魔法科高校の神童生
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Episode38:終幕
前書き
ご無沙汰してます。遅れてしまい本当に申し訳ありません。リアルが最近多忙になってきてしまって…これ以降も、今回と同じくらい間隔が空いてしまうかもしれません。
「––––くぁ」
とある山中に存在する日の光届かぬ建物。部屋の至る所に立てられた蝋燭の火でしか照らされない部屋で、黒い少年は退屈そうに欠伸をした。
「…黒。あまり腑抜けた顔をしているな」
「ンだよ堅物。文句あるぅ?」
椅子に座り、テーブルに足を乗せた少年を嗜めるのは四月に雫とほのかを連れ去った首謀者である緑川佐奈であった。
幾ら言っても聞く様子のない少年に、頭が痛いとばかりに彼女は溜息をつく。
「お父様の前でそういう態度をしていると、後で聖一が怒るぞ」
「あぁ~……確かに聖一兄サンは怒らすと怖えや。けどまあ、今はいないし、バレないからどーでもいい」
とっておきの脅しも最早効果がないのを見て、佐奈は諦めたのか、読みかけていた分厚い本を手に取って再び読み始めた。
「ああぁ~……暇だなぁ。さっさと聖一兄サンが九十九を連れてきてくんねぇかな」
浮かべた笑みは最上の歪。血走った目で不気味に笑う少年を、佐奈は無理矢理見ないように本に集中することにした。
☆★☆★
「ガッ…ぁッ…!?」
身を焼く雷撃に苦悶の声を漏らす。蛇のように地を這った雷は足から脳天を余す所なく焼き尽くしていく。
その苦痛から逃れようと反射的に全てを消し去ろうとして、踏みとどまる。
今は高校の親善試合の最中である。『消失』はまず隠し通さねばならない。
「こ…のッ…!」
消し去ることは不可能。紫道を殴り飛ばすこともできなければ、対抗する手段はただ一つ。
「…な、に……!?」
隼人の全身から発生した雷の蛇が、スパークを食い破る。
世界最高峰の干渉力を以って発動した雷帝が紫道の雷を上書きしたのだ。
「う、おおお!」
雄叫び、一閃。
一息に距離を詰めた隼人の拳が紫道の腹ーー否、その寸前の空気を殴りつける。
拳と腹に圧迫された空気が、隼人の魔法によって指向性を与えられ、暴発。凄まじい衝撃が体を軋ませる。
それは正に風の鉄槌。巻き起こった突風は、紫道のみならず隼人自身をも吹き飛ばす威力だ。
常人ならば一撃で意識を刈り取られてもおかしくはない打撃に、しかし紫道は余裕の笑みを浮かべた。
「もう、一度言う、ぞ」
ブレた。
目の前に立つ男の姿が、まるで輪郭を滲ませたようにハッキリしなくなる。それが魔法によるものだと理解するよりも早く、本能が命ずるままに隼人は遥か上空へ身を躍らせていた。
その直後、地を這う雷を視界に収めつつ、自分の直感は正しかったと理解する。
「もう、終わりか?」
また。
上空へ飛び上がった隼人の、更に高く。音も無く、紫道が拳を構えていた。
「お返し、だ」
叩き込まれたのは風の鉄槌。しかし先程の一撃とは一線を画す尋常ならざる威力。
「かッ…はっ……!?」
肋骨が砕ける音を聞きながら、口から空気が吐き出される。明らかなレギュレーション違反の攻撃だが、しかし大会委員は上空の戦いを見てはいなかった。
故に、試合が止まることはない。すぐ様意識を痛みから離して、隼人は追撃に備える。
「ほら、足掻け、よ」
空から降る無色の砲弾を、サイオンの波動を見切って躱す。
戦況は、明らかに不利であった。
☆★☆★
走る。
降り注ぐ無色の砲弾を躱すべくジグザグに迂回しながら、ただ一点を目指してひた走る。
この圧倒的不利を覆す一手。それになり得るモノへ手を伸ばす。
「ぐぁ…ッ!」
掠った。途端、膨張した空気に体を押される。
なす術もなく吹き飛ぶ、ふりをして地面を転がる。あと、一歩。
「う、ォおおお!」
目的のソレを拾い上げて、そして一気に下段から振り上げる。
途轍もない重さが腕に伸し掛かるが、雷帝による筋力強化で無理矢理振り抜いた。
「なん、だと…!?」
果たして。
腕の動きと同期して突如飛来した小刃が、遥か上空にいた紫道を打ち据えた。
「レオ!」
「おうよ!」
元の剣の状態に戻った小通連を将輝の攻撃から立ち直ったレオに投げ渡し、すぐ様墜落した紫道の下へ向かう。
見るからに直撃、手応えは十分だったが奴がこれでくたばるとは到底思えない。
「っ!」
果たして、その予測は正しく。
突如飛来した無色の弾丸を体捌きを以って躱す。
「翔けろ!」
避け得ぬ弾丸は雷矢を以って撃墜し、今にも膝を突きそうになる足腰を奮い立たせる。
全ては勝利の為。そしてその先にあるエリナ奪還の為。彼は、負ける訳にはいかないのだった。
空気が振動し、霧散した雷が空を駆ける。その幻想的な風景に観客達は魅了され、しかして創造主たる二人の少年は血反吐を吐きながら矛を交える。
「ハァッ!」
「フン…ッ!」
空を叩く拳は血に塗れ、気合を迸らせる口からも血が溢れ出す。
「ガっ…はっ……!」
解放された空気が風の鉄槌となってこの体を圧し折ろうとする。なんとかそれに耐え切って、反撃とばかりに拳を振り抜く。
圧縮された空気。硬い感触のソレを力任せに振り抜き、奴の腹部へと打ち当てる。
永遠に続くような錯覚の中で、ただ一心に拳を振るい続ける。いつしか互いの左手は逃すまいと相手の腕を掴んでいた。
「ッ––––!?」
だがここに来て、再び紫道の体が朧げな霞になって消えた。今度は見逃すことはない。この眼は確かに、奴の体が空間に溶け込んでいくのを視た。
直感が叫ぶ。
軋む体に鞭を打ち、すぐ様その場から飛び退こうと力を込めて。
「ぐっ…ぁ…!」
容赦のない一撃が、この身を背後から突き飛ばす。最早受け身をとる余裕すらない。無様に硬い地面を転がり、しかし倒れまいと最後の意地が体を起こす。
「シッ!」
「っ!」
正面に現れた奴の拳を咄嗟にクロスガードで受ける。尋常ではない風の重みを、硬化魔法で腕の細胞全てを固定するという荒技でなんとか受け切って、しかし既にヤツの存在は己の射程の外。
どういう原理かは分からないが、どうやらヤツは空間を自由に行き来できるのかもしれない。
ゆらりと、影のような不確実な存在となって紫道が動く。その姿はイデアを視るこの眼を持ってしても不鮮明に映り、こちらの反応を鈍らせる。
前後左右上下。空間を四次元的に行き来するヤツの拳を紙一重で避ける。
掠る程度なら無視して構わない。打ち落とすべきは致命傷となり得る一撃のみ–––––
–––––否。
「あッ、ガッ…!」
このままヤツの拳戟をやり過ごしているだけならば、こちらが何れ崩れ落ちるのは明白。
ならば捨て身。
鳩尾に凄まじい一撃を受けて、一瞬だけ意識が飛ぶ。
それでも。例えこの意識が千切れようと、恐らく、左手は絶対に逃すまいとヤツの拳を握っただろう。
「キ、サマッ…!」
「うおおおおおおおッ!」
吼える。吠える。咆える。
かつてない程の咆哮に呼応するが如く、この身に纏う雷は天を焼く程に勢いを増す。
「ぐ、おっ…ぉぉおお!」
「–––––終わりだ!」
掲げた右手には雷が宿り、それを振り下ろした刹那。
天を焦がし、地を裂く雷撃がステージに轟いた。
☆★☆★
熱く熱く盛り上がった演劇ほど、幕切れは呆気なく。
あれ程の猛攻を繰り返していたヤツは、たった一撃、しかし最大の雷撃を浴びて、その身を地に伏せた。
「くっ…ぁ…は、ぁ……はぁ…」
肋骨が折られて肺がやられたか。今になって痛みと息苦しさが襲ってくる。
だが、その苦しさに屈するのはもう少し先だ。
「…っ、さあ……答えて、もらおうか」
時折掠れる意識を懸命に繋ぎ止めて、眼下で仰向けに倒れる紫道に問い掛ける。
ヤツとのゲームは俺の勝ちだ。ならば、報酬を貰わねば。
「……仕方、あるまい……あ、すだ。深夜、横浜に、ある…無頭竜の、アジトへ来る、がいい。そこ、で全ての、決着をつけよう」
「……分かった」
衆人の目があるこの場所で、この男を殺すことはできない。
今は『九十九』ではなく『隼人』なのだ。この日常に、波風を立てる訳にはいかなかった。
「ぐ…ごほっ、ごほっ…!」
何時の間にか、どうやら試合は終わっていたようだ。
最初は小さく、けれど、段々と大きくなっていった拍手は、今や万雷の喝采にも等しい。
そんな中で立っているのは一高の四人。達也が将輝を、幹比古が吉祥寺を、レオが残る一人を倒したのだ。
「まぁ…結果としては、上々、かな…?」
次第に薄れ行く意識に苦笑いを漏らして、力が入らなくなった体をそのまま勢いに任せようと脱力すると、ふとなにかに支えられた。
「よ、頑張ったじゃねえか隼人」
「…レオか。うん、ありがとう……そっちも、大変だったみたいだね」
「まあな、けどお前さん程じゃないさ。おら、今は寝てもいいぜ。医務室に運んどいてやるからよ」
「ん、はは。よろ…しく」
レオにのし掛かるように脱力して、ゆっくりと、この意識は闇に落ちていった。
☆★☆★
夜。鈴音は一高天幕に残り、これまでの成績を纏めていた。
新人戦モノリス・コードは、途中アクシデントに見舞われたものの、見事第一高校が優勝を飾り、そして新人戦自体の優勝も第一高校に決定した。
その報せを受けて、一番安堵したのは作戦参謀としてこの九校戦に参加していた鈴音であった。
意識を失ってレオに背負われている隼人以外の三人は多少怪我を負っているようだが、足取りもきちんとしていたし、問題はないだろう。
「あ、リンちゃん」
「どうしました?」
内心の安堵を悟られぬよう再び書類へ目を落としていた鈴音の元に、外へ空気を吸いに行っていた笑顔の真由美が現れた。なんとなく、これまでの経験から厄介な事になる気がした。
「お疲れ様。この後、時間はあるかしら?」
「……ええ。本日中にやるべきことは全て終わっているので」
嫌な予感を感じつつも、鈴音は真由美を拒絶することはない。ある程度ならば適当に流すことができるし、逆に拒絶した方が帰って面倒になる可能性もあるからだ。
「じゃあさ、これから隼人くんのお見舞いに行かない?」
「………!」
思わず、体がピクリと反応してしまった。
余りにも不意打ちなお誘いに、しかし鈴音は持ち前のポーカーフェイスでその感情を押し込める。
「昼間の戦いで彼、結構重症だったみたいなのよね。リンちゃんってば何かと隼人くんの事を気にかけてるし、一緒にお見舞いに行くのはどうかなーって思ったんだけど」
真由美の言わんとしている事は理解できた。いつもの悪巧みとは違い、今度は純粋に後輩を心配しているだけのようだ。
ならば、これに乗らない手はない。
元より、あの危なっかしい後輩には一言文句を言っておきたかったのだ。
「…分かりました。行きます」
「決まりね。善は急げ、行くわよリンちゃん!」
立ち上がるよりも早く、真由美は鈴音の袖を掴んでズンズンと進んでいく。若干引き摺られているが、そこはもういつもの事だと諦めているのだろう。
九十九隼人の怪我は、魔法という治療法が確立した現代に於いても完全治癒には一週間以上かかる程重症と診断された。
しかしまあ、その隼人を相手取っていた紫道聖一も全身火傷に複数箇所の骨折という、中々の重症ぶりだから、おあいこという所か。
ともあれ、積み重なった疲労により意識を失った隼人は現在病室で寝かされていた。勿論、紫道とは別室の一人部屋である。
「お邪魔しまーす…」
「……失礼します」
隼人が眠る飾り気のない病室を見回しながら、真由美と鈴音が入ってきた。
「……魘されているようね」
「ええ……」
包帯でグルグル巻きにされている隼人を見て、医学に精通している訳でもない二人の目でも彼の容体はかなり重いものだというのはすぐに分かった。
それに加えて、何か嫌な夢でも見ているのだろうか。彼の表情は苦痛に歪み、汗は玉のように噴き出ている。
「無理もないわね……あれ以上やっていたら、命に関わっていたんだもの」
「……そう、ですね」
真由美の言葉に頷きつつ、鈴音は隼人の額の汗を拭う。今更ながらに、あの試合での隼人と紫道の戦いは凄惨なものだったと思う。どちらかが命を落としても可笑しくはない程に。
そんな危険な戦いを、運営は疎か、誰も止めようとしなかったのは、只々、彼らの気迫に呑まれていたからに違いない。
––––あなたは、何故こんなになるまで、戦い続けたのですか
言葉に出さず、そう問い掛ける。
隼人と紫道の間に、何らかの因縁があることは予想できていた。それが、鈴音の知っているものとは別である事も、ある程度は知っていた。
それでも尚、問い掛けずにはいられない。
『空虚』であったはずのあなたが、命を懸ける程に譲れないものは一体何なのかと。
「今のあなたは、あの時の少年ではないのですね」
思わず漏れた呟きを、しかし真由美は聞かないことにした。
☆★☆★
地獄を見た。
飛び散った赤い液体に、撒き散らされた肉片。今の今までヒトだったソレは、今は只の肉の塊に成り下がっている。
そんな光景を見せつけられて、俺は動くことはなかった。動かすことができなかった、ではなく、動かなかった。
最早見慣れてしまっていたらしい。こんな地獄でも、ずっとそこで生きていればそこはもう日常だ。
それを壊れているとは思わない。
だって今の俺とて、その地獄は見慣れている。
隼人の世界も、九十九の世界も、俺にとっては全部日常だ。
光景が光と共に切り替わる。
地獄を、見た。
肉片を喰らう鬼を見た。
色素を失った真っ白い髪を鮮血に濡らし、血走った黒い目は一心不乱に食物へ向けられている。
不意に、こちらの存在に気づいたのか、鬼は食事の手を止め––––
☆★☆★
「ッ、!!」
最悪な目覚めだった。
着せられていた病院着は汗でビショビショになって肌に張り付いている。
窓から外を見る。枕元に置いてあった自身の携帯端末のカレンダーを見ると、どうやら自分は丸一日眠ってしまっていたようだ。恐らく、今日予定されていたミラージ・バットとモノリス・コードの予選は既に終わっているだろう。
約束の時までそれ程時間がない。今起きれたのは、あの悪夢に感謝するべきか。
とにかく、自室に戻らなければ。奴には聞きたいことが新しくできたんだ。早く準備を整えて、万全の態勢で臨まなければならない。
「くっ…!」
腹部と、頭部に鈍痛。体中に包帯が巻かれているから、どうやら至る所が骨折しているようだ。魔法で繋がっている状態だが、結局それは応急処置にしかならない。本来ならば安静にしていなければならないのだろうが。
「ま、そんなこと言ってられないよね」
重い体を引き摺って、ドアの取っ手に手を掛けようとした時、不意に向こうから扉が開かれた。
「あ……」
手を差し出したような間抜けな姿を見て、来客者は呆れたような表情を浮かべた。
「なにをしているんですか、九十九さん。まだ安静にしていなければならないんですよ」
非難の眼差しに、思わず身を竦める。しかし今は鈴音の発するプレッシャーに屈している場合ではないのだ。
「すみません、少し––––」
「––––そんなに殺気立って……紫道聖一を追うつもりですか?」
目を見開く。
なんだってこの人は、こうも核心を突いてくるのだろうか。
「つい三十分前に、病室から紫道聖一が抜け出したという報せが各校の首脳陣に伝えられました。もしやと思い来てみましたが–––––」
歯噛みする。
どうする。鈴音一人ならば押し退けて行くことはできるが、それだと紫道を追うことを肯定することになる。なるべくなら、『隼人』としての日常に波風を立てたくはない。
「行くのなら、早く行った方がいいのでは?」
「––––え?」
一瞬、彼女の言った意味が分からなかった。反射的に少し高い位置にある先輩の顔を見上げる。
「傷だらけになってまで、あなたには譲れないものがあるのでしょう?あなたが行くと言うのなら、私に止める権利はありません」
「市原、先輩–––––、すみません!」
そうだ。何を迷っている。
俺の日常が、エリナと釣り合うとでも思ったのか。
病室から飛び出す。唇を噛みちぎり、半覚醒だった意識を無理矢理叩き起こした。
約束の時刻まではまだあるが、準備に時間がかかる。急ごう。
慌ただしく駆け去っていった少年の背中を見送ってから、鈴音は力無く息を吐き出した。
「ああ、やはり。間違いではなかったのですね……」
今までは決定的な証拠がないから観察に留めていたが、今ので分かってしまった。
彼は以前『空虚』と呼ばれていた存在。
『親愛』と『誠実』、今の名は『セラ』と『櫂』か。その二人から生まれた、組織の最高傑作。
他者にも己にも興味を示さない虚ろな存在。人としての尊厳を極限までに削ぎ落とされた彼は、最早ただの殺戮マシーンだった。
約十年前。セラと櫂が研究所を破壊して、子供二人を連れて逃げた時以来消息が掴めなかったが。
ドアを開けた時に一瞬だけ見た『九十九 隼人』の目は、あの日のように何の感情も浮かべていなかった。
「私は…どうすれば……」
夜の帳が下り、電気の付いていない病室は闇に包まれる。
その中で、一人の少女の啜り泣く声が響いていた。
☆★☆★
「おやおや、もうこんな時間か」
人が行き交う中華街。
日が傾き、夜の帳が下りても尚、この街は明かりに包まれている。
賑やかで、明るい表の姿。故にこそ、この街に潜む影は暗く、濃いものとなる。
瓶底眼鏡などという時代錯誤のアクセサリーを身につけた男は、懐中時計の時刻を確認して苦笑いを漏らした。
「相変わらず時間ピッタリに来るんだねぇ……–––––周くん」
「おや、貴方は相変わらずせっかちな人ですね。遅刻した訳ではないのですから、大目に見て頂きたいものです」
雑多な街の中では、ボサボサの髪に草臥れたシャツの姿の男と、スーツを見惚れる程に着こなした見目麗しい青年が笑みを浮かべあっていても、怪訝には思われない。
「それじゃあ、行こうか」
「ええ。案内しますよ」
人はまだ知らない。
彼らの思惑が、自らにどのような被害を齎すことになるのかを。
☆★☆★
燕尾服が風に吹かれてたなびく。
時刻は午前0時。
場所は木場に教えてもらった横浜のとあるホテルの屋上。吹き荒ぶ強風は、これより先の死闘を暗示しているかのようだ。
少年は、狐の仮面の奥の瞳を紅く妖しく光らせた。
「待たせた、な」
現れたのは色素の薄れた少年。酷く濁った黒の瞳が、狐面の少年を睨む。
「エリナはどこだ」
されど臆することはない。全身に殺意を漲らせ、問いを投げる。
「クク……
–––––お前の、後ろだ」
「っ!」
唐突な殺気。感知が遅れた訳ではない。真に、その人物は下の地面から這い出てきたのだ。
体を投げ出す。一片の躊躇もなく突き込まれたナイフを躱し、すぐ様起き上がる。
「ほら、こっち、だ」
「ぐっ…!」
先回りされていた。
体を起こした直後、紫道の鋭い蹴りが体を穿った。
なんとか腕のガードが間に合ったものの、あれが直撃していれば間違いなくこの意識は吹き飛んでいただろう。
だが、息を吐く暇はない。
ナイフを片手に、正面から襲いかかってきた少女の蹴りを躱す。
先日と変わらず少女の攻撃に迷いはない。油断すれば、たちまちあのナイフに喉を掻き切られるだろう。
「っ、エリナ……!」
黒く塗りつぶされた彼女の瞳を見る度に胸の内が掻き毟られるようなざわつきを覚える。だがそれに気を取られている訳にもいかない。
狐面の頬を走るナイフを掴み、エリナの手から抜き取る。
そのままガラ空きの腹部へ蹴りを放とうとして、留まる。
「何を、迷う?」
追撃を躊躇った刹那、空間を越えてきた紫道の拳が頬を穿った。衝撃に耐え切れず、面の右頬が砕け散る。
「ぐぁ…っ!」
今度は間違いなく見えた。
奴は、空間を跨いでこちらの懐に入り込んできた。
『空間跳躍』。仮に奴の能力をそう名付けよう。ならば、奴との間に間合いなんて概念は霧散してしまう。奴にとって、10メートルの距離も、100メートルの距離も変わらないのだから。
「–––––っ!」
激しい目眩がして、倒れそうになるのをなんとか踏み止まる。そうだ、ここで倒れれば全てが終わってしまう。それだけは駄目だ。
今ここで、エリナを連れ戻す。
「––––っは、!」
「ほう…よく、耐えた、な」
余裕だからだろうか。それとも何か別の理由があるのだろうか。
紫道は愚か、エリナでさえもこちらへの追撃の手を止めた。
「……なんのつもりだ…?」
「クク……、ここ、まで、耐え抜いた、報酬を、くれてやろうと、思って、な」
身構えるこちらに対し、奴は凶悪な笑みを浮かるのみだ。
この男は人の心を惑わすのに長けている。相応の覚悟を持っていなければ、必ず付け込まれてしまう。
一つ真実を教えてやろう、と嘯いた紫道に、俺は身を硬くすることしかできなかった。
「お前が、助けようとしている、九十田、エリナ……いや、『五十嵐』エリナにとってお前は––––」
目を見開く。
呼吸がうまくできなくなって、信じられないと喘ぐ。
だって、その名は–––––
「–––––愛しい、兄を殺した、憎い仇なんだよ」
風が吹く。月光とネオンが照らすこの街の中で、まるで時が止まったかのように、意識が凍り付いた。
「な、にを…!」
「覚えて、いるだろう? 四月。貴様、を狙って、きた無頭竜、の、五十嵐修哉という、男を」
忘れる筈もない。
妹を人質にされ、最後には目の前で殺された哀れな男。そして、俺が引導を渡した男。その時に約束したのだ。彼の妹の仇たる無頭竜は、この俺が潰すと。
「五十嵐修哉の妹は、無頭竜によって殺害されたはずだ…!」
「クク……五十嵐にとっては、そうなんだろう、な。だが、真実は、違う」
紫道がエリナの隣に立つ。病的なまでに白い指が彼女の頤を撫でた。
「五十嵐修哉という、男が見たのは、ただの幻想、邪眼に記憶を、弄られていた、だけに過ぎない」
「…じゃあ、五十嵐は……!」
「いいように、無頭竜に使われて、いただけ、だな。哀れな、男だ」
吐き気がした。
騙し、己が野望の為だけに人を利用するその存在に、どうしようもない程の殺意を覚える。
俺の抱く歪な正義感が、許さないと喚き散らす。
「エリナ、は五十嵐修哉が、あの、事件を起こす、遥か前に、無頭竜に拉致され、我々の組織に、引き渡されて、いた」
「お前らの…組織………?」
「気づいて、いるのだろう?俺が、 十字の道化師……いや、その裏にいる、八色の教団の、メンバーだと」
「……イタリア語…? お前らはマフィアの組織だったのか…」
やはり、目の前の男はかつて雫とほのかを拉致した『緑川佐奈』や、あの少年の仲間のようだ。十字の道化師に後ろ盾があることもある程度は予想できていた。
八色の教団。
聞いたこともない組織だが、決して単独で相手取ることのできる集団ではないのだと断言できる。
「クク……組織と、して行動するのに、マフィア、という、体裁の方が、諸々の都合に、よかった、だけだ」
そう言って、紫道はエリナの顎を持ち上げた。
「この光景、懐か、しいなぁ。昔にも、あった。そういえば、空虚たる、お前は、エリナにだけ、心を開いて、いたな」
「……なにを…」
何を言っている。
何故、お前が知ったような口をきく。
俺はお前の言う昔を知らない。それは俺じゃない。
「俺、が、言葉をうまく、発せなくなった、のは、エリナに手を出し怒った、お前に、喉をやられたから、なんだぜ」
やめろ。
頭が割れるように痛い。
これ以上、俺の知らない記憶を流し込むのはやめてくれ。
俺は他の誰でもないんだ。この意識、この記憶を持つ俺が、九十九隼人なんだ。
「なぁ、兄弟。我が、組織の–––––」
「やめろ!!」
俺が俺である為に、そこから先は言わせない。
奴の言っていることが真実だとしても、構わない。俺は俺だ。そう自分が確信していればそれでいい。
「……お前、が、それを選ぶのなら、それもいい、だろう」
そう言うと、紫道はエリナから離れ、そして、徐に胸の内へ手を滑らせた。
「では、コレはもう用済み、だな」
「お前っ–––––!」
その手に握られていたのは、漆黒の拳銃。ベレッタM92。込められている弾は、己の物と同じだとしたら、9×19mmパラベラム弾。いや、どんな弾が込められていたとしても、撃たれれば死んでしまう。
銃口がエリナの胸へ向けられる。
魔法では間に合わない。ならば–––––!
「–––––死ぬがいい」
「やめろォッ!」
二度の銃声が、闇夜に響いた。
☆★☆★
暗い、暗い海の底。心地の良い暗闇の中で、意識は不完全ながらに覚醒した。
私はここで何をしているのだろう。どうも、紫道聖一に何事かを吹き込まれてから意識がない。
––––––––っ!
そうだった。
私は、兄が先輩に殺されたことを教えられ、見せてしまった心の隙間につけ込まれてしまったのだった。
ほんの一瞬の動揺。それだけで、私は、最愛の人に刃を向けることになってしまったのだ。
意識がなかったにも関わらず、どうやら今までの私の所業は記憶している。
そう、それが紫道聖一の持つ空間跳躍とは別の、もう一つの魔法。
『傀儡術』。人の心に潜む闇に取り込み、広げ、カラの人格を作り出し元の人格を封じる精神干渉魔法。
元の人格は破壊された訳ではないから、新たな人格の記憶は共有される。
最悪な気分だった。
今では、心地の良かった暗闇は深く私に絡みつき、沈み込んで行こうとする。
それでも、それでも見上げた遥か向こうに僅かな光が見えるのは、まだ、諦めきれていないからだろうか。命からがら求め続けていた光。何度と死にそうになりながらも、ようやく掴み取った光。
しかし私は、そんな光でさえ、粉々に砕いてしまったのだ。
不意に、胸に痛みが走った。声を出すこともままならぬ程の一瞬の間。その刹那の時で、一発の弾丸によって胸を貫かれていた。
カラの人格は術者によって破棄され、元の人格が体の主導権を握り返したのだ。
「ぁ…」
ぐらり、と体がよろめいて、そして足で支えることもできずにその身体は屋上から宙へ投げ出された。
反転する視界に、まるでゴミを見るかのような目をした操り手を見て、そして、己の死を悟った。
「……仕方ない、か」
そう思えてしまう事を、自分は犯してしまったのだ。
そう、これは彼を裏切ってしまった罰。誰よりも好きだったのに、誰よりも信じていたのに、自分の心の弱さにつけ込まれ、そして彼を裏切った。
我ながら、呆気ない最後だったと思う。死に物狂いであの地獄から抜け出して、形振り構わずにあの地獄にあった光を再び探した。
せっかく見つけたのに、せっかく、傍にいることを許してもらったのに。
「本当に…何やってるんだろ、私」
自嘲するように笑っても、もう遅い。これ程の高度のビルから落ちるのだ。最早魔法など使える状態ではないこの身体が地面にぶつかればどうなるか、そんなもの想像するまでもない。
九十田エリナという存在は見るも無残な格好で死ぬことになるだろう。
しかし、それでいい。むしろ、そうでもなければ一体どうやって死ねと言うのか。
光に縋り、求め、そして自らその光を裏切った馬鹿には、これ以上ないほどに相応しい死に様だ。
「ああ……」
ああ、でも。今では死などとうに覚悟したが、もう一度彼と言葉を交わすことができるのなら。
そんな、チャンスがあるのなら。
最後に一言、謝りたかった。
「……ごめんなさい…」
裏切ってしまってごめんなさい。
迷惑かけてごめんなさい。
こんな私のせいで貴方の命を危険に晒してしまってごめんなさい。
「ごめ、な…さ–––––」
今ではもう、あの人の手の温もりすら思い出すことができない。
弾丸によって穿たれた胸からはとめどなく血が流れて、末端の感覚を鈍らせていく。
落下による風切り音すら聞こえなくなった。もうすぐ終わりが近い事を悟り、きつく目を瞑った。
「––––––届けぇッ!」
不意に、落下の勢いが止まった。
聞こえるはずのない声が、機能が失われかけた鼓膜を震わせて、彼がすぐ傍にいることを伝えてくれる。
「やっと……やっと、手が届いた」
いつも通りの、優しい声。エリナが望み、渇望した声の主が、死に行く彼女の体を抱き締めていた。
「もう離さない」
あの地獄でいつも自分を守ってくれた光。
唯一の親類であった兄を殺した闇。
「だから、また、俺の傍にいてくれ」
––––ああ、それでも。自分が求めていたのは、彼の隣なのだと、そう確信した。
だってこんなにも、自分は心の底から笑みを浮かべていられる。
この人を、こんなにも愛おしく思っている。
なら、答えはもう決まっている。
「––––は、い……」
今度こそ、自分から彼の隣を去ることはないだろう。
「今はおやすみ、エリナ。俺は、決着を付けてくるから」
優しい声を最後に、意識は途切れた。願わくば、次に目が覚めた時には隣にあなたがいますようにと祈って。
☆★☆★
「……」
眠りについたエリナを地面へゆっくりと横たえる。持ってきた携帯端末で木場に位置情報を知らせて、上を向く。
先程の銃撃は、なんとかこちらの弾丸が先に紫道の拳銃へ当たり、狙いを逸らすことに成功していた。それでもエリナが撃たれたことに変わりはない。
遥か高みから見下ろす殺意に血走った瞳と目が合う。あちらに逃がすつもりはないのだろう。
まあ、こちらも逃げるつもりなど毛頭ないが。
「さあ–––––」
地面を蹴る。超高層ビルだが、今の俺ならば、この位の建物は一蹴りで登り切ることができる。
風の強い屋上に再び降り立つ。最早手加減を気にする必要はなくなった。体の周りを走る雷光の輝きを強め、見据える。
「終わらせようか」
一連の事件の元凶。それを潰す時がようやく訪れた。
☆★☆★
「つくづく、気に入らない、な。仕方、あるまい。その、四肢、捥いだ後に、連れて行こう」
狂気に満ちた眼光に、止めどなく溢れ出すサイオンの輝き。
常識の埒外にまで高められた殺人衝動が、『紫道』という男を支配している。生物としての本能があれに触れてはダメだと告げる。迂闊に近づけば、最後。自分という存在はバラバラに切り刻まれて無くなるだろう。
夢で見た白髪の鬼が脳裏に蘇る。死肉を喰らい、血液で濡らされた狂気の顔が。
捕縛すると本人は言っているが、そんなもので済まないのは火を見るより明らかだ。
だが恐れることはない。
元よりこの男は潰すつもりでいたが、徹底的にやらねばならないらしい。
「奇遇だね。俺も、お前の事が気に入らないよ」
雷光の輝きは更に増す。ゆっくりと、だが確実に巨大な力を己が身に馴染ませていく。会話はその為の時間稼ぎに過ぎない。
肌が焼ける。体が熱い。極限にまで高められた身体能力、五感、反射神経が、頃合いだと告げた。
「だから、どちらかが消えよう……!」
コンクリートの地面を蹴り砕く勢いでその場から跳ぶ。
頭上に飛び上がり、狙うはガラ空きの頭蓋ーー!
「く、クハハハハ!!」
メシリと、渾身の踵落としが入った頭蓋が音を立てる。折れこそしなかったが、罅が走っているのは確実だろう。
それでも、狂人は笑った。
頭蓋に罅を入れられても、彼は不気味に笑い続けている。
「ア、あはハはハ–––––
––––吹き飛べよ」
「ぐっ…!」
右脚を掴まれ、強引に放り投げられる。どうやら移動魔法も発動しているらしく、体捌きでどうにかするのは不可能だ。
だが問題はない。
身に纏う雷を、放出系統の魔法で四方へ放つ。紫道の移動魔法を上書きする雷撃が空気を焼き、夜空を舞っていた体が静止した。
「ハァッ––––!」
雷矢を創生、掃射。自らの限界ギリギリの量、その数二十条の雷柱が降り注ぐ。
最早神々しいまでの雷撃だが、闇に生きる者は神を冒涜する。
「ガ、ァァッ!」
獣の如き雄叫びを響かせ、狂人はその手で雷の矢を文字通り、握り潰した。
「喰らえ–––––」
されど、それすらも予想の内。雷矢は必殺の為の布石に過ぎない。
「全てを凍てつかせる斬撃」
零度の殺意が溢れ出し形を成す。身を刺す冷気は刃となり、全てを呑み込まんとする。
「ぐっ……おお!」
だが。
血に飢えた鬼は、それをも凌駕する。足元から始まった凍結を血走った目で睨むと、それから逃れんと渾身の力を以って氷の牢獄を破壊した。
薄氷が舞う。驚愕の表情を浮かべた隼人に、紫道の拳が突き刺さった。
「ぐっ……!?」
たたらを踏みながらも、なんとか踏みとどまる。必殺の意思を込めた氷剣が破壊された今、最早立っていられるのは意地以外の何物でもなかった。
元々、互いに昨日の傷など全く治っていない状態だ。魔法で繋がれていた骨など既に折れ曲がっているし、雷によって焼け付いた肌は爛れてきている。魔法行使に意識を割く余裕はない。
「う、おおっ!」
「カッ…ガァァ!!」
拳が交錯し、互いの頬を打ち付ける。倒れこみそうになるのを後ろ足で踏ん張って、更に一撃。
全くの同時に放たれた左拳は、再び互いの頰に突き刺さった。だが、倒れない。態勢を整えたら、すぐ様拳を握り、振り抜く。ガードなんて思考にない。より早く、より多く敵にこの拳を叩き込むことだけが、二人の意識を支配していた。
「ぅ…あああ!」
「–––––ラァ!」
もう幾度となく繰り返されてきた拳の応酬。既に振り抜いている両腕は折れていた。肋骨も既に砕けている。踏ん張っている両足も最早使い物にならないかもしれない。
それでも。
それでも、まだこの心は折られていない。だから戦える。
この体が滅びようと、この魂が燃え尽きようと、抱いた意思が消えぬのならば、まだ、負けてはいない。
最早、拳打の型など気にしていられる余裕なんてものは互いにない。あるのはこの身に原初から宿る生存本能のみ。
直感が下す命令に従って、殴って、蹴って、殴られて、蹴られて。
「ゴ…は……ッ」
ヤツの一撃は此の期に及んでも想像を絶する程に重い。少しでも気を緩めれば、刹那の内にこの意識は途切れ、二度と目覚める事はないだろう。
だから、見極める。
防ぐ為に。
攻勢に転じる為に。
生き抜く為に。
涙を流した少女を、助ける為に。
「う、おおッ!」
万感の思いを込めた右拳は、先に着弾したヤツの左拳を意に介さず、頰を穿ち、吹き飛ばした。
「ッ、ぐぅ!?」
二メートル程宙を舞って、紫道の体は硬いコンクリートに叩きつけられた。自分が競り負けたのだと理解するのに数瞬有して、再び立ち上がろうと腕をつく。
だが、無茶を繰り返して積み重ねてきた腕は彼の意思に反し、全く動こうとしない。
「……終わりだ。紫道聖一」
起き上がるのに二度失敗すると、彼の目の前に隼人が立った。
それはつまり、己が負けたということ。この身は、目の前の男に打ち負けたのだ。
「ハ、ハ………ハハハハハ…」
笑える。
ああ、そういえば以前にもこのような事があった。
そうだ。この喉を潰された時だ。
あの時も、立てないこの身を哀れむように青髪の少年は立っていた。
そして言うのだ。
「サヨウナラ」
ああ、懐かしい。
この身を見下す目に感情は有らず。このすぐ後に視界全てが雷光に埋め尽くされて––––––
「–––––そこまでだ」
そして、凛と響く声が聞こえるのだった。
「っ、砂鉄––––!?」
迫り来るは闇よりも深い黒色の波。殺意を纏って殺到するそれらに、隼人は見覚えがあった。
「緑川、佐奈……!」
「……久しいな、九十九隼人」
緑色の髪を短く切り揃えた女。四月、雫とほのかを誘拐した十字の道化師の一人が、隼人の前に立ちふさがった。
「…退いてくれないかな…! 俺は、そいつを殺さなければならないんだ」
一度倒した相手とはいえ、あの時と今の状況はまるで違う。こちらが今にも倒れそうなのに対して、向こうは何のダメージも負っていない。戦闘になれば、まず勝ち目はない。
それでも、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
紫道聖一という男は危険な爆弾そのものだ。抑え難い殺人衝動を有し、自分に仇なす者を殺し尽くす。そんな男を野放しに出来るはずがない。
「悪いがそれはできんな。それに、弟をここまで痛めつけてくれたお礼をしたいが–––––」
緊張感が膨れ上がった。
目の前に立つ女の殺気が溢れ出したのを感じて、少しでも抵抗できるよう左足を下げて半身の姿勢を取る。
「–––––やめておこう。そちらにも、仲間がいたようだからな」
「…え……?」
緑川の言葉の意味が分からず怪訝な表情を浮かべた刹那、彼女の周りを浮遊していた砂鉄が、余さず消え去った。
「–––––気付いていたか」
聞き慣れた声がした。
この命のやり取りが行われている場に於いても、決して動揺することなく響く低い声。
「達也…なんで……?」
隼人の背後に現れた達也は、黒いジャケットに身を包み、右手に白銀の拳銃型CADを携えていた。細められた瞳は剣呑な光を宿し、表情を変えない女を睨みつけている。
「説明は後でする。まずはこちらが先だ」
「そう怖い顔をするな。私は別に戦いに来たわけではない。こいつを回収できればそれでいいんだからな」
「させるとでも?」
「せざるを得ないんだよ」
達也が動いた。
初動を感じさせない刹那の踏み込みで、緑川との彼我の距離を詰める。
だが、
「では、さらばだ」
ふっ、と。何かに遮られ、月の明かりがなくなった。反射的に夜空を見上げる。
「チッ!」
夥しい量の、砂鉄槍が今か今かと射出されるのを待ち構えていた。
「逝け」
それは処刑開始の合図か。
緑川が左手を振り下ろすのと同時、約五十にも及ぶ砂鉄の槍が、勢いをつけて下降を開始した。
タイミング、量、規模。どれを見ても、緑川へ意識を割いていた達也では、対処が間に合わない。
分解の照準を槍一本一本に付けている間に、この身諸共隼人も貫かれているだろう。
「っ、隼人?」
ぐい、と肩を引かれ、隼人に場所を譲る。今にも倒れそうな程覚束ない足取りで、彼は殺到する槍の前に歩み出て、それらを睨み付けた。
「消失」
現れたのは、空間の裂け目。横浜の夜よりも暗く、禍々しい世界への入り口が開く。
ブラックホールもかくやという勢いで、砂鉄の槍は、その全てを空間の裂け目に飲み込まれていった。
だが、今の一連の間に、あの二人はこの場から離脱してしまっていた。
「……間に、合った………」
虚ろな目で笑みを浮かべて、そして、彼の意識は千々になった。
☆★☆★
目の前で倒れ込んだ青髪の少年を見つめ、達也はどうしたものかと天を仰いだ。
兎に角、隼人は素早く病室へ連れ戻すべきだという事は分かるのだが、どうも、見てはいけないものを見てしまった気がするのだ。
「今のは、一体……」
不意に聞こえた背後からの声に顔を向けると、彼と行動を共にしていた女性の顔が青褪めていた。
無理もない。今見てしまったあの魔法は、言葉では言い表せられない程おぞましいものだったのだから。
「魔法、と呼べるのかどうか。隼人は消失と呟いていましたが……」
「……空間を引き裂いて吸い込む、まるでブラックホールのようだったわね」
女性–––––、陸軍101旅団・独立魔装大隊・幹部、藤林響子少尉は未だに自身の背に走った寒気に打ち勝つことができずにいた。
しかし、いつまでもこの場にいることはできない。つい先程、この真下にいた存在を亡き者にしたばかりなのだ。
「取り敢えず、戻りましょう」
「ええ、そうね…」
達也が背負った青髪の少年に目を向ける。
九十九隼人。以前、101旅団にいたとされる生きる伝説『蒼夜叉』の息子。
単独で一個師団にも勝る戦果を上げ、『大黒竜也特尉』の戦闘能力に匹敵すると噂される少年。
もし先程のアレが、まだ全力でないのだとしたら。
「……末恐ろしいわね」
世界にもそれ程存在しない、戦略級の称号を持つ魔法師。その存在に、この少年は肩を並べるのかもしれない。
☆★☆★
「––––––、う…」
目が覚めた。開けた視界に映るのは知らない天井……いや、病室の天井だった。
体中が痛みを訴えてくる。思わず顔を顰めながら身を起こすと、涼しい風が吹いた。
開かれた病室の外はまだ暗い。眠っていたとしても多く見積もって1時間程だろう。
情報端末にメールが来ていた。開いてみると木場からで、どうやらエリナは無事保護され、こことは違う病院で治療を受けているようだった。そのことに胸を撫で下ろし、ふと自分がなぜ病室に戻ってこれたのかが気になった。
「目が覚めたか…と、すまない。驚かせたようだな」
思わず浮かせかけた腰を沈める。どうもまだ気が立っているようで、達也相手に必要以上の警戒をしてしまった。
「達也がここまで運んでくれたんだね。ありがとう」
「いや、俺も助けてもらったからな。お互い様だ」
そう言って、達也はベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
「そういえば、達也はなんであそこにいたんだい?」
「……あのホテルの最上階に、誰がいたのか分かるか?」
紫道と戦った場所は、横浜にある二番目に高いビルの屋上で、無頭竜の東日本総支部が逃げてきた場所だ。故に、そこにいたのは勿論のこと無頭竜幹部だろう。
「そういうことだ。今回の九校戦の一連の事故が、奴らの仕業だと判明したからな。消してきた」
「…なるほどね。そっか……できることなら、俺がやりたかったけど……仕方ないね。
ありがとう、達也」
「……ああ」
恐らく達也に今の言葉の真意は分からなかっただろう。それでも深く探ろうとしなかった彼に、心の中で感謝を告げた。
「……隼人。聞きたいことがある」
やはりか、と心の中で毒づく。
『司波達也』と『司波深雪』。この二人は、十師族の中でも特に異質な『四葉家』の関係者であることは既に調べがついている。
四葉は力を求める。
なぜ達也と深雪が苗字を偽っているのかは知らないが、達也の目の前で消失を使ってしまったのはどうもまずかった。
あれは俺ですら完全に仕組みが分かってはいない。
分かるのは、空間に裂け目が走り、そして対象がそこへ吸い込まれ消えていくことのみ。その空間がどこへ繋がって、消えた対象がどうなるのかは、まるで分からない。
だから、意識がある内は極力消失を使わないようにしている。緊急事態ならば話は別だが。
「あの砂鉄を消し去った魔法。あれはなんだ?」
敵に向けるような零度の眼差しが、この身を貫く。
殺意や敵意には慣れているつもりだったが、やはり友人だと思ってる人から向けられると辛いものがある。
けれど、馬鹿正直に答える訳にもいくまい。
消失は原理が不明なのを除けば、この世の全てを葬れる魔の法である。おいそれと口外するわけにもいかない。
「……俺のBS魔法だよ。生まれつきの異能の一部。モノをどこかへ飛ばすことができるんだよ」
嘘は言っていない。
消失は間違いなく先天性のBS魔法なのだろうし、モノだってあの謎の空間に飛んでいく。それがどんな末路を辿るのかは知らないが。
「…………」
「………」
「……」
暫く無言の睨み合いが続く。
達也の目はあくまでも冷ややかで、きっと自分が浮かべているのも同じくらい感情を浮かべていないに違いない。表情は笑みを浮かべているだろうが。
「……分かった。そういうことにしておこう」
根負けしたのは達也だった。
不意に視線を切り、かぶりを振って溜息をつくその仕草はどうも様になっている。
さて、上辺だけでも信じてくれたのはありがたいが、まだやってもらうことがある。
「あーー、それとね。あんまり、俺の魔法の事は他言しないで欲しいんだ。バレると色々と厄介だし、それに俺もなるべくなら友達は傷つけたくない」
「脅しているのか。まあ、元より吹聴するつもりはない。九十九を相手にするのは御免被るよ」
「あはは、それは俺だって同じさ。達也や深雪さんと戦いたくはないよ」
さて、一体どういう訳か。
達也が四葉だとしたら食い下がってくると思っていたのだけど。もしかすると、苗字を隠しているのに関係があるのかもしれない。だがまあ、深入りはやめておこう。
「…今日はありがとう、達也。君も早く休んだ方がいいよ」
「ああ、そうさせてもらうよ。じゃあな、隼人」
最後に手を振って、達也は病室から立ち去った。靴音が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、溜息を漏らして体をベッドに投げ出す。
「十字の道化師……いや、八色の教団、か」
EUはこの時代に於いては東と西に分離した形となっている。しかしそんな国際情勢の中であっても、ヨーロッパ発祥のマフィアという組織はしぶとく生き残っている。
極道や暴力団、マフィアやテロ組織などの非正規組織はどうしても魔法という文化に遅れがちだ。中でも、マフィアは特にそれが顕著だったという。
八色の教団はそれにつけ込んだのだろう。正直に言って、これまでに戦った緑川佐奈と紫道聖一の二人で十分他組織と渡り合えるレベルである。彼らにとって、マフィアという世界が一番旗揚げし易かったのだろう。都合がいい、とはそういうことだ。
「厄介になってきたなぁ…」
ブランシュに無頭竜、そして八色の教団。世界でも指折りの危険組織がこの国に集まってきている。
「ああ…嫌になるよ、本当に」
奴らのせいで、苦しむ人が多くなる。それは許せない。根絶やし、とまではいかなくても、少なくともこの国から追い払わねばなるまい。
「ああ、本当に、
––––––嫌な気分だ」
胸に灯った歪な正義感で、まず真っ先に考えねばならない事を意識の外へ弾き出す。
そうだ。俺は俺であり、断じて奴らとの関係などない。俺の知らない過去を、奴らが知っているなど、ある筈がないのだから––––––
☆★☆★
九校戦も最終日を迎えた。
今日の試合はモノリス・コードの決勝リーグのみ。その後は、表彰式と閉会式で、更にその後にはパーティが開かれることになっている。
昨日の夜に色々と無茶をやらかした隼人は、モノリス・コードの応援に行こうとベッドから出た所を雫やエイミィに見つかり、看護師さんに通報。強制送還されて今に至る。
「あーー……暇だ」
病室の窓から見える雲一つない青空を眺め、溜息をつく。既に雫やエイミィたちが見舞いがてら持ってきてくれた本は読み終わってしまった。
全身に巻きつけられた包帯を忌々しげに睨み、再びベッドへ体を横たえる。
「なんで撃たれたエリナが一日もせずに退院できたのに俺はダメなんだろ」
「そんなの無茶しまくったからに決まってるじゃないですか、先輩。
上腕骨、尺骨、大腿骨、肋骨数本、更にその他様々な箇所の骨折に加えて軽度の全身火傷。間違いなく重症患者です。なんでケロっとしてられるんですか」
「むぅ……」
口を尖らせても抜け出すのはダメですからねー、なんて言いながら林檎の皮を剥くのは、一日もせずに退院したエリナだ。
医師の話を聞くにどうも、銃弾は貫通していたのに加えて彼女の治癒速度が異常に早かったかららしい。
シャリシャリ、と包丁が林檎の皮を削いでいく音が病室に響く。
暫くエリナの顔を見ていた隼人が、左手を伸ばした。
「……エリナ、ごめんね」
「なにがですかー?」
「そりゃもう、色々とね……。
聞いての通り、エリナの兄を殺したのは俺だし、君をここまで苦しめたのは、紛れもなく俺が原因だから。それに、仇も討てなかったし」
エリナが心に隙を作る程に、五十嵐修哉という存在は大きかったはずだ。
それを、彼は屠った。
無頭竜を潰すという約束も、未だ達成されぬままだ。東日本支部も達也に先んじられ、殺すことはできなかった。
エリナに対して、散々なことをやってきた。その自覚があるからこそ、彼の左手は行き場を失い、虚空を掴む。
「傍にいて欲しいっていうのは、俺の我儘だ。勿論、君に言う通りにしなくてはならないなんて制約はないんだから、去ってくれても構わない。それでも物足りないないのなら、また、襲いかかってきてもいい。君には、その権利がある」
虚空を掴んだ左手は、ヨロヨロと垂れ下がり、彼の両目を隠す。
彼が何を考えているのかは、震える唇で分かった。
「だから–––––モガッ…」
だから、その薄らと開かれた口に、一口サイズに切ったばかりの林檎をねじ込んでやった。
「な、なにすんのさ」
シャリシャリと林檎を咀嚼しながら講義の目を向けてくる彼に、エリナは微笑んだ。
「私は、私の意思で先輩の傍にいることに決めたんです。もう、嫌だと言っても離れるつもりはありませんから!」
「––––––っ」
目を白黒させる彼を見て、一本取ったような、そんな優越感を覚えた。
そんな何気ない一時が、とても愛おしく思える。だから、自分はここにいると決めたのだ。
「覚悟しててくださいね、先輩!」
「はは、お手柔らかに頼むよ」
憑き物が落ちたかのように、彼は笑顔を見せた。
☆★☆★
夜。
なんとかパーティのみ参加という外出許可を貰った隼人は、第一高校の制服を身にまとって会場へ訪れた。
エリナは木場と一足先に帰っていった。どうやら〆切が迫っているらしく、木場の連絡端末にはひっきりなしにメールが来ていたが、まあ、気にしないでおこう。
「あ、隼人!」
「やあ、なんか久しぶりだねエイミィ」
会場に現れた隼人を真っ先に見つけたのはエイミィだった。その手には既に飲み物が入っていたであろう空のグラスが握られている。
「うん。体はもう平気なの?」
近くにいたウェイトレスにそのグラスを渡して、エイミィは隼人の体をペタペタと触りだした。
どうも、くすぐったくて思わず身を捩る。
「まぁ大体はね。ああでも、激しい運動は禁止だって言われたかな」
「……そっか」
隼人の言葉を聞いて、エイミィは何故か悲しげな表情を浮かべて俯いてしまった。
どうしたんだろう、と首を傾げた時、管弦楽団の演奏が始まった。生演奏という所に、主催者の熱意が感じ取れる。
それを聞いて、隼人はようやく合点がいった。
「ああ、成る程。
お嬢様、私はそこまでヤワな男ではありませんよ?」
どうもこのお嬢様は、怪我が原因でダンスができないと思ったらしい。
少し気障ったらしい言い回しをした隼人に、エイミィは顔を上げた。
「踊ろっか、エイミィ」
「喜んで!」
満面の笑みで、エイミィは差し出された隼人の手を取った。
「はぁー、疲れた」
エイミィとのダンスから暫くして。
未だ管楽器の音色は会場に響いているが、隼人は小休憩のために少し離れたところにいた。
「一日でこんな踊ったのは初めてだよ」
エイミィと一曲踊り終わった後で、隼人はすぐ様多くの女の子に取り囲まれ、そして一人ずつ順番に踊ることになったのだ。同じ高校ならともかく、まさか別の高校の人からも誘いが来るとは思っておらず、あまりの大人数に流石に笑顔が引きつった。
パーティはもう終盤だろう。
真由美、摩利、鈴音、あずさ、ほのか、深雪などなど、色々な人と踊ったためか、時の流れが早く感じる。
「あれ、そういえば––––」
「隼人」
一人、まだ踊っていなかった人に思い至った時、後ろから声を掛けられた。
「やあ、雫」
「ん。体は大丈夫なの?」
会う人々にそう問われて、苦笑いを浮かべるしかない。それも、大体その言葉がダンスへの誘い文句であるのだ。
「大丈夫だよ。
–––––踊るかい?」
「うん。踊ろ」
「お手をどうぞ、お嬢様」
差し出した包帯が巻かれた手に、女の子らしい華奢な手が重なった。
華やかな夜。前日までの戦いを忘れて、少年少女は踊る。
ここに、九校戦は幕を閉じた。
ーーto be continuedーー
後書き
九校戦編は今回にて終了となります。いやあ、まさか入学編の半分に収まるとは……まあ、あちらはオリジナル要素をかなり盛り込んだからなのですが……
さて、九校戦編のお次は横浜騒乱編––––ではなく、短い夏休み編をやろうかと思います。あのポンコツ美少女が出番を先取りするかもしれません。
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