三人の神父
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2部分:第二章
第二章
「それは大きな誤りでした。この国にあるのは憎悪でした」
「憎悪!?」
「はい、憎しみです。それに満ちた世界でした」
「御言葉ですがグレゴリオさん」
ベネヴィクトはあえて反論してきた。ベネヴィクトの顔を見ながら。
「戦争ならば。何処も同じことでは」
「ここにいるのは普通の憎悪ではないのです」
グレゴリオは自分に顔を向けるベネヴィクトに対して述べる。やはり前を見ている。まるでその先に何かがあるように、その何かも非常に悲しいものであるようだった。
「長年に渡って培われてきた恨みと報復、そうしたもので出来上がった」
「特別な憎しみですか」
「どの場所にもそうしたものはあるでしょう」
やはり前を見たまま言う。それに対してベネヴィクトはずっとグレゴリオの顔を見ている。
「しかしここは」
「遥かに酷いのですか」
「そうです。その証拠がこの道です」
そうしてこの道のことについて述べてきた。
「私が最初にこの道に来た時は周りに家々が立ち並び木々にも緑がありました」
「まさか」
ベネヴィクトはその言葉に目を顰めさせる。
「ここにですか」
「信じられませんか」
「とても」
その言葉には首を振るしかなかった。今このような荒れ果てた荒野にどうしてそのようなものがあるのか。彼はグレゴリオの人柄の誠実なことを知っている。だから余計にその言葉が信じられなかったのである。嘘ではないとわかっていながらも。
「この道が」
「少し行くと街がありました」
「街がですか」
「セルビア人により焼かれたのです」
その知的な目に深い悲しみをたたえて述べる。
「昨日まで隣人として楽しくやっていたセルビア人達に」
「何故また」
「ここにセルビアとオーストリアの軍が来まして。カトリックとギリシア正教の争いで」
「それでですじゃ」
「彼等は同じセルビア人まで殺しました」
声が詰まった。
「宗教が違うという理由で」
「それでですか」
「はい、私には彼等は同じに見えました」
沈んだ声になっていた。その声で言うのだった。
「どちらも」
「カトリックの者達も正教の者達もですか!?」
「ムスリム達も。皆同じでした」
語るその顔も声も悲しげなものだった。その声で語る言葉は沈痛なものであった。
「憎悪に満ちた顔でお互い殺し合い。その先には何もありませんでした」
「そうなのでしょうか」
「そうです。私もそれを実感できませんでした」
またベネヴィクトに語る。
「ここに来るまではとても」
「私にはわかりません」
ベネヴィクトはそれを聞いてもまだそれを信じてはいなかった。信じたくないと言ってもいいかも知れない。とにかく信じてはいなかったのだった。
「異端、もう古い言葉ですが」
「それについても考えました」
一歩一歩がまるで人生の歩みのように遅く、重くなっていくのを感じていた。それを感じると心がさらに重くなることも感じていたのだった。
「けれど。何もかもが同じでした」
「何もかもが」
「教えの中身が違うだけで。私達もまた憎悪に歪んでいたのです」
「正教の者達と同じく」
「思えば当然なのです」
グレゴリオはこうも言う。
「私達は互いに争い、殺し合っているのですから。当然なのです」
「グレゴリオさん」
ここでまたベネヴィクトは彼に顔を向けて問う。
「その時の争いでは何も残らなかったのですね」
「憎悪だけが残りました」
首を横に振ってベネヴィクトに述べる。
「他には何も。憎しみが生み出すのは憎しみだけです」
「憎しみだけですか」
「他に何が生まれますか?」
逆に彼に問うてきた。
「憎しみから何が。生まれるものは何もないのですよ」
「はあ」
「私は何も出来ませんでした」
前を見るその目が遠くを見ていた。しかし見えているものは決していいものではない。深く沈んで明るいものは何もなかった。それがグレゴリオがここで見てきたものだったのだ。
「彼等の争いを止めることも何も。お医者さんもまた」
「傷ついた者を助けるだけですか」
「傷が癒えたならばすぐにまた戦いに向かう」
「そんな、それでは」
「だからです」
彼は言う。
「そこには何もないのです。傷を受け倒れている間も呪詛の言葉を吐き、そして傷が癒えたならば復讐を考える。それの繰り返しばかりでした」
「その結果がこの有様ですか」
「丁度この辺りでした」
一本の大きな木が右手に見えた。その木も枯れ果てていた。少なくともそこには緑の恵みも豊かさも何もなかった。幽霊のように立っていただけだった。
「セルビア人とクロアチア人達が殺し合ったのですよ」
「同じカトリックのでしょうか」
「はい、その通りです」
グレゴリオは歩きながら静かに答えてきた。
「私も医師も止めようとしました。しかし憎悪に燃える彼等はそれを聞かず」
「殺し合い。そして」
「誰もいなくなりました。後には血の匂いと屍だけがありました」
「やはり」
「その結果。ここには誰もいなくなったのです」
この荒野を生んだのは憎しみだったのだ。果てしない憎悪と殺戮が人も何もかもを消し去ってしまったのだった。グレゴリオは今それをベネヴィクトに語っていた。悲しい過去と真実を。
「神は助けられなかったのでしょうか」
ベネヴィクトはそこまで聞いて上を見上げた。そうして深い溜息をついた。
「彼等の心を」
「どうなのでしょうか」
グレゴリオはそれに答えない。答えられなかった。
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