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黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇

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4部分:第四章


第四章

「あっ、また来たんですね」
「ここが気に入ったから」
 沙耶香はこう言って笑みを向けて応えた。
「今日はどんな娘がいるのかしら」
「あちらの娘達ですよ」
 見ればこの前の娘達とは違っていた。長身のモデルの様な娘達が二人ソファーのところに座っていた。やはり派手なドレスに身を包んでいる。
「あの娘達でどうですか」
「いいわね」
 見れば二人共顔立ちも身体も整っていた。沙耶香の同性愛の範囲はかなり広い。今ソファーに座る二人もその範囲の中に入っていたのである。
「それではあの二人で」
「ええ」
 彼女は頷いた。釣り餌を手に入れるのならば快楽であればなおいい。彼女はそう思いながら二人を指名した。
「それではお部屋は」
「前の部屋で」
 沙耶香は言った。
「空いているかしら」
「勿論ですよ」
 中年の男はそれに応えて下からキーを出してきた。
「どうぞごゆっくり」
「ええ、そうさせてもらうわ」
 それに頷いて二人の美女を左右に連れホテルの奥へと消えていった。その時左右の美女の香水の香りをかいでいた。
「これは」
 一人のはスミレ、そしてもう一人のそれはアイリスのものであった。薔薇のそれ程かぐわしくはないがこれはこれで趣きがあると言えた。
(面白いわね) 
 沙耶香の方もその香りが気に入った。そしてそのまま店の奥へと消えていった。それから数時間経ってから姿を現わした。
 ホテルを出てそのまま夜道を進む。進みながら彼女は内心待っていた。獲物が来るのを。 
 しかし獲物は姿を現わさなかった。罠を用意していた沙耶香としては拍子抜けすることであった。
「どういうことかしら」
 そうは思ったがそれ以上は考えないことにした。今考えてもどうにもならないことだったからだ。 
 ロンドン塔の時計はもう朝が近いことを教えていた。それを見てホテルに帰った。そして僅かではあるが休息をとった。そして次の戦いに備えるのであった。
 朝になった。シャワーを浴び服を着替える。そしてホテルマンが運んできた朝食にフォークとナイフをつけた。
「今日はハムエッグなのね」
「はい」
 ホテルマンは彼女の問いに頷いた。
「御客様のリクエストにお応えして。如何でしょうか」
「見事ね」
 そのハムエッグを切って口に入れる。それを味わってから答えた。
「昨日の夕食もよかったけれど。朝食もまた素晴らしいわ」
「有り難うございます」
「このトーストも」
 今度はトーストに言及してきた。
「いい焼き加減ね。それにマーガリンもいいわ」
 ナイフでトーストにマーガリンを塗りながら言う。熱いトーストの中に溶けていく。
「ラム酒かしら。入れているのは」
「その通りでございます」
 ホテルマンはそれを認めた。
「我がホテル特製のマーガリンですが。如何でしょうか」
「これもいいわね」
 沙耶香はマーガリンも認めた。
「普通のマーガリンとはまた違った味になって。いいわ」
「有り難うございます」
「そして紅茶も。昨日のとは葉が違うわね」
「昨日のはスマトラの葉でした」
 彼は答えた。
「ですが今日は。セイロンのものを使いました」
「普通のセイロンとはまた味が違うわね」
「これもまた我がホテル特性でして」
 どうやらかなり凝り性のホテルとシェフであるらしい。紅茶の葉まで特性であるようだ。
「特別契約した葉なのでございます」
「つまり厳選された茶の葉ということね」
「そうでございます」
「面白いわね。何でもそうして選んで」
「今までの評判を覆したいので」
 彼は笑ってこう言葉を返した。
「我がホテルはロンドン、そしてイギリスの食事はとかくまずいという根拠のない悪評を払底したいと考えておりますから」
「根拠のない悪評ね」
 口には出さなかったがそれはどうか、と思った。彼女自身今まで何度もイギリス、そしてロンドンに来たことはあるが料理を美味しいと思った記憶はないからである。かって日本海軍はロイヤル=ネービーを模範とし将校はイギリス風のディナーを食べていたというが味だけは模範としなかっただろうとすら考えていた程なのである。
「その為に日々努力しておりますので」
「少なくとも私はいいと思うわ」
 ハムエッグもトーストも食べ終え紅茶を飲み干した後でこう言った。
「最後のお茶も。見事だし」
「やはり最後は最高でないといけませんからな」
「そうね」
 それは沙耶香も同じ考えであった。
「朝はこれで充分だけれどデザートとワインがね。昨日はどちらも頼まなかったけれど」
「では今夜はどうでしょうか」
「頼めるかしら」
「勿論です」
 彼は笑顔で頷いた。
「ピーチ=メルバなぞは如何でしょうか」
「ピーチ=メルバね」
 そのデザートの名を聞いて笑みを作った。これはかってワーグナー等のオペラでその名を知られたオペラ歌手メルバの名を冠したものである。ワーグナーのロマン派オペラ『ローエングリン』をモチーフとしておりアイスクリームの上に白い桃を置き、そこに砂糖で作った白鳥の翼を乗せているというものである。アイスクリームはこの楽劇の第三幕の前半で出る初夜の新婚のベッドを、そして白鳥は第一幕で危機に陥っている美貌の姫エルザを救う為に聖杯の城モンサルヴァートからやって来る白銀の騎士ローエングリンが舟をひかせている白鳥である。デザート自体がワーグナーの楽劇とそのヒロインであるエルザを得意としたメルバへのモチーフとなっているのである。
「私はあのオペラは好きではないのだけれど」
 彼女は黒魔術師である。この作品においては人々の無意識の下に追いやられた神々を信仰する魔女オルトルートが登場する。この魔女は森に潜み怪しげな術を使いエルザを窮地に陥れた。だが彼女はそもそもキリストの世界の住人ではないのだ。かっての神々の世界の住人なのである。これは沙耶香もまた同じであった。彼女もまたその古代ゲルマンやケルトの神々の力を使う。黒魔術もまた神々の力を使うものなのである。それが人の為に使うのか、自分の為に使うのか。そしてキリスト教世界の主観から見て正しいのか邪悪なのか。それによって名称が異なるのである。そうした意味で彼女は黒魔術師であると言えた。
「では止めますか」
「いえ、それでいいわ」
 だが彼女はそれをよしとした。
「あのオペラは好きではなくてもワーグナー自体は好きだし」
「左様でございますか」
「あの森と城の曲は。いいと思わないかしら」
「私はそこまでワーグナーに詳しくはないのであまり言えませんが」
「あら」
「それでもワグネリアンの方はよくそう仰いますね。森や城を感じられると」
「ドイツは森や城が多いしね」
「はい」
「そしてこのイギリスも。それにイギリスは霧も多いわ」
「どうですか、ロンドンの霧は」
「不思議ね」
 今その霧の中に潜む異形の者の相手をしているから尚更であった。しかしそれは口には出しては言わなかった。あくまで自身のことは秘密にしておいた。
「手をかざしたらもうその手が見えなくなるのだから。こんな霧はここだけでしょうね」
「ロンドンの霧は特別です」
 彼もそれは認めた。
「ある意味生物のようです」
「生物」
「というよりは魔物でしょうか」
「ロンドンだけに棲む」
「そうですね。他の街にはここまでの霧は出ないですから。そうした意味で本当に魔物です」
「その中に何かが潜んでいたらまた面白いわね」
「驚かさないで下さいよ」
 そう言われて少し怯えた動作を見せた。
「そんなのがいたら怖くて街を歩けませんよ」
「特に夜は」
「その話、御存知でしたか」
「ゴシップでね。読んだことはあるわ」
 そう答えて自分がその話に関わっていることは隠した。
「人が次々と消えているそうね」
「はい」
「おかしな話ね。もしかして切り裂きジャックが甦ったのかも」
「だったら今頃切り裂かれた死体が転がっていますよ」
「ジャックだったらね」
「それに。あいつが殺したのは中年の娼婦ばかりだったし」
 これが切り裂きジャックの謎の一つであった。どういうわけか彼は中年の皺や白髪も目立つような盛りを過ぎた娼婦ばかりを狙って惨殺していったのである。その内臓すらも切り裂いて。その行動から彼の正体についてはその当時から様々な推測が為されていた。しかしそれが確証にまでなったことは一度としてなかったのだ。
「今度のは行方不明ですから。違うと思いますよ」
「じゃあ何かしら」
「正直に申し上げますとわかりません」
 彼はこう答えた。
「一体何者かすらも。一番噂があるのは人攫いの一団ですね」
「人攫い」
 違っていたがそれは出さない。沙耶香はホテルマンに顔を向けて話を聞く演技をした。
「はい。この街にも昔から色々な輩がいますから」
「その中に人攫いもいると言いたいのね」
「ええ。まさかそんな化け物が実際にいるとは思えませんから。私はそう思います」
「そう」
 それに応えるでもなく声を合わせた。
「どうでしょうか。私はそう考えるのですが」
「確かに可能性はあるわね」
「ですよね」
「けれど」
「けれど・・・・・・何か」
「いえ、何でもないわ」
 だがここからは言おうとはしなかった。言うつもりもなかった。
「ただ。気になることがあって」
「何でしょうか」
「いえ、それも何でもないものよ。それじゃあご馳走様」
「あ、はい」
 彼女はホテルマンに食器等を片付けてもらった。それから立ち上がった。
「今日も遅くなるかもしれないけれど。お願いね」
「はい」
「ピーチ=メルバ楽しみにしているから」
「畏まりました。それでは」
「ええ」
 挨拶を済ませた後ホテルを後にした。そして昨日と同じくヤードの本部に向かった。


 
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