女傑
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4部分:第四章
第四章
「絶対にはっきりしないな」
「はっきりさせた奴がいたら」
「公爵様に続いて」
「ティベレ川にどぼんだな」
「そういうことだ」
こうした噂であった。この噂の根拠であるかのように各国の外交官や諜報官達も口々にこう述べるのであった。
「この事件における犯人は発見されてはならない故に決して発見されはしない。発見されるにはあまりにも大物であるからだ」
と。真相を知っているであろう彼等もこう言って口をつぐんでいた。
そんな話があった。チェーザレ=ボルジアという男は必要とあらば手段を選ぶことはない。そうした男であると皆がみなしていた。その彼が今カテリーナの城へ向かっていたのだ。
「さて」
チェーザレはワインの杯を手に話を進める。
「最早ミラノはない」
「はい」
家臣達はその言葉に頷く。既にカテリーナの実家であるミラノ公国はチェーザレと結んだフランスにより占領されている。フランス王ルイ十二世は貪欲な男で以前からイタリア侵略の機会を狙っており渡りに舟の話であったのだ。
そしてカテリーナ自身も今チェーザレが攻めんとしている。風雲急を告げる事態であったのだ。
「次はだ」
「どうされるのですか?」
「民だ」
チェーザレは言った。
「民を掴むぞ」
「といいますと」
「彼女は何だ」
ここでチェーザレはその家臣達に問うてきた。
「何者だ」
「はっ」
それにリカルドが応えてきた。
「女であります。そして」
「そして?」
「剣を手に戦う戦士であります」
「そうだ」
チェーザレはその言葉に満足した笑みを浮かべて頷いてみせた。
「その通りだ。確かに彼女は戦士だ」
「だが政治家ではない」
家臣のうちの一人が言った。
「そういうことですね」
「うむ。だからだ」
チェーザレはまた言う。
「民達はその残酷さと圧政を恐れている。ならば容易い」
「それではまずはどちらを」
「イモーラだ」
チェーザレは決断を下した。
「イモーラに兵を進める。兵を進めながら」
さらに言葉を続ける。
「これまで通りの条件を認めると約束する。いいな」
「はい」
チェーザレは政治家でもあった。民のことも頭の中に入れ、彼等の支持を取り付けることの重要性をはっきりとわかっていた。また統治者としても優れておりこのことが彼を彼たらしめていた。
「では明日にイモーラだ」
「そしてまずは伯爵夫人の右腕を」
「次には左腕をだ」
チェーザレはイモーラだけを見ていたのではなかった。それからも見ていた。
「それからようやく」
「伯爵夫人そのものを」
「再びこの目で見たいのだ」
チェーザレの笑みが何か恋をするものになっていた。
「あれはな」
「はい」
家臣達もそれに応える。
「私がまだ少年だった頃だ。ローマにいた時だ」
彼はその時にカテリーナを見ていたのである。まだ枢機卿であった父の側にいて彼女を見ていたのである。
「麗しい姿だった。もっともあの時はまだ唯の花だった」
「唯の、ですか」
「そうだ。唯のな」
それをまた言った。
「そう思っていた。だがそれは違っていた」
そして次にこう述べた。
「美しい花には棘がある」
古来より言われている言葉を彼も口にした。
「それが彼女なのだ。それを知ってからだったな」
チェーザレの言葉が楽しむものになっていた。
「彼女のことを心に留めたのは。そして今」
彼は今遥かなカテリーナの居城を見ていた。
「彼女の御前に。よいな」
「はい」
「そして」
「イタリアをも」
次に彼は巨大な長靴を見た。イタリアの大地を。
「手に入れるぞ。よいな」
「はっ」
家臣達は一斉にそれに応える。チェーザレがイモーラに達したのは翌日のことであった。
市民達は何の抵抗もしなかった。それどころかチェーザレの大軍を笑顔で迎える有様であった。
それを聞いたカテリーナは我が耳を疑った。まさかこうもあっさりと彼等がチェーザレに鞍替えするとは思っていなかったからだ。
「それはまことですか」
「残念ながら」
カテリーナの家臣達は苦渋に満ちた声で報告していた。カテリーナはそれでもまだその言葉が信じられなかった。
「その様なことが」
「全てはヴァレンティーノ公爵の思惑通りでした」
「あの公爵の」
カテリーナの脳裏にあの陰のある端整な横顔が浮かんだ。彼女もチェーザレの顔は知っていた。
「そうです。公爵は彼等にあることを告げまして」
「それによってイモーラが鞍替えしたというのですか」
「はい」
家臣達は項垂れて述べた。
「今まで通りの権利も地位も保障すると。そしてその身の安全も財産も」
「それだけでですか」
「そこに公爵の統治が利いたようであります」
「公爵の!?」
これはカテリーナには考えの及ぶものではなかった。彼女はあくまで武器を持つ者でありペンを持つ者ではなかったからだ。しかしチェーザレはその両方を備えていた。今その差が大きく出たのだ。
「左様です。公爵の統治の評判は知れ渡っておりまして」
「それを聞いたイモーラの者達は皆」
「馬鹿な」
カテリーナはそれを聞いてもまだ信じられなかった。
「だからといって」
「ですがイモーラが公爵の手に落ちたのは事実」
「そして公爵は今その街に足掛かりを置きました。次には間違いなくフォルリに来るでしょう」
「フォルリに」
カテリーナはそれを聞いて部屋の窓から城塞の隣にある街を見た。今までは何も思うところなく見ていた街が急に暗雲立ち込めるものに見えてきた。
しかしそれに恐怖を感じるカテリーナではなかった。それでも彼女は毅然としていた。
「ならばよし」
そのうえでの言葉であった。
「では城塞、そしてフォルリの護りを固めなさい」
そう命じてきた。
「宜しいですね。退くことはありません」
「はっ」
カテリーナの家臣達もそれに頷いた。彼女も決戦の意思を固めていた。
その夜カテリーナは一人自室にいた。既に城塞には武器弾薬が運び込まれ城の周囲の木々が切り払われた。堀には水が湛えられ決戦の準備は整っていた。
「ヴァレンティーノ公爵」
奇しくも昨夜のチェーザレと同じ赤いワインをその手にしていた。
「相手にとって不足はないわ」
萌える目で今彼の顔を心の中に見据えていた。
「私もスフォルツァの女、逃げたりはしない」
目の光がさらに強くなる。闇の中でそれが燃え上がっていた。
「最後まで戦う。剣の家として」
彼女は勝利を望んではいなかった。戦うことを望んでいた。そしてその決意が変わることはなかった。
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