幻影想夜
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第八夜「ウィステリアの片想い」
ここは廃校になって久しい小学校。しかし、グラウンドは市民のために開かれており、休日ともなれば家族連れや子供たちの憩いの場となっている。
そんな中、少年達がキャッチボールをして遊んでいる。春も半ばの五月晴れ。心地よい風の吹く昼下がり。
「あ、あぁ~ぁ、変な方へいっちゃったよぅ。」
投げられたボールを、取り損ねたようだ。
「すぐ取ってくるよ。」
少年の一人は走ってボールを探しに行った。ボールはコロコロとどこかへ転がっていったようで、全く見つからない。
「どこいったんだよぅ…。」
少年は探してるうちに、グラウンドの一角にある藤の木に目をやった。
今は花盛り。淡紫の房が風に揺れて、幽玄の世界を醸し出していた。
少年は、暫しその藤から目が離せなかった。新緑に染まった中、一点にまばゆいばかりの淡い紫の花々。
幼心に、この美しい風景が写し取られた。
「おいっ!何してんだよ。ボール、見つかった?」
あまりに遅いので、友達の少年達が駆けてきた。
「あ…忘れてた。」
「お前ねぇ…。って、あんなとこにあるじゃん。」
と、指差された方を見ると、藤の下に転がっていた。
「あんなとこに…。じゃあ取ってくから、先に行っててよ。」
少年は藤の下に来て、転がってたボールを拾い上げた。
―ザワザワ…―
その時、不意に風が藤の花を揺らした。
「あれ…?」
いつのまにか、その藤の下に一人の少女が立っていた。どこか遠くを見ているようで、少年には気付いてないようだ。
その少女は淡い紫色の古めかしい着物を着ている。
少年は何とはなしに話し掛けた。
「ねぇ、何やってんの?こんなとこで。」
少女はビクッとし、少年へと振り返った。とても愛らしい顔の少女だったが、そこに驚いた表情が表れていた。
「驚かせちゃった?ごめんよ。」
少年は素直に謝った。
すると少女は微笑みを見せた。
「いえ、私がボーッとしてたのが悪いの。あなたのせいじゃないわ。」
そう言うや、少女は少年のところに歩み寄り、ふと少年の持っているボールに気付いて言った
「キャッチボール?楽しそうね。」
「いっけねぇ!友達が待ってるんだっ!」
少女の言葉に、少年はハッとした。少女に見惚れてすっかり忘れていたのだ。
「もう、お行きなさいな。」
少女は些か呆れた風にそう言って苦笑した。
だが、少年はこの少女のことが気になり、なんとなく遊びに誘ってみた。
「きみも一緒に遊ばない?」
「私は行けないわ。躰が弱くってね。あなた達が羨ましいわ…。でも、いつもここで見てるから、気付いたら声を掛けてね?」
少女は寂しげな顔をしつつ、少年にもう行くよう促した。
「そうなんだ…。じゃあ、また来るから。お話しだったら出来るよね?」
少年はそう言って、手を振って駆けて行った。
◇ ◇ ◇
次の休日。また空は、雲一つ無い青空。ポカポカした陽気に蝶が舞っている。
少年はと言うと、先日会った少女のことが気になっていた。
あの後、友達と別れてから行ってみたが、藤の下にはもう彼女は姿はなかったのだ。
「ちょっと、行ってみよっかなぁ?」
そう考えた少年は、直ぐ様身仕度を整えて玄関へと向かった。
「母さん、僕グラウンドに行ってくるからぁ~。」
帽子を被りながら、台所にいる母親に向って言った。
「あんまり遅くなるんじゃありませんよ?」
母親がタオルで手を拭きながら台所から出てきて言った。
「分かってるよ。もう子供じゃないんだからっ!」
多少むくれて、少年は母親へとそう返す。
すると、母親は腰に手をやって言った。
「何言ってんの!この前もそう言って遊びに行ったきり、夜になるまで帰って来なかったは誰だったかしらね?」
少年は顔を引き攣らせながら一歩退いた。
「もうその話しはいいだろ?」
少年はジリジリとドアの前まで寄って行く。
そんな少年を見て母親はやれやれと言った風に溜め息混じりに言った。
「ちょっと待ってなさい。」
そうして台所へ入って行った。
―母さん、何してんだ?―
少年は訝しく思いながらも待っていた。
「ほら、これ持ってお行き。」
暫くすると、母親は手提げを少年へと渡した。中にはおにぎりとタッパーに入ったおかず、水筒に菓子まで入っていた。
「母さん!?」
少年はびっくりして母親を見た。
「どうせ言ったって聞きゃしないんだ。お前は勉強は出来るから、宿題なんて心配しやしないけど、遅くなるんだったら電話くらいしなさいよ?分かったね?」
さぁ、いってらっしゃいと言わんばかりに、今度は追い立てられるように、ドアの外に放り出された。
「何なんだ?どういう風の吹き回しだ?」
それでも少年は「まぁ、いいか!」と思い直し、再びグラウンドへ向かった。
空の碧に美しく映える藤の花房。まだもう少し、見ていられるようだ。
その下に、少年は直ぐ少女の姿を見つけることが出来た。
少女は、またあの時のように、どこか遠い場所を見つめている。
「こんにちは。」
少年は躊躇いがちに声を掛けると、少女は振り返って言った。
「あっ…!この間の…。」
些か驚いた表情を見せたが、どうやら少年を覚えていたようで、軽く笑って言った。
「来てくれたのね。ほんと、真正直な人ね。私のこと、不審者だとか思わなかったの?」
少女は笑いながら少年に尋ねた。
「そんなこと、思いもしなかった!君、不審者なの?」
少年は態とらしくそう言い返すと、少女はキョトンとした表情を見せ、そして直ぐに返した。
「嫌ねぇ、女の子に失礼よ?そんなわけないでしょ?」
むくれてそう言ったが、すぐにその表情は崩れて笑いだした。すると、少年もそれにつられて笑ったのだった。
「ねぇ、こんなとこで何してんの?藤を見てるわけでもなさそうだし、友達を待ってる様にも見えないし…。」
少年は不思議そうに聞いてみた。その少女がいつも藤の下にいたからだ。
「私ね、ここで好きな人を待ってるのよ…。」
少女は恥ずかしそうに少し顔を紅らめて、俯きながらそう答えた。
「へぇっ!好きな人がいるんだ!聞いちゃってもいいのかなぁ?ねぇ、どんな人なの?」
実は少年にも好きな人がいる。同じクラスの女の子。だから少年は、他人の恋愛話にはとても興味を持っていたのだ。
「えっとねぇ、背が高くってとても優しい人なのよ。笑った顔がとても素敵で、私のことを“キレイ”だって、言ってくれたの…。」
少女はニコニコしながら待ち人の話をしている。きっと、誰かに聞いてほしかったんだろう。
「それから私は、あの人がここを通らないかなぁって、いつも気になってここへ来てしまうのよ。」
そう言って微笑む少女は、少年には眩しく見えたことだろう。
その顔を見つめる少年の瞳は、どことなく大人びていた。
「それで、いつもここで遠くを見てたんだね?」
少年は水筒からお茶を出し、そんな少女に手渡した。
「あ、ありがと…。」
少女は、少し恥ずかしそうにお茶を受け取った。
「そうなの。片思いって言うのかしらね?こういうの、遣る瀬無いわよねぇ。こんなに想っても、逢うことが出来ないなんて…。」
少女はただ、お茶に映っている自分の姿を見つめている。
少年はその姿を、とても美しいと思った。藤の花の下、可憐な少女が俯いて座っているこの光景が、幼い少年の脳裏に鮮明に焼き付いた。
好きとか愛しいとかではない。ただ、美しかったのだ。
「で、その人と逢えることあったの?写真の時っ切り?」
少年は思わず聞いてみた。すると…少女は淋しげな笑みを見せて答えた。
「ええ、あの一度だけ…。あの人は、この藤の花の写真を撮りに来たの。ここの小学校の卒業生だって話しで、この藤をとても好いてくれていたのね。今では名の売れた写真家さんみたいだけど…。」
そして少女は、何かを慈しむように手近の藤の幹を撫でた。
―それで…。―
少年は胸の内でそう呟いた。少女が、この藤の下で想い人を待つ理由を、この少年は何と無くではあるが理解した。
「ねぇ、淋しくないの?ここで待っている一人の時間って。」
その問いに、少女はニッコリと笑って答えた。
「もう慣れてしまったわ。今は逆に、ここに来るとあの人を強く思い出せるから…。むしろ楽しいくらいよ。」
その答えを、少年は不思議に思った。いや、この少女の言葉に違和感を感じたと言うべきか。
思い出すのだったら、尚のこと淋しいのではないのか?幼心にそう考えたのだ。
「会いに行こうとは思わなかった?」
少年は内に秘めた違和感をそう言ってぶつけてみた。
「行けないわ。私は、行けないのよ…。」
少女は澄んだ青空を見上げ、輝く太陽の陽射しにスッと目を細め…そうして微笑んで返した。
「なぜ?」
聞いてはならなかったのかもしれない。しかし、少年は何とも思わずに、心のままを口にしたのだ。
すると不意に…少女の顔に陰りが差し、そしてそれを話始めた。
「もう、随分と古い話しなの。」
強風が空へ舞い上がった。一斉に藤の花房が揺れる…。
「今から三十年近くも前の話し。私もまだ若かったわ。ここへ連れて来られ、一生懸命に生きた。子供たちは私をとても好いてくれて、私は嬉しかった。その中の一人の男の子が、いつか写真を撮りに来てくれるって、私に口づけしてってくれたわ。卒業式の日にね…。そして、約束通り来てくれた。この五月晴れの青空の下で、私を写してくれたわ。でも…愛してくれることはなかった。愛されることもないって、知ってたのよ…私は。あの瞳で私を見つめて“好き"って言われて…そんな意味じゃないって分かってたのに…。私は恋しちゃいけない相手に恋をしてしまったの。でも…どうしても伝えたくて、こうやって未練たらしく遠くを見詰めて待っているの…。伝えるなんて出来ないくせに…。」
少女はお茶を飲み干し、そして俯いて静かにそれを口にした。
「だって…私は“藤"だから…。」
そう言うや、少女は顔を上げて精一杯笑ってみせた。
少年は目が離せなかった。この少女が消えてしまうのではないかと恐れた。人ではないことよりも、少女が消えてしまうことを恐れたのだ。
「だったら僕が伝える!きみの気持ち、僕がその人に伝えてあげるっ!」
少年は、自分でも驚くようなことを言った。少女はそんな少年に穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。恐がらないのね?久し振りだわ…きっと神様の巡り合わせね…。会えて良かったわ。こんなにお話ししたのはどれくらいぶりかしらねぇ…。やっとスッキリしたわ。聞いてくれて、ありがとう。お茶、ご馳走様。あなたの母さまに宜しく。」
そう言い終えるや、晴れ渡る青空の下、少女の姿は光の粒のように消えていった…。それはまるで淡い幻をみているようだった…。
暫らく少年は動けなかった。心の中には淋しさや恐れでなく、あの儚なげな少女の言葉が残っていた。“ありがとう”と言っていた藤は、今もまだ花盛りだった。
「僕は夢を見てたのかなぁ?」
少年はボーッと、五月の空を見つめていた…。
◇ ◇ ◇
あれから数年経ったある日。思い出すような快晴の青空の下、二人の人物が藤の木を訪れていた。
一人は二十代前半の青年で、もう一人はカメラをもった初老の男性だ。
「懐かしい場所だ。君が手紙をくれなかったら、こうやって再び訪れることもなかったろう…。」
初老の男性はカメラを構え、シャッターを切った。
「あの時よりもキレイだよ…。」
初老の男性は、そう寂しげに呟いた…。
藤の下で少女と出会った少年は、この小学校出身の写真家を捜し出した。
最初は困難を極めたようだ。何せ記録がないのだ。有名な写真家が撮影に来たのなら、少なからず足跡はあるはずだが…。
学校や町の記録が無理ならと、今度はインターネットで地元出身の写真家を手当たりしだい調べた。その結果、該当者は五名だった。しかし、出身の小学校までは分からず、手紙を出してみたのだった。
ここまで調べるのに約八年の時を要した。そして一人の写真家から「自分じゃないか?」と返信を受け取り、数年文通をして今に到る。
「君の話しは、妙に説得力があった。この藤の下で呟いたあの言葉は…私とこの藤しか知る筈はないんだからねぇ。」
そう言って振り返った初老の男性は、何か大切なものを見つけたような喜びに満ちていた。
「あなたはこの話、信じているんですか?」
青年は尋ねてみる。
「あぁ、信じているさ。これを見てみろ。思い出してなぁ、ネガを引っ張りだして現像したんだ。」
そう言って一枚の写真を青年に手渡した。
「これは…!」
青年は、写真と男性を交互に見た。写真家は、その反応を面白がっているようだ…。
「彼女に間違いないですよっ!!」
そこに写っていたのは、満開の藤の花と、満面の笑みを湛えた…あの少女の姿だった。
end...
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