猫の憂鬱
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
―其の後―
なんという用事は無いが、龍太郎は科捜研のラボに足を向けた。
宗一がのんびりと観葉植物に水を与えている。龍太郎に気付いた宗一は笑顔で迎え、休憩室に招き入れた。何も言わず珈琲を置き、動く研究員を見た。
八雲は相変わらずインカムを耳に付け、パッドを持ち、電話相手に怒鳴る、侑徒はヘッドホンを付けパソコンに向く、秀一はエレ・キ・テルぅ、と絶叫する、時一は相変わらず居ない。宗一の机にも分厚いファイルが重なっている。
「あのさぁ、本郷さん。」
「はい。」
ゆったりとした宗一の声に背筋を伸ばした。
「生きてる感覚がせん、て、前、言うてたよな?」
「はい。」
「何と無くやけど、理由、判ったわ。」
はっきりと、時一が診断した訳では無いので云えないが、此処から来て居るのだろう、タキガワコウジの診断書をファイルから抜いた。
「無精子症…、多分此れやな。」
「あ…」
「本郷さんも、タキガワコウジと全く同じの、非生産型なんやろ?」
「…はい。」
ギィと宗一の座る椅子が鳴った。
「先天性?其れとも、後天性?」
「後天性…だと思われます。」
「後天性…、なんか理由ある?」
「十歳前に起こった高熱によって、睾丸の発育細胞が死滅した、と聞かされはしました。」
医者のいう事を真に受けた訳では無いが、現に龍太郎の精液に精子は無く、極端に水っぽい、おまけに父親の遺伝でか性欲も著しく無い。
思春期、同級生が猿の如く女体に反応しマスターベーションする中で、龍太郎は全く反応しなかった。ゲイなのかと我自身を疑い、ゲイ向けのポルノ冊子を見てもみたが、嫌悪感しかなかった。なので自分はヘテロセクシュアであるが女体に反応しない身体だと認識した。
聞いた宗一は、成る程な、と床に付けた踵を揺らした。
「本郷さん、結婚してた?」
「いえ、恥ずかしながら、良い歳こいて独身です。」
「そっか。生殖器が本能示さへんから、興味無いんやろな。」
宗一は珈琲を飲み、微笑む。
「命あるもには、必ず、生きる為に、三大欲求、てもんが、あるのね?」
「聞いた事あります。」
「先ずに食欲。此れは、植物でもそうや、必ず要する本能な。本郷さん、食欲はどんな?」
「そうですね、はっきりとした計算はありませんが、五時間置きに空腹は感じます。」
「良し、其処は大丈夫な。」
宗一曰く、此の三大欲求、内一つでも欠けると、生命体で一番高度な生物にも関わらず、人間は欠陥品になるという。
「俺は、睡眠欲が欠落してる。」
「え…」
龍太郎は驚きで、三白眼を主張した。
「三大欲求、大事よ。一個でも欠けるとな、機能せんのな。俺も、性欲がそう強い方と違うけど、睡眠のな、リミッターが外れると、食欲も性欲も失せんのよ。判るよ、本郷さん、生きてる感覚、せんて。」
宗一は笑い、珈琲を一口含んだ。
「生物は、必ず冬眠する。人間だけよ。年柄年中起きてるの。冬に太るんも、冬眠の名残な。冬眠ていう生物の本能を、文明で削除したんよ、やから人間て、万年発情期なんよ。何時でも、子孫、残せるようにな。」
宗一の優しいと思った垂れ目は、今の龍太郎にはどんな物より残酷で卑劣に映った。
「春先に変なのが多いんも、冬眠の名残かなぁ。あったかくなると叫びたくなるもん。」
「嗚呼、判ります。叫びませんが。気分は高まります。」
「其れで叫びよんのは本物よ。」
煙草を持つ手で口元隠し、くしゃりと宗一は笑う。
嗚呼、好きだな、菅原さんの笑顔。
素直に龍太郎は思う。笑うと長い顔が一層長くなる、大きな口が一層大きくなる、見てるだけで此方迄笑顔になる。
「私。」
「うん。」
「菅原さんの笑顔、好きです。」
いきなりなんのこっちゃ、云われた宗一は口角下げ、垂れた目を此れでもかと開き、ふは、と鼻から息すると項垂れ、肩を揺らした。何故笑われるのか判らない龍太郎は仏頂面で見返した。
「あっはっは、そんなどストレートな告白、初めてや。」
「違います…」
「判ってる、判ってるよ。はは、おもろい。本郷さん、素直なんやな。」
笑顔が好き、等課長にも云われた事無い、と煙草を持つ手でカップを持ち、笑い疲れた溜息を漏らした。
「本郷さんは、アレな、Aセクシャルなんやな。」
「なんです?其れ。」
出された儘放置していた珈琲に口を付け、椅子の儘動く宗一を追った。本棚からファイルを抜き取り、パラパラと捲り、龍太郎に見せた。
「セクシャルは四つしか無いとされてたんやな。でも最近、パンセクシュアル、Aセクシュアル、ノンセクシュアルてのが、セクシュアルに加えられたのな。」
聞いた事も無い言葉ばかりで、龍太郎は、はぁ、としか云えなかった。
「四つのセクシュアル、判る?」
「はい。」
「で、本郷さん、貴方は此の四つだとヘテロセクシュアルに部類される…、んやけど、此の三つが加わった七つのセクシュアルで部類すると、Aセクシュアル…無性愛者になる。」
「無性愛者…」
渡されたファイルに目を落とし、定義を読んだ。
「無性愛者…、異性にも同性にも全く恋愛感情抱かず、全く性欲が無い人の事。」
「此の、ノンセクシュアル、と云うのは。」
Aセクシュアルの下にある文を指した。
「ノンセクシュアルは、他者に恋愛感情を持つけど、セックスする意欲が無い人。」
「嗚呼、成る程。」
「聞いたけど貴方、一回も人を好きになった事無いんやて?」
「はい。」
其れで一度、木島にしこたま馬鹿にされ、やっぱり人間じゃないんだ、と迄云われた。
なんだ、やっぱり、とは。
龍太郎からしてみたら、他人を我が命みたく愛せる神経が判らない、我が子でも無いのに。
他人に対し、全く興味が無い、正直、兄弟のように育った井上の事ですら関心が無い。故に全くといって良い程喧嘩をしない。三十年近く一緒に居るが、互いの意識違いで喧嘩をした事が無い。
だからといって、胃潰瘍患う程仲違いする木島とも喧嘩をしない。喧嘩をしなかった結果、胃潰瘍になった。
他人に興味無いが、腹は立つ。立つのは専ら、自分の感情を害された時。取調室で怒鳴るのは、犯人が横着だからに過ぎない。話せと云って居るのに話さない、知らん存ぜぬ、女が泣くのが一番腹立つ。
龍太郎と同じに全く興味無いのが加納であるが、此方は怒らない。怒る代わりに只管他人を見下すのだ。木島と問題無く過ごせているのが証拠で、加納はなんというか、感情が欠落している。頭が良過ぎる為、他人の感情を把握出来ず、感情論、というものを一切持ち出さない。
だから今回、加納には驚かされた。
猫に対し、あれ程執着し、激高したのが。
「本郷さんから見て、井上さんて、奇妙に映らへん?課長も。」
「え?」
黙ってファイルの文字を追っていた龍太郎は顔を上げた。
「あの二人、子供が好きで、すっごい愛情深いやん?俺の目から見ても、奇妙に映るから、本郷さんには俺以上のもやもや持ってはんのと違うかなぁ、て。」
「もやもや…」
「好きなんは判る、判るけどなんで其処迄すんの?他人やん…。でも彼奴等の其の感情自体は判るけど、其れを理解出来てへん自分にイライラせん?も一つんトコで理解出来へんのやけど、何が理解出来てないのか判らない。」
「……嗚呼。凄く判ります。」
「其れね、他人に興味持たんからよ。感情の共有、てゆうんやけど、他人に興味無いと、理解出来んのな、感情論になるから。本郷さんは其れが愛情にも関わってる。だから人を愛せないんよ。でも、悪い事や無いよ?そんなん、正直言うて、恋愛て面倒やもの。誰かを好きになるて、一番神経使うんよ。やぁやん、そんな。俺、思うのな、逸そ、愛情なんか無くなってしまえば良いのに、て。」
ギィと背凭れを鳴らし、頭の後ろに手を置いた。
「羨ましいなぁ、本郷さん。」
「初めて云われましたよ。」
「あー、全部捨てて逃げ出したいなぁ。出家しようかな。」
出家、という言葉に龍太郎は笑い、其れに宗一は優しく微笑んだ。くしゃくしゃと頭を撫でられ、出家の必要無い程慈愛に満ちた宗一の顔を見た。
「菅原さん、凄いですね。」
「うん?」
「こう、表現出来ないですが。井上と居るみたいです。」
「はは、そら恐れ多いわ。あの人、すんごいからな、愛情。やから、本郷さんと一緒居れるんやろな。本郷さん、ゆうたら悪いけど、井上さん以外、友達居ないでしょう。」
「…はい…」
「そぉれでも問題無いんやから、ええなぁ。あっはっは。俺、友達なったげまひょか?」
「あー…、結構です。」
一頻り笑った宗一は椅子から立ち上がり、休憩室から出た。立った儘ファイルを開き、確認しながら、秀一の椅子を蹴った。
「アホか、間違ってますよ。」
「え?何がですか?俺に間違い等無いですが。」
「漢字。」
秀一は云う、漢字が間違っていても其れで読めるなら。
其れに宗一は龍太郎を見た。
「如何思う、本郷さん。此のあっぱらぱあ。」
帰る為テーブルをティッシュで拭いていた龍太郎は、じっと秀一を見、鼻で笑った。
「お?なんで今鼻で笑ったんだ?」
「漢字間違えは、意味違い。本郷さんは其れゆうてはるの。バッカねぇ、貴方。履くと吐く、全然違うやないの。靴吐いたら一大事やないか。」
「常識で考えて、靴吐く人なんている訳ないじゃないですか。」
「おー、ゆうたな?全世界の奇術師に謝れ。」
「そうや、謝れ、自分の物差しでモノゆうな、博士。博士の常識は非常識や。」
横の席を構える八雲が、パソコン画面に向いた儘口を挟んだ。ヘッドホンを掛ける侑徒は、さも迷惑そうな顔で二人を振り返った。
「斎藤は関係無いだろう、口挟むなよ。なんだよ、非常識って!」
「非常識!非常識な存在!存在自体が大問題や。」
「セグウェイで轢いてやろうか、丸眼鏡。」
「嗚呼?轢けるモンなら轢いてみぃ、黒縁眼鏡。ジープで轢き返したるからな。」
二人のやり取りを聞きながらラボのドアーに手を掛けた。
「気ぃ付けてな、本郷さん。」
喧嘩を始めた二人を止める事せず、宗一は手を振った。其の隙間から、二人から避難するようにノートパソコンを抱えた侑徒が抜け、廊下に座り込んだ。廊下にパソコンを置き、正座の上体を屈した格好で仕事を続ける。其の横に、八雲の愛猫が腰を下ろした。お邪魔しました、と云っても返事は無かった。
ポーン。
廊下にエレベーターの到着音が響いた。スーと開いたドアーを見詰めた龍太郎は、中に居た人物に眉を上げた。
「迎え来たぜぇ、龍太郎様。」
「迎えに来たんじゃなくて、サボりに来たんだろうが。」
「やっだ心外。お兄ちゃん迎えに来ただけなのにぃ。」
足を向けた井上は、科捜研のラボ横にある段ボールが積み重なる部屋を見た。
「前、此処、科捜研の何かじゃなかった?」
意識して其の部屋を見た事は無いが、段ボールが積み上げられる程の倉庫では無かった。其処は空室で、科捜研メンバーの仮眠室だと宗一から聞いた。其処に段ボールが積み上げられ、明らかに改装していた。
「先生、此処、何かあんの?」
「ん?」
井上の問い掛けに宗一は、何も無いけど、と取り合わなかった。
「もぉ、課長から連絡来たやんか、早よ帰ってぇ。」
「早ぇよ、課長。」
一時間位、龍太郎の言葉通りサボる気だった井上は、じゃんじゃん鳴る宗一の電話に顔を顰めた。嫌々する井上を引っ張る龍太郎に手を振り、其の儘無言でパチパチとキーボードを打つ侑徒に息を吐いた。
「仰らなかったんですか。」
画面を見た儘侑徒は云う。
「後半年はあるわ、未だ言わんとええ。」
「課長さん、可哀想。」
そんな事微塵も思っていない癖に薄い唇は動く。ラボの中では未だ二人が喧嘩している。
なぁんで誰一人俺のゆう事聞かんのやろ?
足元に感じた八雲の愛猫を宗一は抱き上げた。
「御前が一番、素直やな。」
猫の喜びに、宗一は全ての考えをシャットダウンするように目を閉じた。
ページ上へ戻る