楽しみにしてるよ」
そう言って浩徳は二階の部屋に向かった。いつもより疲れたせいであろうか、二階へ上る階段がやけにきつく感じた。部屋に入ると、彼は着替えぬままベッドに飛び込んで眠ってしまった。
夕方六時、母親の美智子が仕事から帰ってきた音で浩徳は目が覚めた。彼女は海外貿易を仲介する業界では名の知れた商社に勤めている。名門私立女子校を出て一橋大学で経済学を学び、丸の内のオフィス街で現在の地位を得た、冷静沈着なキャリアウーマンである。高卒で鉄道会社に入社し、新幹線を動かすまでストレートで上り詰め、今まで東京と地方を何度も往復してきたベテランの健とは正反対であった。
変な風にしわが出来てしまったを脱いで部屋着に着替えた浩徳は、階段を下りて食卓へと向かった。
「あら、ヒロちゃん。帰っていたの」
美智子の問いに浩徳は軽くうなずいた。
テーブルには華やかな料理が並んでいる。こんな料理が週に一度は食べられるのだから、ずいぶんと豪勢なものである。元祖料理男子の夫が作る料理は家族の自慢であった。
すでに席についていた優佳が
「お兄ちゃん、片山結月って子、知ってるでしょ」
と尋ねた。浩徳は椅子に手をかけたまま、目を大きくさせている。
「うん。道場の後輩だけど」
そう話す浩徳に優佳は納得した表情で「やっぱりー」と声を上げると、学校であった出来事をべらべらと話し始めた。話を聞いた浩徳も
「じゃあ、今日見たのは間違いじゃなかったんだな」
と、しみじみと頷いていた。先輩への一途な思いを抱いた少女の話は、こうして色とりどりの食卓に花を添えたのであった。
夕食後、自室のベッドの上でくつろいでいる浩徳のもとに、顔をてからせた優佳がやってきた。手を後ろで組んでいる。こういう時は大体お願いをする時であると浩徳は知っている。どうせ優大と結月の事だろうと考えた。
「かたやまちゃんとマツさんなんだけどさあ」
読み通りだった。彼は仰向けで読んでいた漫画を投げ捨てて布団にくるまる。
「マツについては、俺にはできません」
いい返事が来ると期待してた優佳は、えっと小さく声を上げ、豆鉄砲を食らったかのようにきょとんとしている。布団の隙間から優佳の顔を覗いた浩徳が話を続ける。
「あいつ、誰とも付き合ったことないんだよ」
「それなら好都合じゃん」
「いや、そうじゃなくて」
浩徳は体を起こして
「あいつ、何度も女子に告白されてるらしいんだけど、全部断ってんだよなあ」
と、さももったいなさそうに答えた。
「えー、他に好きな人がいるとか?」
優佳もありえないという顔をしている。
「そうではないみたい。まあ、彼女作らない主義なんだろうね」
「うーん、かたやまちゃんに猛アピールさせないとなあ」
そう言って、優佳は部屋を出て行った。
「せいぜいがんばれ」
と、優佳の背中に言葉をぶつけた浩徳は、落ちてる漫画を拾い上げてその続きを読み始めた。
* *
晴れの日がやってきた。
朝からやけに目覚めがよかったので、どうしたものかと考えた浩徳は「晴れの日がやってきたからだ」と納得した。雨の日、足取り悪く学校へ行くいつもの彼とは違い、父親のような陽気さで自転車にまたがって出て行ったので、母親の美智子は今日何か特別なことでもあるのかしらと思った。
学校での彼は、自分ではうきうきしているつもりであったのだが、普段の素っ気なさもあって、クラスメートが見てもその違いはよく分からなかった。
ただ、目の奥がキラキラしている、と感じ取ったのは、隣のクラスから遊びに来た加賀野舞侑だけであった。
「なんかいいことでもあったん?」
彼女に問いかけられ、浩徳ははきはきとしながら
「久しぶりに晴れたじゃん」
と答えた。舞侑は確かにと笑いながらつぶやく。
「ヒロって晴れの日好きだねえ。雨の日は目が灰色で染まってたし」
そう言って外の澄んだ青空を浩徳と一緒に見つめた。顔は見えないが、きっと彼の目はこの青空のように澄んでいるのだろう。
「晴れると暖かいし、よく眠れる」
彼が大きな伸びをした時、舞侑と目が合った。
「でも、最近はしっかり授業受けてるらしいじゃない。クラスの女の子に聞いたよ」
「あれは、青山が隣にいるとなぜかそわそわして眠れないんだ」
へえ、と声を出した後、少しの間黙った舞侑は、周りを見て
「あの子、私どっかで見たことあるような気がする」
と小さい声で囁いた。それにつられて浩徳も小さい声になる。
「そりゃあ、高一の頃はいたしな」
「違う違う、もっと前の話」
舞侑はそういうと、浩徳の机に両手を置いて
「私が知ってるならあんたも知ってるだろうし、何か心当たりある?」
と、怪訝そうに問いかけた。
「うーん。思いつかんなあ」
と浩徳が答えると、彼女は
「あ、そう。なら良かった」
と話し、「私一限移動だから、じゃあね」と言って教室を後にした。何が良かったのだろうと浩徳は舞侑の背中を見て思った。
舞侑は女子バドミントン部の部長である。彼女の兄も別の学校ではあるがバドミントン部の主将だったので、そのことを彼女は誇らしく思っていた。現在は七月の初めにある試合、彼女らにとって最後の夏の予選に向けて練習をしている。そういった時期であったから、部全体での士気が高まっていた。
「夏に向けて練習メニュー変えた方がいいかな」
舞侑は隣でアイスを食べている横山みさきに聞いた。
「別にいいんじゃない。高二の戦力は絶好調だし、高一も選抜すれば団体戦の予選も突破できるっしょ」
「そうかなあ」
「ま、強いて言うなら足りないものを探せばいいんじゃない」
舞侑はまた考え込んでしまった。
「うーん。今のチームに足りないものって何かなあ」
これを聞いたみさきは何かひらめいたようで、おもむろに舞侑の方を向いて言った。
「うちらに足りないもの。それは『愛』だよ」
この発言に対して舞侑は、みさきに付き合ってなんかいられないという顔をして
「何言ってんだ馬鹿」
と頭を軽く小突いた。ぱちぱちと瞬きをして、みさきが話を続ける。
「あんたこの夏誰ともデートとか行かなくていいの?」
「別にいいよ。そんなもんこれからの人生でいくらでもできるわ」
「はあ……。君は! どうして! 青春の一ページをそう邪険に扱うのか!」
「君と千本ノックしているのが俺の青春だよ」
舞侑はテレビでよく見かける二枚目俳優の真似をしながら返した。二人は手をたたいて大きく笑った。
「あー、おもしろい。バド部はむしろラケットが彼氏だな。それより、練習メニューだよ!」
と元気よくみさきが言うと、それよりって、あんたが話を振ってきたんだろ、と心の中でツッコミながら、舞侑も練習ノートを開いた。
* *
図書委員会副委員長の岡田望海は、大きなガラス窓のそばで本を読んでいる彼女のことを『桔梗娘』と勝手に名づけていた。
彼女は青山美月というらしい。『禁固三年』の高校二年生で、高一の頃はほとんど図書館に訪れていなかったのに、先日あった中間テストが終わってからは毎日顔を見せている。借りる本は決まって浅田次郎で、随筆や洋書も時たま借りているようだ。
望海は実は変質者じゃないのかと思われがちだが、これも副委員長の役職に就くにあたっての努力の一環である。生徒たちの図書館利用を促進させるためにも、根強いリピーターを作らなくてはならない。生徒ひとりひとりの傾向を判断し、カウンターへ訪れた時にオススメの本をさりげなく紹介すると、利用者はその時は借りずとも「次に来た時にでも借りようかな」と、心の片隅にその本の存在をしまっておくものである。読み終えて返すとき、あるいは面白そうな本を調べているときに「そういえば」と自発的に思い出させることが大事なのだ。
利用者リストを隙間なく把握することは無理にしても、リピーターになりそうな生徒ぐらいは覚えることはできる。もっと言えば、望海の学業成績をもってすればそれぐらいはたやすいことだ。約三百人いる『懲役六年』の生徒の中でも、常にトップ集団に属していて、決しておごることのない彼女を『月姫のミネルヴァ』と呼ぶ者もいる。
そんな望海にも友人と遊びたいと思うこともあるし、小遣いだけでは手の届かないものを欲しいと思うこともある。もちろん、二人きりで話し合えるような彼氏がほしかったりもする、ごく普通の高校二年生の女の子である。ただ、買いたいものが実は数千円する洋書だったとか、語らう内容が国際情勢や政治思想についてだったりするのは、非常に望海らしい。
こうして望海はバイトをしようと決意したものの、彼女の父親は当初、一人娘の切り出した話にいい顔をしなかった。だが、彼女の目的が件のようなものであると知ると、社会勉強の一環にもなるだろうと思って態度を一変させた。
ただし、彼は望海に対して一つ条件を付けた。「自らの知識を最大限利用して出来るようなもの」というものである。要はファミレスやコンビニでのバイトは却下したのだ。もちろん、望海もそのようなバイトをするつもりは毛頭なかった。彼女は花を愛でるのが好きだったので、前々から募集の張り紙がされていた、もぎ取り坂の途中にある『モーント』で働くことにした。
花を愛でるのと実際に売るのは別である。顧客ごとに異なるシチュエーションに合わせて花束をアレンジし、それが予算内に収まるようにしなくてはならない。当初は「花を適切に扱えるようになるまでは」と花束を作らせてはもらえなかったが、勉強と同じくコツコツと働き続けていた甲斐もあって、中間テストの一週間前あたりに晴れて免許皆伝となったのである。
望海は張り切った。自分の働きを認められたことは、学業について褒められた時よりも新鮮で嬉しいものだった。
だから、最近は図書館のカウンターの仕事を他の委員に任せて、談笑が可能なブースで付箋やマーカーが花咲く図鑑をせっせと読み漁っていた。このブースは人を観察するには良い場所でもあったので、行き交う人を見てはその人に似合いそうな花を選ぶ訓練をしていた。
「俺に似合う花選んでー」
やわらかだが元気な声がして望海が振り向くと、中等部の三年間でずっと同じクラスだった優大が立っていた。
望海と優大、浩徳は同じ塾に通っている。また、もぎ取り坂を下りていく二人の姿を良く見かけていたし、優大たちも望海が花屋で働いているのを知っていた。だから、お互い久しぶりと言うわけではない。
「あ、花? えっと、松本君に似合うのは―――」
望海は花言葉のかかれた本を開き、ぎこちない手つきでページをめくっている。やっと見つけたようで、微笑みながら優大に見せた。
「このカタバミって花かなあ」
「カ、カタバミ?」
思いもよらない名前に優大は何とも微妙な顔をした。もちろん、本人は顔に出さないようにしていたが、望海には察知されてしまった。
「うん。花言葉は『輝く心』。松本君いつも周りを笑わせているから」
なるほど、まさにその通りである。だてに人間観察をしているわけではない。
「ありがと。機会があったら買いにいくよ」
道端にも咲いているよ、と声をかけることも出来ず、望海は去っていく彼の後ろ姿を見ていた。
そして、『桔梗娘』が自分と同じように優大の背中を見ているのに気付いた。
後書き
※2 時系列に矛盾が生じたため、舞侑の試合を「六月の中旬」から「八月の中旬」に変更しました(8/30)
※3 時系列に矛盾が生じたため、舞侑の試合を「六月の中旬」をもとの「七月の初め」に戻しました。この部分に関してはこれ以上の更新はありません(8/30)
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