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猫の憂鬱

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第4章
  ―5―

「あの遺書と日記は僕が書いた物で、完全な左利きは、兄のセイジです。僕は、両利きです、左右何方の手でもペンを使えますし、箸も使えます、涼子は、其れを知ってます。」
取調室に入った雪村凛太朗事タキガワコウジは、落ち着いた口調で話し始め、日記が涼子の物だと思われたのは意外だった、と口角を上げた。
「日記の時は右で、遺書の時は左で書きました。其の時、猫を抱いて居たので。」
横の取調室で横行な態度で、調書する木島達に暴言吐くセイジと違い、コウジはパイプ椅子に足を乗せ、膝を抱えて居た。
「僕、昔からの癖で、文章の時、一人称が私になるんです。中学校時代、其れで苛められてました。でも、癖なんですよね。」
「日記を青山女史のだと勘違いしたのは、色でした。」
「色?」
「青山女史は、黄色が大好き、だから、黄色の日記で一人称が私、そして筆跡も違う…、見誤って居ました。」
「あの日記帳、買ったのは涼子なんですよ、だから黄色なんです。けど、結局使わないから、って。」
静かに時間が流れる其の横では、木島とセイジの罵声が飛び交っていた。
「吊るしたのも俺、蓬餅作ったのも俺、でも、食べさせたのは、コウジだよ。」
「御前は、何処迄卑劣なんだ。」
「本当、使えねぇな、コウジ。」
セイジに殴り掛かりたい気をスチームデスクに向け、じんじんとした痛みが掌に広がった。
「コウジは、御前のマリオネットじゃないんだぞ。」
「いや、彼奴は生まれた時から、俺の操り人形だよ。」
「青山涼子殺害に関して、タキガワコウジには情状酌量の余地はある、殺人幇助だけどな。でも、タキガワコウジは、ドイツでの事故から、呵責の念に囚われてるんだよ、判るか?此れに関しては時効が停止してるけど、此れを適応さすには、ドイツ当局の協力が要る。だから此の件でコウジは立件しない。」
「はぁ、殺し損だわ。」
其の言葉に、無線でセイジ達の取り調べを聞いていた龍太郎が、今居る取調室から無言で出、勢い良くセイジの居る取調室のドアーを開けた。
「貴様、人の命をなんだと思ってるんだ。」
龍太郎の気迫に、木島は、横で猫を抱き突っ立つ加納に、俺が向こうに行くと伝えた。井上と共同でコウジの取り調べを進められるか判らないが、最悪井上に押し付ければ良い話である。
龍太郎を一瞥したセイジは、鬱陶しいのが来たよと言わんばかりに顔を逸らし、煙草を咥えた、其れを龍太郎は奪い取り、床に叩き付けた。
「悪いが、取調室は禁煙なんだ。」
「ばかすか吸わせた後に云うのか?」
「重要参考人には吸わせるが、被疑者には吸わせん。送検してやるから覚悟しろよ。」
俺から逃げられると思うな。
狼の食い付きを加納は眺め、耳に掛ける無線受信機から雑音が入り、木島の声が続いた。
見ておけ、加納、此れが、一課の主力の狩りだよ。
其の言葉に、加納はじっくり龍太郎を眺めた。
「そんなに金が欲しかったか。」
「うん。」
「青山涼子が、亡くなった息子に与えた二億、貴様、何処にやった。」
「店出すのに使ったよ、後、俺の豪遊費。」
「刑事になって八年位だが、貴様のような卑劣で俗悪な奴、見た事無い。一生忘れんだろうな。」
「そ、アリガト。」
セイジも中々に負けず、龍太郎の神経を逆撫でた。
一方で横の取調室は、静かだった。木島達が大人しいのもある。
「あんた、マジに惚れてたんだな。」
井上の言葉に、コウジは下唇を噛んだ。
「本当なら、あんた知ってたし、蓬餅、食べさせなくて、済んだじゃん。」
歪む井上の顔を一瞥するコウジはバツ悪そうに俯いた。
「…うん。」
「けど、アレだろ?可愛さ余って、憎さ百倍って、よっく云うぜ。好き過ぎて、殺したんだろ?兄貴が怖ぇからじゃねぇ、あんたの、惚れた気持ちで食べさせたんだろ?」
「うん…」
「食べさせたのは、涼子が、兄貴にやっぱり惚れてた、って事だよな。そら殺すわ、はは。」
乾いた笑いにコウジは視線だけ向け、自分の膝をぼうっと眺めた。
「兄は周到で、市販の蓬餅と其れを、同じパックに詰めたんです。涼子は薄々、殺される事を察してましたから、勿論最初は警戒してました。其処で私は、兄に云われた通り、市販の蓬餅を、涼子の目の前で食べました。其の残りを、涼子の目の前で、冷蔵庫に仕舞いました。トリカブトの速攻時間が二十分弱だと云うのを兄から聞かされて居て、リビングで録画した番組を見ながら、涼子が口にした時、兄に知らせたんです。」
「其処から、如何なった?」
木島の穏やかな声が響いた。
「蓬餅食べるね、と聞いた時、止める気が一瞬起きました、最悪、私も其れを食べようと迄、考えました…」
「でも、返事が着た。」
「そうです、兄から、三十分以内に着くと、返信がありました。」
青山涼子が其れを口にした第一声、其れは、「何、此れ」…。
「罪悪感が、肥大しました。」
偽蓬餅を摂取した青山涼子は一瞬で異物だと察したが、吐き出しはしなかった。お茶を飲み、テレビに向くコウジの横に座り、何分位で死ぬの?と聞いた程だった。
涼子は泣いていた、其れを肩で感じながらテレビに向いた儘黙って泣いた。

涼子、愛してるよ。

嬉しい。

こんな私でも、本当に必要とされてたんだ。

――きな粉ちゃん…
――ネェ。
――ママに顔見せて、もう見れないから。

其の言葉にコウジは目元を押さえた、何度も心の中で涼子に詫び、救急車を呼ぶべきか迷った。
悪魔は、何処迄も完璧で、コウジの揺らぎを何時でも悪循環に引き寄せた。

――セイジさん…
――御免ね?今から君には、自殺して貰うから。

笑顔で黄色のネクタイを取り出したセイジは涼子の首に巻き付け、コウジをしっかり椅子に縛り付けた。梁にタイを通し、椅子に涼子を立たせたセイジは、特等席に構えるコウジの頭をしっかりと涼子に向けた。

――やだ…、見たくない……!
――見とけよ。

日光に当たる事の無い涼子の白い肌は段々と変色し、アコニチンが回り始めた涼子の苦痛に涙が流れた。うぐ、と鈍い音が涼子の胸部からせり上がった時、耳元で悪魔は笑った。

――見てな、此れが、御前の愛した女の最期だよ。

口端から濁った液体が溢れ、涙で滲む視界で眺めながら息を繰り返した。

――もう少し…

瞬間、涼子の黒目は瞼に隠れ、椅子が派手に倒れた、セイジの顔は恍惚と歪み、コウジは思い切り瞼に力を入れた。

――あは、凄い…!

ツンとした刺激臭が鼻腔を付き、其れがアンモニア…尿だと判った時、コウジの涙は止まった、面白い程に。ビクビクと手足を痙攣ささせ、強烈な刺激臭と腐敗臭を醸し出した涼子の姿に、セイジは勃起寸前の快楽を覚えていた。

――人間って、首吊ると本当に失禁脱糞するんだ。

嬉しそうに涼子の身体から落ちる其れと音にセイジは云った。
「夜でしたから、私は其の儘出張先のアパートに向かいました。」
呟くセイジに木島達は顔を見合わせた。
「夜中です、私が東京に戻った事も知らなければ、不在も判らないようなアパートでした。」
手足を痙攣させ、糞尿を床に垂らす涼子が網膜から消えない……コウジは頭を抱えた。
「刑事さん…」
半音下がったコウジの声に、無線受信機で聞いていた龍太郎は戦慄を覚えた。
馬鹿が、御前は死ぬ事ないのに…
セイジの取調室から龍太郎が飛び出した時、駄目じゃん刑事さん、持ち物検査は下着の中迄しないと、と笑うコウジの清々しい声を聞いた。マジックミラーで確認する課長もコウジが居る取調室にへばり付き、止めろ、と誰にも聞こえないのに呟いた。不気味に笑ったコウジは笑顔でスラックスの中に手を突っ込み、井上と龍太郎の姿を見ると、下着に手を伸ばした。

もう遅いよ…

其の言葉と共に、下着の中に隠し混んでいたカッターナイフでコウジは自身の顎下を鋭利な金属でなぞり、龍太郎に鮮血を見せた。
己の首をカッターナイフで躊躇いもなく掻っ捌いたコウジの姿に、横で傍観していた宗一が動き、慌てて取調室に入った。
「アホか御前、助からんぞ。」
場所が悪かった。出血を止める為には、心臓から送り出される血を止血するのが最もだが、首を圧迫した場合、今度は脳に酸素が行かなくなる、宗一は云っていた、脳の活動は、酸素だと。
止血する為に脳に向かう酸素を止めれば、脳細胞が活動停止する…。
ジャケットで首から送り出される血を吸収しても意味は無い。雪村凛太朗になる前の癖か、泣きそうな顔で頭を掻くコウジを龍太郎は抱えた。
「タキガワ…、物騒な物、持ち込むんじゃない…、銃刀法違反だぞ…」
「あ、そっか…」
吊り上がった其の目に、コウジはくしゃりと笑った。
「御免、雪村さん…、あんたの人生、滅茶苦茶にしちゃった…」
ネェ。
小さな、猫の声が聞こえた。
加納の腕に抱かれる猫が、コウジの異変を察知し、何も映らない目が笑うコウジに向いていた。
「きな粉、きな粉…」
「ネェ…」
「パパ、駄目かも。」
其の言葉を耳にした猫は、威嚇するように大きな声で“泣き”始めた。目の周りが薄っすら濡れ、加納の腕から落ちると其の儘コウジの首に身体を擦り付けた。
「本郷さん、其の猫、離して、毛が入るから。そしたら炎症が起こる、助かるもんも助からん…」
「良いです、其れで。」
自分だけ助かる気は無いから、とコウジの宗一に笑い、此の場に居る全員、落ち着き払っていた。薄いゴム手袋をし、頸部を龍太郎のジャケットで圧迫する宗一の静かな声だけ流れた。
「あかんよ、医者の前でこんな事したら。」
薄く笑うコウジに宗一も笑い返し、署にあった携帯用の酸素吸入器を口元に置いた。
「嫌がんな、往生際悪い。死んで逃げようなんて思うな、そんな事は、ロクデナシがする事よ。御前は生きて、嫁と雪村に詫びるんよ。ええな?俺の前で死んだ奴、居らんのよ、此れ、自慢よ。」
サイレンの音が聞こえた、狭い部屋に隊員が押し寄せ、なんです此の猫、と当然云われた。ストレッチャーに乗せられたコウジに宗一は付き添い、其れに猫も付いて行こうとしたので加納が抱き上げた。白に近い灰色のスーツに血が移り、気に入って居たのですが廃棄ですね、と失笑した。
「アオ…、アオ…!」
其れは聞いた事もない“彼女”の怒りだった。
「大丈夫、大丈夫ですよ、きな粉、ワタクシがきちんとお返ししますから。」
笑顔で囁いた加納は、猫の鼻に付く血を自分の頬に付け、其の儘セイジの前に立つと思い切りスチールデスクを蹴飛ばした。腹に直撃したセイジは噎せ、怒鳴り声を撒き散らし、冷たいだけの加納の目を睨み付けた。
「一寸、こんな事やって良い訳?取調室で暴力って、大問題だろうが。」
「暴力?おやまあ、面白い。そんなつもりは無いのですよ、ワタクシ、足癖が悪くて、性格も悪いです、車の趣味も悪いですよ。うっかり足を伸ばしたら、長過ぎるのでしょうね、うっかり当たってしまったのですよ。其処に偶々、貴方がいらしただけです。言うなれば、其処にいらっしゃる貴方が悪い。嗚呼、汚らわしい。なんたる汚物。椅子が可哀想。」
「てめぇ、ふざけんなよ。」
「おやまあ、何です、其の手は、汚らしい、暴力ですか?はっきりとした意思でワタクシを殴るおつもりなのですか?全くなんと野蛮な。木島さん。」
「公務執行妨害の現行犯だ、其の手は。」
加納の胸倉掴むセイジの手首を木島が掴み、龍太郎が証拠写真を撮った。
「言い逃れは出来んぞ。」
綺麗に撮れた、と井上に見せ、バッチリ、とプリンターに転送させた。
「一寸派手に生き過ぎたな、タキガワさんよ。弟みたく大人しく生きてりゃ良かったのに。」
「嗚呼、汚らわしい!」
セイジの手を叩き捨てた加納は、汚らわしい、と云いながら、セイジの両目を指で突いた。破天荒な加納の行動に課長は思わず笑い、龍太郎はぽかんと眺めた。
「何やってんの、御前。其れ、痛いぞ、絶対。」
「貴方の目が見えなくなれば良いのに、そうは思われませんか、木島さん。」
いきなりの急所攻撃に椅子から滑り落ちたセイジを、加納は必要な迄に攻撃した。
「何と野蛮な方、恥を知りなさい、恥を。」
野蛮なのは一体何方なのか、猫に対する私怨でいきなり目を突く加納の方が野蛮では無いのか、顔が気に食わないというだけで警視総監の顔面を殴り付け降格した男である、此の行動は納得行った。
「木島、止めろ。」
課長の命令だが、動きたくなかった。猫を抱いた儘、被疑者の目を攻撃する男に等関わりたくなかった。飽きれば勝手に止めるだろう、位にしか思わなかった、龍太郎達も同じ思いである。結局飽きたのか、加納は何事も無かったかのよう立ち上がり、きな粉、きな粉、と血塗れの猫と戯れた。
「そんな野蛮な方と同じ空気等吸いたくは御座いません、失礼します。」
攻撃された目元を手で覆うセイジの尻を蹴った加納は其の儘取調室を出、血塗れの猫プラス血が移った加納の姿を見た八雲の声がした。もっと言う事あるだろう?と云いたいが、八雲の口から出たのは、うはぁ、デッカイ猫、だった。
洗いましょう八雲君――そうしましょ、そうしましょ。
マイペースな二人に溜息を飲み込んだ龍太郎はセイジを座らせ、公務執行妨害の現行犯です、と手錠を掛けた。
「え?其れ?」
「今は、です。此の取り調べが終わったら、青山涼子殺害で再逮捕します。」
「青山涼子殺害の逮捕状、未だ出来上がってねぇんだわ。現行犯の方が優先順位上だから。」
ヘラヘラ笑い、井上は云った。
「公務執行妨害って何だよ。」
「警察に手を出したら、公務執行妨害です。」
「じゃああの猫好き野郎は傷害で現行犯逮捕だろうがよ!瞼切れたぞ!?尻も蹴られた!」
セイジの訴えに龍太郎は首を傾げ、傷害?何の話です?、とすっとぼけ、御前何か見たか?――いんや、木島さんは?――能面がワタクシ悪趣味!ベンツは悪趣味なのですよ!と等々認めたって話?、と流した。
「課長は?」
「んー?取調室の血を見てたから一寸良く判らん。木島、暇だろう、掃除しとけ。」
「え、やだよ、鑑識呼んで来る。」
そう云い、木島は取調室を出た。サラサラと調書に公務執行妨害の内容を書く龍太郎を、マジックミラーで一連を見ていた秀一は笑い転げた。
「タキガワさん。」
「なんだよ!」
「逮捕状、出来ましたので、青山涼子殺害で逮捕します。」
ペンを置いた龍太郎は井上から渡された逮捕状を読み上げ、井上の手錠を又掛けた。
「なんで二個も掛けんだよ!初めて見たわ!二連の手錠とか!」
「此方が公務執行妨害罪の手錠で、掛けたのは私です。此方は殺人罪での手錠で、掛けたのは井上です。」
「いっひっひ、御前、手錠好きだろうがよ、いっひっひ。良かったな。アーティスティック!」
「クリエイティブな逮捕だ、素晴らしい。」
「大好きだけど、二個も要らないよ!」
「ほんじゃぁさ、龍太、そっち持って、俺、こっち持つから。」
繋がっていた左右の手を右と左で分け、二人で持った。
「お、此の逮捕の仕方斬新じゃね?良いね良いね、龍太と一緒に逮捕したーって感じ。」
「犬の散歩みたいだ。」
「此の儘連れてって良いぜ。」
左右手首其々に手錠を掛けられるセイジの姿に、係官はたじろぎ、何方か一本にして頂けませんか?、と当たり前だが頼まれた。因みに、龍太郎が持つ手錠は“公務執行妨害”で、井上が持つ手錠は“殺人”である、当然井上の方を係官は選んだが、公務執行妨害だぞ!、と龍太郎に怒鳴られた。
「警察舐めてるのか!」
「舐めるのは女の股間だけにしようぜ。」
「こんな馬鹿げた逮捕の仕方あるか!」
「あっあー、タキガワ、今のは威力業務妨害だぞ。言葉の暴力!」
「馬鹿とか云われたー、名誉毀損!」
「なあ、さっさと連れってってくれないか?頭がおかしくなりそうだ、此の刑事達と居ると。」
係官は引き攣った顔で龍太郎の方の手錠を外し、井上の持つ手錠を左手首に掛けた。気に食わない龍太郎は係官を睨み付け、貴様一週間覚えておけよ、会う度睨み付けるからな、と脅迫した。
「本郷さん、見て下さい、綺麗になりましたよ。」
「むっちゃかわえぇ、わらびかわええ!」
「きな粉ですよ、彼女は。わらびは偽名です、錯乱させる為の。」
本来の姿に戻った猫を、血塗れのスーツ姿で嬉しそうに抱く加納に、頭がおかしくなりそう、と笑う秀一の声が廊下に響いた。
「俺、こんな集団に捕まったのか…」
優秀なのか違うのか、手首に伸し掛かる重さにセイジは項垂れた。 
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