月に咲く桔梗
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第2話
彼女の印象を一言でいえば、『可憐』であった。
きれいにすかれた黒髪は肩まで伸び、蛍光灯の光をつややかに反射させていた。前髪は桔梗をあしらったピンでとめられていて、切れ長の眉がちらりと見える。その眉の下には、輝く二つのアーモンドアイ。高く整った鼻。きゅっとして潤った唇。すっとしたフェイスライン。大和撫子とはこのことである。
学園の制服がとても似合う出で立ちに、誰もが息を飲んだ。彼女は軽く会釈をし、中森の横に立った。
「ノーチェンジ!」
突然一人の男子が立ち上がり、そう叫んだ。すかさず後ろの生徒に頭をたたかれ、教室に笑いが生まれた。
この一連の流れを見て、その編入生はおかしそうに微笑む。その破壊力たるや。破壊力たるや――――
「青山美月といいます。高一の夏までこっちにいましたが、両親の仕事の関係で今までイギリスにいました。これからよろしくお願いします」
うわ、すっげえきれいな声、と教室の誰もが思っただろう。その上品で麗しい姿と甘美な音の調べにうっとりとしない者はいなかった。もちろん、耳に詰め物をして突っ伏している一人は勘定していない。
知り合いと思われる女子が小さく手を振ると、それに気づいた美月も微笑んで手を小さく振りかえす。
「青山さんの席は一番奥の空いている席です」
中森の指示に頷き彼女が歩き出すと、それまでの沈黙を破るように教室が騒がしくなった。英語も堪能であるに違いないし、ましてや彼女がこのような美人であるから、クラスの男子たちが鼻の下を伸ばすのも無理はない。何人かは隣の女子に蹴られ、痛そうに患部をさすっている。
問題は女子からの印象である。それはもちろん、容姿声ともに好印象なのだが、それまでクラスの男子にちやほやされていたクイーンは、編入生が女子であるということを中森が告げたその瞬間から、今後の編入生への待遇について思案していた。
とりわけ気にしたのは容姿である。自分よりも劣っていればほっといても何も起こらない。むしろ、名前に『美』が入っていてこれか、などと鼻で笑ってしまうくらいだろう。だが、もし自分と肩を並べるくらいだったらどうするか。そうだとすれば自らの地位を揺るがす重大な脅威として放っては置けなくなる。何としてでも自分より下に立たせなくてはならない。まあ、取り巻きを使えば何とかなるだろう、などというところまで頭の中に湧いてきた。
だが、クイーンには大きな誤算があった。『自分よりも上の存在』がこの教室に現れるとは思わなかったのである。そして現にこの美人である。もし意地悪でもすれば「うわあ、ひがんでるやつ」などと男子から悪評を買うことは必至だろうし、従えてきた女子も皆自分の下から離れていくに違いない。ちっぽけな抵抗心とうらやましさをばきばきと噛み砕いて出した答えは、「友好関係を結んで自分の地位をさらに上げよう」というものだった。彼女にはぜひとも経済学部国際政治学科に入学してもらいたいものだ。
さて、聴いていた曲が終わった浩徳は場の空気が高揚しているのを察知して、机に張り付いてぺしゃんこになっていた頬をさすりながら顔を上げた。
瞬間、固まってしまった。
無理はないだろう。明るさに慣れない目を細めながら横を見れば、見知らぬ人物、しかも、言葉では言い表せないとはこのことか、と思うほどの美人が隣の席に座っているのだから。
だが浩徳は彼女が誰かを考える前に、自分が本当に『高山浩徳』であるかどうか確かめようとした。というのも、前日の塾の授業で量子力学の小話を聞いた際、不確定性原理についてやけに興味を持ったからである。俺は今ブラジルにでもいるのか? などと馬鹿なことを考えながら、窓の外や教室を見回したが、何のことはない。いつもの教室である。男子が向けてくるありったけの敵意と羨望のまなざしを除いては。
「席の隣の高山君は、青山さんにいろいろ教えてあげてください」
中森の言葉に我に返った浩徳は、一体何を教えればいいのか分からなかった。勉強のことか、クラスのことか、先生のことか、いや、そんなことはどうでもいい。とりあえず、挨拶だ。
「た、高山です。よろしく」
失敗した。少し声が裏返った。クラスの多くがこれを笑う。これはとんだ失態だと顔を赤くさせている浩徳に、彼女が口を開いた。
「青山です。よろしくね」
浩徳の寝起きの眼には、彼女の笑顔は眩しすぎた。
なぜかそわそわして落ち着かない理由を、浩徳はちゃんと分かっていた。隣に誰もいないのはもとより、寝ていても教師に注意されることが少ない窓際のこの席を、浩徳は家宝のごとく守り続けてきた。だが、今や彼のその隣には謎多き帰国子女、しかもかなりの美人が座って授業を聞いているのだから、居心地が悪くそわそわしてしまうのも無理はない。一度寝てリフレッシュしようなどと思っていた矢先、件の青山美月が小声で話しかけてきた。
「そこの席って居心地良いよね」
拍子抜けした浩徳は、頬杖をつきながら顔を窓の方にそらして
「うん。まあ、ずっとここだったから」
と無愛想に返事した。
「やっぱり。そこの席取る人って、自分とクラスと距離を置く人か、抽選で落ちた人だけだし」
浩徳は少しむっとしたが、なるほどその意見は正しい。朝は静かにしていたい彼にとって、同級生とある程度の距離を取るには格好の席であった。
「よく分かるね」
「いや、朝礼でざっと見た感じ、分かった。騒ぐ人ほど前に来て、静かな人ほど後ろに行くし」
浩徳は顔を黒板のほうへ向けた。
「君もあっち……留学先ではこんな席が好きだったの」
「うん。毎回移動だったけど、席は好きで選べたから。ぽかぽかして気持ちいいしねー」
あ、自分と同じだ。浩徳は美月に顔を向けた。彼女と目が合い、目をそらしてしまった。だが美月は浩徳を見つめたまま眉間にしわを寄せると
「だけど寝るのはだめでしょ。テストに響くよ」
と少しきつく言った。浩徳は
「ご忠告ありがとう。どの教科も八割は普通に取れます」
と嫌味っぽく返した。これは理解しがたい事実である。寝ているだけでテストの点数が良いのだから、担当の教師は訳が分からないのだ。カラクリは簡単で、友人にノートを写させてもらい、家で予習と復習をやるのが癖になっているだけなのだが、彼が教師から注意されることが少ないのも、勉強せずに騒いでいるのではなく迷惑をかけずに寝ているからであろう。
「ま、いいよ。そういう人なら」
そういうと彼女は前を向いてノートを取り始めた。ただのクラス委員気取りじゃないか、気にすることはないと思い、浩徳はまたこの場を寝てやり過ごそうとした。が、結局もやもやした気持ちは晴れず、浩徳はその後の授業全てにおいてでノートを取らざるを得なくなったのだ。
白みが増してきた雨雲を見て、今日は午後から雨がやみそうだな、と浩徳は思った。
* *
長く辛い六つの授業が終わり、放課後の部活動を始めようとする浩徳の姿は普段の授業中のそれと違っていた。
彼は優大と共に演劇部に入っている。演劇部は文化祭といった学校行事から月姫町感謝祭などの公的行事まで、多くの場で演劇を披露している。演奏は学園が誇る『月姫学園オーケストラ』が手掛け、それに合わせた歌唱を取り入れる、ミュージカルを主体にした部活である。二人ともこの部活には高一から入った。優大は歌が下手なので演技に力を入れているが、浩徳はバランスのとれた演技をしていて、重要な役回りを任されることも多い。
「なんだ、高山、いたのか」
講堂の舞台上でストレッチをしている浩徳を見て、客席から一人の男子生徒が声をかけた。
「あ、新島」
浩徳と優大の同輩、新島智である。彼は演劇部の部長であり、背が高く、すらっとした顔立ちをしている。釣り目で敏腕スナイパーのようなその人相を活かせばたちまち人気が出るであろうに、「恥ずかしいから」と言う舞台人にはあるまじき理由からあまり役を引き受けず、もっぱら脚本や演出に精を出している。だが、彼の手掛けるそれらは他の演出部員をはるかにしのぎ、繊細で流暢なセリフや歌詞には文芸部も手をたたいて絶賛するほどである。
「今これだけか」
智は周りを見回して浩徳に問いかけた。舞台上では数人が台本を読んだり、ストレッチをしたりしている。
「部室にまだ何人かいるよ」
「そう。サンキュー」
取り出していた部室の鍵をポケットに突っこんで、智は部室に向かおうとした。そんな彼の背中に向かって、何かを思い出したように
「あ。まあ、この後馬鹿がやってくるけどな」
と浩徳が言葉を放った直後、部室から舞台裏に続く階段をあわただしく駆け下る足音が聞こえ、優大が舞台上に飛び込んできた。
「うおーっ、早くストレッチするぞっ」
せわしなく靴を履きかえている優大を見て、二人は顔を合わせた。「予言通りだろう」とでも言ってそうなあきれた表情で浩徳が目配せすると、「なるほど、さすがは幼馴染、相手の事をよくわかっていらっしゃる」と思って、智はにやりと笑い、部室に荷物を置きに行った。
「あー疲れた疲れた」
練習後、顔についた汗を真っ白なタオルでぱっぱと拭き、優大は大の字になって床に寝転んだ。
「テストのせいで部活なかったからな」
智は赤ペンで台本にチェックを入れながら答え、「モップ掛けの邪魔」と注意した。
「くそー、中間の結果親に見せたくねー」
ばたばたと手足を動かしながら優大が叫ぶ。智がもっと迷惑そうな顔をする。
「どれくらいだった」
「文系科目、あれはこの世にあってはダメだ」
真顔になってこちらを見てくる優大に対して、理系科目は得意なんだからそれぐらい勉強しろよ、と智はため息をついた。
「そういえば、今日も何人か見に来てたな」
小道具の片づけを終えた浩徳が智に話しかける。練習は講堂で行われているので、練習風景を見に来る生徒も少なくはない。
「確かにいたな。入部してくれないかなー。ずっと理系馬鹿の方見てる子もいたし」
智は『理系馬鹿』を強調しつつ答える。
「へー、ライトとかで全然見えなかった」
智の言葉に「確かに理系特化だけど、馬鹿はひどいな」とむっとした顔をして、優大も続けて答える。
「すごい真剣に見てたぜ、あの女の子。気でもあるんじゃない」
智の言葉に優大はむくっと上半身を起こし、
「えー、俺の演技を盗もうとしてたんじゃない」
とダルそうな声を上げて答えた。このやり取りをぼーっと見ながら何かを考えていた浩徳は、はっと気付いた様子で眉間のしわを解き
「あー、ああ。あれ、片山じゃない?」
と大声を上げると、優大は飛び起きて
「え、ゆづっちゃんこの学校だったの」
と素っ頓狂な声を出した。誰だ、その片山と言う女子は。智は初めて聞く名前が大いに気になった。
優大と浩徳の話を聞くと、どうやら彼らが通っていた剣道の道場で一緒だった女子であるという。今は高一だそうで、すごくなついていたらしい。
「いやー、そうかあ。ゆづっちゃんも月姫かあ」
優大は本家に集まった親戚のおじさんみたいな声でしゃべる。
「で、どんな関係なんだ?」
話を聞いていた他の部員たちも集まってきて、優大の周りを囲んだ。まるで芸能人の囲み取材のようだ。
「うーん、あれはただの後輩だな。むしろ妹」
そう優大が答えると、その場にいた男子部員は持っていた小道具を投げ捨て、優大に次々と覆いかぶさった。
ぐわあ、と苦しそうな声がした。
* *
「女流剣術家になれるぞお」などと言って、学生の頃剣道にたしなんでいた父に連れられてやってきた、家の近くの警察署。警察官の中でもとびきり怖い人しか集まっていないと思って、ものすごく不安だったあの時、初めて先輩の竹刀捌きを見た。ひらりと軽やか足運びと強烈な一撃。勇ましさの中にある冷酷さに気付き、背筋が凍りつく。鼓動が高まる。ついには剣道をやろうと固く決意した小学四年生の夏。女子剣道部期待の高一、片山結月はその時から、松本優大が道場を卒業するまでずっと、その背中を見て稽古に励んできた。
結月は月姫学園高等部に受かってから女剣に入るまで、今まで感じたことの無い期待と幸福にぷかぷかと身をゆだねていた。優大が道場を卒業し、一緒に稽古できなくなった中学生最後の一年間の剣道はとてもつまらないもので、受験勉強という重圧もあいまって「いっそのことやめてしまいたい」と思うことも多々あった。だから、優大の稽古姿をこうしてまた拝めるのは彼女にとって『この上ない幸せ』であったのだ。なにせ中高一貫校なのだから、高校生になっても部活は同じだろうし、技にはもっと磨きがかかっているに違いない。あの強さだから、主将になっていてもおかしくはないだろう。剣道以外でも、小学生の頃から親しい後輩としてさらに急接近しちゃったり、あわよくば彼女にまでなっちゃうかも―――などと、思春期の中学生が陥りそうな、プライスレスな妄想を頭の中で育てていた始末である。
入学式と始業式も無事に終わり、熱烈な歓迎を受けて女剣に入部した後、結月は勇気を出して男子剣道部へと向かった。そこにいるはずの優大を見るために。未来の彼氏、うまくいけば旦那さんになる人に――――
だが、現実は違った。そこには彼の姿はなかった。なぜだ。聞くところによると、優大は高一に進級すると同時に剣道部をやめたそうである。
目の前が真っ暗になった。
このまま続けていれば主将になれたのに、と現在の主将は惜しそうに話していた。
当たり前だろ。誰が見てもわかるだろ。
先輩に対して悪態をつくのは非常識だが、そもそもそんな気力もなかった。
自分の今までの頑張りは何だったのか。
私は先輩の剣道を見るために、この学校に入ったのではなかったのか。
剣道をあきらめかけたあの日、自分を励ましてくれた先輩。
あきらめちゃったんだろうか。
なんであきらめたのか。
なんで。
「なんで……」
頭の中にぎっしりと詰まっていた妄想はぶしゅーっと大きな音を立ててその形を失い、残ったのはこれから始まる高校生活への絶望であった。
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