アンジュラスの鐘
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
6部分:第六章
第六章
「あの爆弾はな、とんでもない爆弾だったそうじゃ」
「原子爆弾というのでしたね」
「それの爆発で全部消し飛んだらしい」
「長崎も」
「街も教会も何もなくなったらしいぞ。人も一杯死んだらしい」
「そうらしいですね」
「地獄だったそうじゃ。肌が焼け落ち」
原子爆弾の恐ろしさであった。普通の爆弾の炎や爆風、衝撃なぞとは全く異なる。熱線で焼き、普通の爆弾とは比較にならない熱と風が一瞬にして街を焼き尽くす。そこにいた人々はその中で焼き尽くされ、引き裂かれる。後に残るのは炎に包まれた街の中でその全身を焼かれ、苦悶の表情を浮かべる人々だけであった。それはまさに地獄であった。
「それが終わってからもどんどん人が死んでいくそうじゃ」
「毒でも街を覆っているのでしょうか」
「そうらしい。広島に行った者がどんどん死んでおるらしい」
「広島に一体何が」
「長崎でも多分そうじゃ。街には毒が漂っているのかもな」
「毒が」
「もう何もな、ないらしい。広島も長崎も」
「・・・・・・・・・」
「その鐘もな、もうないじゃろ」
「じゃあ」
「日本は戦争に負けたんじゃ」
僧侶は俯いて、一言を血を吐くようにして出した。その目には涙が滲んでいた。
「負けてもな、確かに大義はあったじゃろう」
「ええ」
「しかし。それは鐘があったらじゃったな」
「そうは言いましたが」
神父も俯いていた。どうしても俯いてしまう。それを止めることは自分でも出来なかった。
「もう、その鐘もないじゃろ」
「それだけの爆弾じゃ。おそらくは」
神主も俯いている。誰もが顔を上げられなくなってしまっていた。
「鐘ものうなっておるぞ」
「じゃあ大義は」
神主は言葉では応えなかった。ゆっくりと俯いたまま首を横に振るだけであった。
「おそらくはな」
「そんな・・・・・・」
「鐘がのうなったのが何よりの証拠じゃ」
神主は呻く様に言った。
「この前言ったこと、覚えているじゃろう」
「ええ」
神父はこくりと頷いた。
「大義は。あの鐘があったなら」
「確かにそうですが」
「それがなくなったのじゃ。言うまでもないじゃろう」
「じゃあ今の日本は」
「大東亜とかの大義はな、全部嘘になるじゃろうな」
「あれだけ皆で言ったことがか」
「そんなものじゃ。負ければな」
神主は悲しい顔で僧侶にそう述べた。
「変わるのは早いぞ。そして」
「碌でもない奴が出て来るのかのう」
「それこそソ連の旗振る奴かもな」
「薄汚い話じゃ。あんな卑怯な奴等の片棒担ぐ奴等が出るとなると」
「大義がなくなるというのはな、そういうことじゃ」
見れば神主も目に涙を溜めていた。皆泣かずにはいられなかったのだ。
「鐘もない。大義もない」
「何もないのか」
「そのうち。わし等が生きなければならなかったというのも。否定されるじゃろうな」
「全部。そうなるのか」
「それが何時まで続くか永遠か」
「どちらにしろ。大義はないのですか」
「もうそんなものはのうなったわ。あるのは向こうの大義だけじゃ」
「アメリカの」
「それかソ連のな。それだけは我慢ならんが」
神主はソ連が嫌いであった。若い頃は日露戦争に参加していたという。だがそれ以上に。ソ連という国が大嫌いであったのだ。それを隠そうともしなかった。
「革命じゃとか言っておるな、あいつ等」
「ええ」
共産主義革命のことである。プロレタリアートによるプロレタリアートによる革命。戦後の日本を長い間蝕んできた革命思想が覆うのもまた終戦直後からであった。
「あれはな、嘘じゃ」
「嘘ですか」
「実際はあれはとんでもない奴等じゃ」
「そんなに」
「結局な、極楽なんてもんはこの世にはないのじゃ」
そしてこう述べた。
「極楽は死んでからある。この世には有り得ないものじゃ」
「じゃあ労働者の天国というのは」
「どうで嘘っぱちじゃ」
「嘘っぱち」
「あるとすれば地獄じゃな」
「そんな・・・・・・」
「いや、そうかもな」
僧侶も神父の言葉に頷いてきた。
「あの国はな、得体の知れんものを感じる」
「得体の」
「放っておけば恐ろしいことになる。このまま放っておけば」
「・・・・・・・・・」
「挙句の果てに潰れて。後に残るのは瓦礫の山かもな」
「どういうことですか、それは」
「人間の出来ることなぞな、御仏の為されることに比べれば些細なことなのはわかるじゃろ」
「はい、それは」
神父は今度は僧侶の言葉に応えた。
「御仏のされることを人がしようとすればとんでもないことになるのじゃ。あれは行き着く先は地獄じゃろう」
「地獄、ですか」
「わしも神主さんと同じじゃ。あの国はろくでもない」
「はあ」
「信じておるととんでもないことになる。そう思っておる」
「ですか」
「しかしもうわし等には何ものうなっておるのは事実じゃ」
神主の言葉は相変わらず力がなくなってしまっていた。
「何もかもな」
「そんな・・・・・・」
「もう終まいなのかもな」
僧侶はその力のない声のまま語る。
「日本は」
「けれど負けるのは」
「正直それでも鐘がなくなるとは思っておらんかったわ」
これは神主の言葉だった。
「街もなくなるなぞ。考えもせんかった」
「・・・・・・・・・」
「もうな、わし等は罪人かも知れん」
「戦争に負けたら罪人なんですか」
「そういう戦争じゃったらしい。ポツダム宣言とかがあったじゃろう」
「ええ」
降伏勧告の様なものであった。そしてそれを日本政府が受け入れなかった為に原子爆弾が投下されたのだ。そういうことには歴史においてはなっている。例えそれが一般市民を狙った無差別攻撃、一説によると実験であったとしても。そういうことになっているのである。
「戦犯を差し出せ、ということじゃ」
「戦犯ですか」
「どれだけの人間が裁かれるかわからんがな」
「勝った者が負けた者を裁くのじゃ」
「戦争で、ですか」
「わし等は罪人だったそうじゃからな」
二人の言葉はさらに悲痛なものになっていく。
「じゃから。裁かれるそうじゃ」
「皆、ただ普通の戦争をしていただけなのにな」
「そうなのですか・・・・・・」
「若し鐘があったらのう」
神主はまた言った。
「信じる気にもなれたのじゃが」
「日本の大義を」
「わし等は確かにそれを信じていた」
「そして今まで生きてきた」
「大東亜の為に、と思ったのも本当じゃ」
「日本が生きる為に、と思ったのもな」
「そうじゃないってことになるんですね」
「無念じゃがな」
「罪人には語る資格なぞない。そういうことじゃろうな」
「じゃあ今までのことは」
「もう語ることも許されんかもな」
神主はまたぽつりと呟いた。
「そして別の話になっていく」
「立派に戦った兵隊さん達も。貶められてな」
「私は戦争を戦ったわけではないです」
神父は僧侶が兵隊さんと言ったことに顔を上げていった。この日はじめて顔を上げた。
「けれど。あの兵隊さん達は」
日本を信じて純粋に戦った。そう言いたかった。大義を信じて。しかしそれすらも語ることが許されなくなる時が来ようとしている。神父の中で誰かが語る気もしてきた。
ページ上へ戻る